ひふみ神示 第七帖 平成25年7月20日
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”地上には地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからといって、
その秩序、法則をそのまま地上には移しえず、
結果しえないのである。
また、地上の約束を、そのまま霊界では
行い得ない。
しかし、これらの全ては、大神の歓喜の中に
存在するがゆえに、歓喜によって、秩序され、
法則され、統一されているのである。
その秩序、法則、統一は、一応完成している
のであるが、その完成から次の完成へと
弥栄する。
ゆえにこそ、弥栄の法則をもって、全体が
呼吸し、脈拍し歓喜するのである。
これが、生命の本体であって、限られたる智
によってこの動きを観るときは、悪を赦し、
善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合
(*1)もある。
しかし、これこそ、善を生かして、さらに活力を
与え悪を浄化して、必要の悪 とし、必然悪
として(*2)生かすのである。
生きたる真理の大道であり、神の御旨なること
を知り得るのである。
本来悪はなく、暗はなく、地獄なきことを徹底的に
知らなければならない。(*3)
これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに
通じる歓喜である。
一の天界に住む、天人が、二の天界に上昇したとき、
一の天界はきわめて低い囚われの水の世界で
あったことを体得する。
さらに、一段上昇、昇華して、三の段階に達した
ときも同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだとき、
一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだとき
一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる
場合が多い。
悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この
実情を感覚で仕分け得て、体得する霊人は極めて
少ないがごとく、地上人に至りては、きわめて
稀であることを知らなくてはならない(*4)
悪的感覚と 悪的実態は、おのずから、別である。
この実情を感覚仕分けたうえ、悪を悪なりと
定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは
原因の世界より伝えられたる一つの因果であると
いう平面的、地上的考え方の誤っていることは、
以上のべた処で明白となり。
己を愛するは、まず、悪の第一歩なりと考える。
その考えが悪的であることを知らねばならぬ。(*5)
来るべき新天地には、悪を殺さんとし、悪を
悪として憎む観念はなくなる。
しかし、それが、最高の理想郷ではない。
さらに弥栄して、高く、深く、歓喜に満つ世界が
訪れることを知り、努力しなければならない。
以上の天明が自動書記した言葉の中で興味深いものを
少し選んでみると・・・
(1) これが、生命の本体であって、限られたる智
によってこの動きを観るときは、悪を赦し、
善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合(*1)
もある。
ここでポイントは’限られたる智’。
善が負け、悪がはびこる世界を見たとき、
不条理に感じ、善の生き方が決して生長を促して
いない、という現象を観る場合があるという
ことだろう。
限られた智というのは、たびたび、ブログ
でも出てくるように、現世を生きるための
五感の感覚機能を主体とした肉体に属する
知恵であり、それは 超越意識の中で直観的
に真理を知る第三の眼でみる、智慧とは
区別される。
その場合、悪が許され、大手を振って、往来
を闊歩するに似た、公平さに欠けた三次元の
世界中事象が目につくだろう。
何も、悪いことを、していないのに、どうして
こんな目にあって、悪いことをしている人が、
繁栄するのだろうと疑問に思う。
(2)しかし、これこそ、善を生かして、さらに
活力を与え悪を浄化して、必要の悪 とし、
必然悪 として(*2)生かすのである。
ここで、神示は、そういう事象も、その事象で
悪が出てくることも、真の智慧をもってみれば、
必要悪であるゆえに、地上人の言う長い目で
みれば、善 が生きて、強くなるための
踏み石になり得るという。
(3)生きたる真理の大道であり、神の御旨
なることを知り得るのである。
本来悪はなく、暗はなく、地獄なきことを
徹底的に知らなければならない。(*3)
真の智慧をもって、我々は、一つの大きな事実(真理)
を知らなければならないだろう。
それが、この(*3)でいうところの、”本来、悪
はなく、暗はなく、地獄は無い”ということ。
それも、知っているというのではなく、”徹底的に”
それを知る、
つまり、信念として心の奥に植え込まなければ
ならない。
(4)悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、
この実情を、感覚仕分け得て、体得する霊人は
極めて少ないがごとく、地上人に至りては、
きわめて稀であることを知らなくてはならない。 (*4)
とはいうものの、この 悪いとする感覚からくる
信念と、実際の必要悪であるという賢い判断は、
なかなかできない。
実態がそう映っているから、悪があるとは限らず、
悪があるから、必ずしもその実態がそうである
ということも別々である故、判断は難しい。
これらの複雑な要素を、きちんと、仕分けられる、
体得する霊界の人は、きわめて少ないと
ここでは、神示で延べられ、さらに、我々肉体
を持っている人間に至っては、その境地に達する
ことは それ以上に稀で、難であることを
述べている。
霊界にいれば、実際、肉体はないから、悪
という感覚的判断を、想念機能でするのかも
しれない。
それでも、肉体の目よりは、かなり緻密な霊的
感覚をもって判断出来えることだろう。
しかし、真理の実態を 悪 というものの観方
を例にしていうなら、つかみきることは難しいの
なら、我々人間にとっては なおさらと言える
だろう。
(5)己を愛するは、まず、悪の第一歩なりと
考える。
その考えが悪的であることを知らねばならぬ。(*5)
もう一つ、私たちが考えやすい誤りは ”自分を
愛することは”エゴ的”で、”悪の第一歩だ”と考える
ことだと神示でいう。
この中でいうところの、”愛”、自己愛は、
決して、地球人的意味合いのそれではなく、
むしろ、自分の実相を知り、それを愛すること
であるといえるだろう。
自分の実なる姿は、天明の書記にあるように、
歓喜そのものだ。
それによって、人に対する、観方も変化する
だろうし(4)で述べられた、他者や環境が
自分に投げかける’悪的行為’も 今までとは違う
局面から観ることが可能になるだろう。
そのことは、以下の神示に こう示されている:
これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに
通じる歓喜である。
一の天界に住む、天人が、二の天界に上昇した
とき、一の天界はきわめて低い囚われの
水の世界であったことを体得する。
さらに、一段上昇、昇華して、三の段階に
達したときも同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだとき、
一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ
とき、一の天界は最悪に、二の天界は悪に
感じられる場合が多い。
天界にもいくつもの層があることは知られている。
その層を 一つめ、二つめ、三つ目、と段階を
追い上に昇るごとに、前の層は 今より劣って
いると感じられると書かれている。
悪に感じるというのは、ここでは、劣っている
ものとして、感じられるということだろう。
こうして、人の魂は次々に 北を目指して
(7月19日のブログ参照)
中心へと向かって、本来の魂に帰化するため
に生長し続けているといえる。
参考: ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著 太陽出版
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岡本天明氏について
1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)
画家、神道家、また、神典研究家である。
岡山県倉敷市玉島出身。
本名は信之、天明は「雅号」である。
信之は1944年(昭和19年)に
千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の
麻賀多神社の末社である天之日津久神社を参拝する。
その直後、同神社の社務所で『日月神示』
(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。
この自動書記現象は約17年間にわたって続き
後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。
なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、
書記した 天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。
(以上 ウィキぺディアより抜粋)