年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

天洋食品のこと

2009年04月30日 | 宅老のグチ
天洋食品のこと
もう随分昔のことのように思えるがまだ一年しか経っていない。しかし両国の初動捜査とメンツの問題から事件は解決することはないだろう。この問題は農薬の混入の問題でなく、労働問題なのである。天洋食品に対して不満のある人物が意図的に農薬を混入させたとみて捜査しなければ事件の解決の端緒はつかめないだろう。
いま時間というもので日中間の不都合を解決しようとしているが根本的な捜査を怠ると再び農薬事故が起きた時再度悲惨なことが起きるだろう。他の誠実な仕事をしている両国の人達の職場を失うこととなる。
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築地の電動ターレー

2009年04月29日 | 築地市場にて
築地の電動ターレー
東京都は都市場のターレーの排気ガスを減らすため電動化を進めていますが、築地ではようやく50%を越したそうです。これから先は電源装置を設置する場所の不足であまり進まない気がします。不景気は荷動きも少なく空気の汚れが少なくなる。
 昨日市場内で久しぶりにツバメが鳴いていたが今年はカラスが復活したようであまり目立たない。
 補助金をもらって買い換えても電気が無ければ動かない。
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日本殉職船員顕彰会様

2009年04月28日 | 宅老のグチ
                       
 漬物のような食品は文献も少なく調査に苦労します。しかし、単なる食品のため歴史事実の歪曲の対象から離れて、かえって実像が現れている気がします。今の時点では福神漬がなぜ日本郵船に積載されカレーライスに付いていったか判明していません。しかし第一次大戦でインド洋での常陸丸事件と日本郵船百年史の思い出募集には何らかの関連があると思います。カレーライスと福神漬の記事は博物館の学芸員の話によると『日本郵船には記録がないが多くの日本郵船の関係者に記憶がある。』と言っていました。日本郵船歴史博物館の中に北村西望作の像があります。先の大戦で亡くなった船員を慰霊する像だそうです。
 第一次大戦は日本が参戦したにもかかわらず印象が薄く忘れ去られています。その中にも殉職した商船員がおります。慰霊する殉難商船員の範囲ももう少し広げていただけませんか?
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ミスマッチ

2009年04月27日 | 築地市場にて
ミスマッチ
鶯谷駅の直ぐそばに風俗のホテル街があって、このホテルに囲まれたところに正岡子規の住んでいた子規庵がある。昼からホテルに用のある人・俳句を好む人が歩いている中、根岸を巡って福神漬の旧跡を求めて探すのはどう見ても不審者としか見えないだろう。
 根岸は石神井川をせき止めて、入谷・浅草の田んぼに供給する音無川があって上野の山もあり、入谷の田んぼに囲まれて江戸時代は商家などの火災時の別宅として発展したと言う。なにせ江戸は3年に一度くらいの割合で大火があったのだから別宅の必要性は生じる。
 たくわん漬が江戸市中で発達したのは重石を載せた一年分の沢庵漬が火災時移動の妨げになるので練馬の人たちから下肥と交換で少しづつ供給されていたと言う。
 根岸の向こうは三河島になるのだが『あの子とあの子は三河島』という川柳があったのだが、中国大陸から日清戦争後日本国内に入った白菜のため、漬け菜として『三河島菜』は絶滅した。今は絵でしか残っていない。三河島菜=いい菜漬け=イイナズケ=許婚=婚約者。
 漬物の歴史を調べるには川柳や俳句も知る必要がある。
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不平将軍

2009年04月26日 | 福神漬
不平将軍
不平将軍と言う言葉あった。明治期の軍人の中には、新政府の政策に反対するが故に<不平>将軍と呼ばれた人々がいた。

 彼等の中には自らの政治的意見を発表する手段のために、新聞の後援を行った人々もいた。陸羯南が明治22年に発行する新聞日本の後援者の中にはこうした<不平将軍>連もいたのである。前年末の会合時に団団珍聞と言う風刺新聞を発行していた野村文夫が参加している。この野村の参加で新聞『日本』の発行所が神田雉子町となる。団団社の軒先を借りて発行する事となった。団団珍聞には福神漬を命名した梅亭金鵞が参加しているので『日本』の人たちは福神漬を食べていた可能性がある。梅亭金鵞(明治26年死去)なお正岡子規の医者は神田雉子町の医者だったと言う。

福神漬の周囲は反明治政府・反薩長の人たちと親江戸派の人たちが集まっている。ただ梅亭金鵞は明治22年2月13日に倒れたので新聞日本社の人達とは縁がなかったかもしれない。
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根岸の森田思軒

2009年04月25日 | 福神漬
根岸の森田思軒
根岸党のことを調べていたら、当初は明治19年頃には饗庭篁村が根岸に住んでいた。明治22年に23年にかけて饗庭篁村の隣に森田思軒が引っ越した、また岡倉天心・新婚の森鴎外も一時根岸に住んだ。汽車の音とか仕事の関係で次第に離れて行き最後まで根岸に残ったのが森田思軒だった。(森田思軒とその交友)より
 根岸党の人たちで新聞に関係する饗庭篁村らが次第に京橋に移転し、さらに向島にあつまったという。向島に江戸派が集結したともいえる。森田思軒は根岸にずっと住み世尊寺(東京都台東区根岸3丁目13−22)に葬られた。
森田は食通でもあったという。当時高価な漬物・福神漬で酒を飲んでいたのもその証拠となる。
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築地の5月危機

2009年04月24日 | 築地市場にて
築地の5月危機
ここ数年4月末から5月の連休にかけて仲卸の廃業が目立つ。このところ外食消費の低迷は一番つらいところ。まだ目鼻のつかない将来の築地市場の状況から頑張るべきか撤退すべきか決断するまでいってない。そんな状態だから危機感などまるで無い。世間は百年に一度の不景気だそうですが食べ物だから多少は減っても三分の一とか半分にはならない忙しさ。ヒマになると仕事は丁寧になるしミスも少ない。
20日もそんな危険は日の一日だったが無事すぎて決算も終わって次は在庫評価。やや円高が気になるが為替・原油価格・景気状況が気になる。
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竹の子・山菜のこと

2009年04月23日 | 宅老のグチ
竹の子・山菜のこと
竹の子とか山菜は食の分野でも食べなくても済む食品ですがそれを製造販売している業者の立場は弱い。特に水煮という分野は加工度が少なく、原材料の比重が高いので国産の原料と海外産の原料の価格差のある山菜竹の子等の食品は表示を正確にすることの抵抗がある。自社で正確に表示して適正価格にしても他社の安い価格に対抗できない。そこに偽装の生まれる余地が生じる。安い価格を求める店と販売を優先する業者.、中身の質を考えずに表示に頼る消費者の関係から偽装は増殖してゆく。正しい表示をする業者は販売縮小となって市場から消えてゆく。
 今日本の山菜は栽培されたのを除くと辺鄙なところにあるだけで量的に多くない。山菜取りでクマに襲われる記事が出る季節となった。
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休市日なのに

2009年04月22日 | 築地市場にて
休市日なのに
22日は休市日なのに外国人観光客がうろうろ、最近正門わきの掲示板にロシア語表示が増えたようである。
 今年はツバメの姿が一回しか見られない。そろそろ団体でやってきても良い頃。5月4日は場外市場の半値市だが築地警察の取締が厳しいので駐車違反は避けて欲しい。年末などは写真で記録している駐車監視員のそばに駐車している人がいた。
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新聞の発行禁止

2009年04月21日 | 福神漬
新聞の発行禁止
今の新聞は言論の自由で大災害と休刊日を除いて新聞発行がない時はない。しかし戦前は結構頻繁に新聞の発行がとまった。言論の自由の歴史は新聞発行する人と行政の戦いの歴史でもある。
 4月21日の読売新聞の記事で米騒動の事が書いてあった。白紙の記事は検閲の結果とも言える。明治23年5月の都新聞が発行されているのにマイクロフィルムとか縮刷版が無いのはどうしてなののだろうか。都新聞は今の新聞に例えると芸能・風俗報道に力を入れていた庶民の新聞であった。この都新聞は比較的発行禁止されていないので庶民の事情が理解できる。しかし捏造記事が多いので他の新聞を読んで確認を怠ってはいけない。読者に嗜好に合わせた迎合の記事も良く目立つ。
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築地市場の銭湯

2009年04月20日 | 築地市場にて
築地市場の銭湯
昔の話、築地市場の中に銭湯があった。場所は正門の脇だった。築地に荷物を下ろした漁船員の入る風呂で汚れていたと言う。今は勝どき橋のそばの更生会館に風呂がある。
 築地場外市場で信号待ちをしていたら、現役を引退した人に呼び止められた。これから銭湯に行くのだという。毎日のたのしみで入船町まで行くという。そういえば先月の東京マラソンで中央区中央図書館に向かうとき大回りして佃大橋の下を通っていったら銭湯があった。ビルの中にあるので直ぐにはわからない。月島にもあるし昔の風景が残っているのだろうか。
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不況のバロメーター

2009年04月19日 | 築地市場にて
不況のバロメーター
築地市場の荷物が少なくなると、混載の路線トラックの荷物が築地周囲の物まで載せてくるようになる。到着時間が早くなる。他の業界の人から無差別に電話が掛かってくる。ヒマな日でもそれなりの忙しさはあるもので築地の午前中の忙しさは中途半端でないので直ぐに切ってしまう。午後には丁寧に応対するのだが事情の知らない人は喧嘩を売っているように思われる。または二重人格とも思われるだろう。午前中から丁寧な応対するときはヒマな証拠である。
 ヒマな日の午後は時間を潰すのに大変。
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森田思軒 谷口靖彦著

2009年04月18日 | 福神漬
森田思軒 谷口靖彦著より
根岸派の人達が旅行の時、森田思軒が福神漬を出して酒を飲んでいたことを『露伴と遊び』の本に書いてあったので森田思軒のことを知りたくなり、この本で彼の業績を知る。明治の翻訳王とも言われたようで『十五少年漂流記』を最初に翻訳したことを知る。根岸派の人達は幸田露伴や岡倉天心を除くと今では忘れ去られた存在だがそれぞれの出身地ではかなりの評価をされているようである。
 明治30年秋腸チフスを患い、11月14日36歳の若さで亡くなった。死の病床に森鴎外も立ち会った。酒のための薬がよく効かなかったという。福神漬で酒を飲んでいたのでしょうか。おいしい漬物は日本酒に良くあう。
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榊原健吉の梅干

2009年04月17日 | 梅干
榊原健吉の梅干

自分は一つの梅干を二度にも三度にも食う。それでもまだ捨てるのは惜しい。梅干の核(たね)は幾度もしゃぶってもなお酸味を帯びている。それを掃き溜めに捨てるのはいかにも惜しくてたまらぬ。

幕末最後の剣客と言われた榊原健吉は、維新後、新政権の下で職を求める事、つまり警察官になる事を潔しとせず東京下谷車坂に道場を開き(今の上野駅東口)武道を新しい時代に伝えようとしました。道場の資金を捻出するため、居酒屋を開業。道場の半分を仕切って飲み屋としたそうです。店員は道場の弟子たちで、お客の方がヘイコラしながら飲んだそうで、流行るわけはなかったそうですが後に経営方法が替わったら廃れました。下谷の人たちは居酒屋道場に酒を飲みに行くことで間接的に応援していたようです。
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東をどり

2009年04月16日 | 宅老のグチ
東をどり
築地新喜楽の裏口に『東をどり』のポスターが1枚貼ってありました。5月末新橋演舞場で開かれるようである。2007年が新橋花柳会ができて150周年と言う事だから今年は152年となる。明治11年頃からとなる。西南戦争の後となる。新橋ステーション開業が明治5年(1872)の事だから新橋駅に近い金春の茶屋が繁盛してゆくのは横浜から見ていた横浜富貴楼のお倉は感じていただろう。三菱.第三代日本銀行総裁川田小一郎が新橋の芸者衆を自費で京都に連れてゆき祇園を見学させたと言う。『東をどり』は『都おどり』の京都に追いつくための練習の場となったと言う。
鉄道開業後の明治新政府の幹部は江戸の気風の残る柳橋で遊ぶより、新興の自由になる新橋を利用したのです。もちろんそこには柳橋の芸者に対抗するため芸者の技量を向上させようとした人がいました。芸に妥協しない客と芸者の向上心が繁栄してゆくようになります。待合政治はここから始まります。
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