年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

今は死語となった黄金列車

2024年09月15日 | タクワン
東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」で、特別展『肥やしのチカラ』を見て
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
 第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになった。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
 「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
 世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。練馬区の郷土資料館には大八車に野菜を積み、荷物の上に肥えを入れる容器の樽が積んである写真があります。東京の神田や京橋大根河岸に出荷した後に戻り路で下肥を集めて練馬に戻るのです。従って人の体内で生息する回虫はほとんどの人が持っていました。
 肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。肥料と病気の問題が沢庵の歴史を調べると必ず出てきます。大根栽培は連作すると良い大根が出来ません。

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樽 沢庵漬の容器の話

2024年09月13日 | タクワン
戦後、樽を使っていた食品(醤油、酒等)がプラスチックの容器に変わると、桶樽の職人は仕事を変えねばなりませんでした。一部の高齢の職人は高度成長経済の中で人手不足の漬物業界で樽の修理をしつつ、生活していました。重石をのせるため、漬物に向くプラスチックの漬物用の樽は中々出来ませんでした。量が少なく、価格が高かったためです。静かに消えていったに日本の万能の容器・スギの木樽を考えて見る。
漬物と樽の歴史
普通、杉材の板を合わせて竹のタガ(輪)で締めたもので、正式名称を「結樽(ゆいだる)」といいます。15~16世紀に急速に普及した結桶・結樽は、その優れた特性から、産業や生活のさまざまな分野に取り入れられていきます。特に、醸造業や液体の輸送業(酒・醤油等)の分野でその有効性が発揮され、江戸時代の諸産業の発展の基盤を担っていました。樽は繰り返し何度も使え、資源を大切にするリサイクル容器だったわけで、不要になればバラすのも簡単で便利。空き樽も回収され流通していました。また、樽は適当に壊れ、樽製造の需用が創出され、スギの林業経営が成り立ちました。

桶と樽 : 脇役の日本史
小泉和子編
この本との出会いが自分の人生に変化がきました。
桶と樽の違いから、最初は九州大宰府付近の井戸の囲いのような底の無い木の筒のようで、井戸の中に土砂が入ることを防いでいたようです。遺跡発掘の年代調査で徐々に東進し、室町時代に九州から京都に着いたようです。
 タクワンの4種類の材料・資材が今の大阪府堺の地に集まったのです。
 瀬戸内の塩、干しダイコン、清酒醸造の過程で精米技術の発展があり、それに伴って米ぬかが余ってきた。そして杉の樽の発達。
 日本酒は樽が出来るまで壺や甕で醸造されていて、室町時代の物品税の酒壺税で、脱税するため、木の樽は夏場は解体して逃げていたようです。壺や甕より樽は軽く運搬にも容易でした。

結桶(結桶に蓋をつけたのが結樽)の歴史
 日本では11世紀後半の北部九州地域に発掘調査で井戸枠として作られた底のない結桶が出土してます。13世紀後半から14世紀になると瀬戸内以東の地域でも少しずつ出土例が確認できるようになります。絵巻物などの絵画資料や文献資料でも13世紀末から14世紀初頭にかけての時期から結桶の存在が確認できるようになります。15世紀から16世紀にかけての時期になると各地で結桶の出土が目立つようになります。結桶はゆっくりと各地に広がりました。
 15世紀以降結桶(結樽)が急速に普及してくる原因として結桶(結樽)製作技術の革新があったことが思われます。草戸千軒町遺跡で14世紀代に井戸枠として作られた桶の側板の側面に (やりがんな)と呼ばれる工具の痕跡が確認できます。やりがんな というのは、日本に古くからある大工道具で荒削りです。しかし15世紀の井戸材を観察すると、台鉋のような工具で一気に加工されていることが確認できます。台鉋は、製材用の縦挽鋸である大鋸などとともに室町時代に中国から渡来して日本に定着したといわれる工具ですが、 やりがんな に比べて正確で効率的な加工が可能になったと考えられます。隙間の出来ない木材加工が出来るようになりました。杉の木材の特性を生かした樽が誕生しました。壷や甕より軽く液体の漏れない容器が樽です。

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日本食文化の中のタクワン

2024年09月11日 | タクワン
沢庵漬とは、糠と大根を交互に漬けて重石をのせて発酵させた漬物です。塩や糠で漬けた大根の漬物は、奈良時代の漬物の製造法を記した『延喜式』(930年)には、須々保利(すずほり)という漬物が記録されています。これは、穀類や大豆を臼で挽いて、それに塩を加えて床を作り、カブや葉菜などを漬けたというものです。干した大根を塩と糠で重石を利用して漬けるタクワン漬は何時ごろどのような人に作られ名付けられたのか?
説1 沢庵禅師が明の国より寛永年間に伝え改良した。糠漬の方法は、古くから中国にあったもので、和尚は、学問をしているから、その方法をよく知っていた。
説2 貯え漬と呼ばれていたのが転じてタクワン漬となった。
説3 品川東海寺の沢庵和尚の墓石が漬物の重石の形に似ていて、その重石を用いて漬ける大根の糠漬を沢庵漬と名付けた。
説4 沢庵和尚が紫衣事件で出羽国上の山(今の山形県)へ配流されと時、和尚は、付近の農民とともに、その研究と工夫をしているうちに、だいこんを糠と塩でつける方法をあみ出し、「貯え漬」と名付けたという。

説5 関西・九州地方では、糠と塩で漬け込んだ物を全て、「じゃくあん」亦は「じゃかん」と言い、その「じゃく」は「潤う」「艶やか」などの意味で、「沢」の字を当て、あんは「庵(イオリ)」に貯えたことから来ました。この「沢」と「庵」を音読みして、沢庵(たくあん)になったと言う。
説6 日本食物史 樋口清之著より 鎌倉時代に大根を生干しにして塩漬にするのに糖や麹を加えると味を増すことを知った時代だった。
説7 司馬遼太郎のタクワン論 叡山の定心房がたくわんの始まり.元三大師(10世紀末)のころ
他に、まだまだ諸説あります。

現在の日本のタクワンの日本農林規格(JAS)の定義

沢庵漬
農産物ぬか漬け類のうち、干しあげ(天日干しで水分を除くこと。)又は塩押
し(塩漬けにより水分を除くこと。)により脱水した大根を漬けたものをいう。

 この定義は今の普通に販売されているタクワン漬の商品表示で、この基準によって、公正な競争が保たれている。しかし時代の変化と農業の状況から糠を使う本来のタクワン漬が減り、省力が出来る規格に徐々に変わりつつある。今の主流の製造方法は調味液で漬けるタクワンとなっている。

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タクワン 糠の歴史1

2024年09月11日 | タクワン
糠 普通は米の糠 小麦の糠はフスマ糠という
 糠とは玄米を精米した時に出る胚芽や種子の粉。
ビタミンB1、B2、ナイアシンなどが豊富に含まれており、食用や肥料 として利用されてきました。
糠の発生の歴史は大きく分けて①江戸時代以前、②江戸時代から昭和40年以前まで、③昭和40年以後現在まで
沢庵漬の糠(ぬか)江戸時代
戦国時代から江戸時代に変わるころ,用水土木技術が非常に発達し、新田開発の年貢が優遇されることによってますます土木工事が盛んになった。江戸時代の農業は、地域の資源を大事に集め、狭い地域で循環を完結させる農業だった。草を刈って畑にすき込んで肥料となし、人や牛馬の糞尿は堆肥にして畑にまく。林では小枝だけでなく落ち葉を集めて使う。室町時代には草地や林地は水田や畑の面積の2倍を占めていた.行過ぎた江戸時代の新田の開発は洪水の多発を招いた。1666年頃に「諸国山川掟」という法令が出来て、新田開発が環境破壊をもたらすので抑制された。この後すでにできていた田畑をていねいに耕作することによって収穫をふやそうという政策に変わった.この政策は日本の基本的農業政策となり昭和30年代半ばに米が恒常的に余るまで続けられた。
室町時代の水田の面積より江戸時代初めには1.5倍の面積になり,元禄時代には3倍になっていたといわれている.水田の面積の拡大と農業技術の発達と共に米の生産量が増え,江戸市中の武士や町民は精白米を常食するようにまでなった。
江戸時代の農民は慶安のお触書〔なかったと言う説もある〕に書いてあるように米はなかなか食べられなかった。したがって糠の発生量も少なかったとおもわれる。しかし,都市において米の価格が低下すると白米を常食するようになり、かなりの量の糠が発生した。江戸時代の都市において米糠の利用方法として,野菜の肥料、糠袋による入浴用洗剤、家の掃除、沢庵漬、糠味噌漬等に利用された。新河岸川の舟運の歴史を見ると、江戸からの下りの荷物に、糠、灰、塩等の荷物がある。
 糠を使用した大根の漬物は江戸時代以前から存在していたと思われるが広く江戸市民まで食するようになったのは米糠が大量、安価に手に入った江戸時代中期以後である。
 この文章が誤りであると判ったのはもう少しタクワン漬の歴史を調べた後で知った。なぜタクワンという名称が残っているか禅僧沢庵の歴史を知らないといけない。
2026年 寛永行幸400年祭が京都で行われる。その関係者の中で重要人物の一人として沢庵が人間関係の隠れた中心人物となっている。
  

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品川区立品川歴史館の5年ぶりの再開4月20日

2024年04月21日 | タクワン
品川区立品川歴史館が長期の閉館でなかなかタクワン漬の資料調査が出来なかった。品川区の歴史館の前の展示では品川宿のジオラマがあって、そこでは東海道53次の最初の宿場の様子が見えた。しかし沢庵和尚の東海寺の展示はなく、仕方なく閉鎖されていた図書室を開けてもらい書籍を読んだ記憶が残る。そこには予想外に鉄道関係の書籍が多く、ここは隠れた鉄道書籍の宝庫かもしれないと思い明治の鉄道寮の本を探したこともあった。今は福神漬の調査が終わりつつあって、これからキムチと梅干に向かうのだが、雨の日に家で整理している内に沢庵の歴史の見直しで品川歴史館の再開と図書室が閉室から開架の変わったか確認してみたい。
 前に訪問した時、品川区の学芸員は沢庵はタクワン漬の創製者ではないと言っていて安堵した思いがある。そのタクワンの名前の由来と、茶道の茶会記に残る記録の変遷をこれからの課題となる。茶会記の初めの頃の記録では茶事の後の記録で食事時の様子で香の物と記録があって、元禄頃の茶事の記録にタクワンと記録があるのを見た。
 土浦市立博物館は茶道具の専門学芸員がいて、茶会記の研究は誰がしているかを聞いたことがある。いずれにしてもどこかでタクワンという漬物と香の物と重なる時期がありそうだ。今の所その時期はコメが余ったころだと思う。コメが余り酒作りが盛んとなり精米とその精米技術の進歩で糠の発生が多くなり、糠の用途が肥料から他の用途の拡大に向かったと思われる。従って糠を使った食品の発生時期も調べる必要が出て来る。食品は毎日工夫があって完成品になるまで消えるものもおおい。この辺りの調査は関東より石川県・滋賀県辺りを調べる必要があるかもしれない。
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オ-ラミンの食中毒の記事(闇市時代のタクワンに使われていた)

2023年12月18日 | タクワン
図書館で戦後の新聞縮刷本を読んでいて、漬物が闇市時代に記事が目立つ。その中でオーラミンによる食中毒の記事があった。
 オーラミンという化学物質が食品に使われ、被害が出たのは戦後の事だった。戦前は黄色く着色するウコン・ターメリックは日本領土だった台湾・沖縄で生産されていて、戦後に日本の国では生産が無かった。戦後すぐは沖縄は米軍の管轄だった。
そこで黄色く着色する食品にオーラミンを使用したようだ。このオ-ラミンが漬物業界に印象が残っているのは、主婦連・日本生活協同組合が発足した年に一番力を入れたのが、漬物の沢庵にオーラミンの使用禁止運動だった。従って、主婦たちの運動の発展経緯を書いたものには必ず沢庵のオ-ラミン禁止運動が記述されている。
 なぜ戦後にオ-ラミンを沢庵に使用したのか、生協の記述がないので今では漬物の悪徳商人の印象だけが残る。
 漬物のタクワンは大根に含まれている辛味成分「4-メチルチオ-3-ブテニルイソチオシアネート」の働きによるものだといいます。大根 を塩漬して、貯蔵している内に白い大根が黄色く変色するのです。それはゆっくりで戦後の食料不足の時に、白い塩漬のダイコンでは食欲が出ないので、黄色く染めて販売したと思われる。関東と関西では食の色のこだわり異なり、オーラミンの問題が発生したのは多くは関西だったが、監督官庁が東京にあるため関東の漬物組合が対応していた記録がある。
 最も戦争前に陸軍に納入していた漬物業者がウコン粉でたくわんを最初に黄色く染めたようだった。練馬鷺ノ宮(株)ヤマシンの社史
 沢庵は白い大根が一律に黄色くなるのでなく、少しずつ黄色くなる。従ってタクワンを切って出すと、白いタクワン、変色途中のタクワン、黄色くなった沢庵、黒くなりつつあるタクワンとなる。
 軍隊では平等性が重んじられ、配膳する兵士のため、黄色くすることによって、配膳の不平等の問題が消える。黄色い沢庵の方がおいしく感じる。すると理不尽な上官による暴力が避けられることになる。
 この黄色くすることが全国に広まったが、戦後のウコン粉の不足で自然変色を待つしかなくなった。そこでダイコンと沢庵を区別するため化学染料を使ったようだ。ただのような漬物の歴史を語る人が無く、本の記述に残っていて、悪徳漬物業者の印象が消えない。

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金沢文庫駅に降りて

2022年12月15日 | タクワン
京急金沢文庫駅で降りて、金沢文庫へ行った。駅から15分程度の歩き。上り坂で稱名寺という寺の一部にある。寺付近の海抜は9M近いので結構登ったことになる。ここの訪問は二回目となるが前回の記憶が消えている。それでも一回目の訪問の動機は中の展示物の説明から記憶が戻ってきた。江戸時代の沢庵和尚が山形県に幕府のとがめで配流された。その後赦免されて江戸に滞在している時に、鎌倉の寺院を訪問した。戦国時代の後の訪問で寺院の保護者が無く、建長寺なども荒廃していたようだ。そこで沢庵は江戸幕府と対立するのでなく、幕府と協調するように変わった。京都大徳寺の所で共に禅を学んだ茶道千宗旦、幕府剣術指南の柳生宗矩らと交わり、宗教顧問、公家との交流に活躍した。そんな経歴がタクワン漬の名称の中に潜んでいる。従ってタクワン漬は沢庵和尚が創製したのでなく普及者ともいえる。名称の中に何らかの比喩が含まれている。どのような意味の比喩かまだ解明できないが文献で元禄時代の茶懐石の記録から、香の物という言葉に混ざってタクワンという表記が出てくる。普通名詞化されたのだろう。
 沢庵和尚が鎌倉に旅行した時、金沢文庫も訪問した様だ。ここには中国にも無くなった仏教書が保存されている。文庫というのは図書館ということであった。
 金沢文庫のある稱名寺庭園は何か平泉の毛越寺の浄土庭園の小型と思った。毛越寺 庭園は再現できていないが、稱名寺庭園の中之島に架かる橋が再現され当時の面影を記憶に残す。 

 稱名寺境内の右隅に場違いな巨大な忠魂碑がある。説明版もなく、台座の文字も植木で隠され解読できず。家に帰って調べると(忠魂碑 陸軍大將 本庄繁書 )昭和の初めに明治から満州事変までの地元の戦死者への慰霊碑のようだ。
 寺院の境内の碑は碑を設立したその時代の雰囲気を著わしていると感じる。

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練馬区の独立記念日

2022年10月01日 | タクワン
練馬区は、昭和22年8月1日に板橋区から分離独立し、23番目の特別区として誕生しました。独立記念日です。
 漬物用・タクワン大根を調べてゆくと練馬区にとって重要な大根ということがわかります。

板橋区史  資料編5 民俗 
板橋区史編さん調査会 編集者 1997 平成9年3月出版
板橋の志村の百姓みの早生大根を調べていて、板橋区史を借り出して読むと、奇妙な記述に気が付いた。どうやら板橋の住民にとって、中仙道の方が気になっていて、もう平成の時代の記憶では大根は付け足しのように思える。練馬区は川越街道添いに住民が増え、昭和の初めに板橋区が東京市の区として発足したが当時は面積が広すぎていて、いずれ住民が増えると分区の口約束でスタ-トした。今でも東京の交通は都心に向かう便が都合がよいが、横に繋がる交通網が整備されていない。今でも人の少ない地域では交通は頻度も少なく、区の役所へ行くことは不満があった。練馬の人たちは板橋区の役所に行くには一度西武線に乗って池袋に出て東武線に乗り換え板橋区役所の方に行った方が早か
った。
 練馬地域の分離独立運動は敗戦後ようやく23区となり、区の独立記念日となって、その記念碑もあるようだ。当時は練馬の名前の由来が練馬大根から来ていることを認めたくなかったようで、タクワン漬の文献を見ていると練馬農業協同組合史の中で練馬大根から練馬区の区名に繋がったとあったが、正史では馬の訓練とかの記述があって、どうも練馬大根が由来としたくなかったようだ。練馬の地域が都市化され、農地が減って、地域の見直しがあって、今は練馬大根の栽培を区として盛り上げている。石神井公園の側にある郷土資料館はほぼ練馬沢庵の展示が半分くらい占めている。
 練馬は板橋と沢庵で張り合っていることを感じる。それゆえ板橋志村のみの早生大根は忘れ去れている。板橋中央図書館の郷土資料の中の(志村郷土誌)にみの早生大根の記録がありそうで読みに行きたい。
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板橋区郷土資料館へ行く みの早生大根の資料を求めて

2022年09月29日 | タクワン
ネットで調べて、都営三田線新高島平駅で降りて、案内板に従い板橋区美術館・郷土資料館へ行く。また後で気が付いたのだがネット情報は誤誘導でで、三田線の終点である西高島平駅の方が比較的わかりやすい。地図上では新高島平駅が最寄りだが高速道路と赤塚へ抜ける道が大回りをさせる。急がない散策でアップダウンの道を行き、練馬区美術館前をチラッと見て、国際興行のバス停で時刻表を見て、東武成増駅行きを確認したが30分に一回ほどのバス便で乘ることをあきらめた。成増駅は55年ほど前に米軍の基地(ワシントン・ハイツ)の中の学校を見学したことがあった。教室内に米国国旗があって違和感が今でも記憶に残る。どうやら世界でも教室に国旗があるのは米国だけのようだ。ニュ-ヨ-クへ行った時も町中に国旗があるのは米国人には違和感がないのだろう。日本では旗日以外は町中で国旗が見えない。
 板橋美術館を通り過ぎ、公園内では保育園児がいるだけで保母さんが安全確認をしている。すぐそばに池があって高齢者の男性が数名いて日よけの下で釣りをしていた。釣果を見ると目の下50センチを超えるフナかコイのようだ。池の隣に郷土資料館があってやはり30年近く前に訪問した時にあった大きな木樽が見当たらなかった。
 郷土資料館は無料で見学すると、やはり古代からの板橋区の土地の様子が展示してあった。チョット区の名前に疑問があったのだ。板橋という地名の電車の駅が多数ある。電車では上板橋・中板橋・下板橋・新板橋・本板橋・元板橋・板橋区役所前等の駅名がすぐに出る。バス停を入れればもっと多いかもしれない。板橋区民は位置関係を間違えないのだろうか。板橋は郷土資料館の解説では板の橋とあって普通の解釈と思っていたが古代のイタは崖地を意味していて、崖の端という意味もあるようだ。従って板橋区は崖の上の地域と氾濫する川の低地の混在する地域だった。そこで江戸市民の野菜等を供給する土物野菜が発達した。大根やニンジンの栽培が目立っていたようだ。特に大根は日本で発達し、今でも生産量が多いが米の消費量が減リ、タクワン漬等の漬物需要が減ってさらに農家の高齢化から重量のある大根の作付けが減った。そこで漬物業者が中国から生大根を安価に輸入し加工したためさらに大根栽培が減った。
 2001年の板橋区郷土資料館の本を500円で買い求め、みの早生大根の展示がないのを質問したら、学芸員が出てきて、板橋区史 資料編5巻民俗98ぺ-ジに記事があった。天保年間に志村の百姓巳之助が栽培した『みの早生大根』は肉質に水分が多く味も良く、耐暑性のある大根として知られた。お盆8月15日頃に種をまき、10月になると収穫が出来た。これが明治に入って旧暦が新暦に変わって、べったら市用大根として見直された。大根の収穫時期は板橋・練馬の農家の人たちは寝る間を惜しんで、生大根を収穫後、夜の気温の低いうちに大八車に積んで、巣鴨や神田の市場に早朝に届け、セリ後の金を得るまで寝ていて、帰りに肥料となる下肥を板橋まで積んで帰ったようだ。
 早生の大根が終わると漬物にも転用できる大根が始まり、農家で漬け込み作業が始まる。もうこの風景は文献にしか残っていない。
 板橋・練馬地域が鉄道網の整備で住宅街となり農家が減ってしまった。
 今の若い人は戦後の住宅難で板橋の人口が増え、練馬区が誕生したことを知らないようだ。板橋練馬は蔬菜の生産地であった。
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板橋区の図書館でみの早生大根を調べる

2022年09月27日 | タクワン
暑さに強く太りが早い美濃早生大根(黒葉系)
みのわせだいこん(くろはけい)
Early Minowase Daikon / アブラナ科 Raphanus sativus

江戸時代末期に、「練馬大根と亀戸大根が自然交雑して生まれたらしい」というのが定説になっている。
 種子の業者で美濃早生大根と書いてあった記憶があって、愛知県でも大根の産地があったので、気になっていた。御器所大根(ごきそだいこん)は宮重大根系で漬物用。 
 漬物業者の中でも東京以外の人は美濃早生大根として、愛知県産と思っている人が大部分である。しかし自分はべったら市の歴史を調べてゆくうちに板橋の百姓みの吉が栽培の由来であることを知っていた。そこで板橋の中央図書館へ確認のため訪問した。

特別展 江戸・東京の四季菜 -商品作物・漬物の生産と板橋- 板橋区立郷土資料館編集
 図書館のリファレンス(調べごとの手助けをしてくれる人)に板橋の江戸時代から明治にかけてみの早生大根のことを調べたいので本を見つけてほしいと頼んだがすぐには出てこず、結局板橋農業組合20年史という本を探してもらい本棚へ行ったら、上記の板橋の郷土資料館の本にみの早生大根の記事があった。月曜日は郷土資料館が休みなので次回にすることにした。練馬区が板橋区と分裂し、23区目となった。練馬の区名は練馬大根から来ていて、今は大根で郷土の歴史を小学生に教えているが板橋区はそこまで行っていないようだ。その理由として中仙道の存在がある。

みのもん 題 
この大根が明治に入って普及したのがべったら市が旧暦から太陽暦になって市の開催日が一ケ月(10月19日20日)ほど繰り上がり、練馬系の大根の育ちが気温が高く、市の開催に間に合わないため、夏ダイコン系の品種が要望されていた。戦後は日本の水田には向かない高原で中国から引き揚げてきた人たち(満蒙開拓団)に蔬菜栽培が始まり、大根を加工したサッカリン入りの浅漬沢庵が売れた。サッカリンは甘すぎて苦みが残り、次第にサイクラミン酸に切り替わった。
今はサイクラミン酸という人工甘味料がガンの発生に関わると言って1970年頃規制が入り、消えてしまった。
 サイクラミン酸とは、砂糖の30~50倍ほどの甘さの人工甘味料で、日本では1956年に食品添加物に指定されました。漬物ではタクワンと奈良漬が主な製品で使用されていた。
サイクラミン酸は砂糖より安価で加工もしやすいためジュースやお菓子などさまざまな商品に使用されるようになりましたが、1969年にFDA(アメリカ食品医薬品局)により発ガン性や催奇形性の疑いを指摘されたため、日本では使用が禁止されました。
 現在でも日本での使用は禁止されていますが、使用が許可されている国もあり、輸入された食品に使用されている可能性があります。 

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水上勉著 沢庵

2022年01月21日 | タクワン
色々な沢庵和尚の本を読んだが、なかなか沢庵漬の命名と関係ありそうな本は見つからなかった。ただ水上勉著『沢庵』は時代背景を小説のように書かれていて一番理解しやすかった。その冒頭で『沢庵の生涯をたどることは、禅と権力の関係を学ぶことだ。』という書き出しから始まる。沢庵の出身の兵庫県出石は小さな町だった。6年間僧籍にあった水上勉氏の禅の理解は他の沢庵本を超える。さらに沢庵の出身の地域と近かった。
 沢庵が生まれた天正元年は足利の最後の将軍が京都を追放され、織田信長が京都に入った時期だった。天正5年には羽柴秀吉が信長の命を受けて中国攻めに入り、秀吉配下の武将によって一夜で播磨の但馬出石城を攻め落とした。沢庵の父は敗者の武士だったためみじめな生活となり、僧侶となった。いや僧侶となるしかなかった。京に近かったため、寺院の情報が多く、沢庵の賢さが大徳寺への道を開いた。しかし沢庵は政治に関与していた禅から離れていたため、寺院での大寺院でも生活は苦しく、筆耕で糊口を満たしていた。衣服も少なく、夏は裸で過ごし、客が来た時に羽織っていたという逸話もあった。
 そのような沢庵が漬物の沢庵漬の名称となったか仕事をしていて気になっていた。多くの逸話もどきは詳しく調べると根拠なき風説、作り話であった。

 冷静に調べると沢庵和尚は沢庵漬を創ったと思えない。彼は廃棄する野菜等を利用して保存食を創っていた。塩は貴重品で、大根を採れ過ぎた時、干して保存性を高めていた。また酒作りで精米の余りの米ぬかで、空気を遮断することで発酵を制御し、酒樽の空いたのに漬けた。そして重石をかけた。茶会記を読むと、茶会で酒を飲む。禅宗なのに茶席では酒は許されていると感じる。沢庵がいた泉州堺の町は大坂の戦争で火災になった。彼が禅宗から権力に近づいた理由かもしれない。奈良平安の時代と違って権力に近づかないと復興は難しいと見ていたのだろうか。
 品川東海寺の沢庵の墓は細長い大きな石があるだけで、名前も彫られていない。山手線で大崎の手前で、電車内から眼下に沢庵の墓石を見ることが出来る。
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沢庵漬の文献記録の出現

2021年12月11日 | タクワン
平野 雅章(ひらの まさあき)による沢庵漬の命名根拠は元禄11年(1698年)刊行の国語辞書『食言字考節用集』辺りからようだ。
 平野氏の意訳で(沢庵漬・沢庵は但馬の人。大徳寺の住職。江戸品川の東海寺の開基。正保2年(1645)12月死去。墓標は一個の丸石のみ。思案するに沢庵漬の重石がこれに似ているから名称がついたか

次に平野氏の気になる文献として『料理私考集』(正徳元年・1711年)
『大根貯わい漬。大根100本。大きさの揃ったものを、青い部分・細い所を切り20日ばかり軒に吊るし、霜や雨が掛からないようにし、しなびた時、米ぬか5升、次にこうじ2升、塩2升5合。大根を並べ、糠・麴・塩を振り、漬ける。重石で蓋の上に置き、漬ける。
 平野氏の文献捜索で、従来は二日ほどしか乾燥させず、浅漬の大根だったようだ。

 平野氏が見落としているのがなぜ元禄期から沢庵漬の名称が出てくるかという問題に迫っていない。食品は日々工夫され変化してゆく。その時々に名称が生まれ消えてゆく。そして世間一般に納得された名称が今に残ってゆく。

『食言字考節用集』の沢庵は但馬の人。大徳寺の住職。江戸品川の東海寺の開基という記述は次の様に考えることができないのだろうか。
但馬の人 とは沢庵が生まれた地域は明智光秀の領地であった。沢庵は出家し、京都大徳寺に入ることとなった。ほぼ同時期に大徳寺に柳生宗矩(幕府剣術指南)と千宗旦(茶道)が修行していた。品川東海寺は三代将軍家光に頼まれて設立した寺院で、しばしば将軍家光が東海寺で会合を開き、沢庵の作った漬物を食していた。

 この食品の命名には、幕府上層部の会合の秘密情報収集を比喩していると感じる。江戸時代の初めはまだ白米常食とならず、江戸や大阪でビタミンB1の欠乏で脚気が流行った。この病気の原因が判明したのは明治末期で、本当に日本で脚気が消えたのは先の戦争でコメ不足から、洗米できず、糠からビタミンB1の流出が消え、脚気も消えた。戦後もしばしば脚気が流行する。
 漬物タクワン漬にはビタミンB1が糠より移転するが、少量で脚気を直すことはない。白米を常食とする江戸在住の武士たちの体がビタミンB1を要求するのでタクワン漬をおいしいと感じていたようだ。
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本の断捨離で

2021年12月10日 | タクワン
身辺整理で蔵書の断捨離を始めた。何気なく買い集めた積読本を捨てるために読む。
 沢庵漬の事はかなり前に調べていて、文献の出どころが解からなかった。そのうちべったら漬などの資料調査に向かって、ブックオフで購入した積読本(江戸・食の履歴書 平野雅章著)に沢庵漬の項目があって、ようやく根拠のある資料と確信した。
 平野 雅章(ひらの まさあき、1931年1月15日 - 2008年11月22日)は、日本の食物史家。 
品川区の歴史資料館は沢庵和尚の最後の居住地の東海寺の区にある。従って沢庵和尚に関しての資料は比較的そろっている。しかし品川区の学芸員と私の見解は一致していて、沢庵漬は世間一般に伝わる沢庵和尚の創製説ではない。東海寺では今でもこの漬物を(貯え漬)と言っているようだ。
 これから本の数を減らしつつ、調べるにはどこかの図書館を利用したほうが効率がよいのだが多くの食物系蔵書のある女子大系は外部の人には利用しにくく、すると都内には企業系図書館は2か所しかない。一つは大江戸線東新宿駅付近の日清食品の食の図書館 だが、会社の上層階にある。蔵書は8000冊。
 利用しやすく蔵書(2万冊以上・登録による貸し出しもある)が多いのは都営浅草線高輪台駅付近の味の素食の文化センタ-となる。そこで平野 雅章と入力すると蔵書が68件ヒットし、この中から沢庵漬の文献探しを始めれば効率が良い事となる。
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エアコンのない昭和のくらし博物館へ

2021年08月01日 | タクワン
 真夏のク-ラ-もない昭和のくらし博物館へ行きました。コロナの自粛もあって一人も訪問者がいませんでした。もちろん戦後の文化住宅で館長の小泉和子さんの旧自宅が博物館となっています。今ここはアニメの舞台となった昭和20年前後の日本の暮らしを展示しています。当然この博物館はエアコンのない時代です。一番最適な訪問時期は秋冬春の時期かもしれません。多くの訪問者は隠れ家のような博物館で、東急多摩川線下丸子駅から行く方が早いようですが、何回行っても迷います。
鵜の木いまいずみ保育園の自転車駐輪場のところまで行くと50Mの距離となります。
桶と樽 -脇役の日本史-小泉 和子編
この本からタクワン漬に道具や容器としての日本の樽の発達史が学べます。最初に大陸から九州に技術が伝わり、井戸が土砂で埋まることを防ぐ用途があったようです。このことから遺跡発掘で年代が測定され、草戸百軒遺跡とかの跡をたどると京都に技術が届いたのは戦国時代のようです。ここでまた大陸から台カンナが伝わり、水が漏れない樽というよう気が出来たようです。この樽の廃棄する樽をタクワン漬に使ったようです。腐敗を防ぐためには重石をかける必要があったのです。甕やツボは重石をかけると容器が割れてしまうのです。

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どうして茶道の歴史知識がタクワンの名前の由来に繋がるか

2021年01月13日 | タクワン
土浦博物館でのタクワンの歴史を知るには茶道の歴史を知ることの話。
 漬物の文献はあまりないし、あっても少ない。図書館にある農業系の学者の漬物の歴史の根拠は税金関係の文献からの引用が多く、あとは贈答品の記録から書かれている。売買の記録は神社の縁日のようなものを引用している。
 そこで文学等から言葉を見つけるのだが現物の漬物が残っていることでないので同定することは難しい。タクワン漬に関してJAS規格のような定義が江戸時代以前にあったのでないのでタクワンと文献にあっても違う可能性もある。
 戦国時代末期に大坂-堺付近の豪商あたりからタクワン漬が始まったと思われる。タクワン漬の成り立ちには4種類のものが同時期に揃わないといけない。
1 干し大根 雨が少ない時期に大根が採れ、干すことによって保存性が高くなる。さらに塩の使用量が減る効果がある。
2 塩 瀬戸内の塩が手に入れやすい。塩は食料と保存に使われるが漬物のように野菜の水分を出す目的の使用は塩が余った時しか使えない。つまり大量の塩が手に入る所 泉州堺は貿易港であった。今は大和川の変遷で港が土砂で埋まり、面影が無い。
3 米糠が多く産出する。戦国時代までコメの保存はモミの状態で保管され、食するとき、搗いてもみ殻を取り除く。ルイスフロイスの京都の文献でこの様な記述がある。この様な精米方法では大量の米ぬかが出ず、出ても食の増量として食べていたようだ。江戸料理事典を著した松下幸子と言う人の本では今の糠味噌漬のような漬物は江戸時代も後半だという。米ぬかが余らないといけないし、肥料用の米ぬか使用の方が圧倒的に多い。愛知県半田市は昔尾州海運の拠点で運搬している物資の中に尾張糠と言うのがあった。半田市は今はミツカン酢の発祥地で酒粕から酢を作っていた。この時発生する大量の米ぬかが輸送の記録となる。堺の豪商なら運ばれた酒の容器の再利用を考えることもあったと思われる。昔はモノを捨てなかった。

4 押しても壊れない容器の樽が必要となる。樽の製造には隙間の出ないように板を加工する台カンナが必要になる。長方形の鉋(台鉋) は室町時代から戦国時代に日本に伝わる。タクワン漬には押しが必要でカメでは重石で圧力をかけると割れてしまう。
 水分の漏れない容器(樽)ができ、酒作りが盛んとなる。以前は酒はカメ・壺で作られていて、室町幕府から壺税を取られていた。地面に半分埋め温度変化の少なくして発酵を制御していた。しかし壺税を確認する役人が来るとごまかせない。樽なら夏場などの酒作りに適さない時期に壊してしまっておくことが出来るし、馬などを利用して運搬するにも重くなく適していた。
 また日本の鉋は、海外の鉋の多くが押して使うのに対し、引いて使うことでも知られています。多門院日記で女性が樽の中に落ちて死去した記録がある。大きくなった樽は今でも各地の郷土資料博物館で見ることが出来る。そして古くなった樽は漬物業者の原料漬け込み用の樽となる。多分醸造に適さない菌が付着し廃棄して流通したと思われる。
 この4種類の物が揃った時代が堺の最盛期の時だった。奈良で興福寺の末寺で菩提泉と言う清酒が出来た・それまではどぶろくのような濁り酒だった。漬物で奈良漬という商品はこの奈良の酒の粕で作られたから来ている。
 ダジャレで かすが 粕が 春日 となる。ついでに正宗と言う酒のブランドは清酒・正宗.セイシュウとなる。このダジャレブランドが明治になって商標登録の問題があって、今の桜正宗の会社が正宗を登録しようととしたところ、普通名詞扱いされ、やむなく桜をつけ加え 桜正宗となったようだ。同様の問題も正宗を使うブランドで生じていたようだ。酒をおいしくするには米を研ぐ必要がある。この精米技術が進歩していたのが上方だった。そしてコメ余りにならないと糠の発生も少ない。すると江戸時代以前にはタクワンと同じようなものは考えにくい。そこでタクワンと名前がついたのだがこの名前の出所を調べるには茶道を知る方が一番説明しやすい。ただ茶会記が多数あって、全部の考証するには時間が足りない。おおよその調べでは元禄時代からタクワンと記事が出てくるようだ。その前は(香の物)と書かれていることが多い。漬物と言うのもある。
 土浦博物館学芸員の著書を読んでいて、名物の名前の付け方に何か寓意のようなものを入れ、その寓意を読み解く文をつける様だ。その謎解きあそびが茶事・茶会の中にあるようで主人の意図をどう解釈するかのあそびのように思える。同じ器でも心の中では色々な解釈が生じる。
 タクワンはこの様に考える時代考証も必要かもしれない。そこで資料の多さから茶会記からタクワンの命名時期を探ることを断念した。


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