年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ガソリン税のバタバタ

2008年04月30日 | 築地市場にて
ガソリン税のバタバタ
税制の混乱で下がったり上がったりするガソリン価格はこんごどの様な消費者の行動になるのでしょうか。
 日本橋大伝馬町の(べったら市)の歴史は食品の衛生の歴史と日清・日露戦争の戦費をまかなうための税金によってかなり影響されました。このところの値上げでどの様に日本の食文化が変化するのでしょうか。

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ベトナムの米騒動

2008年04月29日 | 築地市場にて
ベトナムの米騒動
ベトナムはタイに次ぐ米の輸出国であるがどうやら他国の米の買占め報道の影響を受けて米騒動が勃発したようである。今は米でなくとも価格が上がっているので煽動されやすい時期とも言える。とにかく安い食料の時代が終わったかもしれない。
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明治座

2008年04月28日 | 福神漬
明治座
株式会社明治座は明治6年4月喜昇座として開場し、明治12年8月久松座と改称、開場したがまもなく火災に遭い、焼失したため、明治18年1月千歳座と改称、開場した(数年でまた焼失)。さらに明治26年11月明治座と改称、開場し現在に至る。とにかく明治座の歴史は劇場火災の歴史と再建の歴史かもしれない。
 明治18年から5代目尾上菊五郎が千歳座に出演している。明治20年2月11日から3月15日までの公演で尾上菊五郎は大切『七福神恵方入船』を演じている。かなり大入りであったと言う。(歌舞伎年表第7巻より)
 この2月公演『七福神』が五代目菊五郎と『福神漬』とで何かがあったかもしれない。
 奇縁
中央区日本橋人形町にある玄冶店 濱田家(げんやだな はまだや)は初代三田五三郎は横浜「富貴楼」で修行している。大正元年東京日本橋人形町の玄冶店跡地にて創業。現明治座社長は三田五三郎の子孫。

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馬越恭平と芸能人

2008年04月27日 | 築地市場にて
馬越恭平と芸能人
馬越が支援した芸能人は三遊亭円朝と清元お葉と五世の清元延寿太夫だった。特に清元延寿太夫は馬越が三井物産横浜支店長時代のときに馬越の下で働いていた縁でヒイキをしていた。(馬越恭平翁伝より)。また三井物産横浜支店長時代(明治10年代)京浜の花柳界(芸者を呼ぶことができる料理屋と待合茶屋)で悪友仲間として福地源一郎・益田克、高梨哲四郎、浅田正文・朝吹英二だった。すでに横浜時代に馬越と浅田は付き合いがあったことになる。
また清元延寿太夫は三井物産設立時に横浜富貴楼のお倉が井上馨に頼んで15歳の時に小僧として創立間もない三井物産に入った。三井物産は全部で社長益田孝を含めて5人しかいなかったという。仕事をしつつ兜町の清元菊寿太夫に通った。19歳の時、三井物産横浜支店に転勤となり支店長の馬越恭平と親密となる。明治18年、清元延寿太夫24歳のとき三井物産を辞める。(延寿藝談より)
 三遊亭円朝の落語(七福神もうで)に出てくる人物の人間関係がここで繋がる。

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ボチボチ話題となる食料危機

2008年04月26日 | 築地市場にて
ボチボチ話題となる食料危機
ギョウザ騒動の影響で今年の夏の野菜の価格は高騰しそうである。漬物原料は中国産から国産にシフトして契約栽培が高価格でまとまりつつある。まだ腰の引けている業者もあって、100%国産原料ともいかない。ニンニクなんてすでに二月より3倍の価格で国産と中国産の差は10倍となっていると言う。このままで行くと漬物用の塩蔵のニンニクも生食用に転用されるかも知れない。食料自給率39%の重みが連休明けからヒシヒシとスーパーの店頭に現れるだろう。
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築地市場のつばめ

2008年04月25日 | 築地市場にて
築地市場のつばめ
今年もどうやらツバメが築地市場にやってきたようでまだどこに巣を作るか決まっていないらしく、さっぱり見かけない。なにしろ隣は浜離宮なので餌は豊富にありそうである、ただカラスとの戦いが残っていてみんなが心配している。それにしても鳩は少なくなった気がする。来週からの観光客の増加はどうなることやら。
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文明開化

2008年04月24日 | 福神漬
文明開化
明治初期に肉食がまだ嫌われていたとき今では考えられないことが信じられていた。そのような時代に西洋の馴染みのない食べ物を食べさせるにはある程度医学的によいとか幸運が授かるとかの迷信を利用したり今の時代と同じように宣伝する必要があった。
 今では芸者と言う存在は一般には縁遠い世界であったが明治の都市においては芸者は必要な存在であった。そのような芸者の頂点に存在していたのが横浜富貴楼のお倉だった。
 カレーライスに福神漬が付いた理由を日本郵船の船であると推定しているのも、芸者たちの口コミ宣伝となれば文献も残らず推測しかない。福神漬は上野池之端周辺の人物・産物と横浜とを結び付けていた。
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目の前で築地の魚が中国へ

2008年04月23日 | 築地市場にて
目の前で築地の魚が中国へ
22日築地市場青果部の駐車場に見慣れない冷蔵コンテナが止まっていた。そこに水産のターレーが次から次と魚を運んできて積み込み始めた。どうやら中国向けのコンテナらしく、ハッポースチロールに入れた魚の箱が積まれていく。5月1日からの中国の大型連休に間に合わせるために船積みされるのだろう。噂に聞いていた中国向けの魚が堂々と築地から出て行くのを見ると世界は狭い。
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一時代の終わり

2008年04月22日 | 築地市場にて
一時代の終わり
戦後の食糧危機で餓死が出たときがあったが久しく金があっても食料が手に入らないことはなかった。しかし昨今の原油高やオーストラリアの旱魃で米の価格が急騰して、日本産のお米の値段とタイ産の米の価格が8倍ぐらい差があったのがあっという間に3倍くらいの差になってしまった。いまタイ産の米の価格が1トン千ドル強であるが国際流通している米は小麦等の商品作物と比較すると少なく少しの需給バランスが崩れると価格が急騰する。もしタイ米が1トン2500ドルになれば日本の米と同じ価格になり、最小輸入を強制されている米は金があっても国際価格を乱すから輸入できないときが来るだろう。そのとき急速に日本の備蓄米が減るだろう。
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日露戦争時の遊郭吉原での大演説

2008年04月21日 | 福神漬
日露戦争時の遊郭吉原での大演説
馬越恭平翁伝より
日露戦争時において、サッポロビールが東京に売り込みのため吉原遊郭の経営者・芸者・女郎を集め大宴会を開いた。そのとき壇上に立ったサッポロビールの専務は『諸君、いまやわが国は未曾有の国難に会している。軍国資金として金は特に重んじなければならない。
 ところでこれからはビールの飲む季節である。諸君、東京の人は去年までエビスビールとかキリンビールを飲んでおられたようであるがこの非常時、今からそのようなことを止めるべきである。エビスやキリンは外国の材料を日本の金で仕入れて製造したものである。従って飲めば飲むほど貴重なお金を浪費していることになる。
 そこである北海道で栽培した大麦で作ったサッポロビールを飲むべきである。これまでサッポロで醸造していて馴染みはないが、実は(明治)30年吾妻橋のそばに工場を建設しようやくこのたび落成を見たので、本年夏からサッポロビールを飲んでもらいたいと思うのである。吉原浅草は地元ともいえるのでよろしくお願いいたします。』
 日露戦争でも砂糖とか貴重な外貨を浪費すると思われていたものは節約を強制されていた。この演説だと明治37.38年の吾妻橋工場稼動となるが史料では明治33年ともある。吾妻橋付近にビール工場が作られたのは原料を水運で運ぶためと書いてあったが、浅草等の行楽地が付近にあったことも立地条件の一つと考えられる。この吾妻橋工場は今はアサヒビール本社となっている。

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明治初期におけるビールの売り込み方

2008年04月20日 | 福神漬
明治初期におけるビールの売り込み方
馬越恭平翁伝より
販売先は4者に集中すべし。学者・医者・芸者・役者である。世のインテリや有名人に集中して無料試飲会を開いて大いに宣伝してビールを売り込み、そこから多数の消費者に浸透を図ることである。
 明治26年2月第二回医学大会が東京で開かれた際東大教授や軍医1200名を目黒の工場に招待、小石川の植物園で開かれた薬学大会には3000人の来会者に無償で飲ませている。ビールを普及させるにはビールの衛生効果を知らせる必要があると馬越恭平は考えていた。
 ラムネがコレラに効くという噂で明治19年頃から爆発的に売れたということもあった。衛生効果を説くことは当時としては必要なことでもあった。
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漬物は歴史の残りカス(残滓)

2008年04月19日 | 福神漬
漬物は歴史の残りカス(残滓)
多くの社史や歴史の本を読んでいるうちに著者が時代や環境の変化によって記述の仕方が変化する。先の大戦で教科書がまったく変ったようになるのが一例である。サッカリンと言う人工甘味料の歴史でも時代と時期によって危険性の状態が変化していて、取締の状況も一定ではない。
 明治時代の福神漬の歴史にはどうしても池之端周辺の出合茶屋や芸者とか妾の話が避けてはとおれない。郷土の偉人の伝記を書いた橋本竜太郎の『馬越恭平』をよむと芸者00人切とかの話はでず、さらりと書いているがビールの売込みには必要な営業上の行動であることは知られていない。
漬物は歴史の残りかすともいえて、どうして今の状態があるのかを突き止めていくうちに政治経済社会状況のカスともいえる福神漬の漬物にも現れているように思える。もちろん漬物なんかは主食ではないので為政者は気にも留めないのでカスが残るのである。まるで縄文時代のゴミ捨て場の貝塚のようである。
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橋本竜太郎著 2

2008年04月18日 | 福神漬
橋本竜太郎著 馬越恭平から
岡山県のあるサイトは馬越氏の略歴は帝銀となっているがこの省略の仕方だと帝国銀行と間違われる。橋本竜太郎氏の馬越恭平の本では帝商として記述されている。帝国商業銀行の略称としてこの方がよいのでしょう。
 橋本氏の本では馬越はビール事業より帝国商業銀行のほうが熱心に仕事をしていたが明治41年に帝国商業銀行の会長を退いてビール事業に向ったと言う。馬越と浅田は帝国商業銀行の混乱が辞任の理由となっているがこの件に関しての記述がない。帝国商業銀行の名前は大正年間に消えている。戦後の人達には帝銀と略されると、帝銀事件と同一の銀行と思われそうだがまったく別の銀行である。それほど明治大正は昔の話となってしまった。
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馬越恭平 橋本竜太郎著を読む

2008年04月17日 | 福神漬
馬越恭平 橋本竜太郎著を読む
まだ日本の首相になる前の政治家橋本竜太郎が郷土の偉人の伝記というかエピソードを岡山県民のために書いた本と見た。
 帝国商業銀行において馬越恭平と浅田正文の関係が橋本氏の本で明らかとなった。二人の関係は馬越は三井・浅田は三菱で縁がなさそうであるか横浜で三井物産横浜支店長だった馬越と日本郵船の浅田と接点があったと書かれている。
馬越恭平は今ではあまり知られていないが明治のビール王として知られ、戦前は日本のビール業界のシェア75%を占めていたという大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物であった。
馬越が三井物産をやめて二年後、日本銀行の第二代総裁であった富田鉄之助や浅田の推薦で帝国商業銀行の重役となった。
明治時代に本格的に日本で普及したビールの販売方法は福神漬の初期の販売方法によく似ている。
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東京商工会議所130周年

2008年04月16日 | 福神漬
東京商工会議所130周年
東京商工会議所の広報を読むとその設立時に発起人の一人に福地源一郎の名前もある。最初は商法会議所として活動していたため、図書館で『中野武営と商法会議所』という1千頁もあるずいぶん分厚い本があっても読む気がしないで眺めていた。
 しかし福神漬の歴史を調べているうちに帝国商業銀行の日露戦争後の不良債権の処理問題において渋沢栄一・郷誠之助・中野武営等により破綻させず、減資という手段によって金融市場の混乱を避けた。この帝国商業銀行は日本銀行総裁川田小一郎と原六郎等によって設立された株式取引所の取引員のための機関銀行として設立された。後に馬越恭平・浅田正文が支配人となっている。
『中野武営と商法会議所』は都立中央図書館の開架書棚においてあるので読みに行く。今年の5月から年末まで都立中央図書館は休館になるのであわてて行った。時間があればじっくりと読みたい本の一冊の中に入る。福神漬の歴史に出てくる日本醤油醸造株式会社の破綻にいたる明治財界の動静がよくわかる。日本の株式市場は江戸時代からの株仲間から発達し結構世界的に見ても発達していたという。明治の当時は株式市場は投機的バクチ場として見られたようである。

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