上野の美術界と福神漬
上野の歴史を調べていると、福神漬と美術とが地域と時代が重なるのに、縁がないと思って無視していたら、河鍋暁斎の経歴から無視できなくなった。
江戸幕府の専属絵師となった狩野派は幕末になると絵の技術が衰えていた。従って幕府が崩壊し明治に入ると、才能のない人たちは先祖の資産を切り売りして生活しなければならなかった。木挽町狩野の俊才と言われた橋本雅邦は陸軍局の地図を書く仕事で生活を維持した。また同じ塾の狩野芳崖に至っては田舎に帰って田畑を耕作し10数年過ごしたという。最後の狩野派と言われた河鍋暁斎だけが浮世絵などをこなし、時代と下町の需要を取り入れ安定していた生活をしていた。
明治3年不忍池料亭での筆渦事件を起こし、その刑罰は下谷の人達の同情を呼んだ。また彼の妻となった上野・東叡山寛永寺の輪王寺の縁者ということも同情を誘ったと思われる。明治新政府の役人が外国人にペコペコし、下谷の住民に対して傲慢な態度をとっていたのを揶揄した狂画を描いたといわれる。
明治に入って日本にきた外国人で日本美術に興味を持った画商やコレクターが河鍋暁斎に興味を持ったのが多いのは一人の日本人の影響があるかもしれない。三河屋幸三郎という人で、開国後横浜で美術商をしていた人である。下谷の彫刻家高村光雲などと付き合い、根付けなど日本人が見捨てた品物を外国人に販売していた人である。彼は上野戦争で亡くなった彰義隊戦士の遺体を持前の義侠心から弔った人でもある。
河鍋暁斎と付き合いのあったことが知られているのは、大森貝塚を発見したモース、東大で哲学等を教えたフェノロサ、建築家コンドル。ドイツ人医師ベルツなどが知られている。
河鍋暁斎は明治18年頃まで約30年間湯島に住んでいて、のちに根岸に転居した。湯島の家も池の端に近く、下谷の地域の住民であった。根岸では根岸党の人々と酒を飲んでいたという文献もある。ここで福神漬を河鍋暁斎が食べていた可能性がある。彼は大酒のみで酒で亡くなったといわれる。
上野の歴史を調べていると、福神漬と美術とが地域と時代が重なるのに、縁がないと思って無視していたら、河鍋暁斎の経歴から無視できなくなった。
江戸幕府の専属絵師となった狩野派は幕末になると絵の技術が衰えていた。従って幕府が崩壊し明治に入ると、才能のない人たちは先祖の資産を切り売りして生活しなければならなかった。木挽町狩野の俊才と言われた橋本雅邦は陸軍局の地図を書く仕事で生活を維持した。また同じ塾の狩野芳崖に至っては田舎に帰って田畑を耕作し10数年過ごしたという。最後の狩野派と言われた河鍋暁斎だけが浮世絵などをこなし、時代と下町の需要を取り入れ安定していた生活をしていた。
明治3年不忍池料亭での筆渦事件を起こし、その刑罰は下谷の人達の同情を呼んだ。また彼の妻となった上野・東叡山寛永寺の輪王寺の縁者ということも同情を誘ったと思われる。明治新政府の役人が外国人にペコペコし、下谷の住民に対して傲慢な態度をとっていたのを揶揄した狂画を描いたといわれる。
明治に入って日本にきた外国人で日本美術に興味を持った画商やコレクターが河鍋暁斎に興味を持ったのが多いのは一人の日本人の影響があるかもしれない。三河屋幸三郎という人で、開国後横浜で美術商をしていた人である。下谷の彫刻家高村光雲などと付き合い、根付けなど日本人が見捨てた品物を外国人に販売していた人である。彼は上野戦争で亡くなった彰義隊戦士の遺体を持前の義侠心から弔った人でもある。
河鍋暁斎と付き合いのあったことが知られているのは、大森貝塚を発見したモース、東大で哲学等を教えたフェノロサ、建築家コンドル。ドイツ人医師ベルツなどが知られている。
河鍋暁斎は明治18年頃まで約30年間湯島に住んでいて、のちに根岸に転居した。湯島の家も池の端に近く、下谷の地域の住民であった。根岸では根岸党の人々と酒を飲んでいたという文献もある。ここで福神漬を河鍋暁斎が食べていた可能性がある。彼は大酒のみで酒で亡くなったといわれる。