「猪鼻湖に眠る『幻の戦車』調査プロジェクト」を進める浜松市北区三ケ日町の地域活性化団体「スマッペ」は19日、湖底の地形を調査した。戦車の可能性がある盛り上がりを数カ所発見した。調査結果を基に、年明けにも潜水調査を行う。
2回目の現地調査は、建設コンサルタント会社「フジヤマ」(同市中区)の湖底の地形を測量できるソナーを使用した。同町で生まれ育った藤山義修社長が「地元に役立てれば」と協力を申し出た。
新瀬戸橋と猪鼻湖神社の間を測量した。鉄パイプで湖底を突いた前回の調査で金属音を感知した猪鼻湖神社すぐ南側2、3カ所に湖底が盛り上がった部分を見つけた。「幻の戦車」と呼ばれる「四式中戦車チト」の可能性がある。
また、新瀬戸橋と瀬戸橋の間で東側の湖岸から約20メートル付近に、縦約4メートル、横約2メートルの長方形の人工物を発見した。終戦後にチトと同時に沈められたという「九七式中戦車チハ」とほぼ同じサイズのため、参加者からは「チハではないか」と期待が高まった。一方で、戦車を沈める作業を見た地元住民からの聞き取り調査では、瀬戸橋の北側にあるという情報があり、実体は不明という。
取得したデータは年内に画像処理し、次回に役立てる。潜水調査する具体的な場所が浮かび上がり、同団体の中村健二事務局長は「戦車がいるにおいがする。一段と面白くなってきた」と次回の調査を心待ちにしている。
「幻の戦車」と呼ばれる「四式中戦車チト」が発見されれば、日本の戦前の戦車の研究と歴史に役立つ生きた貴重な資料になると思います。
開発した中戦車である。 目次. 1 概要; 2 開発. 2.1 試製チト1号車 (57mm
四式中戦車 | |
性能諸元 | |
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全長 | 6.34 m |
全幅 | 2.86 m |
全高 | 2.67 m |
重量 | 自重24.0t[1] 全備重量30.0t |
懸架方式 | 独立懸架および シーソー式連動懸架 |
速度 | 45 km/h |
行動距離 | 250km |
主砲 | 五式75mm戦車砲×1 (弾薬搭載量 65発) |
副武装 | 九七式車載7.7mm重機関銃×2 (弾薬搭載量 5,400発) |
装甲 | (砲塔) 前面75mm 側・後面50mm (車体) 前面75mm 側面25mm 後面50mm 上面20mm |
エンジン | 三菱AL 四式 4ストロークV型12気筒 空冷ディーゼル 412 hp/1,800 rpm 排気量37,700cc |
乗員 | 5名 |
四式中戦車 チト(よんしきちゅうせんしゃ)は、大日本帝国陸軍が第二次世界大戦中に開発した中戦車である。
目次[非表示] |
概要
1942年(昭和17年)9月、完全な新規車輌として、陸軍兵器行政本部開発方針により47mm戦車砲を搭載する新中戦車(甲)を開発することが決定された。これが後の四式中戦車 チトの原型である。
最初、47mm戦車砲搭載として計画されたチトは、昭和18年7月には長砲身57mm戦車砲搭載に開発方針が変更されて実際に開発が始まり、さらに開発途中で長砲身75mm戦車砲を搭載することになった。装甲に関しても最大装甲厚75mmとようやく列強の中戦車並みの装甲厚となった。車体は全面溶接であり、また鋳造砲塔の採用というそれまでの日本の戦車に無い新しい試みも行われた。この鋳造砲塔は左右側面の装甲板と、後面の装甲板を鋳造し、溶接して製造した。
本車の開発の背景には、ノモンハン事件でのソ連戦車に苦戦した戦訓も考慮されているが、当時の戦車設計における世界の趨勢として、アメリカやドイツ、ソ連などでより大口径の主砲を搭載した戦車が次々と開発されているという現実があった。これらの戦車に対抗すべく、より重武装、重装甲の新型中戦車が求められたのである。
四式中戦車の特筆すべき点は、それまでの日本の戦車が基本的に歩兵支援用戦車としてつくられていたのと違って、「最初から」対戦車戦闘を想定してつくられた本格的な対戦車用戦車となったことである。とは言っても、単純に「敵の戦車が強力である」という思想に基づいただけのものであり、ドイツ電撃戦に端を発する戦車同士の大規模戦闘を意図したものではない。しかし、同じ対戦車用と言えど、九七式中戦車チハ改、一式中戦車チヘまたは三式中戦車チヌは、元が歩兵支援用戦車であるチハのマイナーチェンジか、その更に改良型に過ぎなかった。これらの車輛は対戦車用に改良する上で、原型の車体の大きさ、搭載しているエンジン出力の限界、走行装置の懸架重量制限などから、搭載できる砲や装甲厚の強化に限界があった。そのことから本車は戦後においては「間に合わなかった日本最強の中戦車」として知られる。
従来、日本国内また当時のアジア諸国の一般的な国情においては、貧弱な道路、鉄道、橋梁、そしてまた港湾設備や輸送船のデリックの積み込み能力など、インフラが未発達であり、日本の戦車設計においてはこのような状況下でも輸送・運用できるよう、重量の軽減が要求された。さらに日本陸軍は航空機の整備を優先し、機甲部隊を整備するための予算が乏しかった。したがって日本の戦車は装甲を薄く、車体を小型に、弱武装にせざるを得なかったのである。しかし、四式中戦車の設計は既存のインフラの制約におさまることを求められなくなった[2]。
秘匿名称からわかるように計画開始は三式中戦車チヌより早い。これはチヌが、四式中戦車チトの戦力化の遅れを埋める為の、応急の車輛と目されたためである。チヌ車は既存の一式中戦車に新設計の大型砲塔を搭載したものであり、日本陸軍が量産整備できた最後の中戦車となった。またチトの開発と並行して、五式中戦車 チリの開発も行われていたもの、資源の枯渇と終戦により両者共に制式化はされたが、量産されはしなかった。本車で培われた技術は後に戦後も残されたノウハウの一部が自衛隊になった後の61式戦車開発に生かされたという[要出典]。
開発
試製チト1号車 (57mm砲搭載車)
新中戦車の開発が本格的にスタートしたのは1942年(昭和17年)9月のことであり、この時点では新中戦車(甲)という名称が用いられていた。秘匿名称はチトである。
この当時、新中戦車(甲)の設計は47mm砲を搭載し、重量は約20t、最高速力40km/hであることとされていた。
搭載砲の47mm戦車砲は、昭和16年度研究計画までは一式中戦車と同じ「一式四十七粍戦車砲」であったが、昭和17年度研究計画では「試製双連四十七粍戦車砲」を搭載するよう変更された。
この試製双連四十七粍戦車砲は一式四十七粍戦車砲に九七式車載重機関銃を同軸機銃として組み合わせた物で1943年(昭和18年)6月に計画完了予定であった。
この設計内容は1943年(昭和18年)7月の兵器研究方針改訂により変更された。この変更の背景には独ソ戦で投入された両軍の新型戦車の分析があった。ここから日本陸軍における戦車というものの思想は、歩兵直協から対戦車戦闘を重視するものへと変更された。
この思想の変更から中戦車は二種が検討された。57mm砲を搭載し、前面装甲は75mm、重量約25t、最高速力40km/hの中戦車と、75mm砲を搭載し、重量約35t、最高速力40km/hの中戦車である。前者は四式中戦車チトであり、後者は五式中戦車チリとなるものであった。
改訂の結果、試製チト1号車用に新たな長砲身57mm戦車砲が開発されることになる。これが「試製五糎七戦車砲○新」である。「○新」は以前に駆逐戦車用に開発されていた「試製五十七粍戦車砲」と区別するための呼称である。
車体の製作は三菱重工業丸子工場が担当した。試作1号車は1944年(昭和19年)5月に完成し定地試験が開始された。
1944年3月、「試製五糎七戦車砲○新」が完成。口径57mm、48.5口径、砲身全長2,768mm、全重543kgで自動開閉の水平鎖栓を備えた戦車砲であり、弾量2.7kgの砲弾を初速810m/sで射出した。最大射程は7,500mである[3]。
1944年5月29日、「試製五糎七戦車砲○新」を、溶接砲塔を持つ試製チト1号車に搭載し、89発の射撃試験をした。砲撃においては砲塔のリベットが5個緩み、また傾斜面での砲塔の旋回操作が困難であった。「試製五糎七戦車砲○新」は射撃試験結果の不振、また口径威力とも仮想敵となる戦車の装甲を貫くものではなかったため(装甲貫徹力1000mで60mm)、試製にとどまり、制式化されなかった。試製チト1号車の搭載した溶接砲塔は二式砲戦車の搭載する物に類似していたとされる。
結局、57mm砲の搭載を前提に設計された試製チト1号車は、試作車1輌が作られただけで、制式化されずに終わった。
試製チト2号車 (75mm砲搭載車)
1944年4月、チトに75mm級の戦車砲を搭載するように計画が変更された。
1944年7月に、五式中戦車チリ用に開発されていた主砲「試製七糎半戦車砲(長)」(これは後に改修後のII型に対しI型と呼ばれる)を改修し、チトに搭載することが決定された。
この試製チト2号車の主砲の選定においては、1944年8月に「九〇式野砲」を搭載することが構想され、さらに1945年(昭和20年)2月には本命の「試製五式七糎半戦車砲(長)II型」に換装されるという過程を経ている。
1945年2月、試製2号車が完成し、3月には相模原や御殿場にて各種試験を開始した。 7月には千葉陸軍戦車学校において実用試験が行われた。千葉県の三角原演習場にて運動性能等の実用試験を終了し、8月中旬には千葉県片見海岸において射撃試験を行う予定だったが終戦により中止された。
主砲
「試製七糎半戦車砲(長)」は、日中戦争初期において日本陸軍が鹵獲した、スウェーデンのボフォース社製75mm高射砲をコピーした四式七糎半高射砲の砲身などを流用しつつ戦車砲用に再設計を施し、後座長の短縮等の改良が行われたものである。このボフォース砲は、ドイツ軍において装備され高威力を発揮した88mmFlakシリーズのベースとなった優秀な火砲であった。設計は昭和19年4月に完了、試作は大阪陸軍造兵廠で行われた。2門が昭和19年7月に完成した。本砲は装弾機を装備し、重量のある砲弾を手動で装填せずに機械力で半自動装填しようとするものであった。しかしながら装弾機能に不良が生じ、この欠点の除去は遅延した。
この「試製七糎半戦車砲(長)」の半自動装填装置を取り外し、平衡錘を付加する等の改修を経て、「試製七糎半戦車砲(長)II型」が1944年10月までに完成し、実用試験の後、試製チト2号車に装備されることになった。この戦車砲の開発により従来の装弾機付きの砲は「試製七糎半戦車砲(長)I型」として区分された。後に「試製七糎半戦車砲(長)II型」は仮制式化され、「五式七糎半戦車砲」と名称が変更されたと推定される[4]。 五式七糎半戦車砲長II型は口径75mm、砲身長53口径、砲身重量は1,760kgである。閉鎖機は右方へ水平に開放される自動鎖栓式であり、砲全体の重量は2,221kgに達した。高低射界はマイナス6.5度からプラス20度である。弾種は一式徹甲弾(弾量6.615kg)および四式榴弾が予定された。また試製七糎半対戦車自走砲 ナトと弾薬が共用であり四式徹甲弾も存在する。
兵器行政本部は初速850m/sの75mm砲弾の装甲貫徹力は射程1,000mで約80mmと見当しており、本砲では射程1,000mで75mmが目標性能とされた(最大装甲貫通値は不明)。
1945年(昭和20年)3月9日、富士裾野演習場にて射撃試験が行われた。この試験では試製四式榴弾22発、三式高射尖鋭弾2発を射撃し、撃発装置に不具合が生じた。同月17日から19日にかけ、「試製五式七糎半戦車砲(長)II型」を装備した鋳造砲塔を試作車に搭載し、伊良湖射場にて射撃試験が行われた。一式徹甲弾72発、四式榴弾68発を試験した結果は良好だった。砲口初速は821m/s(一式徹甲弾)ないし819m/s(四式徹甲弾)で、貫通性能は仮想敵であるアメリカ陸軍のM4中戦車の正面装甲を、射距離1,000mから貫き得るも命中角の関係上その公算は僅少だったとされている[5]。弾薬に関しては65発を搭載、うち35発を車体床下、30発を砲塔バスルに収納した。 以後、200門整備予定の長砲身75mm戦車砲は全てこの半自動装填装置を持たない「試製五式七糎半戦車砲(長)II型」仕様である。
この時、三式中戦車 チヌにもこのチト用鋳造砲塔を搭載して射撃試験が行われた。これはチヌにチト砲塔を搭載してチヌの火力強化を図ることを意図しており、チヌ車体とチト砲塔との組み合わせに問題は無かったが、やはり鋳造砲塔そのものの問題(下記)のためか、チヌ用溶接砲塔に直接「試製五式七糎半戦車砲(長)II型」が装備されることになった。
装甲
試製チト2号車の鋳造砲塔は、左面・右面・後面と3分割した鋳造部品と、前面と上面の平板を、溶接によって組み上げる(後面鋳造部品のみボルト締め)構造であったが、鋳造で鋼板を製造するということ自体が、日本の製鋼企業には不慣れな製法であった。また砲塔部品の試作時にも、溶けた鋳鋼が冷えて固まるときに縮むため、鋳造部品の歪みが発生し、組み立てが困難であった。成型後に歪んでいる鋳造部品をわざわざ切削加工しなければならなかった。
仮想敵とされた、T-34シリーズやISシリーズなどのソ連軍車輛や、M4中戦車の砲塔が、ほぼ一体成型の鋳造成型であるのと比較すれば、生産性という面でも日本の鋳造技術力は劣っていた。大型で避弾経始に優れた複雑な形状の部品を一体成型で作ることにより、生産性が高いのが鋳造成型のメリットだが、試製チト2号車の鋳造砲塔には、その複雑な製造工程により、そのメリットが全く無かった。また同じ厚さと形状であれば、鋳造鋼板の耐弾性能は圧延鋼板よりも劣り(同程度の耐弾性能を発揮するには、鋳造鋼板は圧延鋼板より厚くしないといけない)、また材質的にも、額面どおりの防御力を発揮し得たかは疑問が残る。
本車の防御力は、車体前面が75mm、側面25mm、砲塔前面75mm、側面25mmと世界の中戦車の防御水準に追いついたが、結局、完成車は計画時の予定重量25 t を大きく上回り、全備重量30 t(資料により32t) となった。
走行装置
エンジンには三菱が新規に開発設計した、三菱ALディーゼルエンジンを搭載した。この空冷エンジンは1800回転で412馬力を出力し、自重32 t の四式中戦車を40km/h以上で走行させた。本車の車重は25 t 以上となることが予想されたため、従来の統制型エンジンで設計すると気筒数が20と多くなり、重く大きくなりすぎた。そこでシリンダーを大型化、排気量を37.7リットルと増やし、新規開発したものである。特徴としては整備性と冷却効率、信頼性を追求して設計された。
戦後米海軍によって行われた日本の軍用ディーゼルエンジン調査報告書によれば、四式中戦車の四式ディーゼルエンジン(400hp)の項目にて、過給器のブースト圧が320ミリマーキュリー(320mmHg)の場合500hpを発揮したとの記載がある(この500hpエンジンは五式中戦車「チリⅡ」型などに搭載するために試作開発されたターボ過給器装備の四式ディーゼルエンジンの可能性がある)。また同資料では、米陸軍が追試験のためアメリカ本国に四式ディーゼルエンジンを輸送したと記載されているがその後の消息は不明である[6]。
実走試験は東京都大田区の三菱重工工場、埼玉県大宮、群馬県高崎、長野県小諸、山梨県甲府、富士吉田、静岡県御殿場、神奈川、横浜を経て工場へ戻るという行程が組まれた。10日間をかけて試験が行われ、時期は残暑、地形は途中に箱根峠が存在し、相応の負荷のかかる走行内容であったが、結果はさしたる故障なく終了した[7]。変速機は前進4段、後進1段で、初のシンクロメッシュ方式を採用した。操向装置は日本戦車に従来から使用された遊星歯車式のクラッチ・ブレーキ方式であったが、大重量となったことから油圧サーボを導入し、機動性は良好だった。油圧補助もあって操向レバーは指で軽く握り締める程度でも、戦車砲の引鉄を引くような感覚で自由自在に動いたという[8]。
ほか、機動性に関しては、燃料400リットルを携行し、航続距離は250kmである。履帯は幅45cmのものを使用し、片側転輪7個と上部転輪3個、起動輪、誘導輪で軌条を構成した。懸架方法は伝統のつるまきバネ方式である。超壕能力は2.7m、渡渉能力は深さ1.2mである。
量産計画
昭和20年度内に三菱重工において200両の量産・配備が予定されていたが、生産は1945年2月までにずれ込み、エンジン、搭載砲の生産も計画通りに進まず、終戦までに完成した車輌はわずか2輌であった。文献によっては三菱の工場で6輌が完成したともされる。
なおチト量産車には、生産性の悪い鋳造砲塔に替えて、五式七糎半戦車砲を装備したチヌ用溶接砲塔(の増厚装甲型)を搭載する計画があったとされている。これはいわゆる三菱現存図面(昭和20年5~6月頃の物)がチヌ砲塔である事から、アーマーモデリング誌の記事内で仮説として提示されたものである。
日本製鋼所では鋳造砲塔の完成品や部品をいくつか試作し、10輌単位で資材と設備を確保しており、また、「戦車マガジン」(現:グランドパワー誌)の記事に拠れば伊良湖でのテスト時に鋳造の型を作り直さずに砲が上手く操作出来るレイアウト変更が検討されており、増加試作車もしくは初期量産車は、既存部品や資材の有効活用の点から、鋳造砲塔で進められていたのではないかと思われる。
ただし上記の鋳造砲塔の問題は何ら解決されてはおらず、試作の鋳造砲塔や部品が無くなり次第、チヌ用溶接砲塔(の増厚装甲型)で生産されたであろうと思われる。三菱現存図面は鋳造砲塔の試作よりも後の物であり、同時期に日本製鋼所や神戸製鋼所に溶接砲塔用鋼板の製造への協力が求められていたことからも、鋳造鋼板の実用化の目処の立たない鋳造砲塔は見限られていたと考えてほぼ間違いは無いと思われる。
三菱現存図面によれば、チト量産車はチヌ用溶接砲塔(の増厚装甲型)の採用だけでなく、車体形状も試製チト2号車から一新されており、生産性や避弾経始の斜面効果が高くなるよう、洗練され、合理化されている。
戦後
戦後のアメリカ軍による接収時に、本車は五式中戦車と取り違えられた。本車の現存写真には車体後面部分に“TYPE 5”と書かれている[9]。本車の1輌はアバディーン性能試験場に送られ調査されたが、もう1輌の四式中戦車のその後の行方は知られていなかった。が、最近になって、九七式中戦車、ウィンザー・キャリアと共に浜名湖北の猪鼻湖に沈められていたことが判明した[10]。模型メーカーファインモールドや兵器・戦史研究家、一部モデラー等の有志が中心となった呼びかけで浮揚調査作業嘆願の署名が集められ、2012年9月に歴史的資料として水没位置の特定と水中写真の撮影を目標とした調査プロジェクトが始動した。2012年11月25日には第1回目の調査が行われ、水深約15メートルの地点に金属製の物体が沈んでいることが確認された[11]。今後は水中カメラマン、ダイバー等による本格的な探索が始まる。