昭和20年5月20日、台湾の第八航空師団の陸軍第204飛行隊から、夕方に今の台湾陸軍大学の位置にあった、八塊基地から、誘導機の一機を含めて、5名の特攻隊員を乗せた戦闘機 隼が出撃した。もう77年経ってしまったが、今のウクライナ兵士の出陣コメントを聞くと、当時の叔父の心境と同じだなと思う。貧弱な防御、燃料不足、弾薬・補修部品も少なく、さらに戦果を要求されていた。沖縄での米軍との戦闘状況から台湾にもたびたび米軍の空襲があって、飛行機乗りなのに、特攻用訓練のため飛行機を隠し温存していたようだ。
沖縄の5月20日の日没時間は午後7時12分で、記録によると特攻した時間は午後7時20分となっている。夕闇の中に被災した米軍艦船の炎が見えるようだ。硫黄島で活躍した米軍補給船LST808の伊江島海岸の特攻被災炎上写真は本物だろうか。当時の天候は軍事機密なので、米軍しか持っていないと思うがこの時期は台湾から沖縄にかけて梅雨時で、知覧の特攻基地から出撃した振武隊と嘉手納沖で合流する特攻作戦だった。米軍のレーダ-探知を避けて、海面すれすれを飛行したと思われる。他の特操一期生より、訓練期間がひと月ほど短い経歴だった。
厚生労働省から来た叔父の軍歴から、19.10.14の筆跡は親族に残っている唯一の筆跡と思われる。この写真はミンガラドンいう基地で撮影したと思われる。昭和20年初めに日本に戻り、実家に写真を残した。ミンガラドンとは今のミャンマ-のヤンゴン国際空港のようで、以前ミャンマ-に行ったとき、この地で叔父がインパ―ル作戦の航空支援末期だったことを知らなかった。陸軍第204飛行隊の記録から、ビルマ作戦支援からレイテ作戦支援に向かい、台湾に行った。どこも負け戦だった。
もうないと思う世界大戦が叔父の魂が霊界でさ迷っていて今の戦争をどのように考るかを問われている気がする。
帰国時に実家(新川)の整理をしていたところ父の写真や手記を見つけ、彼は陸軍特操見習士官の一期生で、その後台湾から満州に転籍となり満州で教官として終戦を迎えております。 生前にあまり話す機会がなかったのでネットで検索しておりましたら、ここに辿り着きました。 地元が築地のご様子、何か懐かしいというかご縁を感じ失礼ながらメッセージさせていただきました。