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東団扇(アズマウチワ)とは、 江戸特産のうちわで、初めは割り竹に白紙を張っただけの無地のものをカラーなどの絵にした江戸うちわシリーズ。それを役者絵にしてしまう江戸の絵師・版元が斬新だ。モデルは、両国橋で夕涼みする歌舞伎役者・4代目市村家橘(カキツ)。画像の浮世絵は慶応3年発行、慶応4年(1868/8)に市村座で5代目尾上菊五郎を襲名したが、翌月明治維新で明治に。幕末から明治に活躍したいなせな役者だ。四角い「版元」印と丸い許可印の「改印」は、黒塗りされているかのように絵師のサインの隣にあるが解読できない。
藍染めの浴衣は、「橘屋」の家紋をアレンジした「橘鶴(タチバナツル)」なので、ファンは当該の役者は市村家橘であることがわかる。背景には、緑の「麻の葉模様」と「レンガ柄」を配置。「八百屋お七」を扮した岩井半四郎が女形の役でこの「麻の葉模様」の衣装を着たことから江戸で爆発的に大流行。とくに、麻の葉模様を白玉で描いた赤地の衣服は若い女性はもちろん子どもや男性にも使われた。
画像左上には、軒から吊るした風鈴が涼を呼ぶ。その「しのぶ玉」は苔と土とで球を作り周りにシダ植物の「ノキシノブ」で形を整えている。このノキシノブは、「水がなくとも耐え忍ぶ」という江戸っ子らしい粋が込められている。この「釣りしのぶ」の形も「橘鶴」を考慮しているらしい。しかもその短冊には、「たちばなの 薫るもうれし 橋すずみ」との家橘が詠んだ句が挿入されている。当時は橘が身近にあった植物だったようだ。これでもかの「橘づくし」の役者絵は家橘のPRちらし・プロマイドのようなものだ。
同じような表現パターンがいくつかあるようだが、なかなか資料が出てこない。左手に楊枝を持つこの役者は、幕末から明治にかけて人気のあった4代目「中村芝翫(シカン)」であることが短冊からわかるが、崩し字がなかなか解読できない。歌舞伎役者の俳諧はけっこう盛んだったらしいが、その研究もまだまだ発展途上のように思える。背景の模様・釣りしのぶ・風鈴の形がそれぞれ微妙に違うのが面白い。きっと、それぞれに意味があるのだろうが、オラの能力を超えている。
これらの役者絵の絵師は、「豊原国周(クニチカ)」で、同時代の月岡芳年・小林清親と並ぶ「明治浮世絵の三傑」と言われ、最後の浮世絵絵師である。しかし、生涯で妻を40人余りも変え、転居の回数も本人曰く117回といい、さらに「宵越しの金は持たない」とばかりに散財したため極貧の暮らしだった。船越安信氏の『豊原国周論考』は海外の資料をも駆使した優れたweb上での労作があり、その情熱に敬意を表したい。
なお、絵師のサインでは、「国周画」は30歳まで、「国周筆」は30歳から、「豊原国周筆」は36歳からということだ。したがって、当該の家橘の役者絵は30歳代の作品ということになる。