中心は北方向の意味 平成25年 7月19日
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昨日の続きです・・・
昨日のブログで星印の箇所、番号振った部分
を展開して考えてみたい。
(1) ”霊界人は、その向いている方向が北である。
しかし、地上人の言う北ではなく、中心(*1)という
意味である。”
北 を ここでは 中心という意味で使っている。
地上から見える星で、北極星 という星がある。
筆者は依然、北極星が 霊的に意味のある星で
あることを聞いたことがある。
北極星は天体観測の上でも重要な星なのだろう。
常に そこに ’或る’ ということで、位置決めや
方向の判断に必要不可欠であるのだろう。
常に 動かざる位置 それが、中心点という意味で
重なり合うのかもしれない。
(2) 中心は、歓喜の中の歓喜である。
それを基として、前後、左右、上下そのほかに、
無限立法方向(*2)が定まっているのである。
中心は動じないところの点でありそれが歓喜で
あると天明は言う。無限立法方向が中心の外に
造られる。ここでは、宇宙の話ではない。
私たち一人ひとりが宇宙の中心であり、私たち
の中心が、歓喜 そのものであり、私たちの
造る、自分自身の宇宙は無限に 拡がっている
ということだろう。
(3)霊界人は地上人がみて、いずれの方向に
向かっていようと その向かっている方向が中心
(*3)であることを理解しなければならない。
霊界人が向かっているのは、結局 中心だという
天明だが、私たち 地上人が向かっているのも
中心方向に、向かって前進しているのだと思う。
それでは もう少し具体的に、中心とは何だろうか?
(4)それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、
それを得ることによって、霊人たちは生長し、生命
しているのである。要するに、それは霊人たちの
呼吸と脈拍の根本をなす(*4)ものである。
ここにあるように、向かっている中心は、愛 に
満ちて、別の言葉でいえば、真理 そのもので
あるという。霊人は、その 真理に向かって
進み、進むことで生長する。
生命している~というのは 活き活きと活動して
いるということだろう。さらに、その 真理への道
そのものが 霊人の呼吸と脈拍の根本であるというのだが、
霊人に、呼吸や脈拍は 無いだろう。
呼吸や脈拍(心臓の鼓動)は、生きている証である。
霊人も生きている という意味でこの比喩が使われ
霊人が生き生きするために、真理 という 空気の
ようなプラーナが必要であるということだろう。
(5)各自の眼前に、それ相応の光があり、太陽
があり、歓喜がある。
それは、霊人たちが目で見るものではなく、額で
感じ、受け入れるものであるが、(*5)
霊界の光 という証言は多々耳にするところだ。
霊体そのものでなく、光 として感じられたり、
その霊体の真理の気づきに応じて、光の輝きも
異なるという。
その光を、仏像彫刻なので、光背(こうはい)
として表現されているのを、ご覧になっている
と思う。
その光は、まさに、個人相応であり、額で感じる
と天明は言う。額 というのは、第三の霊的目の
所在点であり、霊覚 を感じるところをこう
呼んでいるのだろう。
(6)地上人においても、その内的真実のものは
額でのみ、見えるものであって、目に見え、目に
うつるものは、地上的約束下に置かれ、映像された
第二義的なものである。
映像として真実であるが、第一義的真理ではない。
(*6)ゆえに、地上人の肉眼に映じたままの
ものが、霊界に存在するのではない。(*7)
第三の眼 は、地上人にとっても、こうした
光を感じる(観る)ための眼であり、それを天明は
ここで指摘している。
その額の眼ではなく、私たちの日常使っている
肉体の目に映し出されたものは、真理とみえよう
とも、そうでないと天明はいう。
それは、地上的拘束下 に置かれた二義的なもの
だという。地上的拘束というのは、*この肉体を
維持する環境の中常識想念*あるいは、(大衆的想念)
の力や、*肉体的機能の限定された能力、
*あるいは、その人間の信念などをさしている
と思う。
どんなに中立的な人でも、判断時に意識していない
潜在心理には、多少これらの要素が何かの決定事項や、
事象判断にかかわっていないと誰が言えるだろう。
潜在意識を超えた 超意識を自覚するためには、
真理 を知ること。
そして、真理 を知るためには、額の眼を開いて、
その光りの 質 と 輝き をキャッチして、
第一義的真理か第二義的真理かを判断する能力を
養うことが大切だということかもしれない。
*参考図書 ”ひふみ神示” 2011年
岡本天明著 太陽出版
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岡本天明氏について
1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)
本名は信之、天明は「雅号」である。
信之は1944年(昭和19年)に
その直後、同神社の社務所で『日月神示』
この自動書記現象は約17年間にわたって続き
後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。
なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、
書記した 天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。
(以上 ウィキぺディアより抜粋)