制限付きの自由と真の自由の違い 平成25年09月24日
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愛する諸君よ、
一般の人々は アーディアートミカム[霊性)
が何か、個人の自由 が
何かを理解できません。
霊性 とは、社会から遠く離れて孤独のうちに
暮らすことを意味しません。
その反対に、真の霊性とはあらゆる人々の胸
に愛の種子をまき、全人類の中に平和と聖なる
愛が花咲くことを容易にすることにあります。
もしも、貴方がた ”聖なる原理”の性質を深く
極めるならば、”霊性と個人の自由” というような
別個のものはないことが判ります。
もし、何らの障害もなく、公開の演壇から自分
の感情と思想を表現することを、許されるならば、
それは個人にとっての自由だと一般的に言われます。
しかし、真実を言えば、この宇宙に絶対の自由を
持っているものは一人もいません。
自由という言葉は、政治の場で頻繁に用いられ
てきています。
自由とは何でしょうか?
印度が政治的独立を獲得する前は外国の支配
を脱して、国民の支配を確立することが自由
と思われてきました。
しかし、それは個人的自由でも、根本的自由でも
ありませんでした。
それは、単なる、外国の支配に代わって、自国民
による支配が実現したことであって、本来の自由
の様相には、ほとんど、あるいは全く変化が
ありませんでした。
外国人が立ち去った後で、私たちは自国民が
その自由を得たと思いました。
しかし、どんな面において、私たちは自由を
得たのでしょう
単に、自由、自由 と繰り返すだけでどういう
役に立つのでしょうか?
私たちが 統一(*1)を成し遂げてのち、初めて、
私たちは自由を達成したと主張できるのです。
統一を達成することなく、自由を口にするのなら、
それは言葉の自由に過ぎません。
自由はハート(真性)のレベルから発するのです。
ハートとはどういう意味でしょうか?
それは肉と血に満ちた肉体の心臓のことでは
ありません。
本当のハートとは、どんな特定の場所、時間、個人
または、国家とも関係しないものです。
それはあらゆるとき、あらゆる場所、あらゆる国々
のあらゆる人々の中に平等に存在する神聖
であります。
このハートには形式がありません。
私たちが、人間の身体の中の心臓として考えている
ものは、ある時点で生じて、ある時点で滅する
ものです。
しかし、霊的な用語として、ハートと呼んでいる
ものは生滅するものではありません。
それは永遠不変のものです。
したがって、真の自由とは、このハート、または
神聖原理を認識し、実現することにあります。
そしてこれを知ることによって、ヒトはすべてを
知るものとなります。
”ヤター・アンダンデ・タター・ブラフマンデ”
という言葉があります。
小宇宙そのままに、大宇宙がある、
という意味です。
小宇宙とは個人をさし、大宇宙は万物の総和を
指します。
己の大我を知る者は、すべてを知っています。
今日の人間は世界について、何もかも知ろうと
しています。
自分はなんでも知っているということで、誇り
を感じています。
しかし、現代人は、自分自身のことが判っていない
という事実を忘れています。
あなたがたが誰かに ”君は誰だい?” と尋ねて
その答えが ”誰だかわかりません”
だったら、その人のことをどう思いますか?
きっと、その人のことを狂人を想うでしょう。
これと同じように、もしもあなたが自分は誰か
を知らないで、ほかの事を、全部知ろうと務める
のならば、貴方はその狂人よりいくらかましですか?
それゆえ、まず、第一に、自分が誰かを知ろう
とするべきです。
あなたは ”僕は xxx です” と言うかも
知れません。
しかし、xxx はあなたの 身体につけられた
名前です。
ところで、あなたの答えの中で、
”僕は xxx です” の
ボク とは誰ですか? 何者ですか?
その僕 の性質を理解すべきです。
その 僕 こそが、フリヤダム、すなわちハート
です。
その 僕 こそが、アートマ、または、大我です。
その 僕 こそが、至高の実在です。
いいかえれば、それのみが実在というのは、
二元論的発想が存在しない世界が実在という
ことでもあります。
例えば、ここに、絵があります。
高い山、深い谷が描かれています。
観たときに心にその映像がキャッチされます。
しかし、もし、あなたが、指でその紙に触ると、
上下や凹凸を見出すことが、あるいは、感じる
ことができないでしょう。
それと同じように、現象界において、あなたは
上下、善悪、真理と非真理、苦楽など多くの
対照的差異を見出します。
しかし、ハートのレベルでは、これらの二元対立
は全く発見できないでしょう。
エカムサット という言葉あります。
それは、存在は壱なり~という意味です。
第二のものが存在しない場合、どのようにして
自由や束縛の問題が起こり得るでしょう。
ゆえに、この自由と束縛という概念は、
あなた自身の心が勝手に造りだしたものなのです。
太陽がないときだけ、私たちは月に注意を価値を
与えます。
太陽がないとき、なぜ、私たちは月に価値を与える
のですか?
月には、それ自身の輝きがありません。
それが輝くのは、太陽光線を反射するためです。
同様に、私たちに”大我の太陽”が見えないとき、
私たちは ”心(感情想念・小我)の月” に価値を
与えます。
心 という月 は なんでしょう?
それは、霊と世、聖と俗、自由と束縛、男と女と
いうような、二元的差別観のことです。
大我が太陽です。
私たちは、アートマ・ヴィチャラ(大我探究)
に携わらぬ限り、大我の反射した心、月のような
二元の現象的な認識に心を奪われます。
人はどういうとき、真の自由を持つのでしょう。
それは心(月)が滅ぼされたときだけです。
スワ・イッチャという言葉があります。
スワ とは大我または、アートマのことです。
イッチャ とは 意思または感情 です。
この言葉の使い方は 実は、根本的に矛盾があります。
なぜなら、アートマには 意思も感情 もありません。
”大我の意思どおりに行動することが自由である”
ような錯覚 にとらわれがちですが、人間には
真の自由がないことは明確です。
真の自由をもつ存在は神のみです。
なぜなら、神は一元であり、二元的価値観はないため、
束縛もなく、束縛がなければ、自由という概念も
ないからです。
そして、あなた自身も、本質に神の資質を持ち、
本来、真の自由を獲得する権利を持っている
のです。
人は、二つの法則に支配されて生きざるを得ません。
一つは、大自然の法則、もう一つは、人間が作った
規則や法令で 行動は、常に規制されている
ということです。
人は自分が”好きなように行動できている”
という想いは厳密に言えば、
”限界つきの限定自由”でしかありません。
限界というのは、肉体が死ねば、その自由は
なくなり、限定というのは、先にのべた、二つの
法則に常に許容されている範囲内ということです。
神は自由である という言い回しも、厳密な意味
では 相対的な表現です。
なぜなら、実在は神のみであり、私たち一人ひとり
の中にもその資質は浸透して、それのみが存在する
唯一の物なのであるゆえに、自由という概念は
人間(小我)が見たときの相対的な意味しか
持たないということになるわけです。
これらの事を考えて、真の自由を獲得するために
どうしたらよいのか、
自身の生き方を内面の奥から時々、見つめなおして
もらえれば、幸いです。
*1) 須田注:
ここでの統一というのは、英語の”Integrate”を
翻訳していると見受けられる。
前文に政治的話しがでているので”国の統一”のこと
に思えるが
後の文脈からみて、’一人の人間の、心の中の統一”
と取った方が原意だと理解している。
参考:ブリンダヴァンの慈雨
1990年 夏期講座 牧野光三監修