山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

やはり"内山節(タカシ)"は深い

2021-08-16 18:43:17 | 読書

 久しぶりに哲学者「内山節」氏の『里の在処(アリカ)』(農文協、2015.4)を読む。帯に示された通り、「私にとって<里>とは何か。それは魂が元に戻ることのできる場所である。近代化された社会では知性に圧迫されつづけた魂が、<里>に帰り、森と川と畑と風と、そして村の人たちとともに居るとき、元の自然な状態に戻っている」という言の葉にすべてが語られている。

      

 それを言い換えると、「もしも<里>が魂の帰りたがっている場所だとすれば、それは知性によってつくりだされるものではない。そうではなく、<里>は自然に生まれるものである。魂が帰ろうとする時間を見つけ出すとき、そこに里がある」と、説く。知性の否定かとその大胆な展開に目を瞠る。

      

 そして、「知性は自己を主張するが、魂は自己を主張することの虚しさを、自然と村人との網の目のなかにただ存在するだけの吾を語る」と、禅問答のような言葉でくくる。「<里>は、論理性をを超越した、すべてのものが相互性をもちながら存在する時空のなかにある」とまで言い切る。これらの言葉はオイラの野蛮な経験値のなかをじわじわと浸透してくる。

                 

 つづけて、「現代人は、一度、このような<里>を捨てようとした。そうして、<里>を喪失した人々が生まれた。それが進歩だと私たちは教わった」。自由を求めながら自由に生きられない、豊かさをもとめながら何かが足りない、「何か根源的なものが欠落している」のではないかと、哲学者らしい問いを発していく。

       

 著者は、1970年代から群馬県上野村に通い始め、東京と上野村との二拠点生活をしている。つまり、一年の半分は上野村に居住している。上野村と言えば、1985年日航ジャンボ機が墜落した所でもあり、県内で最も人口密度が低い自治体でもある。釣り好きな著者はそのうちに農業を始めだし今では村の重要な一員となっている。「すべてのものが相互に結ばれ、その関係の網のなかで、気がつくとそれぞれの役割をはたしている。私はここに村があることを知った」というわけだ。哲学書というよりエッセイか小説を読んでいるような文脈なのが内山節らしい。

       

 そうして、「村はかけがえのない人間や自然の世界を再生しつづける。都市ではそれが消えかかっている」ということを実感していく。数日前、わが家でしばらくぶりでネズミが出没したことがあった。あわてて粘着シートを買いに行くことにもなった。しかし、著者は、チュー太にもわずかなピーナッツを与えともに空間を共有しようとしている姿に唸ってしまう。

 「確かにここには、自然が無事で村が無事であるとき、私もまた無事であるという感覚がある。永遠の無事によってつくりだされる価値、それもまた私はこの里で教わった」。なんとも謙虚な著者のつぶやきである。

  

 

 

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