山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

バイオトイレが止まった!!

2024-03-06 22:12:18 | できごと・事件

  前々から調子は悪かったが、なんとか続いてきて約15年が経ったバイオトイレがついに止まってしまった。糞尿とおが屑をミックスしてスクリューで回転して攪拌する。それを2~3ヵ月してからそれをかき出して畑の際に投入し、土や落葉・枝などを上にかけておく。すると、いつのまにか発酵が始まって栄養ある土・肥料になっていく。江戸から昭和30代くらいまでは、人糞が重要な肥料だった。オラが小さいころ、親父が人糞を畑にまいていたのを見たことがある。

      

 そんな有機肥料を産むのがバイオトイレだということで、15年ほど前に導入。山小屋ではこれが有力なトイレだったが、個人では極めて少ない。おそらく、わが町ではわが家が導入の第1号だったのではないかと思う。江戸の長屋では共同便所があり、農家はその糞尿を買い付けに来たくらいだ。江戸城の糞尿は高価だったという。

 さて、故障の原因かなと手元の運転スイッチを分解して接触関係を見てみる。ところが、分解するのが容易ではなかった。5X2cmほどの小さな運転スイッチだったが、けっこう緻密で何度も失敗を続け、小道具をいろいろ持って来てはチャレンジしてみるが、壊してしまいそうな恐れもあった。

 

 なんと一日かかって点検作業を続けたが、どうも運転スイッチが原因ではなかったようだ。原因はもっと機械本体にあるようだった。きっと、ヒューズが切れたということなのかもしれない。とにかく、手のひらに乗るこの小さなメカの中には日本が得意とする手作業の粋が込められているのを感じた。生理的な事態は能登地方のように切迫している状況だったが、それよりも日本の技術力に感心させられる一日だった。トイレに行くたびにおが屑を掛ければ臭いは気にならないのが救いだった。後は業者の方の出番となる。

           

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焚き火の効能

2024-03-04 22:29:43 | 農作業・野菜

  2月末から3月初旬にかけて、毎日のように防獣柵の補修に追われた。同時に、柵に絡まっていた周辺のツル植物等を除去していく。その草取りの方が時間がかかった。ツル植物のアケビ・ボタンヅルをはじめクサイチゴ・ススキ・コセンダングサ等に手こずる。普通なら、除去した雑草は肥料として活用もしたが、放置していると逆襲にあってしまう。その結果、火あぶりの刑を執行せざるを得なかった。なにしろ、その積んだ残骸が1m50cm近くの山になっていたからね。

   

 それらの植物の上に剪定した太い枝を乗せておくと舞い上がる火の勢いを抑制することができる。焚き火はこのところ直火ではなく、半切りしたドラム缶でやっている。すると火の安全上でも管理がやりやすくなるのがわかった。いつもだと、火の有効利用として定番の焼き芋ができるはずだったが、サツマイモの確保を忘れていたので、火を七輪に移して「クサヤ」を焼き始める。

  

 さらに、燃え残った火でハブ茶の原料になる「エビスグサ」の焙煎もフライパンで行う。香ばしい匂いが出てきたらOKだ。それをお茶パックの袋に入れてヤカンに放り込む。それとミルサーで粉砕したハトムギもパックに入れる。つまり、野生化したエビスグサとハトムギのミックス茶の出来上がりだ。ハトムギは買えば高価だが、こうすれば予算ゼロで雑味はあるものの効能は確保できるという算段だ。

 燃やした灰はドラム缶いっぱいとなった。これをひっくり返せば、水を掛けなくても数日後には自然冷却され、畑へと追肥される。こうした循環によって、困っていた野草を処理し、肥料代も節約できるし、焼いた食材を食べられるうえに、竹などの支柱や剪定した木の枝などの残骸を処理し、それらのことで畑もきれいになるという一石五鳥となる。

 焚き火をやるときは、できるだけ雨が降った後の湿っている日にする、風力を天気予報で確認して風力2未満くらいの日にする、最初に燃やすものは落ちている杉の葉とか個人情報のある郵送物の紙などから燃やす、など気を使っているのだ。   

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児雷也の妖術の出番だ

2024-03-01 23:14:55 | アート・文化

 歌舞伎ファンではないが、歌舞伎カレンダーが気に入っていてネットでなんとか確保する。1~2月の浮世絵は、八代目市川團十郎の児雷也だった。作者は、三代目豊国(一代目国貞)、版元は林屋庄五郎、彫師は彫竹、出版年は江戸末期ペリー来航の前年の1852年(嘉永5年)、タイトルは「直福蒔宝子、実ㇵ児雷也」というもの。「宝子」は女性を表すので女装の児雷也ということになる。

          

 児雷也こと「自来也」は、宋時代中国の実在の人物だった。「我、来たるなり」と書いて堂々たる盗賊で、これが日本に伝わったわけだ。1806年(文化3年)《自来也説話》というのが刊行され、それを河竹黙阿弥が歌舞伎に脚色してから大評判となる。八代目市川團十郎の当たり役となった。

 大正10年(1921年)には映画「豪傑児雷也」が上映され、日本初の特撮映画となる。ひょっとして、オラの少年時代にそれを観たような気もする。もちろん、戦後だけど。最近では漫画の「ナルト疾風伝」が評判を呼んでいる。

 (japaaan webから)

 ガマの妖術を駆使する児雷也は、悪事を重ねるオロチ・大蛇丸をナメクジ秘術の使い手の妻「綱手」とともに退治するというシンプルな物語だ。現実の世界は武力と権力をかさに庶民を統制している実態がある。日本の金権腐敗政治も見えない糸で庶民の脳幹を麻痺させている。そんなときだからこそ、児雷也の妖術が必要なんだが、ねー。

 

 

 

 

 

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