年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸の町奉行 南和男著

2013年03月31日 | 福神漬

江戸南町奉行のことをもう少し知りたくて、この本を借り出した。書き出しから過激で町奉行の在職中の過労による死亡が多かったという。その支配地は旧東京市(昭和七年)以前の十五区に相当するという。以前地下鉄に乗り、本郷三丁目で降りたとき、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という言葉を思い出した。戸田寛十郎邸は今の東大農学部前から入った西片付近で文京区立第六中学校のあたりにあったので江戸ではないのかと思っていたら朱引きでは江戸の範囲は板橋宿も江戸であったようだ。
 さてこの本の79ページから河内山宗春の話がある。さらに白浪五人男として知られている河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画』のゆすりの場面と同じ様な事件が文政4年にあった。86ページに長井五右衛門伺いとあった。再び事件に長井五右衛門が出てきた。何者だろう。しかし戸田主膳殺人事件にも出てくるので捜査関係者かもしれない。そこで御仕置類例集を借りることにした。
 江戸町奉行は奉行所内に住んでいたので筒井伊賀守政憲が麹町二番町に住まいを得たのは奉行所を退職後だろう。従って戸田主膳殺害時は長井五右衛門と筒井伊賀守との接点は住まいが二番町ということではなかったと思われる。
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東都切絵図 安政年

2013年03月30日 | 福神漬

中央区中央図書館郷土資料室で安政年間に発行された切絵図を見る。二番町にあった筒井伊賀守政憲の邸宅を探すことだった。切絵図では筒井治左衛門となっていて、付近に久世三四郎邸がある。ここには一時後に講談師となった松林伯円がいた。久世邸の前の通りが裏二番町の通りで少し離れたところに長井筑前守邸が見える。長井邸は今の東テイモール大使館辺りとなる。筒井伊賀守が戸田家と長井家を結びつけたのは地縁ということもあるのだはないのだろうか。
 それにしても藤岡屋日記と天保雑記に出てくる、戸田主膳殺害時の長井五右衛門という人物はどのような理由で記述されていたのだろうか。
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難読の地名の東の横綱『匝瑳市』

2013年03月29日 | 築地市場にて

2006年(平成18年)1月23日に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した新しい『とくさ市』。どうして平仮名にしなかったのだろう。下総国香取郡内山村(匝瑳市)に旗本長井氏は47石ほど領地があった。八日市場市史によると長井家の常陸国の領地は椿の海干拓に関係していたのだろうか上知という。長井家の常陸の領地は今の行方市付近に多い。
 暦博のデータベースを知る。旧高旧領取調帳データベースという。ここで長井筑前守と入力するとそこそこのデータが取れる。ただ全部ではないのでさらに永井筑前守と入力するとやはり出てくる。どうやら長井筑前守昌言はかなり無名で苗字の混乱があるようだ。この件で今の旭市飯岡町の地名が下永井なっていて、九十九里海岸のはずれの行部岬の地名が上永井となっている。両方とも江戸時代は旗本長井氏の知行地(相給)であった。
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戸田主膳殺人事件6

2013年03月28日 | 福神漬
船橋市史 近世編 67頁
ここに船橋市八木ヶ谷を知行地としていた旗本長井家の代々の名前がある。天保7年、戸田主膳が殺されたとき、長井家の当主は長井昌純(天保9年死去)だった。長井十五郎、長井五右衛門とも名乗っていたようだ。この昌純は夏場に死去した可能性がある。長井五右衛門昌言は昌純の娘と結婚し、養子となった。しかし戸田主膳の孫に当たる昌言が結婚したのはもっと後のときで(安政年代か)、の呪いは後のこじつけた噂話である。
 戸田桂三郎(氏栄3男)が筒井政憲の世話で養子となり、長井五右衛門昌言となった。筒井政憲が死去したのが安政6年のことである。長井五右衛門昌言が維新史に出てくるのが文久元年10月小姓組番として始めて出てくる。つまり養子になった後の話となる。維新史を調べている学者が長井昌言の経歴が不明と書いてあるのはこのような事情から説明できる。船橋市史(1998年出版)でも長井昌言は養子か実子か不明と書いてあった。
出典 明治のおもかげ 鶯亭金升著 
鶯亭金升は長井昌言の長男で本名は長井総太郎である。

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3月の大潮

2013年03月27日 | 福神漬

2013年3月27日は大潮となっている。満月。福島事件被告人平島松尾著の『安達憲政史』の中だったと思うが今の東京都中央区にあった石川島監獄から明治17年3月の大潮の時、脱獄計画を話しあっていた。しかし先に新潟の自由民権家赤井景韶が石川島から脱獄したため、警備が厳しくなり断念し、仙台刑務所に護送されたという。
 当時の石川島と墨田川を挟んで反対側のところはどうやら大潮のときは渡れる深さだったかもしれない。築地の居留地が貿易の拠点として作られたが土砂の堆積で川が浅くなり、鉄道が開通後、横浜に貿易拠点が移動し、ついにキリスト系の学校の拠点となってしまった。
平成の今日は大潮だが満月なので脱獄には適さない。隅田川が渡れる深さとは信じられない。
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めんどくさい税

2013年03月26日 | 宅老のグチ
谷中墓地掃苔録壱 東京の地方叢書4
古書を検索していたら、花香恭次郎の墓がある谷中墓地の本が販売されていた。金750円なり。編者の森まゆみさんの皮肉で本代600円プラスめんどくさい税18円となっていた。来年にはめんどくさい税が8%になる。
 谷中の墓地は福神漬資料調査で出てくる人物の墓が多い。上野寛永寺を含め色々な意味でパワースポットと見ていたのだろうか。今が盛りの桜もすぐ散って、墓地の墓場での酒盛りが終わる。墓前で宴会しているのは実に奇妙な風景である。
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川越福祉センターで

2013年03月25日 | 宅老のグチ

どこで間違えたか川越市博物館から帰りのバスが福祉センター行きとなり,終点となってしまった。次のバスまで待つと入ってきた馴染みの乗客が今日は少ないという。花見に出かけているようだ。駅前を除くとコミュニティバスは病院とか福祉関係の施設を回るように出来ているようだ。自家用車のない高齢者にとってバスは生活の手段である。
 今まで優遇されてきた高齢者がこれから厳しくなるのは当然として食べ物消費がどう変わるのだろうか。川越の中心地のウナギ屋が比較的混雑していたのは高齢者需要を取り込んでいたかもしれない。もうウナギは庶民の食べ物ではなくなった。
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桜が満開になればツバメが来る

2013年03月24日 | 築地市場にて

曇り空の築地市場でツバメのなき声がしている。秋口から半年ぶりの声で姿を見ると今のところツバメは太目でこれから築地市場のどこかで巣作りをするのだろう。だいぶ減ったカラスの影響で少しは築地のツバメも増えているような気がする。何しろ隣は広い浜離宮公園でエサは豊富である。
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『明治のおもかげ』を読む3

2013年03月23日 | 宅老のグチ

内村鑑三と鶯亭金升が同じ新聞社(萬朝報?)で働いているとき、横浜高島山の英国人ヴェレスウエートという人がいた。その英人が佐倉宗五郎物語を翻訳し、著者に礼を言おうと内村に話したところ、同じ新聞社で働いている人で鶯亭であった。
 横浜高島山は横浜駅の東隣の京急東神奈川駅付近の高台で高島嘉右衛門が住んでいた高台である。ここには晩年の戸田欽堂も住んでいた。鶯亭の父長井昌言と高島嘉右衛門との接点の文献はまだ見あたらないが維新後幕臣が静岡に行かず工部省鉄道局の仕事を得たのは大垣戸田藩との交友の縁と想像できる。大垣藩の小原鉄心と戸田伊豆守はペリー来航時、見物人による不測の事態を避けるため、あらかじめ大垣藩に警備を依頼していた関係であった。鉄心は黒船の兵器を見て、大垣藩の兵力の近代化を図った。鳥羽伏見の戦い後中山道を東上した軍の主力は大垣藩であった。佐倉惣五郎の物語は戸田欽堂の政治小説にも出てくる。戸田欽堂の母は高島嘉右衛門の姉で大垣藩主の側室だった人である。
 長い寒い冬が終わり、一気に桜が満開となった。福神漬は彰義隊戦争による上野の山の荒廃から復興にかける商人の味でもある。
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『明治のおもかげ』を読む2

2013年03月22日 | 宅老のグチ
『改進新聞』の社主寺家村逸雅さんの祖先の話がある。今の広島県の寺家という村の出身で身体障碍者であった。この寺家という地名は今の広島県東広島市寺家という地名がある。
 江戸時代身体障碍者から借金したとき、その返済が不能になったとき、奉行所は借りた人を犯罪者としたようだ。つまり一般人のところから借りるより返済義務が重かった。逸雅の祖先は返済不能ということであきらめていた証文を引き受け、障碍者からの借金として奉行所に届け出たため、あわてた借主は周囲から金をかき集め返済したという。回収した金を証文の主に返し、手数料をもらい、財を成したという。
 鶯亭金升は明治24年ころから『改進新聞』の記者として記者生活を始めるのだが、投書家として籍を置いていた,團團珍聞社主野村文夫と親しく、野村が改進党系であり、広島県出身ということもあり改進新聞の記者となったと思われる。
有喜世新聞という小新聞から改進新聞となったのだが庶民の読者を引き付けるため、読み物が必要だった。ここに明治の初めの新聞を見ると絵付きの戯作が大新聞(政治を論じる)を除くと掲載されている。歌舞伎情報もその中に含まれていて、酒悦主人が5代目菊五郎と付き合っていたという話は必要性があったかもしれない。池の端薬舗守田宝丹主人は明治の近代広告の先導者で同じ町内の酒悦が影響を受けても当然である。
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『明治のおもかげ』鶯亭金升著を読む

2013年03月21日 | 宅老のグチ
茶の実というエッセイがある。下総の飯岡から出てきた名主が日本橋の宿屋の番頭に羽織の紋をつけるように頼んだ。どんな手違いか羽織についた紋が茶のみ茶碗が三つ縫い付けてあった。
 下総の飯岡は鶯亭金升の父長井昌言の知行地だった。この話は金升の母から聞いた話だろう。単なる話も福神漬を巡る話を調べて始めて数年たってある程度この本の中の話の出所がわかってきた。日本橋の宿屋の件は訴訟関係の公事宿も付近に多かった。または麹町裏二番町に住んでいた長井家に挨拶に行くのが便利だったのだろうか。町奉行の与力給地も下総にも多かった。また下総の飯岡というだけで地域がわかる理由は『天保水滸伝』が広く知られていて、飯岡というだけでどこだと解っていたからだろう。
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築地市場の彼岸

2013年03月20日 | 築地市場にて

暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので、今年の激寒天候もようやく終わった途端暑くなってしまった。燃料の高騰で遅れていた野菜も間に合ったようで価格が低迷してきた。これから円安による海外食品高騰の余波を激安野菜で家計のピンチを補うしかないだろう。先日は浜離宮の桜もまだつぼみのよう見えていたのだが来週末には散ってしまうかもしれない。市場の安全対策とかで市場内から浜離宮の緑が塀越ししか見えなくなった。
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東京いちばステーション

2013年03月19日 | 築地市場にて

築地市場内の水神社隣の東卸会館1階の近日中に「東京いちばステーション」がオープンするので内覧会がある。前は確か食堂があったと思う。このステーションには新しい豊洲市場の模型がある。青果部の模型は見たことがあるので移動展示となるだろう。青果部の模型の大きさは畳1枚くらいの大きさなので豊洲市場全体の模型となればかなり大きいと思う。あとはパース図がある。前に見たパース図には豊洲市場の隣の運河にモーターボートが波を立てている絵があった。あそこは木場に近いので木材船だろう。それとも隅田川観光船なら良いのだが。計画では豊洲市場には観光船の船着き場があったような気がする。
 いちばと平仮名としたのは何か意味があるのだろうか。大江戸線築地市場駅は「つきじしじょう」と電車内アナウンスがある。築地市場内にある城北信用金庫築地市場支店は『しじょう』となっているが江東信用組合は読み方は不明。ちなみに三大メガバンクのうち三菱東京UFJ銀行とみずほ銀行の支店名は『ツキヂ』で三井住友銀行築地支店、城北信用金庫築地支店、中央築地郵便局は『ツキジ』となっている。どうやら古い支店のほうが『ツキヂ』となっている気がする。
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駄洒落

2013年03月18日 | 福神漬

もう長い間、福神漬の命名の経緯を調べていたのだが、中々根拠となる文献がない。ところがやっと『明治のおもかげ』鶯亭金升著のあとがきに近い文章にやっと出合った。
 『明治の時代は江戸以来の洒落た世界であった』子供でも茶目っ気のある言葉遊びをしていたという。明治の17年から18年頃に命名された福神漬は茶目っ気のある名前であった。こんなことを誰も調べることもなく今日まで来てしまったことが命名の由来が不明の原因である。
 鶯亭金升が『明治のおもかげ』を著したのがペリー来航100年祭の頃である。第二次大戦が終わり、開国のきっかけを作った子孫が幕末の混乱の原因から自由に語れる時期となったのではないのだろうか。テロの脅威は子孫の行動を縛り付ける。日本国内のテロは終わったわけでもない。
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武蔵嵐山

2013年03月17日 | 築地市場にて

埼玉県の嵐山町という町がある。この町の古里というところが江戸時代には長井五右衛門の知行地であった。武州比企郡古里村が相給で10石程度の知行地であった。旗本長井家は1,740石だったのでなぜ埼玉の地に知行地にあった不思議である。渋谷の副都心線と東横線の直通の話題で検索していたら、池袋から快速で1時間の嵐山までは通勤圏内に入りそうである。
比企郡古里村は御三卿清水家も含めれば十給となり、細分化された地域であった。長井家は元和の頃から古里村が知行地であった。相給の古里村は文化年間は長井五右衛門、天保年は長井龍太郎、明治元年は長井又五郎の名前がある。長井家は麹町裏二番町に住まいを構えていた。鶯亭金升の『明治のおもかげ』によると二番町に家があった元南町奉行筒井伊賀守の世話で戸田氏栄3男桂三郎が養子となって長井家に入り長井昌言となったという、長井昌言が長崎奉行だったと記述があるのはこの『明治のおもかげ』からの引用で正しくは開港後の神奈川奉行、堺町奉行となり、慶応3年暮れには目付となっている。戸田氏孟が長崎奉行である。
 鶯亭金升は筒井正憲が外交に活躍した経歴を書かずになぜ南町奉行筒井伊賀守と記憶していたのだろうか。家族の中では戸田主膳殺人事件の印象が強かったのだろうか。
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