27日は酷暑で、朝から病院通いの介護白タク。柴犬が食欲不振で調べたら、結石があるらしい。それが終わると家族の定期検診が3か所、これも送迎。いずれも普通より短時間待機で終わる。やはりコロナで不要不急の医者通いが減っているのだろうか、予約時間通りに進み、さらに繰り上げ診察もあったようだ。この暑さだと病気より熱中症になりそうだ。
待機時間に気になる本を読んでいた。
カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿 -歩く、異文化交流の体現者-
片桐 一男著
最後の方に気になる一文があって、嘉永3年(1850年)4月10日から5月3日までオランダのカピタンの最後となる江戸参府があった。この時カピタンから幕府に書物が献上され、その翻訳を幕府老中阿部正弘から新任の長崎小通司並の立石得十郎に10月に秘密裏に翻訳依頼された。この本は長崎奉行のところへ行き翻訳するという厳重な秘密保持を受けた翻訳だった。
嘉永3年10月は勝海舟のところに高野長英が名前を隠して訪問したりしていた。さらに10月末日に南町奉行配下の与力たちによって、長英は撲殺された。記録では自殺となっていた。
評伝高野長英を著した鶴見氏や長英逃亡の吉村 昭氏でも具体的な逮捕に至る経緯が解かっていない。
のちの動きから次にように推測すると最後の手違いと幕府上層部の隠ぺい工作が判明すると思われる。
なぜ次に書くように思うのは最近読んだ遠山景元【金さん】の本から謎解きが始まる。江戸時代の名奉行と言われる人は多いが意外と学者による研究がないのがと嘉永5年に引退した江戸の南北奉行を経験した遠山の金さんである。水野忠邦の天保の改革時に北町奉行で水野の圧力を反対するでもなく抵抗していて実務をこなし、奉行を外され、再度復活した時、南町奉行として株仲間再興を筒井政憲と共に進言し活躍した。特に歌舞伎の消滅を救ったので演劇界では恩人とみなされている。
明治26年11月明治座初演の竹柴其水作(遠山桜天保日記)は竹柴が取材していて当時の天保の改革の明治期の評価と見てよい。最後に新潟の町が出てくるが天保の改革でさびれた江戸と比べ新潟が繁盛している様子が描かれている。
冤罪だった人が改心し、裁きの場で隠された過去を遠山の金さんが入れ墨をみせ、お裁きをするという今では金さん物の定番の形が出てくる。初演は桜ではなく生首という。戦後に2度ほど上演されたが築地の大谷図書館で読んだ台本ではぎりぎりまで台本が出来なかったようだ。つまりこの筋書きは明治期は理解できても平成時代の人には理解しにくいと思って台本が出来なかったと思われる。
高野長英が放火によって逃亡したことが南町奉行配下の与力・同心たちには許せなかったと思われる。幕閣上層部ではオランダから贈呈された書物の翻訳に難儀していて、江戸市中に出回っていた翻訳書から長英の生存を疑い、捕縛した後に翻訳させる相談があったと思われる。新井白石が日本に潜入した神父をキリシタン屋敷に閉じ込め、西洋文化を研究したことを前例とし、放火逃亡でも死罪とならないと相談をしていた気がする。この情報が洩れ、さらに江戸市中潜伏となれば南の与力たちのメンツが保てないと思い生け捕り捕縛に抵抗してきた高野を撲殺したと思う。
カピタンから送られた本は軍事関係の本と想像される。適当な日本人に理解しやすい言葉が見つからなかったと思われる。信州上田の赤松小三郎は内田弥太郎・下曽根金三郎の弟子で軍事関係の翻訳『英国歩兵練法』 をしている。
『右向け右』などは彼の成果という。坂本竜馬の考えを赤松から学んだといえる。坂本が今では赤松より有名なのは自由民権運動で土佐の人たちが活躍して顕彰した結果である。