自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師とともに・・大師の”完全な眼力”

2013年07月09日 | 健康と直結する”一元論”について

 ”私たちは決して比較をしません”  平成25年7月9日

***********************************

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員

であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを

実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込む

ことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま受け

入れるか、否認するかは、読者の自由である。

 

*****************************

 

その方は、エミール大師がたびたび述べているように、

日常会っている人たちと少しも変わることがない、

普通の人間であると、言う。

それでも、隊員は、師には、何かしら、遥かに

精妙なものをかんじると答えると、その方はこう答えた。


“それは、人間の可死的な部分を、不可死の部分と比べるからです。

もし、皆さんが神の性質(実相)のみを見て、現象と現象との

比較をしなければ、ちょうど私に対すると同じような観方を

すべての人たちにすることができるでしょう。


言い変えれば、すべての人々の中にキリスト(神性)を求める

ことにより、その人たちの中にある、キリスト=神なる実相を

描き出すことになりましょう。

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

私たちは決して比較をしません。

常にすべての人々の中にキリスト 即 神なる本質を見るだけです。

その意味では、私たちは 皆さんの肉眼の視野の中にはない

わけです。

私たちは、人の実相なる完全さを見るのです。


言い変えれば、私たちには 完全な眼力~視力があります。

ところが、皆さんは、他人の不完全な相を見ている、即ち、

不完全な眼力しか持っていない。


あなた方が立派な方に接して、その教えを受けるか、ただ

今のように、私たちを見たり話したりのできるところまで

意識を高め得ない限りは、私たちの教えが、何かインスピレーション

みたいにしか思えないでしょう。


しかし、私たちが誰かと語るとき、あるいは語ろうとするときは、

インスピレーションを伝えるのではありません。

それは 本当のインスピレーション が受けられるようになるまで

導いていく、一種の教えなのです。

…略…

すべて、神の手にゆだねず、人間の我の手に、移すときに

色々な問題や困難がおこるのです。


私たちが 少しもあなた方と異なる者でないことは先ほどに

言った通りです。

異なるのは理解の仕方だけであって、ただ それだけです。

いろいろな 違う主義、教え、教条、あらゆる角度のあらゆる

宗教は、本来は皆、善なのです。

なぜなら、それらは、いずれも終局において、一切のものの底には、

今日まで 把握し損ねた実存という、ある深き因子、触れえな

かったもの、本来 おのれのもので 正当に所有し得る、また、

正当に所有すべきあるもの、が存する という悟りに導く

からです。


人間を駆り立てて、遂に一切を領するにいたらしめるのは、

実はこのものなのです。

何かしら所有すべきもの、所有できるのに、現実には所有して

いないものがあると知るだけで、人間はそれを目指して進み、

遂にそれを獲得するに至るものです。

かくの如くして、あらゆる場合において、一歩一歩 と

前進の歩みが踏みしめられていきます。

 

まず、想念が、神の意識から人間の意識の中に直接押しだされ、

先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に、何かがあること

がわかる。


ところが、ここで人間はたいてい、過ちをおかして、この想念を

もともと自分のものと誤認してしまうのです。

こうして、彼は神から離れ、神の完全なる表現の媒体となる

代わりに、自我流を冒し続けて 本来完全となるべきものを 

不完全な表し方にしてしまいます。

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

すべて善き想念は神の直接、完全なる表現です。

このような善き想念がうかぶときは、直ちに、それを

彼自身の理想として、我の手を放して、神の御手にゆだねる

ようにすれば、この理想は完全なる姿をとって、具体化します。


ここで彼が知らなければならないことは、神は人間以上の

ものであり、人間の業(わざ)は どんな場合でも、神の理念を

実現する助けにはならないことです


人間が学ばねばならない重大なことは、 霊力や精神力 (*1) 

とは永久に縁を断ち、直接に神を表現することであります。(*2)

霊力というの、すべて、人間自らの創りだしたものであり、

ともすれば、人を誤らしめるものであります。“[145148 

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

*1)

霊力や精神力と縁を立つ という意味は、決して スピリチャルな人間になるなということではない、

ここでは、霊力、つまり、霊能力や、 自分で何かを成し遂げるという、小さな我をもとにした

精神力は、 ほんとうの自己を顕わすためには、最終的に放棄しなければならない資質という

ことでもある。

人は、最後は、自分という捕らわれた概念すらなくなり、自分の個性を持ちながら、大いなる

生命と愛の海原にたどりつく。

この時、すでに、気張る心(精神力)も、霊力 も必要なく、そのまま、自分自身 であり、真の自我に

到達しているからだ。 [須田注]

 

*2)

直接に神を表現すること、という文言は、特定の宗教上での神を

さしてはいない。

大師は、神とは法則であり、かつ、人間の概念でいえば、愛である

ともいう。

私たちが 本来の幸福で心身健康な生活を送れるのは、体の自然法則が

正しく機能しているからに他ならない。


大師のように、年齢や時間 空間を 超越して存在できる生命に

至るまでは長い道のりがかかるかもしれないが、だれでも、それを

達成することは可能であり、それが、即ち、神を 表現すること~と 

大師は意図している。≪須田注≫

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする