年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

血戦特攻隊の記録

2019年05月31日 | 宅老のグチ

埼玉県の県立図書館は本館と言うべきところは熊谷にある。先の戦争が激しくなったとき、全国の様々な業者が統合された。新聞もその一つで1県1紙となった。もっとも朝日・読売・毎日等も数枚だった新聞も一枚になってしまった。さらに戦争報道で読むべきニュ-スが戦争状況しかなかった。叔父の特攻記事を探すべく、熊谷に向かった。昭和20年5月23日に数行の記事があったが戦果のみであった。そこで埼玉県出身の特攻死したリストを探してもらった。血戦特攻隊の記録の本を出してもらった。リストによると埼玉県出身の陸軍特攻隊で死去した人は40名以上、さらに海軍も入れれば毎日の記事が暗くなる気がする。作戦だけなら米軍の大被害だけですむ。叔父の名前は見つからなかった。

 沖縄の伊江島で20年4月18日に死去した従軍記者アニ-パイルは第二次大戦で一番有名な戦争コラムニストで戦後沖縄でアニ-パイル国際劇場が出来た。今は沖縄の国際通りと言う名称が残っている。さて伊江島の戦闘が激しかった。LST808は硫黄島の戦闘に参加し、その後沖縄伊江島に行った。5月18日に特攻され、伊江島に修理のため停泊していたが5月20日再び特攻され大破となり、戦後間も無くくず鉄となった。

アニ-パイルは一時伊江島に埋葬されたが、今はハワイの戦時の記念墓地に埋葬されているという。戦争報道記者の判断の標準となるべき人でこの人の記事を読んでから、戦争報道記者の事故責任論に対処したい。 


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アマゾンからメ-ル

2019年05月29日 | 宅老のグチ

アマゾンからメ-ルが届いた。アメリカに発注していた本が予定より早く届きそうだ。最大ひと月早い。これから辞書を使って読むしかない。

 昭和20年5月20日に台湾と鹿児島からほぼ同時刻に陸軍特攻隊が出撃した。叔父の特攻は台湾の八塊から5機(誘導機1機)、鹿児島の知覧飛行場から陸軍特攻隊の第50振武隊13機(実際は10機)が沖縄嘉手納沖に特攻した。この攻撃の日本側の目撃者が不明で大本営発表では大戦果となっている。

 米軍の記録でもどこの攻撃か不明である船は5から6機のカミカゼという記録もあれば10機のカミカゼ攻撃を受けたという。どの記録も一式戦闘機ハヤブサだった。米軍のコ-ドネ-ムはオスカ-という。今度来る本はLS808という米軍の特攻被害の本でこの内容で叔父の攻撃かどうかがわかる気がする。USS DD-514のサッチャ-はどうやら叔父等の特攻で11人が即死・負傷者が50名以上あったようだ。この記録の本も数年前に出版しているようだ。

 昭和20年5月24日の朝日新聞では20日の特攻は振武隊だけが記事となっている。当時の新聞は特攻だらけで、過大報道で多少の戦果では報道のインパクトがないようだ。当時の日本人は紙1枚の新聞をどんな気分で読んでいたのだろうか。

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博物学の本を読み始める

2019年05月28日 | 宅老のグチ

なた豆の由来や効能を調べているうち、上野の博物館・科学館・動物園などに関連する博物学に興味を覚え、集中的に今年の夏は読むことにした。いきなり適当に借り出したがセンチを超える本の厚さは連日の暑さを避けるには良い口実となっている。5月ももう終わる。

 福神漬伝説の田中芳男博士につながる日本の長い本草学の変遷が今の上野公園一帯の物語となるようだ。

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和漢三才図会

2019年05月23日 | タクワン

東洋文庫(和漢三才図会18)でなた豆の確認をしていたら米の項目があった。うるち米とモチ米の項目があった。江戸時代はどうもはっきり分かれていないようだ。ぬかみそにはモチ米のぬかではうまく出来ないというより失敗する。うるち米ぬかでぬかみそ漬けがうまく行く。この事は江戸時代末期からぬかみそ漬けがあったという。

 ところでウルチ米とモチ米の分化はどこから来たのだろうか、多分酒の醸造から来たと思うが解らない。今でも全国で数社ほどモチコメで酒を作っているところがあるようだ。今はウルチ米で酒を造るところが殆んどでモチ米の酒つくりは難しいようだ。ただ酒の個性はありそうだ。

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帳尻あわせの雨

2019年05月21日 | 宅老のグチ

10連休の初めの頃に降った雨から小雨があったが降らず少な目の雨が今日はたっぷり降りそうだ。野菜も晴れ続きで大型化もあるようだ。この雨で田植えの後の水不足も解消しそう。これで梅雨の雨が適量なら文句なし。ただ最近は降りすぎが多いので油断大敵。

 写真週刊誌が豊洲のタ-レ-の違法問題を取り上げている。豊洲市場慣れで違法状態は気にしない。自己責任=事故責任で今は豊洲が旬の地域で昔から中央労働基準監督署で築地市場が問題の仕事場だった。中の人の出入りが激しく、注意すれば退職するので注意できないようだった。とことが築地市場の移転騒動で有名になりすぎてしまったが中で働く人材の質が向上したことは無い。豊洲移転でも厳しい数字が豊洲でも続いている。マスコミの材料となる不祥事もまだ続くだろう。貧すれば鈍す。改良.改革しても数字が悪ければ改良以前よりやる気を失う。まだまだ豊洲は模索中。

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一陣の風が吹くかも

2019年05月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

数年前の5月下旬に親族が集まって、叔父の特攻命日が過ぎたが靖国神社に参拝し、昇殿した。神職の御祓い中にそれまで無かった風が急に吹いて、親族は驚いた。屋内なので風が吹き抜けるとは思っていなかった。その後の会食でみんな同じ感想が在った様で今でも語り草となっている。靖国神社ではこのような演出があるのだろうか。あるはずが無いと思いつつ(一陣の風)というのがある。

 そもそも靖国神社参拝に至る経緯は息子が知覧の特攻慰霊会館に叔父の写真を見に行ったことから始まる。偶然に行った日は5月20日で先方より住所を聞かれ、それから毎年慰霊祭の招待状が着始めていたが築地の仕事は5月の連休は休めない。代理の妻子が行っていた。ようやく豊洲へ移転できたので時間がとれ、交代で知覧に行った次第である。特攻は避けていたこともあって知覧に行くことが決まってユ-チュ-ブで慰霊祭の様子を見ていたが無いようだ。黒目の服を着て鹿児島中央駅のバス溜りに送迎車があって乗り込む。南鹿児島市の市職員のお世話で会場に向かう。車中の慰霊祭参加者を見てネクタイを黒に変える。服は喪服もあるが地味な服が多いようだ。74年という歳月があるのだろう。ポケットにハンカチがあることを確認。涙拭き用。

 特攻した人たちの遺書から若桜と言う言葉を知った。いま靖国神社は若桜の季節だろう。風が吹いても桜は散らない。

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元に戻ろう

2019年05月18日 | 宅老のグチ

ここ二ヶ月は知覧の慰霊祭参加のための基礎知識を得ることだった。5月20日に靖国へ行って今年の調査は終わる。アメリカの退役軍人組織も第二次大戦の方の活動がここ数年前からNPO法人活動停止が目立っているようだ。戦後70年で日本も節目を向かい。国内の戦友会組織も90歳を超えている人も多く、毎年大幅に会員が減ったり、寝たきり、預貯金の減少等で活動がさっぱりのようだ。アメリカでも同様なことが起きている様子が見え、葬儀会社のHPらしきもの目立つ。無くなった人の経歴で戦闘に参加していたのが目立つ。やはり戦争は勝った方が勢いが良い。

 また明治の頃に戻るのだが和漢三才図会と言う本はチョット読む必要性があるようだ。江戸時代の本で見落とした本かもしれない。

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貨物船ブラウン.ビクトリ-損傷は誤記録か?

2019年05月17日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年5月20日の叔父らの特攻の被害を受けたという貨物船ブラウン.ビクトリ-損傷はどうも誤りのようだ。このビクトリ-型の貨物船は戦時の物資を運ぶため、今の時代でも通用する船体をブロック毎につくり溶接し船にする。量産スピードが早く,この型は第二次大戦が終わっても使用された。このブラウンと言う名前の由来はアメリカの有名大学ブラウン大学から来ている。

 記録によると特攻されたのは昭和20年5月28日となっている。

 

勝てば官軍負ければ賊軍と言う言葉が先の大戦の記録でよくわかる。勝った米軍は記録が豊富で負けた日本は記録が少ない上、敗戦時書類を消去したという。野球の大リ-グの記録を見ていると初期から細かい記録をつけ分析しているようだ。同様なことを戦時にもしていた。米軍艦船は日本の攻撃に対しての復活力がすごい。破壊されても沈没することも無く修復されている。人命の重みを軽視し、飛行時間の多いパイロットを重点的に米軍が狙ったようだ。操縦席の後ろに防弾の板が無いか薄いので操縦者を狙ったようだ。もっとも日本はガソリン不足で特攻と言うことで機体を軽くすることを重点的に考えていたようだ。戦争が進むに従い、慣れない促成の日本のパイロットは改良した米軍機に次々と撃墜された。レーダ-によって探知されたときは特攻の成功確立は少ないように思える。叔父らの特攻訓練は海面すれすれの編隊飛行だったようだ。

 先人の行動を分析し、敗北の原因を探り、対策を創るのが普通だが、どうも奇襲攻撃が好きな日本軍は敵が奇襲を予想していると思わないのだろうか。奇襲の通用しない方法をとられると弱い。日清戦争でも砲弾に直接当たり死んだ人より、病死した軍人の方が多い。第二次大戦でも多分同じだろう。餓死、輸送船での水死、医薬品の不足による戦死などなど。

























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5月も半ばとなれば

2019年05月16日 | 宅老のグチ

まだ週二回ほど豊洲へ行くが、旧築地市場の解体工事もアスベストを含むところを除くと、5月中に更地となりそう。

1980年頃までアメリカの駆逐艦がアスベストが使用されていて、特攻の被害を受けた船舶を検索していると弁護士広告があった。肺がんの一種である中皮種はアスベストが発ガン物質となっていて、日本でもアメリカでも補償の対象らしい。戦後74年となれば先の大戦に参加した退役軍人も90歳代になってアメリカの葬儀会社の会葬案内が目立つ。特に硫黄島と沖縄で活躍した乗組員の経歴から(カミカゼ攻撃)を対処したということが目立つ。退役軍人にとって沖縄戦はどの様な意味を持っているのだろうか。少なくとも沖縄戦以後アメリカは純然たる勝ち戦は無かった。在るのは敗北と停戦である。

 ところで戦前の日本の軍艦はアスベストを使用していたのだろうか。

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昭和20年5月20日の特攻の違和感

2019年05月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年5月20日の米軍に対する沖縄嘉手納沖に特攻した記録に何か違和感があった。米軍の記録によるとある記録では13機と言うし、また別の記録では5から6機と言う記録のあった。少なくとも台湾から沖縄に特攻した飛行機は6機で13機と言う記述理解できなかった。もう少し調べて行くと5月20日鹿児島知覧飛行場から第50振武隊が13名で出撃している。ところが5月25日に20日の出撃した人が2名再出撃している。28日に1名再出撃している。どうなったのだろうか。差し引き知覧から10機となる。

知覧での振武隊の出撃動画が見ることが出来る。

www.youtube.com/watch?v=p50LxujvnxA

USS Chase (DE-158/APD-54)は記録から台湾からの叔父らの飛行第204戦隊の特攻を受けたようだ。

USS John C. Butler (DE-339)は記録から6機の攻撃と言うことで飛行第204戦隊の特攻を受けたようだ。

USS_Register_(APD-92)は米軍の記録から10機と言うことで第50振武隊によって特攻されたと思う。ただ特攻隊がゼロ戦で無いので正確でないかもしれない。特攻機は陸軍は一式戦闘機隼である。

台湾と知覧から出撃した特攻の狙いは米軍のレ-ダ-探知を混乱させる目的があったと考えれば知覧へ戻った3機の理由がわかる。様々な特攻を調べた本によると昭和20年5月の沖縄戦のあたりでは米軍の特攻に対する迎撃準備が整っていて艦船まで到達することが少なかった。それにも関わらず叔父らの特攻で6隻近くの損傷は文献として信じられなかった。知覧の10機と台湾の6機で初めてこのような戦果があったと思えば納得が出来る。ただ日本の特攻研究者は知覧の第50振武隊の戦果と記述されている。この理由として台湾からの誘導機が帰還しなかったからと思われる。もう少し調べれば当時の状況がわかる気がする。LST808は硫黄島と沖縄戦線に参加し、5月18日日本軍の飛行機からの魚雷で損傷し、修復中に5月20に特攻攻撃を受けて、多分伊江島だと思うが突っ込み沈没を免れた。

 このLST808の最後の状況は7月の配達される本(Death of Lst808 著者William R Bell)で解るだろう。


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叔父によって特攻されたLST808

2019年05月14日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年5月20日台湾から沖縄に向けて特攻した飛行第204戦隊は5名の特攻隊員と誘導機1機で夕方出撃した。沖縄西方海上で米軍の沖縄沖に停泊している艦船を攻撃した。記録によると沈没したLST808は17名の即死者、負傷者11名だった。戦車揚陸船のようだ。このことを検索したいたら2018年にThe Death of the 808という本が出た。早速アマゾンで検索するとなんと日本で買えることが出来るとわかり購入する。アメリカ本土から船便で日本に来るようで6月初めから7月初めの期間に配達される。8ドル、日本円では1000円弱。叔父らの特攻がアメリカ人の記憶に残る攻撃となったようだ。この本の出版されたのは2018年なのでごく最近と言うことになる。どんなことが書いてあるのだろうか。

 読み終わったら春日部市庄和図書館へ寄贈しようと思っている。先日庄和図書館の郷土資料を見ていたら何も記録が無い。

 

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USS Register(APD-92)動画で見る叔父らの特攻

2019年05月13日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年5月20日叔父ら5人の陸軍特攻隊は台湾から沖縄嘉手納沖に集結している米軍艦船に向かって特攻した。特攻の資料でレジスタ-とかリジェスタ-とかの船名があった。色々な推測で検索し、ようやく叔父らの特攻された米軍艦隊の英文名が解った。USS Register(APD-92)この船名は日本とアメリカの開戦日にハワイ真珠湾で戦死した軍人の名前から来ている。特攻の損傷は比較的軽く、修復後、米海軍の登録がはずれ、台湾の中華民国に売却された。

 この昭和20年5月20日の特攻では台湾からの出撃は6機だが残りの7機はどこから出撃したのだろうか。混乱していたとは言え日本の記録と米軍の記録が合わない。

グーグルで英文で検索すると動画を見ることが出来る。叔父らの特攻で破壊されたUSS Register(APD-92)は下記のアドレスで動画が見ることが出来る。とぼとぼと破壊された飛行機の周りを歩いている。こんな動画を見るとは遺族として不思議な感覚が沸く。

https://www.youtube.com/watch?v=7rxhTuyBaDE

特攻された後、負傷者の状況。動画を見ていると特攻の恐怖感が感じられる。

https://www.youtube.com/watch?v=fT-g2ZLfPSc

 

 

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アメリカでの叔父の特攻記録2

2019年05月11日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

USS チェイスchace(DE-158)

アメリカでの特攻についての記録は日本より多い気がする。いわゆる大本営発表と違って戦勝国なので退役軍人たちが自己の歴史を記述することが盛んなようだ。多くの退役軍人のホームペ-ジがあるようだが日本語の自動翻訳の精度がゆるく、さらに軍隊用語が混じっているので日本語より英文から辞書を引いて理解したほうが良いかもしれない。

 アメリカの駆逐艦チェイスは最初大西洋の海域でドイツ軍と戦っていた。アメリカが優勢となった後、太平洋に回航された。昭和20(1945)チェイスは5月20日まで沖縄沖を巡回する危険な任務を続けました。5月20日チェイスは特攻する一式戦闘機隼に発砲攻撃しましたが急降下する特攻機を避けるため激しく船を操縦していました。

 船から至近距離10メートルくらいで、飛散、それが運んだ2発の爆弾の爆発。船のエンジンと消火設備を破壊した。チェイスのステアリングギアが硬い左舵で動かなくなったので、チェイスは別の特攻機を追い払った。転覆の危険にさらされるほどひどく破壊された。チェイスは乗組員の巧妙な仕事で浮遊し続け、慶良間列島へ牽引され修理されました。チェイスは後に太平洋を越えてサンディエゴまで牽引され、10月11日に到着した。ここで彼女は1946年1月15日に廃止され、1946年11月13日に売却された。

 なぜか後々の記録でくず鉄となったDE-158チェイス船体の鉄は日本企業に売却された。

ここまでは仮の翻訳です。

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消された同期の桜の4番

2019年05月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期


5月3日の鹿児島県南鹿児島市の知覧で特攻した人たちの慰霊祭があった。式典の最後は(同期の桜)を歌って終わる。私の学生時期はこの歌を歌うことは好まなかったのでうろ覚えだった歌詞を思い出すためユ-チュ-ブで見ていたら、歌わない歌詞が出てきた。

4番: 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 
あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか

5番: 貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう

 戦後、昭和25年頃から、私の父の指示だと思うが毎年夏になると埼玉の実家へ預けられた。この事は父が病死した昭和30年まで続いた。居間に掲げられている飛行機の前に立った叔父の写真を眺めていた。当時の記憶は航空関係で戦死したと言われていた。特攻で死んだことは昭和45年に叔父と父を生んだ母が老衰で死去したとき初めて葬儀の席で詳しく聞いた。

 5歳くらいの子供が埼玉の田舎へ行くと父を生んだ母が満面の笑みを浮かべて、埼玉弁で話していた。記憶が今でも65年経っても昨日のようによみがえる。

 生きて帰ると約束して陸軍特別操縦見習士官1期生の応募したのになぜ帰らなかったのか。私は死んだ叔父の生まれ代わりのように思われていた。それだから父は毎年埼玉の実家に行かせたと思う。

 5月20日に靖国神社に参拝し。青々と茂った桜を眺めて叔父への思いを伝えようか。何故死んだのか。横須賀での叔父と父の最期の面会で何を話したのだろうか。昭和20年2月27日に叔父は茨城の飛行場から内地を転々とし、朝鮮・中国経由で台湾の航空基地へ赴任した。

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中国のパクリ・艦隊コレクションUSS サッチャーDD-514

2019年05月09日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

USS サッチャー(DD-514)

ウィキペディアの自動翻訳で叔父が特攻した船の歴史を知る。所々誤りがあるがおおよその内容で昭和20年5月20日の特攻で船が大破し14名即死さらに行方不明が2名あった。慶良間で修復中に再度7月に特攻を受けた。その時は小破だったようだ。検索を進めてゆくうち、中国のゲ-ムで日本の艦隊コレクションをぱくった画像が出てきた。中国の人でも知っていた

USS サッチャー(DD-514)とはどんな船の歴史があるのだろうか。

 艦隊コレクションの動画と歌を聴く。数年前の流行と聞くが周囲のゲ-ムオタクは内容不明と言う。歌詩は特攻遺族には絶句。これでは軍歌を歌っていた90歳以上の人たちは不快感を表すに違いない。特攻した人たちの遺書から想像も出来ない事態となっている。どこから来るのか不良中高生が特攻服を着る理由も知らない。大人は対処できなく警察のみ非行の前触れとして対処しているようだ。

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