年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

雨の日は出かけることもなく・・・だったが

2023年04月30日 | 宅老のグチ
5月8日のコロナの扱いが変わるので、出かける所を調査中。とりあえず5月上旬は浅草木馬亭で講談、落語もよいかも。それに国立劇場も予定に入れる。
 男性の平均健康寿命はすでに過ぎ去り、後は余禄の時間だがコロナで経験した自宅待機の3年は人生の無駄な時間だった。
 29日が昭和の日ということで、叔父のことを考えていた。墓地巡りするとそこに名前が刻まれている人より子孫のことを思うようになった。
 昭和の日は連休の始まりでもある。働きすぎの日本はこれから休みすぎと言われそう。連休より有給休暇の取得の方が観光地の人手問題を平準化する。
 漬物業者の栄枯盛衰を見ていると、スーパ-の特売が衰退を促進したという思いがある。特売企画でその前日まで残業し、特売が終われば、今度は消費者が特売価格でないので売れ行きが悪い。それで仕事が暇になり、給与が下がる。そこで転職となる。量販店という大型ス-パ-の不振はその納品する企業の変化を分析していない。かっての量販店納入は良い品を納品していたが、次第に特売後の閑散期の納品先が消えていった。量販店に負けて閉めた小規模ス-パ-増え、企業は特売企画を出すことを避けるという話を聞くようになった。それで付き合いで企画を出すが昔の様の価格は出せないという。そうなると特売も目新しい商品が並ばなくなる。欠品しないものが特売となるのでチラシも面白みが欠ける。
 コンビニが伸びたのは特売が無いことと、欠品しても他の商品を購入してくれるからである。ひと世帯当たりの人数が減り、特売巡りをする暇人は間も無く消える。1円2円の差の捜索より、人手不足の緩和した時期になると働いたほうが金銭の余裕が出る。今はその時期になったようだ。
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春日部市の藤を見に行くが異常に早く藤祭り終了

2023年04月29日 | 宅老のグチ
4月28日、春日部市の特別天然記念物指定の藤を見に行ったが、もう終わりの様で入場料が値引きされていた。多分30日で緑の藤になりそう。
 小学校へ入る前から東武野田線で春日部市から単線になって南桜井駅までの間に藤の牛島という駅があって、気になっていた。今は住宅が密集していて面影はないが当時は田んぼだけで名所があるとは思えなかった。ネットで調べると例年は4月下旬から5月の連休までが見ごろで今年の桜の開花が異常に早かったと同じように開花が早く、終了も早そうだ。
 駅から歩いて10分ほど歩くのだが、見ごろの終わりで誰も歩いている人もない。コープラという大きなパチンコ屋の所に藤花園の臨時駐車場としてパチンコ屋の駐車場が解放されていた。無料の様だ。でも閑散としていた。 
 藤を見た後、特攻で亡くなった叔父の墓のある南桜井駅から15分ほど歩き歓喜院を訪問し住職と叔父の遺書の無い理由の意見交換する。どうやら住職も今の野田市にある千葉県立清水高校(当時は野田農工学校)の出身で、校風から軍国少年を養成する学校でなく、どちらかというと満蒙開拓団院の養成教育と感じていた様だった。あの時代は国策だから仕方がない部分はある。
 住職と1時間ほど話した後、叔父の出身校の川辺小学校を訪問し、きむらけんさんの著書を贈呈する。やはり特攻で亡くなった卒業生がいるという話は地域の記憶から消えている。何があったのだろうか。叔父はほんの少し、川辺小学校で教師生活をした様で小学生の慰問袋が生家に届いていたようで、これも残っていない。台湾へ部隊移動前に叔父が自宅と川辺小学校上空を超低空飛行した話しも消えている。
 平成に入って地域の記録の出版は東京都立中央図書館で眺めていると少ないと感じる。さらに戦後の混乱期(講和条約が発効するまでの短い期間)の記述が少ない。その中で春日部市庄和地域の現代史は充実していて、その理由を歓喜院の住職が話していた。埼玉県立庄和高校の地暦部が夏の40日で著わした南桜井村戦後史は高校生の物とは思えないくらい価値があって、村の戦後史を子孫の若い人に伝えようとする気持ち見える。
 あの戦後は配給だけで生きることは不可能な時代で、暴力もあってその一番の被害者は生き残った人たちと感じる。いま時計の精工舎が当時は軍の協力工場で南桜井で高射砲の部品を作っていた。ただ戦争開始後に移転したため、米軍の空襲を受けることなく、工場と従業員宿舎が戦後に無傷で残っていた。そこに精工舎の人、外地からの引く揚げ者、戦災孤児の収容と小さな農村なのに戦後日本の縮図のような村だった。人口が8000人で農民系が3000人、戦前の野田市の労働争議の残留人から地域の左翼のたまり場となった。そこに米軍の日本への指導方針が急変し、左翼弾圧に向かって、さらにカスリ-ン台風の被害から、供出米の割り当てが未達成問題を引き起こし、地域の農家の隠匿物資を捜索するという脅しの集会もあったようだ。
 地域の余り触れたくない話題が高校生の聞き取りということで長老たちが話したようだ。その本が庄和高校の隣接地にある春日部市立庄和図書館に無く、県立図書館に3冊所蔵されている。

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2070年の日本の人口ピラミッド

2023年04月28日 | 宅老のグチ
新聞報道で2070年の日本の人口が8700万人という予想が出ていた。でもこの時には自分は確認できない。生きていれば130歳で無理だ。生きて確認できると仮定する110歳の2056年は1億人程度の予想。こうなると人口で維持してきた仕事が消える。特に高齢公務員の居所というべき天下り先も数が減るか、増える介護系の仕事しかないと想像できる。いずれにしても、早めの準備が必要で、基本は健康と体力だろう。パソコンのWIN95は1995年で60年程度の年数だが進歩は激しく、日本だけがいまFAXを主力として使っている。こんどのコロナで保健所との連絡からFAXでしか使えないことを知ったし、さらに給付金の誤送金で犯罪者を作ってしまった。そして地方の所では振り込みデ―タをフロッピ-ディスクでやり取りしていることも知れた。地方ではITの人材不足で安い給与ではDXに強い人材が役所にいないことが知れた。さらにハンコだけの天下り先の依頼も税収不足で受け入れる企業も減るしかない。唯一増えるのが介護系でこれまた理不尽な要求をする切れやすい人を相手にする。口だけのうるさい高齢者を対応する公務員が天下りできる気がする。そうすると低学歴の人に頭を下げるしかない。100歳の人の85%が女性で、今の状況から年金は少ない。その様な人たちの集団に大学出の公務員が対応できるのだろうか。高齢の男性運転で自動車事故を起こし、晩節を汚した例が目立つ。昔なら記事も小さくすぐに示談で記憶から消えるがデジタルの時代は消えず、検索で同様の事例で復活する。

 同和差別の問題で今まで日本の戦後教育は苦しんでいたが、2070年の予想では9人に1人の外国人という。この外国人の戦力が無ければ介護は破綻する。車いすで動ける不動産以外は無価値の負動産となる。4足歩行の介護椅子が待たれる。
人口ピラミッドでなぜか90台を超える人が今と変わらない。もう平均寿命が延びないのだろうか。
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華夷変態で

2023年04月27日 | 宅老のグチ
べったら市の歴史から砂糖というものの日本の発展史を調べていた。次に福神漬を調べたのだが、命名由来で出て来る人物で秋田湯沢の了翁禅師説は地元と上野寛永寺の周辺の人たちによって宣伝されている。その理由は寛永寺で学ぶ学僧のために、廃棄する野菜の切りくずを漬物したということから福神漬の由来という。同様な根拠で河村瑞賢のお盆の御供え物が海流れて、それを切り刻んで漬物にしたということから福神漬の命名由来の一人となっている。
 明治に入って出来た漬物で江戸時代の命名由来はある作意があると思われるが、食の世界では結構元祖・本家騒動があって、根拠の文献が少ないため捏造しやすい。

了翁禅師説を追って行くと、どうしても黄檗宗のことを調べることになる。不忍池辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。そこで 了翁禅師の碑の場所を聞いたところ、当山は天台宗で禅師は禅宗なので知らないと言われた思い出があります。台東区の観光案内で
了翁禅師塔碑 台東区上野桜木1-14-11の所にあります。これは寛永寺の中にあるのです。また寛永寺と関係のある文京区の駒込学園の歴代の校長のあいさつでしばしば了翁禅師の話が出て、付け足しで福神漬が出て来る。この了翁さんを調べると、京都宇治の万福寺で修行したことが出る。下記の本を読むと中国の明が落ちぶれ清に変わる時代に隠元禅師が日本に来て中国風の寺院を京都宇治に作った。この寺院は中国福建省風になっていた。中国宗時代の禅宗が室町の日本文化に影響し茶道が抹茶で福建の文化は江戸時代の煎茶という。
 明清の混乱期に長崎の中国商人は心のよりどころとして長崎に四福寺 (興福寺、福済寺、崇福寺、聖福寺)という黄檗宗の寺院があります。これも福ということから福神漬の命名由来説を支えます。中国の人は福という字はお祝いの字のように感じる。
 江戸時代の長崎貿易の詳細を見ると文献では圧倒的にオランダとの交易ですが実際の数字では中国船との交易で日本の輸入は消耗品の砂糖が幕府の問題となっていました。この砂糖の交易で金銀の流出が問題となっていました。明治の時も砂糖の輸入は多く政治の問題となっていて、富国強兵のための外貨不足の対策の中心は砂糖消費の抑制でした。
 江戸時代の砂糖貿易の最終到着地点は江戸城大奥の女性たちの砂糖消費でした。
子どもたちに語る日中二千年史 小島 毅著 

長崎に四福寺の成立はキリシタン禁教の影響で、今の戸籍制度のような寺受け証文を書いてもらうための長崎在住の中国商人が寺院を創ったようです。そのため福建風の寺院の形という。
 なにか福神漬を調べると不思議なことが次々と出て来る。
  
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江戸時代の暦の改変の基礎知識

2023年04月26日 | 宅老のグチ
20年ほど前に日本橋のべったら市が毎年10月19日20日に開催されていて、江戸時代と一月ほどずれていて、その影響を調べていた。
  明治の初めに改暦があって、太陰暦から太陽暦に変わった。「明治5年12月2日の翌日は、明治6年1月1日」――明治6年、新政府は太陰暦から太陽暦への改暦を断行した。 普通はこんな知識だろうが当時の混乱は多くの書籍から知ることが出来る。この強行ともいえる改暦は政治権力の暦ということの意思の強さでもあった。暦は日本では中国からの知識で長い間中国の暦をそのまま使っていた。江戸時代になって天体運動との差が出てきて、中国の暦では不都合なことがあって日本の暦を作るという動きがあった。それでも太陰暦の中での改良だった。吉宗の時代から西洋の学問が医学、植物学などから入ってきてそのうち理系の学問も知るようになった。問題はキリスト教の支配下にある西欧の学問をどのように日本化することだった。


天文方と陰陽道 林 淳著 2006年8月
 江戸時代、江戸城で1日は将軍が大名旗本などのと接見する日で日食がおこると予想されると時間調節して日食の時間は接見に充てないように工夫していた。幕府朝廷にとってあってはならないことだった。
 1763(宝暦13年)9月1日に暦には記載されていないのに日食がおこってしまい幕府の権威が落ちてしまった。この日食は市井の学者が以前からこの日に日食がおこると進言していたのに、幕府は無視していた。翌年から幕府が暦法の修正に取り掛かった。72頁

 べったら市が新暦の10月に移行したため、市で使うベッタラ漬大根の品種改良が促進された。板橋の百姓みの吉のダイコンが一番適していて、それから品種改良競争が始まる。昨年練馬ふるさと文化館で開催されたダイコンの展示では種屋の展示が多いと感じた。今でも巣鴨にある市場付近に種屋がある。桜の染井もこの付近で、江戸時代は種子が江戸の土産だったことを知る。
 夏ダイコンは辛みが強く、ひと月繰り上がったべったら市のため品種改良とか人工甘味料のサッカリン使用という方法もあった。その当時はサッカリンの毒性は知られていなく、初めのサッカリン規制は栄養分が無いということで規制され、例外で糖尿病患者用に使用許可されていた。この例外措置から違法使用される食品が多数検挙された。この印象が戦後に継続され、今でもサッカリンは嫌われている。しかしサッカリンほど素人でも見分けがつく人工甘味料はない。それは後味が悪く、食物が口から胃に行っても、舌に甘味が残るので今は安物の漬物以外使われない。

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リタイア後で初区議選

2023年04月25日 | 宅老のグチ
築地にずっと昼間はいて、家に帰ると仮眠中で区議選はうるさい、眠れない記憶がある。リタイアして家に居ても、大音量の選挙車の数が少なくなったと感じる。手に付けて居るIWTCHの表示でも90デシベルを超えることも稀で、これなら乳児の昼寝も邪魔されない。特に感じるのは夕方8時までの選挙車で以前はしつこかった記憶が残る。もうネットに時代で放言は記録に残る。
 今までの政治の歴史で代議士という制度が生まれ、国民の代理投票となった。しかしリモ-トということで、誰でも国会を傍聴することが技術的にできるようになった。
 次の国会の選挙は改憲に対する姿勢を問われる気がする。もう元寇時の念仏で撃退する時代は終わり、神風はカミカゼとなりドロ-ンの呼称となりつつある。
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何か気になる宮古島での自衛隊の事故

2023年04月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
ニュ-スで宮古島周辺での自衛隊の事故で陸上自衛隊第八師団長が交代するという。昭和20年5月20日に沖縄嘉手納沖で米軍に特攻した叔父は今の伊江島付近で命がきえたと思っている。叔父たちの台湾の飛行隊はやはり陸軍第八航空師団で発足時は満州で次第に激戦地に転進していった。この航跡はきむらけんさんの著書ではっきり分かった。台湾の八塊基地から陸軍第204飛行隊が出撃した。今の航空自衛隊にも204という飛行隊がある。そしてその所属基地が沖縄嘉手納基地である。いつか基地見学に行って、隊員食堂でカレ―ライスに福神漬をたっぷり付けて、叔父の想いと語ってみたい。
 戦時でない日本で今でも自衛隊員は亡くなっている。組織が強大で事故も多い。これからは無人化だろう。ウクライナの戦争は機械と機械の戦いに旧来の戦争が混じる。
 最近借り出した本から
予科練」戦友会の社会学  -戦争の記憶のかたち-清水 亮著 

 今まで気になっていた、陸軍の特攻に関して知覧のように平和教育で人気の施設があるが類似の施設で海軍の特攻では茨城県の施設が有名だが特攻という取り上げ方でなく、見学後不思議な感情が出ていた。その理由がこの本で理解できた。多くの海軍飛行兵士は先の戦争の中期までに戦死していて、特攻飛行兵士養成学校の予科練の戦死者は相対的に少ない。人数は陸軍より多いのだが戦争の最後は飛行機等の不足で比較的に生存率が高い。叔父の陸軍特別操縦1期生の合格名簿、埼玉師範学校卒業者名簿(昭和25年埼玉文書館所蔵による)10名の合格者で戦後に行き残った人は8名いて、海軍の飛行士官へは22名合格し、死亡したもの5名の内、記録で特攻で死去したものは1名だった。もう海軍には陸地から出撃するしかなかった時代だった。学徒出陣で兵士となった人の生存率も高いと思われる。
 従ってミッドウェー海戦が和平の分かれ目であって、その後は負け戦の道しかなく、米軍は日本の軍国主義と妥協する選択はない。

 今ウクライナが日本のミッドウェー海戦のような分岐戦闘があるか気になる。多くの西欧の近代戦争は4年ほど続く。まだ1年。あと3年は想定したほうが良い。戦火はアフリカに向かうが、ウクライナが勝っても、戦闘経験の豊富な国が黙って戦後を耐えるか疑問で今はまだ誰も想定していない。
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奥渋

2023年04月23日 | 宅老のグチ
シルバ-パス利用で慣れない所からバスに乗って家に帰る。西武線石神井公園駅から家に帰る時、前回は練馬区ふるさと文化館からの帰途に見つけた三宝寺池バス停から西武バスでJR阿佐ヶ谷駅に戻った。とても狭い道でよくこんなところを生活路線バスが通過すると思う。通勤時は時間の計算が出来ない気がする。築地で働いていた時から西武線を含め、JR,東武東上線は都心に向かっているので横走する道路が踏切で待たされる。JRは比較的に高架の所が多く、西武線等の踏切で夕方待たされるとあきらめの心境となる。
 今回の石神井公園駅からJR阿佐ヶ谷駅に向かうバス便は関東バスで阿佐ヶ谷から渋谷駅へは京王バス。バス内ではしきりに運賃改定の通告。シルバ-パス利用は無縁。京王バスは旧早稲田通りから、西武線の上井草駅を抜け、環状7号、甲州街道、環状6号を通過し、富ヶ谷から渋谷駅に向かう。富ヶ谷から入った道路が狭く、東急百貨店本店が閉店しているにも関わらず、歩く速さでバスがゆく。関東バスの運転者もゆっくり走行するしかなかった。あまり遅いので看板に(奥渋)という文字が目に付いた。家に帰ってみるとこの辺りが今若者の通自慢の地域の様だ。普通の地名では宇田川町とか富ヶ谷で電車の駅が3ケ程最寄りの駅になるという。ゴチャゴチャしているので意外とJR渋谷に近くても安く済むところかもしれない。奥渋を過ぎてH&Mの新店を過ぎたところから人だらけで、スクランブル交差点を通過した時、バスには運転手と自分しか乗っていなかったように感じた。東京には地元の人でも知らない地名が次々と生まれ、。消える。うたかたの繁栄。繁盛で賑わうと家賃が高騰し、隠れ家が普通の店になり、別の隠れ家が生まれる。今でもコロナ明けの渋谷は混んでいて、観光地化し物価があげれば奥渋が日本人のたまり場になる。駅付近はすでに低所得の日本人の徘徊地になりそうもない。そしてゴチャゴチャがまた別の味を出す。
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敗戦情報の聞き込み

2023年04月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴がおかしく、本来なら陸軍特別操縦一期生の人たちの軍歴を照会すると、始まりは昭和18年10月1日からとなる。しかし埼玉県に軍歴照会した所、叔父の軍歴は11月1日となっていた。このひと月の差は毎日新聞埼玉版昭和18年9月8日の記事で、叔父は陸軍特別操縦一期生の選抜試験では不合格だった。
 産みの母との会話で(行っちまったんだよ)という言葉を思い出す。言葉の感じでは家族に無断で受験したと感じていた。従って招集令状が来ても飛行機に乗るとは思っていなかったと思われる。なぜ希望しない受験をしたかというと、叔父が学んでいた埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)は小学校の教師を養成する学校で一部に農業指導者養成もあって、さらに卒業後一定の年数を教師と勤める条件で授業料が安かったと思う。最初から軍人を目指していたら師範学校に行く前に士官学校の受験もあったと思われるがそのような話は法事の席でも出ていなかった。
 陸軍特別操縦一期生の願書申請の新聞記事で大学等の軍事教官経由で願書を出すことが認められていた。叔父はそのルートで家族に無断で提出、いや強制的に願書を出したと思う。せめてものささやかな抵抗は試験に落ちることだった。多分親族の経営している漬物業者(陸軍に福神漬等を納品していた)戦争に負けそうだという情報を入手していたように思われる。表向きは日本が勝っていると公言していても密かに学校内では戦争がうまくいっていないと思っていた感じがする。
 この件で練馬の陸軍納のタクワン業者の子孫に聞き込みをした。当然当時は敗戦を公言すると罰せられるので薄々の行動で空襲の少ない地域に疎開先を用意していたという。戦後でも負け戦と言いうことであまり話したくない、聞きたくない話題であって、疎開の準備行動から推測出来たという。
 陸軍納のタクワン漬は4斗樽で納品した。納品先は武蔵野鉄道石神井駅で今の西武線石神井公園駅の貨物駅まで大八車で運んだという。当時の陸軍の食事はタクワンと梅干が主力であった。とんでもない販売量でお金が家に貯まっていたという。この金も敗戦後に新円切り替えで無価値となったという。
 練馬の郷土資料館のふるさと文化館での練馬大根のイベントでは軍事産業だったタクワン製造業の歴史が消えている。
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鎌倉建長寺の河村瑞賢墓碑

2023年04月21日 | 福神漬
鎌倉建長寺へ行って、タクワン和尚が京都の寺院が江戸幕府の保護が無く寂れている状態を見て、徳川3代将軍家光の力を借りようと改心した鎌倉旅行を辿る旅をしたことがあった。偶然建長寺に河村瑞賢の墓を見つけ、墓碑をゆっくり読んで、江戸時代初期の日本一周の海運網を作った功績を実感した。この海運網で物流が活性化し、鎖国もあって日本独自の内国経済が出来た。決済手段として手形、コメ相場の統計等から先物取引等の今でも世界に通用することが考えが生まれた。犯罪捜査の指紋(主に手の紋)から現金を運ばなくても旅が出来た。手形は紙に手を擦り付け、この証文を持参した人に支払うという。今の手形にも譲渡という欄があって、手形を譲ることが出来る。
 日本の物流網は平地が少なく,山や谷と急流の河で車というものが大陸中国と比べて発達しなかった感がある。一度に重い物を運べる水運が発達したと思われる。それでも日本海海運網で太平洋岸は黒潮という厄介な海流があって、銚子沖から江戸に向かうのは難しかったようだ。
 明治事物起源を著わした石井研堂は江戸漂流記を著わし、明治維新の源流を探ったと思われる。情報鎖国で一般人が異国に行けるのは漂流しかなかった。その漂流記でも記録があるのは生き残った人だけで、無数の漁民船員があった。多くの江戸時代の海難は太平洋側が目立ち、フィッリピンまで流されて帰国した船員もあるようだ。
 海難は秋から冬にかけて多いと思うのだがやはり正月用の物流状況を示している感じる。こんなことを思いながら河村瑞賢が福神漬の考案者の一人となっているのは不思議である。
 根拠のない創作伝説は時間が経てば消える。まだ河村瑞賢説は生き残っている。
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デフレ慣れで

2023年04月20日 | 宅老のグチ
新宿歌舞伎タワ-で映画を観ようと計画しているが料金体系を見ていると、軽食付きで最低の席が4500円となっていた。今まで高齢者割引で全部1200円で観ているのでライブの実況のようなものしか見に行けない気がする。例えばアメリカのダ大リ-グ中継とか歌舞伎、コンサ-ト等々。映画なら封切り直後で無ければいずれガラガラとなると思うのだが何か物の意図があれば成立する。
 飛行機でエコノミ―とビジネスクラスという区別がある。それなりのサ-ビスの差があるが、着く時間は同じである。映画も席の快適さがあるだけで内容は変わらない。
 食関連の値上げが続く。どうやらコロナ開国で人手不足ということが全国的に広がっている。予想だが年末の人手不足で超高齢者(85歳まで)が働きに出る気がする。年収を抑え、年末繁忙期に休む。年末に休んでいるのが超高齢者しかいない。西欧人は早めのリタイアが人生の目的のように感じるが日本はどうやら生涯現役にこだわる人が多く、それがDXを遅らせる。
 昔と言っても40年近く前にグアム島に観光旅行に行った。そこでのガイドが言うには現地人は公務員希望が多く、現業の仕事は出稼ぎの人だという。今後の日本は円安のため超高齢者が動くしかない。従って老後対策の切り札は学歴でなく体力と気力となる。大企業に勤めていた経歴も80歳になれば邪魔になる。多分転職回数も少なく、話題になるストックが少ない気がする。多くの日本人高齢者は一生に一回程度しか海外旅行に行ったことはないと感じる。ひきこもりの日本人は異国人の観光客によって生かされる。
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早大正門行き都バスに乘る

2023年04月19日 | 宅老のグチ
昨年練馬区の石神井公園ふるさと文化館でたくわんのことを中心とした練馬大根のイベントがあった。大江戸線練馬駅でバスの選択に迷い、駅を警備していた警察官にバス停を聞くと、結構遠く、さらに通勤時間でないので待ち時間がありそうで、電車に乗ることになった。
 石神井公園駅から狭い道を石神井公園の先にある図書館の地下室でたくわん漬の本を読んでいた。今は新しくなりふるさと文化館となって練馬大根が文化となった。結構小学生が見学に来ていて、係の人がふざけて肥え桶を示して、これは何の用かと聞いていたことを思い出した。帰りに三宝池にバス停があって、行き先を見るとJR阿佐ヶ谷駅だったので、西武バスで乘ってゆく事にした。仮に阿佐ヶ谷で乗り継ぎのバスが見当たらなくてもJRに乘ればよいと考え初めてのコ-スとなった。狭い道をウロウロとバスがゆく。途中にJRの駅を過ぎたが終点まで行く。阿佐ヶ谷駅のバス停でバス便を探すと新宿行きが見えてさらに渋谷行きもあった。新宿バス停はまだ慣れないので渋谷行きを選択。
 渋谷駅に近くなると狭いのと人の多いのでバスの速度が落ち。他のバスを見ていたら都バスで早大正門行くバスがあった。
 大学紛争時に早大には門が無いという記憶が残っていて、いつの間にどのような門を作ったのかという疑問が残った。ネットで調べると早稲田大学の門には、門柱や塀がありません。これは早稲田大学が、学びたい人を拒まない、開かれた大学であることを象徴していという故事になった伝説がある。

 天気の良い日に渋谷駅から早大正門行きに乘るバス旅。
渋谷駅東口11時13分発、工事中で目の前にバス停があっても中々たどり着けなくて、着席後1分で出発。原宿駅、千駄ヶ谷駅等を過ぎ、新宿駅にはいかず四谷3丁目駅を過ぎ、12時丁度早大正門に着いた。大隈講堂の時計台から音がしていた。その後都電の早稲田駅まで歩き、子育ての祈願で有名な鬼子母神前停留場 の参拝で降りる。ネットで調べると異常に評判が悪いのに気が付くが事実確認するしかない。駅を降りると地図が見当たらず、大きな木が見えたのでその方向に行くと、正解だったが途中で並木が切れ、歩道の石畳風の道に導かれ、鬼子母神に着く。普通の寺院。戦災に会わなかったのだろうか巨大なイチョウの木。
 ネットの書き込みは妊活の不満の吐き口と感じた。なんでも許容する神には不満を吐き出すしかない。また都電に乘り飛鳥山で紙の博物館に入る。普通は小学生のコ-スだが20代の男子が十数名見学中。様子からどこかの企業の新入生研修のように見える。紙の歴史を知る。王子駅から浅草雷門行きの都バスで終わる。
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土地の記憶 近代の木造家屋

2023年04月18日 | 宅老のグチ
大田区久が原の昭和のくらし博物館は木造の戦後に作られた家で、今では戦後間もない建築の住める家は殆ど残っていない。日本の木造不動産は寺院等を除くと50年は住むに堪えない作りで西欧の100年以上前から住んでいる家と異なる。地震台風等の天災でそこまで耐久出来ない家で、江戸時代の思考が残っている。男子は家の一軒位建てないといけないと言われていた。そこに不動産はインフレに強いという土地信仰もバブル時まであった。
 大田区の川端龍子記念館の隣に、開館時に1日3回、10時11時、午後2時に記念館職員の案内で龍子の自宅と庭園を巡ることが出来る。今まで庭園を案内で回ったことが無いので初体験。外から見た日本画を書く部屋は絵の具を入れた皿が最後の池上本門寺の天井画の時のままという。広い画室、光を取り入れる窓のガラスは自動車販売店のように大きい。南面の庇とと比べて西向きの庇は巨大というより西日を避けているように見える。説明を聞きそこなかったが描いている絵が西日で劣化することを恐れたのだろうか。もう少し調べて質問したい。画室の前に戦時中に爆弾が落ち、池となり放置された。そこに生き物が復活した。龍子の子供も先の戦争のニュ-ギニアで従軍中に戦病死したという。ほぼ餓死という。
 自宅の仏間には電灯が無く、自然の光を入れ祈っていたという。客間には炬燵と電気があった。戦後昭和の比較的余裕のある画家の家と見える。今はこのような木造の家を作る人は寺院等を除くと地方でしか無いと感じる。
 新宿の博物館でもらったパンフレットで佐伯祐三アトリエ記念館等を巡ってみたい。都内各地に文士村がある。次代の変遷とともに文化が変わる。
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東京都中央区長選挙の無投票再選

2023年04月17日 | 宅老のグチ
何か中央区の区長選挙が無投票再選という。4年前は築地市場で移転の準備をしていて、取っている新聞に入っている各政党の公約を眺めていた。40年以上築地市場で働いていたが選挙権がなく、割と冷静に眺めていた。中央区は40年間の初めは人口増加率が停滞していて、一時的に住む人より築地市場と銀座周辺の飲食店の人たちの寝床だった。特に築地市場の勤務時間の始まりは午前2時頃からあるので遠距離通勤の人はバイクか自転車だった。もちろん自家用車もあるのだが駐車料金が高く人数の多い従業員は隅田川の勝鬨橋を渡る人が多いと記憶する。従って中央区の問題は人口減少が最大の争点だったが、人口を増やす建ぺい率とかの問題は中央区だけではどうにもならなくなった。人口が増えないと他の区と統合の話しも出て来る。中央区もかっては日本橋区と京橋区が統合して、今でも町名にこだわる旧日本橋区へのノスタルジ-があって、新町名の前に日本橋xx町となっている所が目立つ。その様なことを懸念していた当時の中央区にの人口は7万程度で今やタワマンで人口がオリンピック選手村マンションに入居すれば20万にになるという。当然区の統合話は消える。役所のポストも減らない。これから築地市場の跡地の活用だが緑の狸に騙された築地市場の周辺の人たちはまだ狸ならず狐に騙されている状態を続いている。
 中央区は築地市場の問題を除くと争点がなく大同小異という感があって、さらに人がいても中央区に投票できるか判らない人しか築地市場周辺にいて、区の選挙でも静かだった。
 江東区も選挙前に前区長が急死し、後任はどうなることやら。
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脳休み

2023年04月16日 | 宅老のグチ
なぜか日本の報道でウクライナ戦争の話題が減っていて、現実では局地戦闘が続いていて、補給の問題があるようだ。最近の紛争も戦争も短期間で終わらなければ、支援者が増え、思惑もあって戦争紛争が長くなる。心配していたん食料不足問題は今の所途上国には表面上問題が無いように見えるのは日本の報道機関の怠慢というより、日本の読者等の関心が低いということに尽きる。海という天然の防御網で日本が惰眠中である。
 いざ危機が来ると慌てる気がする。間も無く雨の季節が始まる。地球温暖化というのが海水の蒸発量が増えるということで、きまくれな大気の流れで予期せぬところに大量の雨が降り、生態系を破壊する。アフリカのバッタが大量発生したのは降らない雨が降り,天敵のいないところでバッタが繁殖し、草が繁茂し、さらに増え、移動し農産物に被害を与えたという。
 でも地球というところでどこかが増えればどこかに落ちる。今週末に旧陸軍へ沢庵を納めていた業者の子孫を訪問し尋ねることを予定していて、準備に入る週となる。
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