素粒子の精神性と知的宇宙 平成25年9月4日
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アルバート・アインスタインという世紀の物理学者が、数十年
の間に 物理学の方向をすっかり変えてしまったことは
今や誰もが知っている。
それまでのニュートン的、機械論的な観方を、くつがえした。
その時期は、タオ自然学 の中で、
フリッチョフ・カプラが述べているが、
”ちょうど、科学者たちが有る種の実験データーを
旧来の方法で理解できず苦しんでいた”
ときのようだ。、
アインシュタインの登場で、”知的存在としての宇宙” と
いう考え方への移行が行われた。
マックスウェルとファラディーは1860年に
“光とは 波の形で宇宙を旅しながら、空間をゆがめて
行く振動している電磁場である“
と 言及した。
しかし、”空間の歪曲” という考え方はこれまでの、
ニュートン流の思考の枠組みの中では 証明が不可能
だった。
何か媒体があるのなら、ニュートン流の考え方
があてはまると学者たちは考えた。
そこで、マックスウェルとファラディ は 媒体の役割
を果たす ”宇宙の エーテル” があると、仮説
を立てた。
アインシュタインは、この理論を更に進めて、
”宇宙にはエーテルは存在しない。
光は何も媒体を必要とせずに、空間を歪曲しながら
動いている”
と主張した。
さらに、この動きによって、重力をも説明できること、
重力はニュートンが描いたような古典的動きをして
いる力ではないと 仮説を立てた。
重力とは ”星や惑星の質量が空間を歪曲した結果
である” という 新しい観方が 根幹にあった。(*1)
アインシュタインはさらに、研究をすすめ
”客観的時間も、巨大な物体や速度によって、
歪められている”という理論を確立する。
たとえば、時間の流れは、時計が置かれている重力の
場の大きさによって、そして、時計が置かれている
空間(宇宙船など)の動くスピードによって異なり、
絶対的な時間はない とするものだ。
有名な思考実験がある。
アインシュタインは光速に近いスピードで動いている
宇宙船の中の時計が、地球上にある時計に比べて、
どれほど、遅く動くか示して見せた。
浦島太郎のお伽噺を想いだす。
彼は亀を助け、そのお礼で、海底の竜宮城でもてなされ
地上に送り返される。
お土産の玉手箱を開いたら、煙がでてきて、突然、
100歳以上も歳をとっている老人になってしまう。
アインシュタインの説によれば、もし、太郎が宇宙船
のように移動する、早いスピード空間にいたなら、
地上にいる人より、はるかに年を取らないという
ことになる。
竜宮城 は、何処にあったのだろうか?
何のシンボルなのだろうか?と想像してしまった。
一方 時間と異なり、光の速度は、どのような条件に
おいても、常に、一定であることも アインシュタイン
は、理論で打ち立てた。
常に、秒速、186、000マイルで光は進む。
さらに、 ”本質的に 物質は光のとる一つの形にすぎない”
ということを証明した。
"物質は、光の異なる表現形態である"~
アインシュタインのこの表現は、これまでの、
”宇宙の輝きの質”を変えた気がする。
物質が本来、光だとしたら?・・・
ニュートンの古典的物理学の世界では、
”絶対的物理的法則”に支配されている
はずの、”窮屈な宇宙” だったのだから・・・
こうして、アインシュタインの理論は、宇宙に対する
それまでの観方をも、根本的に変えることになった。
量子物理学の分野でも目覚ましい発見が続いた。
古代ギリシャ時代以降、物理学は、物質を小さく分割し
ていくことで 自然を形成している最小の単位を 探し
求めてきた。
原子の存在は確認されていたが、物理学者たちは、原子
をさらに、陽子、電子、と言った素粒子にまで、分割
していった。
しかし 同時に、原子の中に秘められている、独特な
尺度の 意外な感覚 に気づくことになる。
つまり、カプラが 描いているように、原子核を一粒の
塩の大きさと仮定すると、電子は大きさの割合からいく
と、原子核からはるか、何百フィートも離れた所に位置
していることなる。
そして、素粒子の運動も神秘的だった。
光と同様、素粒子も又、観察方法や観察者によって、
形を変えることがわかった。
つまり、或るときは、波として 動くかと思えば、
或るときは 質量をもった物体として、顕れる
ということだった。
20世紀初め、ハイゼンベルグなど 多くの物理学者
たちは、“観察する人の行為と、その科学者の意図が、
直接、こうした素粒子の動きと存在に影響を与える“と
信じ始めていた。
こうしたことから、素粒子が物質と言えるものである
のかどうか?という疑問も出てきた。
さらに不思議な性質が明らかになったからだ。
素粒子は時間と空間を越えて、互いに交信することが
できるらしいという 仮説がたてられた。
たとえば、実験で、一つの素粒子を二つに分割して、
その一方の状態を変えてやると、動きが双方、同時に
変わる。
しかも、後者の素粒子は 前者(条件を変えて動きの
変化した)と、同様の動き方をすることがわかった。
二つの素粒子の距離がかなり離れていても、片割れの
素粒子は、もとの素粒子の変化をキャッチして
その動きに同調しているという結果が出た。
それは、まるで、かつて原子で 一度つながっていた
ものは、分割されても、ずっと、そのつながりを
持ち続けるかのようだった。
そして、両者の間には 何か我々の感知できない
まだ知られざる、コミュニケーションの方法が存在
しているかのようでもあった。
こうした、物理学の新しい局面と理論とともに、
ダーヴィンの進化論、これまで常識的に学校で教えられ
てきた生物学的方程式に疑問を投げる学者もいる。
ジェームス・レッドフィールドはその著の中で進化論
についてこう語る:
”宇宙的な神秘が広がる新しい物理的理論の展開のなか、
この進化論に問題点が指摘されるようになってきた。
その一つは、最近の研究では、偶発的な進化のプロセス
は非常に遅く、生命体が現在の姿になるまでに、地球上
で生命体が進化してきた年数よりも、もっと多くの時間
が必要なはずであるという考え方である。
或いは、 化石を調べても、一つの種が一つの形から
次の形へ 斬新的に進化したというその事実を示す、
過渡期にあたる、生物の化石は見つかっていない。
・・・略・・・
そして、その新しい種と呼ばれる生命体は、
世界中の様々な場所で同時に出現している。”
新しい宇宙観は、進化 という概念自体を変えたの
だろうか?
”進”化とは 実は、”新”化 であり、新しい種族は、
”目的という意思” を持つ宇宙 の中で 新しく生み
だされてきたのかもしれない。
”偶然で進化” したのではなく、”意図的に新化”させら
れてきた。
上記に引用した ジェームス・レッドフィールドは移行期
にある動物の化石は発見されておらず、すでにその姿
に成形された新しい種の化石があるのみで、実際
ダーヴィンの言う偶然性を持った進化を期待した
ら、はるかに膨大な時間が必要だという。
そして、世界中にほとんど同時期に新種の生物は発生
しているという事実滔々が、新しい進化論へとつながって
いくのだろう。
私たちは、ただ、”固定化している物質世界”に生きている
のでは ない とアインシュタインが教えてく
れたように、様々な分野で これまでの定説だった科学的
常識 が次々と、大きく、覆されてくる時代をすでに
迎えているような気がする。
たとえば、最新量子物理学の世界や、宇宙論などは物質
の最小単位が すでに、波動とも固体とも変化できる
神秘的な存在であることを認めている。
いずれそう遠くないとき、自分の周りのすべては
エネルギー、あるいは、光そのものの神秘を秘めた振動
で成り立っていることがわかるだろう。
それは、私たち自身が 肉体という物質を持っては
いるが 実際は、心も体も同じ波動体であるという自覚を
ごく自然に 持つ社会が、来るかもしれない~
ということだ。
その時は 健康や病気という概念や、人間と自然環境、
地球の保護と人間のエゴ意識、平和に生かしあう社会など、
文化や経済、福祉の領域にいたるまで、さまざまな
方面への これまでの常識的概念を破った、大改革の
波が来ることが、期待されるだろう。
(*1)
例えば、月が地球の周りを廻っているのは、月より、ずっと、大きな地球の
質量によって、糸のついた、ボールのように地球の周りに引き付けられている
のではない。
地球は自分の周りの空間を歪曲させていて、そのために、月は惰性の法則に
したがって直線に進んでいるのだが、それでも地球の周りの軌道の上で
円を描いているのである。
宇宙全体は信じられないほどの不思議な方式でその中にある、総ての物質に
よって、湾曲させられている。
それは、私たちが一つの方向にまっすぐ、ものすごく長い距離を行けば
全く同じ場所に戻るであろうということを意味している。
参考文献)
ブリッチョフ・カプラ “ターニング・ポイント”工作舎、1985
ジェームズ・レッドフィールド“聖なるビジョン” 角川文庫ソフィア1996)
ブリッチョフ・カプラ ”タオ自然学”工作舎、1990