自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エミール大師が教える;ヴィジョンを現実にする秘訣

2013年07月25日 | 健康と直結する”一元論”について

他人が自分の人生を代わることはできない  平成25年7月25日

**********************************

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の

一員であった。3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤ

の大師たちに接触した。大師は私たちが 偉大なる

法則の働きを実証されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許して

くれた。

 

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの

生活と教え”と題して、発表するが、そこに盛られた

内容をそのまま受け入れるか、否認するかは、読者の

自由である。

**********

饒舌に語り続ける・・

”要するに、人生の本当の意味に目覚めている人が

少ないからなのです。

大部分の人々が、あるいは欲求不満に陥り、あるいは、

眩惑し、あるいは押しつぶされ、或いは不安のまま、

人生を漂っているではありませんか。

 

各人が人生の意義をしっかりつかんで、自分自身の

生命の中心より、明確な目標と行動とを持って、

神の与え給う才能を顕現しなければならないのです。

各人が自分自身の生命の展開をしなければならない

のです。

自分が 誰かのために生きてやるということは

できない。

・・・略・・・

 

人生の全目的は、内なる真我を顕わしていくとき 

おのずから明らかになります。

人は 今も将来も、神の神性なる像でつくられて

いることに変わりありません。

 

これが人間に対する神の目的です。

人間のために 神の意図し給うことを顕わすこと

こそ、人生における人間の一大目的でなければ

ならないのです。

・・・略・・・

必要といいい、欲求といい、実は生命の展開の過程

であるのに、これまで誤った見方がされてきている

のです。偉い というわれる教師たちの中には、

このような必要、あるいは欲求は、心の中から 

潰して出さなければならないと説いていますが、

イエスは ’充ちたりしものに災いあれ’といわれたの

です。満ち足りたものは、停止してします。(*1)

 

生命に完全に触れるためには、私たちは各瞬間ごとに、

生命を完全に表現しようと欲求しなければならない。

 

この表現欲が同時に表現を駆り立てるものとなるの

です。地上の塵芥の中を 這いまわることに飽きると、

やがて、人は天かける事にあこがれる。

この憧れが、現在の制約を超克することを

可能ならしむる法則の発見へと人を誘うのです。

 

それを発見すると、人は、もはや、

時間・空間の中に制約されることなく、どこへでも

自分が欲するところへ行けるようになるのです。(*2)

昔から、人間は計画し、神が処理し給うといわれて

いますが、実はその逆が真なのです。

何故なら、神が計画し、人が処理するからです。

もし、人間がその気になれば、神のなすことすべてを

なしえるのです。

 

人は外的なもので満足で着なくなるとき、

魂は内なる力を求めるようになります。

その時、彼は実相 ”われは神なり’(IAM =真我)

発見するようになります。

 

自分の中に魂を満足させ、

魂のすべての必要と 欲求とを満足させるすべて

の力があることを知り得るのです。 

しかし、憂き世での打撃に打ちのめされた挙句

に、内界の平和と静謐を求めるように

ならなければ、このような知恵は出てこないかも

しれません。

 

彼が実相 ’我 神なり’こそ、自分の欲求を満足させ

てくれるものだと悟ったとき、欲求は事実充足

されるのです。

 

自分の欲望を充足させるのに、真我の外に何かを

求めるのはおろかです。

 

真我の開顕は真我自体がするのではなく、

個我がしなければならないからです。

実相を知ること、わがうちにすべての形ある

ものを作る力と原質と智慧が存在するということ、

明確にして、賢明な欲求であれば、それが生じた

瞬間にその力と智慧と原質が流れ来たり

それを実現させるものであるということは、

素晴らしい悟りです。”(218)

 

こうして、さらに話が続く。

”覚者はまず、わがうちに創造の原理が

存在することを確知しています。しかる後に彼は

観じます。(*3)

 

彼のこの悟りが彼の生命の実相にとって、

顕現の機会となります。彼にはヴィジョンがあります。

言い換えれば、彼は自分の可能性、途に横たわる

可能性を自覚しています。

 

彼に内在する創造原理を知ったうえで、

心底の願望を思い起こします。

すると、それが理念、即ち、雛形、即ち、

また中身となるべき力と原理とを

引き出す、原型となります。

 

’我観ずる’ことが魂の思考となるのです。

それは約束の土地、実現すべき

、夢であり魂はそれを信じて観ずるのです。

今はそれを意識して所持はしなくても、

法則を満たすにつれて、具体的な形となって

出てくるに相違ないのです。

 

それまでは次次と様々な経験に会い、

次々とそれを克服していかなければ

ならないこともあるでしょう。

しかし、それによって、魂が償いを果たすのに

役立っているのです。

 

ヴィジョンとは約束の土地、実現すべき、

理念のことであります。

そうと悟ったとき 魂はただ善のみをみて、

善のみを願うようになります。

この点について、

疑いや 動揺や躊躇があっては なりません。

そのような心の動きが

あれば、それは致命的となります。

人は自己のヴィジョンを忠実に

推し進めていかなければならないのです。”(219)

 

*1に書かれている ”満ち足りたものは、停止して

します。(*1)”は皮肉的に聞こえるかもしれないが、

満ち足りると、人はそこで満足するがゆえに、向上が

なくなるという意味だろう。

 

常に 今 を私たちは動いている。

停止しているというのは、そう見えるだけであって、

前に向かうか、後退するか、どちらかの動きしかない。

だから、もっと、この文章を厳密に考えると、満足

していると後退しがちだということかもしれない。

 

*2 の 箇所 

時間・空間の中に制約されることなく、どこへでも

自分が欲するところへ行けるようになるのです。(*2)”

 

の意味は 時間空間の理念がある、現象世界

私たちが肉体を持って生きているこの世界においては

自分の欲する処に即座に行くことはできない。

しかし、霊対や幽体になったとき、私たちの想いで

行こう と意思しただけで、そこへ瞬時に行くことが

可能だという。

 

*3の箇所 

”覚者はまず、わがうちに創造の原理が

存在することを確知しています。

しかる後に彼は観じます。(*3)”

では 瞑想のポイントが書かれている。

私たちが瞑想するとき、ただ漠然と

眼を閉じて、心を空っぽにするだけではない。

賢人の瞑想とは、あず、私たちの健康なる姿

円満なる人柄、つまり、自分の理想とする状況

こそ、まさに、本来の自分の姿であることを

しっかりと心に熟知させて、それを 目をつぶり

観想するわけだ。

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

 

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理想を表現するということ

2013年07月24日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ヴィジョンが現実化するためには。  平成25念7月24日

******************************* 

愛 と 奉仕 に生きる 霊界人の

糧 が 愛 であることを ひふみ神示で

読んだ後で、

再び、エミール師に登場してもらいます。

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた

11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、

ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 

偉大なる法則の働きを

実証されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、

“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を

そのまま受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

**********

             

すべての偉大なる魂の持ち主たちは、

自分のヴィジョンに忠実であるものです。

すべて、今現象しているものは、初めのヴィジョン、

即ち、魂の中に植え込まれた概念の種子が

後に発芽して、成長したものなのです。

こういう魂の人たちは、この想念の種子が

外部の人たちの不信に左右されることを

断じて許しません。

 

このヴィジョンのためには、彼らは犠牲をも

いとわずに忠実にこれを守り、信じ、

そうして、ついに信ずるがごとくに成るのです。

イエスはご自分のヴィジョンに常に忠実であり、

不変でした。

 

彼は最愛の近親者が不信不忠実であった時でさえ、

ご自分のプランにしがみついて、離れなかった。 

かくして、イエスのプランは彼の信じるがごとくに

実現したのです。

そして、それはすべての人々に対しても、また、

その通りです。人が約束の地に向けて旅立つのは、

まず、暗黒の土地を見捨て、それを忘れ去らなければ

なりません。

 

闇黒を去って、光明にむかわなければなりません。

前進しながら、停止するのは不可能です。

古きものを捨てて、新しきものに、しがみつかなければ

ならない。

覚えていたくないものは忘れ、心に留めておきたいもの

だけを覚えるようにしなければならない。

 

前者も大事だが後者も大事です。

もしヴィジョンを実現したいと望むのであれば、

ヴィジョンだけを覚えておくことです。

生み出したいと思うヴィジョンを心の中にしっかりと

持ち続けて覚えなければならない。

実現したくないものは忘れなければならない。

覚えることを拒否しなければならない。

 

ヴィジョンを実現させるためにはすべての想念、

考え、言葉、行為をヴィジョンに忠実にならしめ

なければなりません。これが本当の思念集中、

献身の集中、本質への力の集中であります。

これが理想を愛することです。

 

理想が表現されるのは、ただ、愛によってのみ

です。愛は理想を現実化します。初め、失敗しても、

決意を固めて前進することです。

それは意思の体操でもあり、自信の叫びでもあります

 

理想に力を振り向ける信念の表現です。

理想は、このように、力を意識的に向けもしないで、

或いはまた、このように、意思の体操をしないで、

達せられるものでは決してないのです。

 

しかし、その意思も理想的でなければ、それは理想

それ自体にとっての致命的となります。

意思にはその使える理念と同じ性質がなければ

ならない。

 

もしも、意思自体の方で理想に仕えようという

気持ちが起こらなければ、魂の力の出ようが

ありません。自分が他人から仕えられようと

意思すれば、生命のながれは ’我’に背き、

仕えようと意思すると、生命の流れが’我’の中

を貫流し続けて、’我’が光輝を放ち続ける

ものです。

 

仕えることが、ヴィジョンに目的を与え、

生命の中に愛を放出する。愛が まず生命を

顕わす当の本人の中を流れ廻らずにいて、

外に現れるということがどうして出来ましょう。

 

愛が意識の中を流れていくとき、全体の器官が

これに感応する。全体の細胞が感憤する。

すると肉体は北和し、魂は光輝を放ち、啓示を受け、

想念は明瞭となり、生気を帯び、的確となり、

言葉は積極的、真実、建設的となり、肉体は更新

され、浄化され、活力を与えられ、万事が整い、

すべてはその処を得るようになります。”(220)

 

最後の数行、

愛が意識の中を流れていくとき、全体の器官が

これに感応する。全体の細胞が感憤する。”

という言葉は印象的だった。 

 

 

私たちの体の自然治癒力の発現は、まず、

自分を愛することからはじまる。

愛することとは許すことだ。

自分がダメだ、弱点がこうだ、自分はいつも

同じ過ちを繰り返している。そんな自分は、

ほとほと、ウンザリするという、否定的な

思いで自分を観ているのは、自分を許して

いないことだ。

 

過ちや失敗は 認め、恥ずかしい思いを

繰り返すことのないように、反省して、

これで一歩自分が前進したこと、そして、

カルマ清算ができたことに感謝して、自分の

真我を信じ、その顕現に集中して 愛を心に

とりもどしあふれる生活を志す。 

         

自分に愛 をもつことから、自然治癒力の発動が

かかる。

 

自分の肉体の細胞が、その愛に悦び、喜べば、

心身の奥から湧きおこるエネルギーを感じ、

新陳代謝や体の生理作用の機能も上がり、

浄化作用のための免疫力も向上する。

 

愛することは、人に仕える、奉仕する気持ち

を持つことだ著者は大師の言葉を記録して

いる。人に仕えよう、奉仕しようということで、

愛が循環する。

 

反対に、相手に仕えさせよう、奉仕させよう

しても、自分からの、愛が滞るから真我の道とは

相克して、悦びの波動に乗り損ねてしまう。

 

心のどこかに潜む、こうした要領の良さ、あるいは、

エゴに、気が付くまでに 人は時間がかかるかも

しれない。エミール大師の言うように、自分の

エネルギーを人への奉仕の中に埋没させることを 

良しと理解することもさらに、時間がかかるもの

かもしれない。

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

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霊峰富士山・お供物

2013年07月23日 | 健康と直結する”一元論”について

ひふみ神示エッセンス    平成25年7月23日

******************************************

ひふみ神示は849つある。

37巻プラス補巻が二つ添えられている。

 

アットランダムに興味覚える言葉を拾ってみた。

括弧内の数字は神示の番号である。                                    

*富士、火吐かぬよう、おろがみて、くれよ、

大難を小難にまつりかえるよう、おろがみて、くれよ。(289)

 

最近 富士山が世界遺産に登録された。

とは、言っても、実際は、数年の期限付きで、

その間きちんと、富士山を信仰対象の山として 

登山者をはじめ関係者がそれにふさわしく、

維持できるかどうかというテスト期間であり、

登録から外される可能性もまだ残っていると

ある筋から聞いた。

 

そのことは マスコミであまり、伝えられて

いないように思った。天明の神示では、富士山が

噴火する~という前提(予言)のもと、”おろがみて”、

つまり、富士山を”拝みなさい”と言っている。

その心をもって、”大難が小難にすむ”とも、

暗示している。

 

霊峰富士山の意味をあまり、考えずに登山する

人たちも多いだろう。ハイヒールで上る、健脚の

女性もいて心ある人をハラハラさせているとも

聞いた。

何故、霊峰といわれるかは理屈はいらないだろう。

秀真伝えによれば、富士山は天照大神の誕生の

場所でもあり、不二の宮(廷) があったところ

でもある。

 

周りには大山をはじめとして やはり霊山がこの

不二の山を守るために その役職の神々が仕え

そのことは超古代史にも登場している。

                                                 

シャカ祀れ。キリスト祀れ。

カイの奥山は五千の山に祀りくれよ。

(ひふみ神示308)

 

この意味として、私たちは釈迦を祀り、仏教が

広まり、かつ、キリスト教の布教も行われ、

渡来した宗教にも、親しく信仰心を増して

いくことが暗示されている。

 

”カイ”、つまり 甲斐の国の山、富士山に象徴

される日本の神は5千の山、つまり、多くの霊山

にに祀られるご神体となり、その真髄をとどめ

ことだろう。

 

この主語は、私たち日本人だと思って読んでいたが、

実際、どうなのだろう?

日本の心は大和の心、調和と生かしあいの精神だ

思う。そのような意味での”心”は、これから世界

に向けて発信していく価値があるのではないか・・・

 

キリスト教もよし、仏教もよし、回教もよし、

ヒンズー教も良し、そして、お互いがお互いの

本質を認め調和できる世界にするために、

ヤマト(大調和)の心が平和の貢献をする

いうことではないだろうか・・・

 

*豊受の大神様 お山の鵜f時に祀り、

箸そえて、おさげした箸、皆に分けやれよ。

け に難儀せんよう、守りくださるぞ 

(319)

 

意味として、豊受の神様を祀り、そのとき添えた箸

信者に分けることで、”け”=(食べ物)に困らない

よう、お守りをうけることができる。

実際、私自身は鞍馬山の古木から作られたお箸を

使っている。

 

元来、霊山のご神体は、霊山そのものであり、~寺

と称して、その山に建造された本堂に祀られた

仏像などは、象徴的な意味合いが多い。

鞍馬山霊山の自然もまた、御神体の命の顕れで

あって、そこに生えている木から作られたお箸も、

天明の神示にあるような意味合いが込められて

いるのだろう。

 

印度では、プラサートといって、神様にお供えした、

食べ物でも、花でも、何でも、家に持ち帰り

祝福を与えられたものとして、皆に分けて戴く。

神様に捧げられたものを戴くとは、一種のお守り

をいただいたような気持ちになり 厳かな気持ち

でいただくのは確かである。

 

*秩序、法則は神そのものであるから、神自身も

これを破ることは許されない。(388)

神は法則である というのは、言い換えれば

科学的という意味はもとより、反動の法則、

想念の法則、肉体の営みの法則、さらに、宇宙

の法則などの定則なども指すのだろう。

 

法則は、動かしがたいものとはいうものの、

そこに いわゆる”奇蹟” というものも実在する。

それは、一見 法則に反しているようにみえるが、

その実、その奇蹟も必然であるのだろう。

 

*神から出る真・善・美・愛の用に奉仕するのが、

霊人たちの生命であり、仕事であり栄光であり、

歓喜である。。。略。。。

自分自身の我が表に出たときは、力を失い、

仕事を失い、苦悩する。

 

霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多種

であるが、よりよき、より高き、より神に近い

霊人生活に入るための精進であり、喜びである

ことが知られる。

・・略・・   

なお、注意すべきことは霊界において、権利なる

ものは一切感ぜず、義務のみを感じていると

いうことである。即ち、義務することが霊人の

大いなる歓喜となるのである。

ために、命令的なものはない。

只、ひたすら奉仕があるのみである。

(17巻18帖)

 

霊界の人たちが食べ物をとっているかというと

そうではない。ここに書かれているように、霊界

の魂を向上させるためにも彼らは、”真理の言葉

を生きる”ような努力が必要らしい。

 

また、”愛と奉仕”という、自分の”小さな個”の

感覚を無くして大きな個としての、お勤めを果たす

ことが、霊界人の喜びにつながり、その喜びこそが、

生きている糧、つまり食料のようなエネルギーを

霊人たちに与えてくれるという。

 

     

参考: ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著 太

陽出版 

 

 *******************************************

岡本天明氏について

 

 

1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日

画家神道家、また、神典研究家である。

岡山県倉敷市玉島出身。

本名は信之、天明は「雅号」である。

信之は1944年(昭和19年)に

千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の

麻賀多神社末社である天之日津久神社を参拝する。

その直後、同神社の社務所で『日月神示

(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。

この自動書記現象は約17年間にわたって続き

後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。

なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、

書記した 天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。

(以上 ウィキぺディアより抜粋)

 

 

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悪も善なり・悪の意義

2013年07月22日 | 健康と直結する”一元論”について

 

 ひふみ神示第九帖  平成25年7月22日

*******************************************

再び 以下、ひふみ神示の内容から抜粋)青文字が

原文よりの引用となります。

 

”霊・力・体の三つがよりよく調和する処に真実

があり、生命が滞りなく働く。

これは根源からの存在の、あり様(よう)

であるが、”動き弥栄する道程”において、具体的

にどのような形をとるかというと、複霊、複力、

複体 という三つの 動き をなす。

 

霊の立場よりすれば、霊は’善’であって、体は’悪’、

体の立場よりすれば、体は’善’であって、

霊は’悪’、あるいは、存在しないものとして

無視される立場にある。”(一二三神示)

 

ところが、賢者は言う。

悪あればこそ、善が善として救われ、そこに

悪の存在の意義があると。悪があるからこそ、

’弥栄’という考え方が存在する。 

善あればこそ、悪は悪の御用を為し得るので

ある。

 

”悪は悪善として、神の中に、善は善悪として、

神の中に栄える。力がそこに現れ、呼吸し、

脈うちて、生命する。 地上人は、地上物質界

のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との

交流によって初めて悪善としての力に生き、

弥栄してゆく。

 

地上人は死後の世界に通じなければならぬ。

死後の世界との関連により、複数的善悪に

おかれる。善悪の立場におかれる場合が多い

ために、(人は)地上における司宰神として

の力を自ら与えられるのである。”(一二三神示)

 

人は善悪の世界におかれるから、自ら考えて、

何をなすべきかという判断力によって、自主的

決断による行動をとることができる。

 

”善悪の生かされ、御用の悪として、許されている

のは、かかる理由によるものである。

善のみにては、力として進展せず、無と同じこと

となり、悪のみにても、また、同様である。

 

ゆえに神は悪を除かんとはなし給わず、悪を悪

として正しく生かさんと為し給うのである。

なぜならば、悪もまた、神の音力の顕れの一面

なるが故である。悪を除いて善ばかりの世と

為さんとするは、地上的物質的方向、法則下に

総てを当てはめんとなす、限られたる科学的

平面的行為であって、その行為こそ、悪その

ものである。”(一二三神示)

 

神示を受けた、天明の啓示には、

”物質界にとって、体は善であって、霊は

悪である”という前提のもとに、悪と善を

ここで語っている。

 

”霊は悪”という言い回しはピンとこない方も

いるかもしれないが、物質界においては

現代の科学万能時代を背景として、

”霊という概念”は、想像もしくは非科学的

というレッテルを貼られるという意味で、

’悪’という強い表現をしているのだろうか。

 

”霊人のもつ、想念の本は、神であり、神の

もつ想念の本は大歓喜である。

ゆえに、地上人は霊人によって、すべての

行為の本をなし、霊人は神により、

神は大歓喜により、総ての行為の本となす。

 

ゆえに地上人そのもののみの行為なるもの

はない。いずれも、神よりの内流による、歓喜の

顕れであることを知らねばならぬ。

 

歓喜の内奥より、湧き出るものは、霊に属し、

外部より発するものは体に属する。

霊に属するものは常に上位に属し、体い属する

ものは、常に下位に属するのであるが

体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。

しかし、差のない立場に於いて、差を造り

ださなければ、力を生み出すことはできず、

弥栄はありえない。

 

 即ち善をつくり、力をうみだすところ

に悪の御用がある。動きがあるがゆえに、

反動があり、そこに力が生まれてくる”

(ひふみ神示)

 

’反動’こそ、”力”であるというのは興味深い。

地面との摩擦があるから、足を前に出して

前進する力になって、進むという肉体動作に、

それが喩えられるだろう。

 

”霊にのみ、傾いてもならぬが、強く動か

なければならない。体のみに傾いてもならぬ

が、強く力しなければならない。

悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。”

(ひふみ神示)

 

悪が働く・・とは? 実際の悪として現象に

現れなくては、摩擦としての力になることは

できず、善が現象化する働きの助けに

ならないということだろう。

 

”常に、動き栄ゆく、大和の 〇を中心と

する上下、左右、前後に円をかき、中心に

、【点】を置いた立体的動きの中に呼吸

しなければならない。”(ひふみ神示)

 

ここで書かれている〇の中心に点を置いた

姿が、仏教でいうえところの、物の実相、

’空’ の存在形象と考えられる。つまり、

点の所が’空’であり、その点を持った〇の

形、点を中心とした拡がり、言い換えれば、

点の表現物が、色(しき)つまり、物質や

現象をさすのだろう

 

ここまでは ひふみ神示第17巻のジシン

の巻から引用した。昭和20年9月10日

から10月30日までの記録である。

さらに第28巻 時は経て、昭和27年

3月3日から8日までに書かれた夏の巻を

見てみると、 今日挙げたブログの内容を

もっと簡潔にまとめた神示が載せられて

いる。

 

第七帖]

神も人間も同じであると申してあろう。

同じであるが違うと申してあろう。

それは、大神の中に神を生み、神の中に

人民をうんだためぞ。 

自分の中に、自分新しく生むときは、

自分と同じカタのものを生む。

 

第24帖]

すべて世の中の出来事はそれ相当に意義あるぞ。

意義ないものは、在存許されん。

それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、

狭い低い立場でいるから、いつまでたっても、

堂々巡り。 

それを毒とするか、薬とするかは各々の立場

により、考え方や処理方法や、いろいろの運び方に

よって知るのであるから心せねばならんぞ。

今 に 一生懸命になりてくだされよ。

 

 参考書(引用文)

 ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著 

太陽出版 

 *******************************************

岡本天明氏について

1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日

画家神道家、また、神典研究家である。

岡山県倉敷市玉島出身。

本名は信之、天明は「雅号」である。

信之は1944年(昭和19年)に千葉県印旛郡

公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社

末社である天之日津久神社を参拝する。

その直後、同神社の社務所で

日月神示』(別名:『ひふみ神示』、

一二三神示』)を自動書記する。

 

この自動書記現象は約17年間にわたって続き後に

全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。

なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号

などからなり、書記した 天明自身、

当初はまったく読めなかったといわれる。

(以上 ウィキぺディアより抜粋)

 

 

 

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死は弥栄なる誕生

2013年07月21日 | 健康と直結する”一元論”について

ひふみ神示 8帖より  平成25年7月21日

*********************************

青文字部分が原文より、黒文字が解釈となります

 

”新人と生まれ、新天新地に住むとも、

その以前の自分の全ては失わない。”

新人というのは、新たに生まれた人という意味で

悟ったり、肉体の衣を脱いだり、それぞれの状況で

現在とは異なる次元の自分になったときを指す。

                                           

”唯 その位置を転換されるのみである。 

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を

脱ぎ捨てるが、その根本的なものは

何一つとして失わず、生活するのである。”

肉体を脱ぎ捨てるとき、それを、天明は”物質的に

濃厚な部分”と呼んでいる。

肉体を脱いでも、根本的なところは何も変わらない

とここでいう。

 

”その状態よりも、なお一層、そのままであって、

何らの変化もないと思えるほどである。

蛆が蝶になるごとく 弥栄えるものであって、

それは大いなる悦びである。

なぜならば、大歓喜なる大神の中において、

大神のその質と性を受け継ぎ呼吸しているからである。”

エミール大師やエディ夫人が再三述べているように

在って在るものは、大いなる大生命の力であるゆえに、

私たちの肉体はなくなっても、その大神(大生命)の中

で息づいていることは、なんら、変わらないという

ことだろう。

            

”全ての物は歓喜に向かって 歓喜によって、行為する。

歓喜がその目的であるがゆえに、

歓喜以外の何物も意識しえない。

ゆえに、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、

生命はない。

 

生前の霊人が地上人として生まれてくるのも、

死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた、死ではなく、

弥栄なる誕生であることを知らねばならない。”

そこには、言い換えれば歓喜という本質的性質しか

存在しない。だから、もし、私たちが信仰したり、

真理の勉強をしたりしてもその中に悦びが見出され

なければ、何かが、違うということでもある。

自分の向き合い方が違うのか あるいは、目指して

いるそのものが真理ではないのかもしれない。

                                                   

”歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。

只、考えたり、意思するのみでは萌え出ない。

生命しない。

只 意思するだけで行為しないことは、

まことに意思することではない。

霊界に於いては、意思することは直ちに、

行為となるのである。

地上人にありては、物質によりて、物質の中に

その意思を行為することによって、初めて

歓喜となり、形態をなし、弥栄えるのである。”

地上の私たちが何かを実際行動して、形にしていくとき、

意思が表面化し、想いが現実化する。

霊界では、思えば、それが現れたり、そこに一瞬のうちに

辿りついたりすることが可能なようだが、

現象の物質界では常に、意思を行為する ということが

意味を持つという。

 

”生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、

美の歓喜の四段階とその中間の三段階を加えて

七つの段階にまず区別され、その段階に於いて、

その度の厚薄によりて、幾区画にも区分され、

霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしいところに

集まり、自ら一つの社会を形成する。”

 

唯心所現、類は類を呼ぶ、朱に交われば朱くなるの

諺は、地上界のみならず、霊界にもあてはまるのだろう。

 

”自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。

否、苦しくて、住み得ないのである。

もし、その苦に耐え得んとすれば、その環境は

その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、愛の歓喜に住む霊人は、

その愛の内容如何によって、同一方向の

幾百人か 幾千、幾万人かの集団の中に住み、

歓喜を中心とする社会を形成する。”

 

現在 苦しいからあの世に行けば救われる と思って

いるのは甘いということか・・・今ここに、愛を

顕わすことが、あの世に行っても同様、愛を形成

する世界に住めるということなのだろう。

 

”ゆえに生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚

しえるもののごとくが最もよく自分に似ており、

自分と調和する。

山も河も癒えも田畑も、そこに住む霊人たちも、

動物も植物も鉱物もすべて自分自身と同一線上にあり、

同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの全てが、

大きな自分自身と映像する場合が多い。(*1)”

 

私たちの周りの環境も、人間環境も、動植物や、

自然環境にいたるまで、すべて、自分の心の鏡だと、

先人は教える。

すべて 自分の遭遇しているあらゆる物、人、事象、

それらは、”自分自身と同一線上にある”ということ、

”同一の呼吸”をして、自分をさらに拡大化した”、

大きな自分自身”であると理解することができる。

                             

”自分は他であり、他は自分と感覚する。

ゆえにその性質は生後に基づき、地上人もその周囲を

自分化しようとする意思を持っているのである。

しかし、地上世界は物質的約束によって、想念のまま

には動かない。

死後の世界もまた、生前と同様であるが一度、

物質世界を通過したものと、しないものとの

相違が生じてくるのである。

だた、いずれにしても、物質世界との密接なる呼吸の

つながりを断ち切ることはできない。

物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を

持つが、霊的角度から見れば永遠性を持たない。

(*2)”

 

ここに言う、”物質には永遠性がないということ、

霊はそれを持つが、霊的角度から見れば永遠性を

もたない’とはどういうことだろうか?

 

霊的角度から見るというのは、きっと、霊性ある

ものもさまざまな段階があるがゆえに、必ずしも、

永遠性を自覚している霊だけではないということ

だろう。

しかし、物質のような儚い震動物体よりも、緻密で

硬固な霊的震動をもったものを比べれば、はるかに

永遠性が理解される対象といえるだろう。

                              

”しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、

遠から永遠に弥栄してゆくものである。

しかして、永遠性をもつ事物は 地上的物質的事物を

自分に和合せしめる働きを内蔵している。

無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、

その融合の上に生命が歓喜するのである。(*3)

無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を

知得しなければならない。”

 

”無は有を生み、有は無を生み出す” という表現は

含蓄深い。

無といっても、この場合、空の概念にも似て、

何もないところから大生命という唯一の存在波動が

ある空点が 動いて、有 になり、物質的現象として

現れている 有 がまた、原質に戻って、目に

見えない空点に戻る ということが繰り返し、生成が

行われ発展がみられ、醍醐味と悦びがあるということ

なのだろう。

 

参考: ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著 

太陽出版 

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岡本天明氏について

1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日

画家神道家、また、神典研究家である。

岡山県倉敷市玉島出身。

本名は信之、天明は「雅号」である。

信之は1944年(昭和19年)に

千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の

麻賀多神社末社である天之日津久神社を参拝する。

その直後、同神社の社務所で『日月神示

(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。

この自動書記現象は約17年間にわたって続き

後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。

なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、

書記した 天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。

(以上 ウィキぺディアより抜粋)

 

 

 

 

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