年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2021.6 直木賞の本を読む 

2021年08月31日 | 宅老のグチ
星落ちて、なお   澤田 瞳子著
 蕨の図書館で河鍋暁斎の研究誌を読んでいた時はこの本の存在を知らなかった。今の自分の関心は瓜生政治(梅亭金駕著)暁斎画伝の事で暁斎の娘、明治元年頃生まれた人の活躍の本だった。


2009年8月の終わり頃初めて蕨の河鍋暁斎美術館を訪問した。当時の目的は暁斎の七福神の絵の毘沙門天の剣の描き方を調べていた。学芸員はそんな質問をするとは思っていないようだった。当時はまだ今のように有名な画家でなく、閑散としていた。
  鹿島清兵衛と 鹿嶋 ゑつ (新橋芸者ポン太)夫妻の話を絡めて河鍋暁斎死後の家の保持ということの奮闘をを小説にした本だった。鹿島家は暁斎の絵画を購入で支援していた。
 新川物語という江戸時代に栄えた酒問屋街・新川界隈400年の今昔を、酒類担当記者歴50年の著者が、長年の取材や貴重な資料をもとにまとめた業界盛衰記を読んでいた。江戸時代下り酒の荷下ろしの場が新川界隈だった。そこには新川神社というものがあって、江戸時代の海運網を整備した河村瑞賢の屋敷跡と言われた。瑞賢は福神漬命名伝説の一つでもある。
 新川の酒問屋の婿養子が清兵衛だった。新橋の芸者ポン太と馴染みとなり、大店の主人の地位を捨て、生きていった。多分世間に対する意地だろう。

 直木賞・芥川賞は築地の場外市場の隣接の料亭選考が行われる。選考日夕方は速報の記者で周囲は混む。


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地獄の沙汰も金次第

2021年08月30日 | 福神漬
「地獄の沙汰も金次第」の意味は「世の中のことはすべてお金で解決できる」
「地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)」とは、地獄に堕ちて受ける閻魔(えんま)様の裁きでさえ、金しだいであるという意から、世の中のことはすべてお金で解決できる、あるいは、どんなことでも金さえあればどうにでもなる、という意味です。


 生き地獄という言葉があります。江戸時代は牢獄の事を意味していた。蕃社の獄の始まりで、茨城の無量寿寺の住職が過酷な取り調べで獄死しています。そこで少しでもましな生活をするため差し入れがありました。牢役人も生活があるので手心を加えていきます。そこで地獄(牢獄)の世界も金次第という言葉に繋がります。流人の世界も厳しく、差し入れがある流人は優遇されていたようです。
 明治の初めに新島での流人生活18年を終え、宮野信四郎は赦免となりました。このことは誰から継続的に新島に差し入れがないと生き残ることは困難と思われます。記録はないが高野長英の逃亡を支援し、宮野に罪を負わせた内田弥太郎は明治15年まで生きていました。この記録がないのは放火による逃亡は許されないという思いだと思われます。
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柴犬の夏バテか?

2021年08月30日 | 宅老のグチ
暑さか柴犬の食欲がなく、それで散歩によるフンも出ない。ほぼ1日寝ている。ダルそうだ。昨日吐いたので急遽医者へ行く。やはり良くないということで点滴をする。診察台の上で震えていたという。もう時間がない気がする。12歳半すぎれば寿命ということもある。
 またペットロスと付き合うと思うと気が滅入る。明日で8月が終わる。今週で大きな夏のスポ―ツイベントが終わる。今日も病院の送迎がある。
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都立公文書館での探した文献

2021年08月29日 | 福神漬
世田谷区二子玉川駅から10分ほど歩いたところに廃校・旧都立玉川高校跡地 に港区芝浦から移った都立公文書館があった。ここに3年ほど前、新宿区の歴史博物館から教えられた雇外国人のリストがあるかもしれないと教えられ行ったことがあった。そこで知ったのがライマンだった。夕張炭鉱を発見した人で小説
『秋霖譜―森有礼とその妻』 森本貞子著
では広瀬常に結婚を申し込んだが森有礼に常を奪われた。常の父は旧幕臣で異国人に娘を嫁がすより有礼を選んだ。この結婚は福沢諭吉の媒酌による日本での最初の契約結婚となった。常は後に不倫の噂で離婚されたが彼女の写真は抹消され今はどこにもない。常の妹は福と言って、明治屋創業者に嫁いだが出産時に病で亡くなった。
 森本氏の小説では自由民権運動静岡事件の被告人となった養子問題で常は離縁されたという。福が産後に病で亡くなったのも同様の理由と思われる。

 さて西国分寺に移転した東京都公文書館で探した文献は高野長英捕縛時に匿った時、遠山景元(金さん)のお裁きで嘉永3年12月に4人が流罪となった。そのうち1名の松下寿酔は獄死していて残りの3人の行方がはっきりと書かれず多くの長英小説では御家断絶とか子女は遊女に売られ、養子に出され、さらに遊女の娘は地震で下敷きとなってしまったとなっている。

 石井研堂の明治事物起源の缶詰の始まりに福神漬が出ているが文献の正確性に欠けていて多くの学者からコラム扱いとなっている。しかし石井はなぜこの缶詰の始まりに福神漬缶詰を取り上げたかの検証がなされていないことに気が付き、文章をいちいち検証していた。そして北方領土に日本国の柱を建てた近藤重蔵があって、なぜだろう調べると、重蔵の子供で富蔵が殺人を犯し八丈島に流罪となった。近藤富蔵は八丈実記という本で伊豆7島の民俗の記録を残している。東京都の文化財となった八丈実記を借り出して流人を調べると八丈実記4巻には高野長英で流罪となった3名が記載されていなかった。
 江戸で判決を受け流罪となった人は江戸時代の当初は佐渡島へ流罪となったが金山開発で島送りとしての船便が多くなり適地から外れ、無宿人が労役として佐渡へ向かわした。そこで伊豆七島が流人の島となったが八丈島が一番罪が重い人が送られた。
 新島と三宅島も流人の島で、それぞれの島で不祥事があるともっと辺鄙な島に移された。三宅島の村史には流人の記録が見当たらず、ようやく新島村史資料②流人史 平成8年3月刊行の本に
嘉永4年4月流罪となった宮野信四郎の名前があった。彼は明治元年12月23日にご赦免となっている。31歳と記録にある。このことから明治元年の時の年齢は49歳だろう。
 残りの流罪となった二人、松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでの行方は文献にはなかった。都立中央図書館の司書で聞いたが本にはなく、だめで元々と散歩のため新築の公文書館へいった。結局文献は文書館で見つからなかったので後の可能性は小伝馬町の牢獄で獄死した可能性がある。このリストは公文書館にはないという。なお公文書館での流人の検索では(流人証文)という言葉で検索すると7件ばかりヒットした。
 公文書館で2時間ほど滞在したが誰も来ず、丁寧に操作を教えてもらった。一応学術研究というところに印をつけたが福神漬の命名由来を調べていると知ったらびっくりするだろう。
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立石得十郎

2021年08月28日 | 宅老のグチ
27日は酷暑で、朝から病院通いの介護白タク。柴犬が食欲不振で調べたら、結石があるらしい。それが終わると家族の定期検診が3か所、これも送迎。いずれも普通より短時間待機で終わる。やはりコロナで不要不急の医者通いが減っているのだろうか、予約時間通りに進み、さらに繰り上げ診察もあったようだ。この暑さだと病気より熱中症になりそうだ。

待機時間に気になる本を読んでいた。

カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿  -歩く、異文化交流の体現者- 
片桐 一男著
 最後の方に気になる一文があって、嘉永3年(1850年)4月10日から5月3日までオランダのカピタンの最後となる江戸参府があった。この時カピタンから幕府に書物が献上され、その翻訳を幕府老中阿部正弘から新任の長崎小通司並の立石得十郎に10月に秘密裏に翻訳依頼された。この本は長崎奉行のところへ行き翻訳するという厳重な秘密保持を受けた翻訳だった。
 嘉永3年10月は勝海舟のところに高野長英が名前を隠して訪問したりしていた。さらに10月末日に南町奉行配下の与力たちによって、長英は撲殺された。記録では自殺となっていた。

 評伝高野長英を著した鶴見氏や長英逃亡の吉村 昭氏でも具体的な逮捕に至る経緯が解かっていない。
 のちの動きから次にように推測すると最後の手違いと幕府上層部の隠ぺい工作が判明すると思われる。

 なぜ次に書くように思うのは最近読んだ遠山景元【金さん】の本から謎解きが始まる。江戸時代の名奉行と言われる人は多いが意外と学者による研究がないのがと嘉永5年に引退した江戸の南北奉行を経験した遠山の金さんである。水野忠邦の天保の改革時に北町奉行で水野の圧力を反対するでもなく抵抗していて実務をこなし、奉行を外され、再度復活した時、南町奉行として株仲間再興を筒井政憲と共に進言し活躍した。特に歌舞伎の消滅を救ったので演劇界では恩人とみなされている。
 明治26年11月明治座初演の竹柴其水作(遠山桜天保日記)は竹柴が取材していて当時の天保の改革の明治期の評価と見てよい。最後に新潟の町が出てくるが天保の改革でさびれた江戸と比べ新潟が繁盛している様子が描かれている。
 冤罪だった人が改心し、裁きの場で隠された過去を遠山の金さんが入れ墨をみせ、お裁きをするという今では金さん物の定番の形が出てくる。初演は桜ではなく生首という。戦後に2度ほど上演されたが築地の大谷図書館で読んだ台本ではぎりぎりまで台本が出来なかったようだ。つまりこの筋書きは明治期は理解できても平成時代の人には理解しにくいと思って台本が出来なかったと思われる。
 高野長英が放火によって逃亡したことが南町奉行配下の与力・同心たちには許せなかったと思われる。幕閣上層部ではオランダから贈呈された書物の翻訳に難儀していて、江戸市中に出回っていた翻訳書から長英の生存を疑い、捕縛した後に翻訳させる相談があったと思われる。新井白石が日本に潜入した神父をキリシタン屋敷に閉じ込め、西洋文化を研究したことを前例とし、放火逃亡でも死罪とならないと相談をしていた気がする。この情報が洩れ、さらに江戸市中潜伏となれば南の与力たちのメンツが保てないと思い生け捕り捕縛に抵抗してきた高野を撲殺したと思う。
カピタンから送られた本は軍事関係の本と想像される。適当な日本人に理解しやすい言葉が見つからなかったと思われる。信州上田の赤松小三郎は内田弥太郎・下曽根金三郎の弟子で軍事関係の翻訳『英国歩兵練法』 をしている。
 『右向け右』などは彼の成果という。坂本竜馬の考えを赤松から学んだといえる。坂本が今では赤松より有名なのは自由民権運動で土佐の人たちが活躍して顕彰した結果である。


 
 

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文政の『町方書上』(まちかたかきあげ)

2021年08月27日 | 宅老のグチ
厩橋の事から、コメントをいただき、一年ほど前に墨田区緑図書館郷土資料のところで『町方書上』(まちかたかきあげ) を何気なく眺めていた。そこで本所界隈の文政時代が誰の所有または支配かを調べていた。すると小普請長井五右衛門支配下の人の所有らしかった。これを深く追及すると漬物の歴史から離れる恐れと思ってそれから位置確認していなかったがコメントをみてもう一度調べてみようと思い始めました。
 勝海舟の父 勝小吉のエッセイというべき、夢酔独言に海舟が子供の時に犬に急所をかまれた時のあたりに長井五右衛門支配という名前が出てきます。深川ということで火付盗賊改の職から小普請になり深川に住んだように思われます。ただこの件の確認はしていないのですか、本来なら二番町に住んでいたはずなので自信がまだない。
 関東大震災や昭和20年3月10日の米軍の虐殺ともいえる空襲で下町は更地となった。墨田区の道路区画が整備されているのも災害ともいえる火災だった。次の災害は水没だろうが緑図書館で眺めた防災マップでは水没地域が広く、水深も3階近くまである。熊本の水害で高齢者施設が水没し、避難が間に合わなかった記憶がある。水害時はエレべ-タが動かず、避難が遅れる。地球温暖化で海からの蒸発が多く、昔と違った地域に短時間で大量の雨が降る。このところ経験のない雨という言葉がよく耳にする。歴史を隠すと災害を忘れ、防災が遅れる。何か中国ではまた地下鉄内水死がありそうだ。都市では一時的な雨が地面に吸収されず、あふれる。そこにダム放流があれば内水氾濫となり、水があふれる。そして地下鉄が貯水池となる。一度水が入れば電車が止まり、乗客が逃れることができない。天災に人災が加わる。
 墨田の人は準備が出来ているのだろうか。
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福岡の飲酒運転事故から15年

2021年08月26日 | 宅老のグチ
最近でも千葉県八街で飲酒運転事故で小学生が5名亡くなった。15年前の飲酒運転事故は、今でも記憶に残っていている。
 
もう15年か。他の人は記憶が薄れるが、自分にとって築地市場移転の問題で福岡が東京に大差で2016オリンピック招致に負けたのはこの事故だったと個人的には思っている。その理由は東京一極集中を拡大することだった。最後の追い込みの活動は福岡が出来ず東京となった。もうじき2020のオリンピックが終わる。最初の下心のあることは様々な副作用をもたらした。豊洲の地下汚染で築地市場の移転が遅れ、さらにコロナで1年、そして無観客と年間の目標4000万人の外国人観光客も消えた。
 理不尽だった想いは飲酒運転で亡くなった子供の遺族とともに築地の移転を促進するという下心のあった強引なオリンピック招致をもたらした想いが残る。まだ歴史の審判には早いがイベント招致で経済活性化するという方法は時代遅れな気がする。横浜の市長選挙でIRというギャンブル施設建設が反対された。マンネリ化した国体がようやく今年の開催が中止となりそうだ。今は各地の自治体が予算不足で悩んでいるのに国体の終わった跡の施設が廃墟になったりしている。JR北海道が駅前のビルを高齢者施設に変えるという。地方で唯一需要が継続的に伸びるのがこのような施設だろう。人口の減る時代は変化に対応しないとすぐに不良資産となる。
 現役の経営者は多数となった高齢者の経済行動を読み切っていない。この部分を研究しているのは詐欺師の人たちで、自宅や金融機関からいとも簡単に金を巻き上げる。
 
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西国分寺に移転した東京都公文書館へ行く

2021年08月25日 | 宅老のグチ
昔あった記憶。
 JR浜松町駅から竹芝桟橋に向かって歩くと首都高速を超えると都立産業貿易センタ-浜松町会館があった。そこの隣に東京都公文書館があって、漬物の事では縁がないと思いながら見ていた記憶がある。
  昭和27年(1952年)東京都の史料の編さんと都政に関する文書の保存を目的に都政史料館を設置したのにはじまり,昭和43年(1968年)に都総務局文書課の一部機能を統合して東京都公文書館となった。東京市史稿を今でも編纂しているようだ。

  東京府・東京市時代の公文書の閲覧のほか,東京都制施行(昭和18年7月1日)後の公文書のうち、作成後30年を経過した文書の閲覧ができる。 
 平成24年2012世田谷区二子玉川の学校跡に移転し、さらに西国分寺の都立多摩図書館の隣接地にごく最近に移転した。
 午前11時半ころ着いたので、閲覧のための貸し出し時間が過ぎ、さらにコロナ消毒で午後1時まで無理となり、喫茶店で時間をつぶす。そして多摩図書館で用を足すため入ったのだが、警備員に位置を聞いたトイレは、男女の別の区別のない標識のあるトイレだった。スカ―トとズボンの絵が並んでいる個室があって、もう一度警備員に目の前にトイレを示し、男用はあるかと聞いたら、多目的トイレのようなところを指さし、ドアを開けるように言われた。あとで気が付いたのだが性差別の問題から標識が変わったようだ。都立中央図書館では男女別だった。世の中が変わったと感じた。
 あのマークは年寄りは慣れないだろう。何か日本語で表示が欲しい。無差別トイレとか。


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高齢者は無職なのに忙しいか

2021年08月24日 | 宅老のグチ
家にいてコロナで外出できないのに、結構忙しかったと一日の終わりに思う。しかし、仕事がないのにどうして忙しいと感じたのだろう。
パ-キンソンの法則 C.N.パ-キンソン著 森永晴彦著

 昔のこの本を読んでいると、高齢者はわざと段取りを悪くして、仕事なら効率性を考えるが、仕事でないので期日とかに迫られていないので手順を丁寧、別の言葉でのんびりとやっている。例えば駅とかに行くとき、定時までに着かねばならない通勤者と違って、一列車遅れても大した差がないから、ゆっくりと歩く。しかしこれではコロナ太りを解消することは出来ない。
 積んどいた本を二度読みしたりして昔の記憶を取り戻したがかえって忘れたことを確認する。

 歯医者に行った。ここ2年ほどコロナで、感染の恐れもあって、歯が欠けたとかの具体的なことがない限り仕事優先で歯医者には行きたくなかった。ところが今デルタの感染拡大中だが、逆に空いていると思って、歯に食べ物が詰まっていると感じて歯医者へ行った。待合室で順番を待っている内に、コロナ以前の町医者が高齢者で混んでいることを思い出した。不要不急の医者通いと思う。薬の処方箋をもらうため、通院する。ひと月分しか処方されない。それが今はコロナを言い訳にすると3月ほどもらえそうだ。今まで何だったのだろうか。これなら異常でなければリモ-ト診察でデジタル処方箋を発行してもらいクレジットで決済し、薬を配送してもらえば外出はいらない。ロックダウンとなれば医者通いの法制度がDX化の促進となる。これは弁護士宣伝解禁と似ている。今は偽の口コミ宣伝しかない。医者は営業努力が少ない。もう少し政治家のように患者獲得のチラシを撒いたほうが良いと感じる。何か規制を頼んでいる武士の商法になりつつある。このままだとアメリカ在住の医者が夜間に時差を利用し、診察し処方する気がする。アマゾンならやりかれない。これが本当の黒船だろう。

  

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なぜ日本にキリスト教は広まらないのか

2021年08月23日 | 宅老のグチ
福神漬のいろいろな文献を読んでるとキリスト教系の人物の文献が良く出てくる。
なぜ日本にキリスト教は広まらないのか -近代日本とキリスト教- 
古屋 安雄著

日本の教会は葬式のような儀式だ。 他国のキリスト教信者から見て

植村正久の言葉 演技的な武士道の影響があった。

日本の明治以降の知識階級に入ったため、停滞した。人口の10%の信者を獲得しないと影響が出ない。
日本のプロテスタント信者から出た作家は若いときに入信し、しかしほとんど離教や捨教している。しかし戦後のカトリック作家は入信して最後まで信仰を守っている。

日本でのチャ-チが初期には公会と呼んでいたがこれも教える会-教会となった。知識階級は教えることが好きだが優しく教えると深いと感じられず、説教が難しくなった。すると教会が学校のようになって、卒業すると教会に来なくなるという。平均的なキリスト教信仰寿命は2年8ケ月という。日本には卒業信者・中退信者という世界にはない言葉がある。

日本に近代化と共に入ってきたキリスト教に最初に入信したのが、地方の地主・豪農・および佐幕派、つまり徳川幕府とその親藩の下級武士だった。
 地方の豪農でいち早く入信した若者が進歩的な青年で明治憲法まで続く、地方の自由民権運動の担い手だった。
 日本近代キリスト教の精神を形成したのが佐幕派の下級武士だった。彼らは薩長の人と違って立身出世の可能性が低いのでキリスト教に精神基盤を見つけた。
 日本の近代キリスト教の発祥地として挙げられる横浜・熊本・札幌はアメリカ人宣教師たちの学校で彼らから蘭学から英語を学ぶうちにキリスト教信者となった。
 ここに日本と韓国へキリスト教が入った歴史が異なり、今の日本の信者数の低迷の原因でもあるという。日本の教会は神社参拝を国民の儀礼のゆえに認めたのに対し、韓国の教会は偶像崇拝とし、戦前には軍国日本の統治で多くの殉教者がでた。

 多くの組織で伸びないところは内部の対立があるところである。キリスト教も1970年の大阪万博で万博キリスト教館建設の是非で対立した。

 なんだか納得した。


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長い家庭介護の終わり

2021年08月22日 | 宅老のグチ
令和3年8月23日に母の介護生活が一区切りつく。介護認定になって10年以上、デイサ-ビスに通い、入浴させてもらうのが6年以上たった。最近の3年ほどは要介護2~3の間の認定で、介護する方も同時に老齢化し負担が増していった。家の出入りで階段があって二人かかりで母を支えていた。(今から思うと母の無断外出を阻止していたのが階段だった。)この間に介護施設に入所すべく認定してもらったが母が認定確認時に正常近くになって、要介護3にはならなかった。しかし年々衰えてゆくので今年の春先の介護判定では要介護3となった。昨年秋にも3になっていたので、今の特別養護ホ―ムはどのような待機状態か聞くと、数百番台だという。
 これでは今年も無理だなと話していたら、特養の施設から連絡があって、入所できるという。このことをデイサ-ビスの人から百歳になると入所のポイント点数が上がるので入りやすいと聞いていたので事実と実感した。すでに母はコロナワクチンを2回接種しているので先方に迷惑が掛からないと思う。その施設は比較的多くの人が住んでいて情報ではすでに2回ほどコロナクラスタ-が発生して施設に入る希望の人が減って急遽待機の順番が回ってきたようだ。
 何か他の人の退去か死去で空いたと思うと介護の終わりの気持ちが複雑となる。いずれ人は亡くなる。ただ10年以上の介護は家庭介護人の人生を制限する。ましてや中学高校生の若年介護は人生の華やかな時期を失わせる。
 ネットで調べると東京の最難関の特別養護老人ホームの施設入所は1500人待ちという。高額の有料施設に入れない人は家族の人生を制限する。それにしても優遇される百歳まで生きさせることは大変だ。

 今では時々子供の顔を忘れることもあって、デイサ-ビスに行きたくないと幼児のように朝に騒ぐ。そして夕方になるとにっこりして家に戻る。施設に入っても当分慣れるかどうかが不安が残る。介護の出戻りは一番つらい。触れるのも今日明日と思うと寂しさが募る。

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ハッピ-エンドなのか?

2021年08月21日 | 宅老のグチ
8月21日今日の介護のデイサ-ビス送迎が終わると母の自宅での介護生活が終わる。生きて施設に入るとは想定していなかった。強引に施設に入れる気もなかったが希望はしていた。悔いが残ることはないだろう。これから2年ほど生きればまた面会で触ることも出来るし、背負っていくことも出来る。今日はたっぷりと母を触って送迎をしたい。
 弟が母の見舞いをしてきたとき、帰りにブチュっとキスをする。数年アメリカにいたので慣れている。その行為で母はいつも照れている顔が見える。当分これも出来ない。特別養護老人施設に間も無く入る。あと40日で101歳となる。コロナ蔓延で周囲のヘルパ-さんの気使いでここまで無事に来た。本人は早く逝きたいとと口癖になっているが、いつも息子を犯罪者にするつもりかと怒ってやる。そんな会話ももうじき終わる。リモ-ト面会もあるのだがしっかり認識してくれるのだろうか。
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高齢者数の統計

2021年08月20日 | 宅老のグチ
2020年10月1日に日本で国勢調査があった。その統計で国会議員の定数配分が検討される。
 さて百歳になった母はこの第1回国勢調査1920年10月1日の直前に生まれた。気になる数字を調べてみると100歳以下の年齢ごとの数字は細かく分けているが何か百歳以上の細かい統計が見つからない。いま8万人ほど百歳の人がいて、年々100歳に達する人が増えている。しかし110歳の数字の伸びは少ないと感じる。つまり100から105で大方の人は無くなり、レアな人だけ生き残ると感じる。
  昨年中華人民共和国でも国勢調査があって、人口数の数値が過去と整合性がとれないと騒いでいたが、上海市の百歳以上は1000人ほどしかいない。あまりにも少ないのは日本との騒乱で死去したのだろうか。中国で民間の会社の最長寿は北京の漬物屋だった。これは日本の漬物屋より古い。あのキムチ国の最長寿のキムチ屋の記録があるのだろうか。多分日本と同じように金銭購入する食品でないので意外と新しいかもしれない。あれば韓国の宮廷に納品していた会社だと思われるが日本統治で消えたかもしれない。基本は自家製で会社組織ではない。
 高齢者の数字は多い方が好まれるか衰退と捉えるかは国によって異なる。今の日本は長寿と見ているがいつかは老害と言われそうだ。

 コロナの下で外出したい。いつ終わるかかわからないし。むかし、あしたに道を聞けば、夕べに死すとも可なりという言葉を思い出した。
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陸軍現役将校学校配属令

2021年08月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父が昭和18年7月に発表された陸軍特別操縦見習士官制度の受験に関して、親族の言い伝えが残っていない。どうも埼玉師範学校に配属されていた軍事の教官に試験を受けさせられたと思う。同調圧力があって、受験はしたが見事に不合格となった。これは私の父が扁平足で20歳の時の徴兵試験では不合格であった前例があった。心密かに試験に落ちることを決めていたのに、なぜか繰り上げ合格となってしまった。叔父は出身小学校の先生に進路指導をうけ、今の千葉県野田市にある野田農工学校を受験し、授業料のかからない師範学校を目指した。軍人指向があれば別の行く先もあった学力で地域のために農業系を選んだと思われる。試験に合格することは競争率の問題で難しいが落ちることは比較的容易だったと考え、意図的に落ちたと思う。しかし同時期の海軍予科練と陸軍の特別操縦見習士官に両方合格し、陸軍の方に欠員が出来て、埼玉師範学校の軍事教官によって推薦され繰り上げ合格となったようだ。叔父の軍歴は11月1日から始まる。他の人は10月1日。昭和18年9月23日の報道によると、理科系と師範学校の人は後に学徒出陣となることが免除される記事があった。この時繰り上げ合格にならなければ特攻遺族にならず今でも生きていたと思う。陸軍の特操に合格した埼玉師範学校の学生10名のうち、9名は昭和25年の師範学校同窓会名簿に赴任先の学校が書かれている。1名は海軍の予科練に行ったと思われ、死去した様だ。

1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。 同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。 なお、配属将校は教練に関しては学校長の指揮監督を受けた。戦局の拡大で学校に派遣されて将校の発言力が強くなり、上智大学の靖国神社事件のように、学校運営の危機を生じた例が記録として残る。今でも当時でも日本の学生は何を学んだということより、卒業証書の方が重視していた。また軍事教練の科目を履修しないと、短期兵役とかの優遇もなく、受験生が減り、大学の経営危機となったという。

 当時の大学生は今と同じで裕福な人が大学に行くので軍隊の上官の理不尽な扱いを知っていたので短期兵役は魅力的だった。

 叔父の繰り上げ合格でなぜ欠員補充に選ばれたか考えると、1番の理由は海軍の方が人気があった。これは予科練の歌の影響で、競争率が海軍は20倍ほどで陸軍は5倍くらいで、選考の中で重要な視力の基準を緩め、募集期日を10日ほど伸ばした。従って欠員補充は配属将校のメンツだっただろう。
 あまり考えたくないのだが叔父の名前が栗原で226事件の栗原安秀と親せきと思われた。226事件に参加した兵士1400名の半分は埼玉県出身で、埼玉師範学校はその影響のある軍人がいたのではないかと思ったこともある。最初から叔父は試験に不合格を計画し、配属将校の受験圧力から逃れず、不合格を意図していて、実母には知らせず、繰り上げ合格も学徒の出陣のように伝えた気がする。本当に飛行機操縦士と知ったのは昭和20年の常陸での訓練で実家に帰ったころからと思われる。叔父の遺書のない理由はこの時に十分に話したとしか思えない。生きて帰ると思いを残していて書かなかったと思いたい。戦後の混乱時に、近所に進駐したGHQの40名位の兵士姿を見て遺書処分したと思いたくない。叔父たちの特攻隊は台湾と知覧からの出撃で、米軍の記録でも多大な被害を与えていた。
 
 
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8月15日が終わればヤミ市の話となる。

2021年08月18日 | 宅老のグチ
中央区の図書館である時から、古い本の貸し出しが終わり、所蔵倉庫から図書館へ戻し、館内で読むことになった。その理由として本の紙の品質が悪く、ページめくりで破損する恐れがあるという理由だった。
 特に戦後の本の質はひどいと感じる。今多くの先の大戦に至る歴史の本があるが戦後の混乱時期の解明した本が少ない。8月15日から朝鮮戦争が勃発するまでの日本はなんと歴史家は表現するのだろうか。
 朝鮮戦争で日本の過剰労働力が解消され、さらにアメリカから食料が届き、餓死の不安が消えた。でも貧しかった。今でもサンガ-夫人の産児制限運動の記憶がある。
 戦争中の不思議な話があって、日露戦争時まで脚気(ビタミンB1欠乏)による戦病死数は砲弾等による死者より多かった。その理由として軍隊では白米常食で出来るだけ精米していて、糠から出るビタミンB1の欠乏で脚気がはやった。これが日本人科学者によってビタミンB1が発見されて対応の仕方が解かっても軍隊では脚気があった。本当に日本国民が脚気から逃れたのは先の戦争で食料不足となり、精米率を緩めて国民に糠の多いコメの量を供給し始めその結果脚気が日本から一時的に消えた。今は偏食で稀に脚気があるという。

 今はタクワン漬にも糠を本格的に使うのは秋田の燻りガッコ位しか思い当たらない。
 そこで気になるのは戦後の駅前に広がったヤミ市の状況は写真しか見当たらない。今記録に残しておかないとわからなくなる。
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