年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

言刃・ことば

2024年10月06日 | 福神漬
 福神漬の材料でナタマメがある。漢字にすると鉈豆/刀豆と書く。

学校でのいじめが原因とみられる自殺に「ことば」が絡まないことは、まずなかろう。「命」の文字は「令」と「口」の組み合わせで、「令」はひざまずく人を表し、「口」は神にささげる文、祝詞を入れる器だという。いま、その器にどんな言葉を注げばいいのだろう。
 明治文学を研究していた前田愛先生の著作を読んでいて、妙に納得したのが婦女子の識字率が江戸時代の日本で高かった。明治の10年代に少年向けの読者による投書雑誌があった。『穎才新誌』は、明治10年に陽其二が発行した日本初の活版印刷による子ども向けの投書雑誌で,性別は明示されていないが明らかに少女の投書があって、見事な論説でさらに今から思うと明治漢文の素養が現れている。この穎才新誌の内容を分析している学者によると、徐々に女性の投書が明治10年から徐々に少なくなっているという。明治の初めは文明開化で開放の時代と立身出世の時代だった。制度が固まるにつれて、女性は家に縛られる様子が見える。その原因は女性が働いて金銭を売る仕事が今の仕事の分類では風俗系と髪結いの仕事しかないように見える。
 武士の時代が終わると、武士の象徴の刀の意味が変わってくる。そこに懐旧の情から刀という象徴に意味が加わる。福神漬の命名時期は一応明治18年説があるが根拠となる文献はまだ見つからない。しかし明治18年以前には福神漬という漬物が出てこない。
 福神漬の材料でナタマメ・刃豆は重要な材料で低価格品の福神漬には刀豆の割合が少ないか全く入っていない福神漬もある。日本農林規格JAS法の福神漬の材料として7種以上の野菜となっていて、ダイコンが殆どの漬物に福神漬という表示は好ましくない。
 でも味を求めない客が多いカレ―ショップには低価格のカレ―ライスにはタダで付けられる福神漬に上品質の福神漬は出せない。人工着色し、サッカリンで甘味を出し、大量生産となる。
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南千住の回向院

2024年09月23日 | 福神漬
荒川区中央図書館郷土資料の所で、南千住の回向院の本を読んでいた。
 この寺院は検索すると普通は上位に出て来る回向院は両国にあるところが出る。この両国回向院は10万人の死者を出した振袖火事という名で知られている明暦の大火の犠牲者を埋葬する地となり、後に江戸市中の無縁の人を埋葬する地となり、両国周辺がにぎわったという。南千住の回向院は過去は両国の回向院の別院だったが慶安4年小塚原刑場での刑死者を供養するための寺院となった。1771年に蘭学者たちが刑死者の人体解剖に立ちあった記念碑がある。近代医学の始まり。

 嘉永3年10月末に逃亡者高野長英が南町奉行配下の与力たちによって、捕縛時に急死した。撲殺と思われるが記録上では逮捕時に抵抗し、自死となってい記録の一部が不明で、多分と思って南千住の回向院に記録があると思うがネットでは20万人という。そこで下記の本を読んだ。
小塚原刑場史  -その成立から刑場大供養まで 著者名 黄木 土也
 この本のあとがきで、江戸時代でも死刑判決はか出しにくい判決で、流罪とする幕府上層部の人がいたようだ。今の時代でも在任中の死刑執行を決断する法務大臣が少ないと感じる。そうなると上川氏はすごい人でもある。オウムの死刑囚の執行を決断した。
 徳川家斉の時代で死刑が300名牢内死が1000名以上、行き倒れ人が1000人以上といおう記録がある。つまり南千住の回向院の20万人の刑死者の割合は意外と少ない気がする。もしかすると所在不明の長英逃亡を助けた松下家の3人の行方が判るかもしれない。
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明治憲法発布までは国家儀礼の場は上野であった

2024年09月18日 | 福神漬
公園の誕生 小野良平著
上野公園の歴史を調べていて、明治の憲法発布までは上野の地が公園から博覧会等の国家行事のハレの場所であった。明治憲法発布後は宮城前広場が整備され、日比谷公園・鹿鳴館等が出来て、国家行事の場が上野から移っていった。明治国家は旧幕府の亡霊が上野から復活することは無いと思い始めたようだ。この頃だと思うが天保の老人という言葉が出てきたと思われる。
 上野は幕府の公認の行楽地で、心情的に旧幕府に恩顧がある人が下谷周辺では多数を占めていた。さらに維新後の諸外国との交易では恩恵が少ないし、さらに新しい物から仕事を奪われることにもなっていた。
 今の浅草での人力車の流行が明治の時に江戸時代の駕籠という人を乗せ運ぶ仕事を一掃した。明治に入って人力車の発明があって許可が下りたのが明治3年からで、普及に従い江戸時代の乗り物の辻駕籠が消えた。人力車稼業は失業した旧幕臣の奉公人等が従事した下層民の仕事となった。下層民の仕事は流しのタクシ―の様で貧民の仕事であって、明治東京の三大貧民窟の下谷万年町は今の東上野付近にあった。浅草近辺では地下鉄銀座線の車庫の付近にあった。欧米では馬が車を引くが日本は人が車を引くと言われた。
 上野の公園が出来て、江戸時代からの行楽地として復活してきた。その時の博覧会に出品されていた缶詰を見て、酒悦主人が漬物を缶詰に入れ、持ち帰る食品としたようだ。そこに工夫があって、当時は醤油は贅沢品で漬物には醤油を使うのは無かったようだ。缶に入れ醤油で漬け、さらに味りんで甘味を付けて売り出したが、高価となって売れ行きは良くなかったと思われる。

 彰義隊の戦争から上野の戦後復活の過程がどうなっていたのだろうか。文献探しの日になりそう。河鍋暁斎の改名の騒動となった、明治3年の不忍池の料亭での書画会はどんな雰囲気だったのだろうか。何か梅亭金駕の捏造文章のような気がする。
 福神漬の周囲には多くの比喩が隠れていて、時間が経って記憶の検証から忘れ去られている感がある。
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フィラデルフィア万博 /米国建国100年祭

2024年08月14日 | 福神漬
石井研堂の明治事物起源 缶詰の始まり に次のような文章がある。
明治8年1875年米国費府(フィラデルフィア)に、大博覧会あり、事務官関沢明清出張し、閣竜(コロンビア)州において、缶詰法を学べり。本邦すでに缶詰法行われたれど、その排気法等なほ不十分にて、久しき貯蔵に堪えざりしによる。
関沢明清
フィラデルフィア万国博覧会に参加。欧米の進んだ水産技術に衝撃を受け、日本にとっても水産業振興策は重要施策と考え、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人工ふ化、缶詰製造法を習得し、日本に導入した。
日暮里諏訪台の浄光寺にある、福神漬顕彰碑の揮毫者は大日本水産会の村田保。関沢明清と共に水産伝習所(今の東京海洋大学の前身)の充実に力を入れました。福神漬缶詰は普通は農業と関連があると思われますが缶詰の事業には水産系が輸出産業として必要だったのです。水産業は季節によって漁獲できず、缶詰工場の稼働率が維持できないことがあります。その点漬物の福神漬は軍の需要のため安定していました。ロシアとの戦争後に軍用の福神漬缶詰が激安で払い下げられ缶詰が日本人に副食として普及していきます。
 フィラデルフィア万国博覧会はアメリカ独立戦争開始百周年記念の博覧会で、アメリカ独立は翌年の1776年の事でした。フランスのナポレオンの長期に食料が保存でき、持ち運びできる食品の懸賞が缶詰の始まりで、そこからドイツ・イギリス・アメリカで缶詰が普及改良されていきました。
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天草騒動・軍記物

2024年08月11日 | 福神漬
都立中央図書館で天草騒動の本を読みに行く。
明治事物起源 石井研堂著の缶詰のはじまりの文章が島原の乱から言及していて、その文章の違和感があった。

 明治7年,前記米人の缶詰法によりて、この紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源なれ。同年三井物産会社より、下谷池之端某店に託し、紋別漬200個を布哇(ハワイ)及び米国に輸出したるをもって、缶詰輸出の初めとす。

 この文章は多くの誤りと疑念点があって、日本缶詰協会の歴史ではコラム扱いとなっていて、引用される郷土史は少ない。それでも魚類缶詰の生産の多い、銚子市史はこの文献が引用されている。

 千葉行徳の山田箕之助の先祖が家記によって、島原の乱に参加した、北条阿波守で軍中の副食物の乏しきより、小握り飯には一切黄な粉塩を用い、後品切れにて胡麻塩に改めるも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かに切りて味噌溜まり漬けて、溜漬と称し、軍用に供した。

 島原の乱の文献を調べてゆくと、北条阿波守と言う文献が10年前には見当たらなかった。コロナ明けで再度文献をネットで調べると、軍記物の天草騒動というのが見つかり、内容を読むと架空の人物の可能性がある。ドラマは実在の人物に架空の人物を入れ、物語を膨らます。石井研堂の缶詰の始まりは、北条阿波守の引用も歴史を盛り上げるために入れた気がする。
 紋別漬の件で北海道紋別市の歴史資料館へ問い合わせたところ、紋別という地名は北海道ではアイヌ語で何か所かあるという。そこで近藤重蔵の紋別漬では紋別市と関係ないという。
 また三井物産がハワイに溜漬の缶詰を輸出したという文が誤りで、三井広報委員会によって、旧三井物産は明治9年1876年7月に発足した。従って漬物缶詰の明治7年の輸出はあり得ない。ちなみに今の三井物産は旧三井物産と異なるという。同様な事例は国分で今の上場会社国分は戦前の国分と異なり、戦後の進駐軍によって、日本橋本社が占拠されていて、止む得ず国分漬物株式会社を作って、日本橋の地を守った。GHQの占領が終わると、国分漬物株式会社が国分株式会社となり今に至る。そのため福神漬ブランドの日本橋漬はご当地漬物として、国分のブランドの中で重要視されている。なお福神漬の登録商標として一番古いブランドは国分の日本橋漬である。酒悦の福神漬の商標登録は遅れていて、それも酒悦の福神漬と登録されている。今は福神漬は普通名詞となっていて、法律用語となっている。
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7月29日 しちふく 福神漬の日

2024年07月30日 | 福神漬
数年前に日本での福神漬最大出荷数の製造者 新進が申請し、7月29日が福神漬の日となった。このことはカレ―ライスの夏場需要に合わせて制定された経緯がある。
 福神漬の命名由来には七種類の野菜とあって、一番最初の時は3種類から始まり、上野・谷中界隈の七福神巡りから、七種類の野菜となり、福神漬となった。ここの野菜の内容は時代によって異なり、今では貴重なマツタケも入っていた時代があった。特にその中でナタマメという野菜は、これが入っていない福神漬は偽物と見なしても適切である。
 ナタマメは江戸時代初めに中国から日本に来た野菜である。見た目は野菜とは思えない。一応薬用の用途で入ったのだが今でもその効用ははっきりしない。牧野博士の薬用植物で効能が書かれているが、漢方薬として使われている様子が見えない。何か口臭予防の効能をうたっているものがあって、使って見たが値段の割に口臭が消えた感が無く、二度と買わなかった。でも今でも口臭予防の効能を出している歯磨きがある。
 さて福神漬には公式と言うべき、国の定義がある。日本農林規格 JASで今のネット検索で出て来る規格は二回目の規格改定時である。
 ふくじん漬け 農産物しょうゆ漬け類のうち、だいこん、なす、うり、きゅうり、しょうが、 なたまめ、れんこん、しそ、たけのこ、しいたけ若しくはとうがらしを細刻し たもの又はしその実若しくはごまのうち5種類以上の原材料を主原料とし漬け たものをいう。

 ふくじん漬けは大分類上では農産物しょうゆ漬け類に含まれ、特に生産量が多いためと、中に入る野菜の規格がまちまちだったため、特に制定され、関東の業者の意向が反映されていた。しかし時代の変化で野菜の生産量の変化で、改定時に最初に材料として含まれなかった、キュウリが入ってしまった。これは江戸時代に徳川の家紋に似ているキュウリの切り口が嫌われていて、下品の野菜と嫌われていて、幕府の初物規制を逃れ、幕末には多く品種改良と栽培普及があった。しかし福神漬の由来から、徳川幕府の上野寛永寺絡みで、酒悦の福神漬にはキュウリは入っていないし、関東の福神漬生産者はこの故事を知っていて、普通はキュウリを入れない。今の表示規定で量の多い上位の数種の野菜なので、キュウリを表示しているのが少なくなった感がある。やはりカレ―ライスの付け合わせで、刀豆ほど目立たない。
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hint-potの福神漬

2024年07月24日 | 福神漬
グ-グルアラ-トに福神漬を登録した。するとメ―ルが来てhint-potの情報で神田のカレ-店巡りの異国人が何か気になるものがあるという。その記事は福神漬と言うことで、ライタ―さんが短くまとめたものだった。多くのカレ―本に福神漬が書かれている。しかしあくまでもカレ―の記事が主体であるために、本格的に踏み込めない。調べると調べるほどその事実関係の背景確認が必要となる。一番基本の文献は池之端の酒悦さんのHPだがこれにも検証できない事実があって、書くことのが出来ない部分がある。しかし検証できないからと言って、記事にしないと読者が納得できないと思うだろう。多くの読者は漬物のような食は事実関係の検証まで要求していないので今までの通説で、最後に一言加えて逃れる。その言葉は 諸説ありますが 。この言葉が乱発しているテレビ番組がある。NHKのチコちゃんに叱られる という言い訳過多の放送である。多くの食の世界で検証できるものが少ない。特に年代は味や意匠等の変化、改良が激しく、日々変わってそこ。そこでブランド名を変えて行くときもある。この時は記録があって検証しやすい。酒悦の福神漬でも多くの食の辞典で明治18年創製説が出ている。しかしこの原本と言うべき出典がまだ見つからない。言い伝えでは明治10年頃から上野の地が公園化し、徐々に行楽客が増えてきて、商材の工夫で生き残った酒悦主人が香煎茶屋から他の商材開発をしていたという。香煎とは茶懐石の飲み物で、この商材をひと工夫し、高級感のある漬物を提供していった様子が見える。最初は3種類の野菜から始まって行った。所が持ち帰りを要求されても当時の液体の洩れない容器は樽か陶器しかなく、重くて不便だった。
 そこで上野公園で開催されていた水産博覧会に出品されていた缶詰を見て、漬物を缶詰に入れることを思いついたようだ。ここから池之端の酒悦の店舗には缶詰入りの福神漬が店頭で今でも販売されている。
 しかし缶詰に入れたことで高価となり、販売には苦労したようだ。このあたりの販売苦心の話はカレ―本に書かれていない。少し考えればわかるのに戦後生まれのライタ―達はプラスチック容器しか福神漬は見ていない気がする。びん詰は比較的残っていている。それでもプラ容器に比べると高い。びん詰の利点は賞味期限が長いので海外需要がある。

また多くのライタ―さんが書き漏れていることがあって、このことを記事にしないと福神漬という漬物が法律用語となっていることの説明が出来ない。酒悦主人は福神漬を普及させるためあえて商標登録をしていない。酒説の福神漬という名称で今は登録されている。ちなみに今の日本で福神漬の最古の商標登録は日本橋の国分の日本橋漬で大正の初めの登録となる。多くの福神漬の缶詰ブランドが日本缶詰協会の缶詰時報の広告欄で見ることが出来る。
 福神漬の由来とかの記事で缶詰を書いていないのはライタ―の手抜き記事と言うことになる。ちなみにhint-potの福神漬 この記事の文献として野菜および園芸 第86巻9号を読むため都立中央図書館で借り出し読んだが、これは香煎のというものの文献で、ネットで調べると京都祇園にある原了郭いう香煎の老舗しか日本には存在しない絶滅寸前の味ともいえる。酒悦は今は香煎は扱っていなく漬物佃煮の店となっている。
京都東山区祇園の原了郭は「祇園香煎」の名で知られる香煎の老舗で創業の由来が赤穂の討ち入り関係者と言うことになっているが、野菜および園芸の記事では、もっと古い時代にさかのぼれるという。多くの食の老舗は普通は創業時を古く書くことが多い。所が原了郭の店は忠臣蔵の方をとっていたようだ。多分多くの同業者があって、ブランドとして忠臣蔵のほうが良いと思ったのだろう。
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死の商人・日本の大倉喜八郎  東京名産福神漬の献納

2024年07月09日 | 福神漬

 世界の歴史では死の商人と言われる人は数多い。日本では死の商人と言われる人は明治の戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)での逸話が残る大倉喜八郎しか見当たらない。日本史では武器商人という概念が無いのだろうか。
アメリカ南北戦争を描いた風と共に去りぬという小説で武器商人だった富豪(レッドバトラ―)の話がある。この南北戦争後に不要となった武器が日本の戊辰戦争で使われた話がある。文献は何処にあるのだろうか。死の商人の歴史を見ると否定的な話が割と少ないと感じる。これは日本人の感覚と異なっていて、パレスチナの問題が日本人に理解しにくい問題は死の商人の概念が普通に馴染みがないことから来ている。金さえあれば紛争の当事者へ売る行為を恥じない。
 大倉喜八郎が死の商人と名が残るのが、彰義隊の戦争で武器の調達の時、金払いの悪い彰義隊に現金で無いと横浜の外国人相手には武器商売は通用しないと初心な彰義隊員をだました。長崎のグラバ-と坂本竜馬の武器商売も現金で無かったと思う。同時に竜馬が武器の商売をする死の商人と見なされてはいないが薩長同盟は武器が同盟の証であって、西洋流の定義では竜馬が武器商人、もしくはそこで元手を作って明治維新後に海洋商社を目指していて、暗殺後にその意思を継いだのが岩崎弥太郎となった気がする。
 明治28年10月の日付のある、大倉組支配人からの遼東半島に駐屯している野戦師団.将校以下一般へ東京名産福神漬300樽献納の義 
 この願いは明治28年9月30日に陸軍大臣大山巌に出されている。まだ9月30日の段階では台湾征討戦で北白川宮の病状報告は出ていないし、台湾北部・中部の制圧報道しか日本には届いていなかった。そこから台南に向かう時、日本軍は台湾住民と中国人との連合で侵攻が遅れるようになり、風土病にも悩まされるようになった。この時期に一時的に陸軍軍医だった森鴎外が台湾にいたことになっている。
 大倉組は大倉喜八郎の会社で明治28年1月までは元第四師団長が北白川宮(上野戦争の時の輪王寺宮)
と知っていて、台湾制圧後に面会の口実を狙ったと思われる。
 この文献から明治28年の時で、大阪でも福神漬は東京名産と知れ渡っていたということになる。なお300樽と言うことで、樽の大きさだが1斗や2斗の樽でなく4斗の樽だろう。おおよそ1樽80KG位になる。この辺の気配りが死の商人と言われる喜八郎の面目躍如だろう。
 福神漬の酒悦は言い伝えで、店名を輪王寺宮から頂いたと言う。大阪の阪急デパ-トの開業時に、デパ-ト食堂での福神漬食べ放題を許した小林一三はタクワンの食べ放題でなく、高級感のある福神漬だから許したと思う。大阪商人の朝ご飯はおかずが漬物しかなく、浅漬かタクワンでデパ-トで福神漬の食べ放題は見るだけの庶民のデパ-ト体験の唯一の楽しみで、今でも文献に残る。
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7月4日何の日だった/上野戦争(彰義隊)の日

2024年07月04日 | 福神漬
アメリカ独立記念日はアメリカ史上最も重要な出来事を記念する日です。1776年7月4日、フィラデルフィアにおいて大陸会議が独立宣言を採択、正式にイギリスと決別して新たな国家、アメリカ合衆国が誕生しました。普通の日本人はこのように7月4日は考えるが確か上野戦争は梅雨時の戦争で大村益次郎の作戦勝で戊辰戦争を最小限の戦争の開戦日となった。
 ふと新暦・旧暦の換算ソフトで1868年7月4日と入れ、旧暦に換算すると明治元年5月15日となる。土曜日・戊辰・156年前となる。なぜ旧暦の5月が新暦の7月となるというと、この年はうるう月という月があったことによる。文献から上野戦争の前から長雨で当日も雨の記録があって、寛永寺周辺に火災が起きても、大きく広がらないと大村は考えていて、逃げ道を用意し、逃げ道から偽援軍を侵入させ、後方から攻撃させ、さらに西から砲弾で追い打ちをかけた。刀の戦いを想定していた彰義隊は近代兵器で崩れた。刀の時代が終わったという。

 1776年のアメリカ独立記念日から100年後にアメリカ・フィラデルフィア で万国博覧会が開催されていた。そこに日本から視察団のようなのがあった。日本から派遣された関沢明清がアメリカでの缶詰の普及に感銘をうけ、鮭の缶詰技術を学び、日本に帰国後に北海道でサケ・マスの缶詰製造を試みた。ここから日本缶詰協会の見解から量産缶詰は北海道開拓使の工場となっている。ほかに長崎市では松田雅典となったいる。でも福神漬の缶詰はコラム扱いで、日本缶詰史の記述されいる。
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やっと国会図書館デジタルを使いこなす

2024年06月28日 | 福神漬
国会図書館の利用者カ-ドを作って、コロナ期間中の利用実績もなく、再度使おうとしたら、期限切れで作り直しとなった。その時に一度でも入場ゲ-トを通過すれば良いとのこと。そこでネットでも良い事を知り、やっと検索でも良いから、自分のIDとパスワ-ドで時々国会図書館デジタルに入る。
 東京都の中央図書館の司書さんの検索手際を見ていて、これなら自分でも出来そうだなと思いやってみた。
 大槻文彦の高野長英行状逸話(復軒雑纂)という明治期の本をパソコン画面に出して、印刷して読む。大槻文彦は日本で最初の国語辞書(言海)という辞書を編纂した人でもある。この辞書の古書を購入して、明治期の言葉の解釈としている。それはナタマメという言葉がどんな意味だったかを知りたかった。そこから日本缶詰協会の機関誌(缶詰時報)時々パソコン画面に出して、福神漬を検索すると、大正の震災後に結構出て来る。それが先の戦争の時に検索すると何か出てこない。まだ理由は不明だが金属不足から缶詰入りの食品は軍需物資なので宣伝が必要で無くなったのだろうか。
復軒雑纂という大槻文彦の文集を検索すると、東洋文庫に1冊ある。そこで借り出しを計画し内容を読むと国語学系の本で、今読みたい部分はまだ企画の段階のようだ。復軒雑纂は明治32年の出版なので、高野長英の基本文献を作成した高野長雲(高野長英の曽孫血縁関係はない)という人の研究する前の出版と思われる。

長英の死後の情報はどこから来ているのだろうか。
妻ゆきの釈放後の様子はすぐに消える。子ども状況も女子一人が面倒を見ていた人に遊女として売られ、遊郭内にいた時地震の倒壊で亡くなったという伝聞が残る。いかにも真実性があるように見えるがどこか違和感がある。そこで後の出来事から推測すると、次のような解釈が成り立つように見える。
 嘉永3年に幕閣上層部(阿部正弘・筒井政憲・遠山 景元等)数人が異国船打ち払い令の再開問題と株仲間の再興を画策していた。所が株仲間の再興の情報が洩れると利権と思う人たちのもめ事が出るので調整の秘密性が必要だった。この時期に高野長英の捕縛死事件が起きてしまった。
 藤岡屋日記という江戸市中の情報を記録している本から、当時でも内田弥太郎が釈放されたのが不可解と思う人があったようだ。長英の逃亡を記述している本はほとんど内田弥太郎の事を逃亡の支援者としている。宮城(宮野)信四郎は親族でもあり、流罪となった。そして明治元年の赦免となった。十数年の流人生活は内田の資金援助が新島に行っていたと思われる。新島を始めとして伊豆七島の代官は36代江川太郎左衛門(英龍、号・坦庵)の時代でした。砲術家の下曽根金三郎とも交流があったと思われます。尚歯会の仲間が高野長英・内田弥太郎・下曽根金三郎が嘉永3年秋に江戸にいました。この時期は夏になると、下曽根・その手付として内田弥太郎が浦賀奉行で仕事をしていました。浦賀奉行は二名で構成され、」一人は黒船来航時の戸田伊豆守氏栄でした。
 高野長英が死去後の嘉永3年11月.12月は戸田氏栄・下曽根金三郎は藤岡屋日記によると江戸にいました。幕府の留守居役だった筒井政憲の息子が下曽根金三郎です。つまり内田弥太郎を長英逃亡の支援者として断罪とすると、上司の下曽根金三郎も処分せざるを得なくなります。そこからもみ消し工作が始まったと思われます。
 筒井家の家は今の日本テレビ麹町の付近に家がありました。そのそばの二番町に火付盗賊改めの職に比較的長く勤めた御先手弓組旗本長井五右衛門の家がありました。嘉永4年からペリ―が来た嘉永6年の間に筒井の斡旋で長井家の一人娘と戸田伊豆守氏栄の三男の養子縁組がありました。この夫婦に明治元年に男子が生まれ、総太郎と命名されました。長井総太郎・別名鶯亭金升で福神漬の命名の経緯を語っている人です。さらにペリ―来航の後に戸田は閑職の留守居役になりその時4男の鉄丸が生まれました。これがのちの花香恭次郎(自由民権家)となるのです。この養子斡旋にも旗本長井家の意向が感じます。内田は長英逃亡の事件のもみ消しを長井家が担ったと恩義を感じていたようです。この養子も二つの狙いがあって、嘉永年間に長井家に入った夫婦に子供が出来ず、厄介扱いでいつでも花香家に言い含めていた記録もあります。花香家ではすでに養子がいるのになぜまた養子をむかえたたかの疑念があって若様扱いのようだったと言っていました。
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宮城信四郎と宮野信四郎

2024年06月27日 | 福神漬
嘉永3年10月30日(旧暦)この日の闇夜に逃亡中の高野長英が死去した。江戸南町奉行の配下与力たちが青山の潜伏地に夜間に捕縛に向かった。江戸時代は生かして捕まえるのが基本であった。そこで色々な生かして捕まえる方法が文献に残る。
 長英の死後に青山の隠れ家と逃亡先を手配した人たちが捕まった。嘉永3年12月の終わりに南町奉行遠山 景元(金さん)が判決を出し、松下寿酔,松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでと宮城信四郎の4名が流罪となった。松下寿酔は取り調べの獄中で死去したという伝聞が藤岡屋日記に見える。
 この件で都立中央図書館の司書さんに1階の東京の地方史の新島村史流人編の本を持ってきて、宮野信四郎の所を見せ高野長英を調べてもらった。
 すると司書さんの検索で国会図書館の蔵書がパソコンの画面に現れ、基本の文献が高野長雲という人のようだ。多くの高野長英の研究はこの人の文献から始まる。この流人記録の件に関してコロナ期間中に、東京都の公文書館で聞いたところ、流人の記録は出版されたものしかなく、松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでの記録が見つからない。伊豆の流人島は新島・三宅島・八丈島で他の島は不祥事の時に移動されたようで記録が少ない。流罪となった人は幕府の恩赦があった時に釈放される。この恩赦による釈放も江戸での支援が無いと釈放される人選から漏れる。さらに島での扱いも、流人の支援者の資金によって異なり、生かされるようだ。
 地獄の沙汰も金次第という言葉が今に残る。江戸時代は多くの縁故者の支援で牢獄での待遇が良くなったりして生き残る。また牢関係者はこの賄い金で生活を維持している。従って長い未決期間でも牢関係者は良かった。この仕組みは中国の刑法制度から来ているように見える。同様の事例が文献に見える。やはり実際の死罪より、投獄中の衛生環境で病死の例も多いようだ。ここから明治の不平等条約改正で取り調べの拘置所の衛生問題が出て来る。これは法制度以前の問題で明治政府の歴史観がロシアを負かして条約改正となった記述は誤りで、監獄の衛生環境がようやく日露戦争の時代に追いついたということである。日清・日露の戦争で多くの日本兵士が亡くなったが、特に日清戦争では戦闘で亡くなった人(1417人)より、脚気等による病死(11894人)、台湾征討戦では台湾の風土病で朝鮮半島の死者をはるかに上回った(台湾では10236人)。またこの台湾での死者数の扱いは、今の日本史でも少なく扱われている。それは朝鮮半島の戦病死者数だけが日清戦争の死者数となっている記述が多い。このほかの日清戦争の死者は中国人3万人、朝鮮人3万人、そのほかの非軍事関係の死者数もあるという。いわば災害関連死のような死もあるという。
 宮城信四郎(宮野信四郎)の生存は高野長英の死亡後の記述はどの本が正しいのか判らないが明治の自由民権運動福島事件の被告人の花香恭次郎の出生に関連してくる。恭次郎の恭は内田弥太郎の諱(いみな)が恭である。今の千葉県旭市にある花香家の東福寺墓地に恭の名前がある人物は養子で迎い入れた人であって和算系の人と思われる。関流和算家内田五観(弥太郎)から名前の一字を付けたと推測される。また東福寺内には内田五観の撰文による花香安精の碑がある。花香安精の集めた和算書は今は千葉県の県立博物館に寄付されている。房総数学文庫という。
 嘉永3年末の遠山裁きは明治維新に繋がり、明治の改暦と西洋の計測と日本の計測との整理統合が内田弥太郎によって行われた。従って、彼が長英逃亡の罪で流罪となったら、明治日本史はかなり遅れた日本となる気がする。上野の国立科学博物館には内田の集めた一升桝と物差しが所蔵されているという。
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日比谷図書館4階内田嘉吉文庫で

2024年06月17日 | 福神漬
日比谷公園内の千代田区立日比谷図書館で大日本和洋酒缶詰沿革史という本を読む。貴重書本で図書館内で読むしかない。借り出し票を印刷し、出て来るまで図書館の施設配置図を眺めていた。日比谷図書館の4階には特別室があって、一部は有料の所で良く眺めると、内田嘉吉文庫というのがあって、開架で無料のようだった。さらに台湾関係の本が多そうで、気になった。大日本和洋酒缶詰沿革史が出てきて、何回も都立中央図書館で読んでいたので、必要なコピ-するところをメモし、簡単に処理は終わり貴重書を返却した。
 そこで暇つぶしというか4階に上がって内田嘉吉文庫にはいる。カバンを荷物置きに置いて、書架を眺める。この人物の知識は自分には無いし、記憶もない。そこで管理している女性に台湾神宮・台湾神社の本が無いかを尋ねると何冊かの本が出てきた。風景の本と天皇らしき人物の台湾行幸の記念写真集だった。家に帰って調べると関東大震災の年の大正12年4月頃の訪問で、摂政だった時の昭和天皇の姿が見える。
 台湾神社は普通の神様と台湾征討中で台南の地域で風土病に罹り、戦病死した皇族・北白川宮能久親王を主祭神となっていて、戦前は台湾での最上位の神社だった。このため敗戦後に台湾を統治した国民党政府によって壊され、今では圓山大飯店という一流のホテルとなっている。
 台湾で統治していた明治日本は戦没した北白川宮の慰霊という名目で神社を創建する案が宮の死後すぐに陸軍関係者の発議があった。このことの理由は日本神話のヤマトタケルの話が出て来る。
 ヤマトタケルの神話は天皇の命で次々とヤマト政権に従わない地域の征討に従事させられ、ついに都に戻る寸前に病を受け、亡くなった。この神話から北白川宮の戊辰戦争・彰義隊戦争の参加を忘れさせ、さらに朝鮮半島での日清戦争の講和条約締結寸前に反乱の兆しが見えていた台湾征討戦に北白川宮が派遣され、病死しした。
 この派遣の史実でも学者の説と吉村昭という日暮里生まれの小説家と見解が異なる。自分としては吉村説をとりたい。
 吉村昭の小説 彰義隊 はほぼ半日の戦闘で終わった上野戦争を描いているが主人公は寛永寺の輪王寺宮でその下で彰義隊を支えた覚王院義観と西軍の有栖川宮と対立を描いている。公武合体の余波で有栖川宮の婚約者というべき女性が徳川に輿入れしたことから有栖川宮には幕府には遺恨があった。
 徳川方の江戸市民は密かに旧幕府方を支援しつつ、戦火で自分の家が燃えないように思っていたようで半日であっけなく終わり、江戸市中でゲリラ戦とならずに平定された。国家の護国神社の役割の靖国神社の参道中心地に大村益次郎が江戸城富士見櫓から上野の戦争の状況を双眼鏡をもって眺めている様子が見える。上野の寛永寺の焼失はほとんどが敗走した彰義隊員の放火と言われていて、新政府軍の砲火という声が聞こえない。明治政府の言論統制の可能性があるが記録では放火の方が多い。

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三菱のマ-クの入った福神漬

2024年03月09日 | 福神漬
ネットで三菱鉛筆のマ-クの商標の記事があった。
BizzFeed 2024.3.
安藤健二氏の文である。
 福神漬の商標登録が意識されたのは、日露戦争後でそれまでは木の樽入りで国内は販売されていた。従って池之端の酒悦の福神漬缶詰はブランド登録の必要性が感じず、さらに福神漬という名称を酒悦主人が独占する意識もなかった。日露戦争後に軍隊の備蓄用の福神漬缶詰が安く払い下げられ、戦場で味わった兵士が奉天での会戦模様を語る食となった。マイナスの気温下で戦場での食事はロシア側に兵士の位置を知らせないため、食を火で温めることは出来ないし、控えていたという。そこで副食の漬物として、福神漬が三食とも供給された。凍結しないし、缶詰入りで残り火に缶ごと入れて温めることも出来たようだ。
 福神漬という名称が酒悦で商標登録されなかったので、そもそも当時は普通名詞となっていて、別の名称を加える必要があった。この問題の発端は日本酒のブランドが商標登録の問題で、(正宗)を登録しようとしたところ、普通名詞と言われ、拒否され、桜が日本の象徴ということで(桜正宗)となったようだ。多くの正宗ブランドは同様の経緯がある。ちなみに正宗はダジャレで読み方でセイシュという隠れた意味を持つ。ちなみに酒悦はブランドとして酒悦の福神漬と登録したという。このことから内田商店は三菱のマ-クは優良誤認を狙ったようだ。福神漬の缶詰ブランドでは国分の日本橋漬で今は缶詰は消え、瓶詰しか残らない。
 日暮里の浄光寺の福神漬顕彰碑の裏面にある発起人について、逓信総合博物館の中にある明治42年の電話帳でどの様な人物かを調べる。
福神漬発明者野田清右衛門表彰碑
 揮毫者 村田 保氏 大日本水産会 どの様な理由か電話帳に記載無し
建立者 風戸弥太郎 日本和洋酒缶詰新聞社社長 京橋区新富町6-12
堀江良太郎 小川屋 神田区旅籠町1-37 食料品漬物商
田中新蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し

内田勇太郎 神田区仲町1-2-3 洋酒缶詰商 内田商店
山田箕之助 どの様な理由か電話帳に記載無し 千葉県行徳
朝比奈銀次郎 どの様な理由か電話帳に記載無し
岩堀小太郎 岩堀商店 屋号 小田原屋 神田区多町2-2 漬物缶詰問屋
西貝富太郎 屋号 萬屋 本郷区東片町81 漬物問屋
西村小市 神田区須田町8 果物商
加藤歌吉 どの様な理由か電話帳に記載無し
村田与兵衛 川村本店 京橋区本材木町3-11 漬物味噌食料品缶詰問屋
山本半蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
青木平四郎 日本橋区本銀町1-1 食料品缶詰業
綾部清三朗 屋号 並木屋 神田区表神保町1 缶詰漬物食料品商
細中源蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
須崎善四郎 日本橋区本銀町1-19 缶詰商
ついでに酒悦福神漬 堀江良太郎 下谷区数奇屋町14 日本初祖福神漬 漬物内外缶詰食料品
電話帳調査でこれだけのことが解った。しかし肝心の山田箕之助が都内の人でないことが解ったことになる。発起人の並んでいる順序から山田箕之助の意味があるように思える。
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広尾では河津桜が咲いていて

2024年03月03日 | 福神漬
広尾の有栖川宮公園の図書館で東北キュンパス旅行のための、基礎調査をする。広尾は日比谷線の地下鉄駅の出たところに明治屋ストア―ト交差点角に三菱UFJ銀行があって、広い歩道に掲示板があって磯野という名前のある不動産管理会社がある。多分明治屋の創業者磯野計と福子の縁者の子孫だろう。この明治屋ストアには酒悦の福神漬瓶詰が置いてあった。こだわりの逸品でもあるが誰も根拠は知らないという感じ。
明治屋は創業が明治18年で日本郵船という会社が発足したと時期と重なる。福神漬の文献で明治18年説は明治屋と関係があると思っている。その明治屋が昭和10年頃に従業員の商品知識のための研修本を作成した。日本が中国戦線で苦労している時期で、西洋の食材の知識の本だった。それゆえ純日本の食材のぺ―ジは少ない。漬物関しては3から4ぺ-ジもなかった気がする。戦後にも明治屋食品事典は数回刊行され、少しづつ新しい食材が増えている。初版の明治屋食品事典は引っ越しの際にゴミ扱いされ、今は高輪の味の素食の文化センタ-へ寄贈した。この寄贈本で福神漬の項目が単独で2ぺ-ジもあった。最初に見た時は違和感があったが、今は三菱グル-プと明治屋では福神漬は印象のある漬物と感じる。
1 第一次大戦で日本政府の指示で日本郵船常陸丸がヨ-ㇿッパへ行く途中、インド洋で行方不明になり、捜索船が酒悦の福神漬という焼き印がある木箱を見つけた。このことから日本郵船は政府から戦時保険金を受け取った。出典 神戸大学新聞記事検索 海上保険
2 カレ―ライスと福神漬 カレ―に福神漬が付いたのは日本郵船の食堂からという。

 こんなことを考えながら広尾の有栖川宮記念公園内の河津桜を探しつつ、図書館へ行く。
靖国神社で有栖川宮と小松宮・北白川宮とのいさかいを知る。詳しい小説が吉村昭の彰義隊に書かれている。明治28年に日本版死の商人と言われた大倉組から福神漬の木樽入りが第四師団に寄贈された文献検索で出て来る。この意図が吉村の小説で解明できた。福神漬の献納の時期は有栖川宮が亡くなる寸前で、代わりに北白川宮になる時期だった。北白川宮は戊辰戦争時は旧幕府の彰義隊の頭にさせれれ、東北の地で投降した。つまり一時は有栖川宮の敵対者だった。そこに大倉喜八郎のセンスが光る。福神漬は下谷の漬物で輪王寺宮から店名を頂いた店が上野公園の復活によって増えてきた行楽客用のつけ物であった。谷中の七福神巡りの発祥地でもある。
漬物の商品名は普通に感じること以外に比喩や見立て等隠した意味があることが多い。
 タクワン漬も品川区の歴史博物館学芸員の話で沢庵禅師が創ったものではないという。自分的には普及者と思う。茶道等出る会席料理でたくわん漬は食器を洗う用途で出て来る。質素ということの比喩かもしれない。あの黄色は自然に黄色くなる。

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流人の島・記録を残そうと

2024年03月01日 | 福神漬
新島村史  資料編2 流人史 新島村編集1996年3月
 390ページ
嘉永4年4月流罪
明治元年辰年12月23日御赦免
藤村権左衛門組御小人 
宮野信四郎 亥三十一歳
この宮野という人は嘉永3年10月末に死去した放火逃亡者 高野長英を匿ったとされ、南町奉行で裁判を受けた4人の一人である。

 高野長英の嘉永3年の死の直前の江戸潜伏を助けた、4名が嘉永3年12月27日に遠山左衛門尉(南町奉行・遠山の金さん)によって、御白州で判決を申し渡された。流罪の4名のうち、水野大監物家来松下寿酔は裁判の途中で獄中で病死していて(藤岡屋日記)、存命ならば遠島という裁きだった。内田弥太郎の親族だった宮野信四郎は新島村史資料編②流人史に記述があって、流罪の判決後嘉永4年4月に江戸から流人船で伊豆七島の新島に付き、明治元年12月23日に御赦免となっている。
水野大堅物 家来 寿酔倅 松下健次 遠島
 鈴木春山(田原藩)に依頼され、父寿酔に相談の上、ひで外一人に相談の上、匿った。不届きにつき遠島。
御賄新組 清吉祖母 ひで
 逃亡者と知りながら、寿酔に頼まれ、伊之助外一人店へのため、隠し起き、届け出せず,不届きにつき、遠島を申し付ける。 
作家の吉村昭の本(長英逃亡)では、最後の江戸潜伏の中心的役割を果たした、内田弥太郎が連座を免れたのは奇跡だったと小説では書かれていた。多くの高野長英の研究本とか小説で長英逃亡を助けて流罪となった人はお家断絶と書かれているが少なくとも宮野家は断絶では無い様だ。ただ流人の記録がある八丈島と三宅島には松下健次とひでの記録がない。東京都の公文書館へ行っても記録が無かった。流人の記録は犯罪者の輸送の記録が残るので無いということが判決後から翌年4月の流人船出発までに死去したとしか考えられない。

 新島は小さな島である。流人史では寛文8年(1872)から明治4年(1871)の流刑の廃止まで1333名が流罪となり、伊豆の3島で5000名が流罪となった。初期の流罪となった人たちの生き残って、徳川幕府の慶事にに恩赦があって、稀なので赦免花という言葉も出た。生存して恩赦になる人は30%程度で生活支援が無いと生き残るのが稀だった。
宮野の流人時代は小伝馬町牢獄・霊雁島・浦賀番所・伊豆半島・下田・新島・三宅島・八丈島のコ-スが多かった。伊豆の韮山代官は江川太郎左衛門(江川 英龍 )だった。江川 英龍 は尚歯会の人達と交流があって、高野長英の逃亡を助けた宮野を新島での生活支援があってもおかしくない。
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