年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ペギー葉山・根上淳夫妻の著書を読みに

2024年12月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
過日訪問した桶川飛行学校の帰りに、貰った桶川市のバス路線図に飛行学校から20分ほど歩くと郷土資料館があると教えられ、バス便が1時間に一本なので時間つぶしを兼ねて川田谷生涯学習センタ-に行って見ることにしました。地図を頼りに、バス停で時刻表を写真にとり、学習センタ-での滞在時間を計算した。上尾道路というダダ広い道路のために交差点には誰も歩いていない強大な歩道橋でその上に登って、景色を眺めると、何か変わった建物とその先に公共施設があって、10分はかかると計算した。そこから生涯学習センタ-までの間の工事現場を見ていると、完成が近い施設だが、ショッピングセンタ-のような雰囲気が無く、どうも道の駅の施設の様に思えた。後で桶川市の道の駅の情報を調べると2025年3月に開業する(べに花の郷おけがわ)という施設名が出てきた。この道の駅の隣に農業センタ-と生涯学習センタ-があって、そこには名前を書けば入れる立派な郷土資料館があって、時計を見たら時間が無いし、隣の図書館へ入る。係の人に郷土資料の場所を聞いて、気になる本を手にした。
 児玉飛行場哀史 北沢文武著
 児玉飛行場は桶川の飛行学校と同じで熊谷陸軍飛行学校の分教所のようなもので、主な陸軍特別操縦見習士官の二期生が入校していた。この桶川飛行場哀史を読んでいたら、根上淳(芸名)さんの名前があって思わず読みふけった。根上さんは法政大学の途中で特操二期生の試験に合格した。しかし訓練中に病気となり、戦友と別れ生き残った。この哀史は今まで自分が読んだ特攻本と印象が異なる。なぜだろうと思うと特操一期生は募集時に飛行機要員で悲壮感が薄い。叔父の親族の様子もただ招集令状が来た感じだった。ところがこの本では二期生は募集時に特攻する要員として募集していて、さらに訓練期間も一期生は6か月で二期生は4か月である。つまり一期生は敵戦闘機と交戦する技術の取得時間があった。ところが二期生は空に上がれば、回避の技術取得の必要性が薄く、時間が少なくても良いと思われていた様だ。従って哀史の本では機体の不備、着陸失敗の事故等の分析があって、急ごしらえの操縦士の不慮の死を多く書かれている。日本の軍隊は人の命を軽視している。優秀な飛行機乗りを特攻で費消し、訓練の足りない飛行士と物量で勝る米軍との空中戦ははっきりとした負け戦だった。叔父が茨城から台湾に移動する行程を見ると米軍を回避しているように見える。
代々木上原めおと坂  根上淳・ぺギ-葉山著
 出だしの根上淳さんの戦時の様子。法政大学多摩キャンパスに根上淳さんも参加した、法政大学出身の戦没者慰霊碑がある。根上さんは特操二期生だったので、受験時から特攻のことを自覚していて、同期の仲間と戦死できなかったことを常に思っていた様だ。一期と二期の気持ちの差があるとは自分は知らなかった。ただ特攻死したのは一期生の方が多い。海軍でも昭和18年10月に入隊した甲飛13期生は大量入隊でさらに戦死者も多い。しかし次の期は入隊も多かったが、訓練する機体も少なくさらに燃料も無く、結局特攻要員と合格したのに、本土決戦用の待機要員となっていて、戦後に特攻崩れと批判された人となったと自分は多くの特攻本を読んでいて気がつく。命令した上司が戦後も戦友会等で反省することなく生きていること。これを上司の命令で死んでいった同期の仲間を想うとやるせない。この辺りが靖国神社へ訪問しているがまだ昇段参拝する気分にはなれない。
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桶川市の復元され整備された飛行学校訪問

2024年12月14日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

先日訪問した久喜市の菖蒲地域の中核となる、菖蒲行政センタ-で本多静六の記念館を見学した後、同じ道を戻らず、桶川市の方でJRで帰って見ようとおもった。桶川市には二回ほど陸軍の復元された、飛行学校に行ったことがある。今は車に極力乗らないようにしていて埼玉県桶川駅の西口から川越行きのバスに乗って、柏原というバス停で降りて、10分程度で着きます。
桶川飛行学校平和祈念館は、当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物を活用し、平和を発信し、平和を2020年(令和2年)8月4日に開館しました。自分が最初に訪問したのは開館の秋で、叔父の台湾での集合写真の情報を得るためでした。このことから下北沢の北沢小学校の疎開地の長野県での特攻隊員と小学生との交流の本を出しています。それから叔父の台湾での特攻に至る航跡を本にしていただき、その本を飛行会館へ贈呈しようと思い訪問しました。台湾でも誰かが桶川で訓練した人がいるかもしれません。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、1935年(昭和10年)に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937年(昭和12年)に設置されました。各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。

戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための桶川市営住宅として使用されました。2016年(平成28年)には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018年(平成30年)から2020年(令和2年)にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施し平和祈念館として開館した。 飛行学校は当然ながら訓練をするための飛行場が要ります。それが柏原バス停から川越方面に行くとすぐに長い橋があって、その下を流れる荒川河川敷に飛行場がありました。今はホンダエアポ-トとなっている民間の飛行場です。埼玉県比企郡川島町出丸下郷53-1
当時の訓練生は分教場の宿舎から歩いて行ったようです。
 約一時間ほど館長の関根さん、新任の粒良さんと話し、帰りにもらった地図で桶川市の郷土資料館のある川田谷生涯学習センタ-内図書室で郷土資料を1時間半ほど読んで、慌てて川田谷支所のバス停まで行き、川越市の方に向かった。13日の金曜日なのに観光客が多すぎて川越の蔵の街をノロノロ走る路線バスは東京のはとバスに乗っている気分と思いながら、西武本川越駅に行き、西武新宿で乗り換え、都営の電車に乗る。本日の歩行数は約10000歩

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カミカゼの本から交番の交通事故件数

2024年11月21日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
近所の図書館でも先日訪問した都立中央図書館でチラ読みした本が借りられた。そこでは根気の続く2時間では叔父の特攻した5月20日の事実の文章の確認で終わった。自分と娘が調べた、知覧からの振武隊と台湾からの叔父達の特攻隊・誠隊の記録があった。
  ただ自分たちの記録では台湾からの出撃は特攻隊員5名と誘導機1機で、この記録が無いし、攻撃による米軍の損害の記録が異なる。
 出だしの解釈の異なりについて、ロビン・リエリーさんと小田部 哲哉さんの文があって、日本とアメリカの解釈が文献の連続性という問題から、今の常識と異なるのを感じる。
 それは日本の町にある交番には前日の交通事故件数が表示されているが、普通の人は気にしないでいるだろう。調べるとこの掲示は規則があって、法令に基づいている。
「交通統計」における用語の定義
基本は零時から翌日の零時までで、死者は事故から一日で亡くなった人。負傷はそれ以外の人。この辺りは知っていたが統計では昼と夜の事故も記録していて、昼の定義で日の出から日没までとなっている。この解釈は江戸時代の一日の和時計と似ている。確かに朝の4時半には6月は明るいし、夕方7時近くでも明るい。北海道と沖縄では昼間の長さも異なる。
 台湾と九州知覧から出撃した一式戦闘機隼は5月20日の夕方午後7時頃に沖縄嘉手納沖に合流し、乱れて特攻したのでどの飛行機が叔父の搭乗機とは判らない。夏至に近いので明るいからもし動画が残っていて、機体マ-クが判ったら判明するかもしれないが今は知りたくない。
 この本の文章は米軍がどう攻撃に対処していたか初めて知った。なぜ日本の特攻機と艦船の機銃との画像しかないのかというと、途中では日米の飛行機で空中戦をしていたが、米船に特攻機が接近すると、米艦船の機銃で味方の米軍機を誤って撃ち落とすことがあって、米軍飛行機は追いかけるのをやめていた。従ってレ-ダ-に感知されない飛行が要求されていて、多くはレ-ダ-に見つかり、3段構えの米軍飛行機に撃ち落されていた。以外に低速な赤トンボという練習機が特攻に成功していたのは布張りで木で出来た機体、海面すれすれで接近していたので米軍レ-ダ-に見つからなく特攻に成功したが積載する爆弾が軽く、被害が少ないし、さらに海面すれすれを長時間孤独な飛行が出来るのはベテラン教官パイロットだったようだ。じり貧の無駄死にともいえる作戦と知る。
 叔父の仲間の7月19日の記録も米軍の被害は軽微となっている。きむらけんさんの陸軍八塊飛行場を巡る物語でも、機体は寄せ集めの部品で飛んで行って、戦果は期待していない様子が見える。


 日米史料による特攻作戦全史 航空・水上・水中の特攻隊記録- 
著者名 ロビン・リエリー著  小田部 哲哉編訳 
著者 Rielly,Robin L./リエリー,ロビン L.  小田部 哲哉編
出版社 東京 並木書房 
出版年月 2024.10 
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野田市の染谷亮作を調べる

2024年10月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴等が全て消えている謎を今探っている。
 叔父は関東大震災があった大正12年の5月に生まれた。戸籍上では5男だが4男が幼児の時に亡くなり、その名前を使った。従って戸籍には同名の名がある。このことは最近まで気にしていなかったが戦後に自分が小児の時に訪問した時は非常に歓迎されていた記憶が残る。一種の生まれ変わりと思われていたのだろうか。この件で親族に聞き損ねた思いがある。女子の子供しかいない実家だった。私の父は昭和30年に亡くなったので、父からこの件を聞くことは無かった。そして叔父の話は断片的に逸話が残っている。
 叔父は今の埼玉県春日部市の川辺小学校を卒業し、野田市の野田農工学校へ進学した。4男は成績が良く、川辺小学校の長堀宇三郎先生の進言で野田農工学校へ進学した。戸籍を見ていると、多くの親族が高等小学校を出ると東京の下町の所(墨田区)へ就職した様子が見える。利根川・江戸川水運から繋がる人脈で縁故就職だったと想像できる。
 野田の野田農工学校は意外と野田市の記憶と記録が少ないと感じる。野田市の中央図書館で郷土史の文献を探しても少ないし、記述も少ない。千葉県の野田の付近の学生は千葉の方の学校へ進学し、地元の学校で中層の人達の進学先が少なかったように感じる。
 野田の郷土資料館の常設館で野田の漬物業者が30軒ほどあった。このことを質問したが文献の根拠となるものが聞き損ねた。江戸川・利根川に挟まれた野田市は農業地帯で漬物需要が少ないと思われる。そこで考えられるのはある程度漬物に作って、東京へ輸送し、缶詰加工の業者へ提供する漬物業者ではないのだろうか。当時の缶詰需要のほとんどは軍隊需要と思われる。
 野田市の正式な文献はまだないが野田市史研究という文献が市川市の図書館で読めそうだ。ここへは東京都のシルバ-パス利用で都営新宿線の終点の本八幡駅で降りて、ニッケコルトンプラザ行きの無料送迎バスで行く。歩いても10分程度。ここに市川市の文化施設が集まっている。
 染谷亮作は農本主義者だったのだろうか。一番親しい人の写真に漬物樽がある。この大きさの樽はタクワン樽でなく福神漬の樽と見える。このあたりの文献調査は大正年間の醤油の流通のの記録だろう。埼玉県川辺村の実家では自家製の醤油を作っていた。漬物用の醤油は下漬では上等の醤油を使う必要はない。製品の完成時に上等の醤油をつかい味付けとする。
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日本のデンマ―ク

2024年10月16日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴と当時の東と西の葛飾郡の社会状況を図書館で調べている。千葉県の野田市の郷土博物館で染谷亮作と川間村という平成28年度特別展の冊子を九段下の昭和館図書室で読んだ。彼は今は野田市の一部となった川間村に農業と教育の理想の実現に奔走した物語でした。染谷の力と野田の醤油業者の連携で、野田農工学校が設立され、叔父はそこに入学し、卒業して埼玉師範学校へ向かったのです。
 染谷は千葉の高校を出て、東大農学部に入り、その後に愛知県立農林学校として、1901(明治34年)設立された。初代校長は山崎延吉が着任し、山崎に誘われて染谷亮作が教師となった。安城の農林学校は多くの人材を輩出し、大正時代の日本三大農学校と言われ、全国から生徒を集め、世間では日本のデンマ―クと言われるほどの農業先進地となった。安城市史には日本のデンマ―クと言われた様子とその後の失敗となった様子が書かれている。今は農業と自動車の工業との混在地帯となっていて、違った形で明治用水の恩恵を受けている。

 染谷は数年安城で農業教育に尽くし惜しまれて故郷に戻った。川間村の親からしつこく郷土に戻り川間村の発展に力を出せと言われたようだ。川間の地に醤油輸送の鉄道の駅誘致、地域の学問の場として小学校の設立などがある。また利根川江戸川に挟まれた地域の改良にも力を出した。地域のための人生は今ネット検索しても、図書館の蔵書検索にも出てこない埋もれた人物となっている。
 特攻で亡くなった叔父の経歴を調べていると、軍国少年という話が出てこず、どのような進路を選択したか不明だったが、今調べてゆくとやはり日本のデンマ―クという農業というものを複数の農業生産物で安定化し、さらに食品業、協働の考えもあったと思われる。このあたりの研究が野田市の複雑な大正から昭和にかけての野田大労働争議の影響がある気がする。都立中央図書館の3階にある、日本各地の都市史で野田市の正式な市史は所蔵されていない。あるのは別編だけである。おかしいのはキッコ-マンの社史はある。
 山崎延吉を図書館で検索すると農本主義者の本が出て来る。これは戦後の先の戦争の諸原因を探る歴史学者の迷走から来ていて、今は山崎延吉を農本思想家と見ている学者は減っているようだ。
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埼玉県越谷市中央図書館へ

2024年09月04日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
昭和18年9月30日の毎日新聞埼玉版を熊谷の県立図書館所蔵のマイクロフィルム版をコピ-した。その新聞記事には、戦時の学業短縮のため、半年ばかり短縮された埼玉師範学校の卒業生の配属先が記事となっていた。埼玉師範学校の記事ではその年は139名の卒業者がいた。この昭和18年と言う年は師範学校の制度が戦時と言うことで改革が行われていて専門学校となった。埼玉師範学校と埼玉女子師範学校との統合した年でもあった。そのため配属先の名簿を見ると女性の名が見えない。埼玉大学教育学部100年史を読んでいても、理解できないのだがどうも統合しても一部の授業のみが男女混合で大部分は別の様に感じる。特攻で亡くなった叔父は昭和18年9月卒業となるので、急変した制度がどうなっていたかは生きていても語ることは無かった気がする。
 新聞記事による叔父の赴任先は北埼玉郡の大袋小学校となっていた。師範学校の卒業式は9月23日で専門学校昇格後の第一回目の卒業生でもあった。その後29日に県から配属先が発表された。陸軍と海軍の航空士官試験に9月8日に合格発表されていて新井利雄さんは大里郡の男沼第一小学校となっていた。新井さんは陸軍・海軍の両方に合格していて、この時点では師範学校でも把握しているのに、配属先が出るということはどの様な制度だったのだろうか。自宅から通えるとか、小学校内にある寮に住むという制度化、下宿を前提しているのだろうか。戦時の様子は先生でも徴兵されている様子が見える。親族の敗戦後の川辺小学校の卒業記念写真では男性教員は年寄りで、残りは女性教員だった。
 ネットで越谷市の図書館検索をすると大袋小学校の開校110年の記念誌があった。この記念誌を読むため、東武線越ケ谷駅から歩いて20分ほどの越谷市中央図書館へゆく。司書さんに依頼し閉架の所から出してもらうのだが、本の題名が 記念誌110年の歩み で少し戸惑った。かなり遠方からこの本を読みに来るとは思っていないのだろう。この小学校は越谷市で2番目に出来た学校で、1番目の学校は明治5年の創立となる。目的の叔父の名前が教員だったの所にあるかどうかを探したが、名前の順序がバラバラで見たところ栗原義雄という先生はいなかった。どう見ても数日しか先生をしていない可能性があって、小学校の先生扱いはされていないと思われる。もし可能性があるとすれば大袋小学校の卒業生の名前に栗原という名前が散見されていた。記憶に残っていないのだろうか。ただ親族の言い伝えでは、戦時中に小学生の慰問袋、慰問文が栗原家の方に来ていたという。近所の叔父の出身だった川辺小学校と思っていたが靖国神社偕行図書館の学芸員から、欠員補充の招集令状は遅れるという。
 110年誌を読むと、大袋小学校には学校用の4反の農地があって、大正9年に大袋村農業補習学校を付設し定員が80名だった。叔父は小学校で農業指導を目指していて、千葉県野田農工学校を卒業し、師範学校を目指した。赴任が予定されていた時期の昭和17年の大袋小学校の卒業生は80名だった。
 結局越ケ谷まで行っても叔父の経歴はまだ未解明と感じる。敗戦後80年になる来年までにある程度納得できる記録を作れるのだろうか。
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関東一の猛暑を懸念しつつ埼玉県立熊谷図書館へ

2024年08月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
浦和の埼玉県文書館の1階に埼玉県立図書館浦和分室がある。激セマの図書館というか、本の引き取り所。ブックポスト。浦和分室は、資料の閲覧、貸出、返却等ができる埼玉県立図書館の窓口です。
 この窓口の人に熊谷の県立図書館の所蔵している昭和18年9月の埼玉版の新聞検索を頼んだ。手持ちの新聞は毎日新聞埼玉版で残りは朝日と読売となる。地元の埼玉新聞は文書館の昭和18年9月の縮刷版があるのだが9月の大部分が白紙で、9月末に新聞記事が出ていて、月末に繰り上げ卒業した師範学校卒業生の配属小学校が記事として残っている。それによると特攻で亡くなった叔父の赴任先が今の越谷市大袋小学校のようだ。この小学校にごく短い期間に先生をしていたという親族の言い伝えがある。そして川辺村の自宅に小学生の慰問袋が贈られいたという。この話の事実確認はどの様にしたら良いのだろうか。
 県立図書館浦和分室で調べてもらったら、朝日は戦後から、戦前のマイクロフィルムで保存しているのは毎日と読売だった。
 今はデジタル化している新聞があって、昔べったら市の資料調査で、横浜の新聞博物館で検索していた。検索用語が漬物用語と一致しなくてヒットしないことが多く、多分誰も検索していないので出てこないとおもっている。
 熊谷の県立図書館は数回訪問していて、様子が判っているが、今回は車でなく、JR熊谷駅から歩きかバスで計画する。東京では結構閉館日に図書館へ行ったことがあるので、まず休館日の確認。そこから関東一の猛暑と言われる熊谷の気温、夕立の様子。そこにまだ一回も熊谷駅に行ったことが無いことから,帰りと街散歩も出来たらとおもう。
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埼玉県文書(もんじょ)館へ再び

2024年08月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の遺品ともいうべき、昭和18年9月8日の新聞記事の埼玉版をもう一度鮮明なコピ-が出来ないかを探るため、JR浦和駅から歩いて、埼玉県庁を過ぎて、埼玉県文書館へ行った。
多分というか最後の訪問となる気がする。叔父の軍歴の未解明の事実がこの文書館に所蔵されている、埼玉県版の新聞記事である程度解明できた。ただこれは当時の事実を聞くための道具で実際は心の中をのぞくことは無理だろう。もう80年程の月日が経っている。
 コロナで予約制となったが、前回の感覚で、ほぼ誰もいないので予約なしでも入れる気がしている。この文書館で9月1日まで埼玉県教育史の編纂から導かれた、埼玉の学校の歴史が展示されていて、現物もある。物不足の江戸時代の手習いの跡の様子が見える。物を粗末にしてはいけないとか寺子屋で何を学んでいたかの様子が見える。識字率の様子が埼玉でどうなっているのか、その対策は埼玉県教育史の本を読まないと思われるが1冊4センチのある本が数冊見える。叔父がなぜ農家育ちなのに小学校の教員養成の学校を目指したかの親族の情報が無い。言い伝えでは川辺小学校の校長先生に進路相談した所、隣接の千葉県野田市の野田農工学校へ行くことを薦められたという。この学校はキッコ-マンの援助があった学校で今は千葉県立清水高等学校となっている。キッコ-マンへの工員養成だったのだろうか。今でも食品系の過程が清水高校にある。そこから浦和の埼玉師範学校に進むのだが、戦時となって中国の戦火拡大で教員の従軍免除の特権が消えていく時代で、競争率が下がっている時期だった。それでも親に学費・寮費の負担を避けるため、師範学校に行ったと思われる。聞いたところでは寮に住んでいた様子がある。
 昭和18年の日本は戦争がミッドウエ-海戦敗北後に負け戦に進んでいて、飛行機搭乗要員の即席操縦士を養成することとなった。海軍が数千名で陸軍が2000名募集で合格者は水増しだった。海軍の競争率が10倍を超えていて、陸軍が5倍程度。従って昭和18年7月の朝日新聞の記事ではしきりに陸軍の応募案内記事が出ている。多くは身体の要件で視力が問題だった。さらに応募方法がが個人で最寄りの陸軍に応募する方法と学校の駐在軍事教官経由で陸軍特別操縦見習士官の願書が出せる。
 叔父の伝聞では家族の了解は得ていない様子で、師範学校経由の願書提出と思われる。それゆえ合格の郵便が来ていても、時期から学徒出陣の招集令状が来ていたと思っていた様子が見える。
 叔父の軍歴から11月1日入隊。普通の特操1期生は10月1日入隊。
この事実の解明が今年の7月に出来た。陸軍と海軍の対立で、10月1日の入隊の日に埼玉師範学校の陸軍合格者10名の内、一人が入隊日に出なかった。そこから欠員騒動があって、どうも叔父が繰り上げ合格となった様子が見える。この時に陸軍に入隊した9名は戦後の埼玉県文書館の保存されている、昭和25年頃の埼玉師範学校男子部同窓会名簿で生きて戦後に教師となっている様子が見える。つまり不合格となった叔父が唯一戦死し、合格し陸軍の飛行士になった同窓9名が戦後に生きる。
人生の理不尽を感じる。
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早田発言で元特攻隊員が増えた

2024年08月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
昭和20年5月20日に叔父が台湾から沖縄に向けて、夕方5機の仲間と1機の誘導機で出撃した。作戦名は 誠 という名称がある。知覧の特攻平和会館のホ―ムぺ-ジの解説で(特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は" 振武隊(しんぶたい)"、台湾から出撃した部隊は" 誠飛行隊(まことひこうたい)" と呼称しています。)
 普通の日本語の解釈では、振武とはは「剣道などの武道を広く活発に伝えることで、人と
しての正しい生き方を多くの人に知らしめ広げていく」という解釈があります。
 ところが自分が福神漬の歴史を調べていて、上野の戦争つまり彰義隊の戦争で振武軍というのが出てきます。
上野戦争の当日、 渋沢成一郎たちは、田無(現・東京都西東京市)の西光寺を本営として屯集し、隊の名前を「振武軍」と定め、成一郎が隊長、尾高惇忠が参謀長となりました。その後埼玉県飯能市で敗北しました。誠 隊は誰でも幕末の新選組を思い出すでしょう。
 叔父の人生の航跡を探して文献を読むと、生き残った元特攻隊員がやたらと多いことに気が付きます。数字上、知覧の特攻平和慰霊館には1036名の陸軍特攻隊員の名前があります。海軍は知覧ほど有名ではありませんが全国各地に慰霊館があります。文献では海軍飛行兵士の特攻隊員は4000名ほどです。でも元特攻隊員はもっと自称の人が多いと感じます。
 なぜ元特攻隊員が多いと感じるのは、本土決戦のために、特攻という名の要員を増やしたと思われます。そこで8月15日に終戦となり、生き残ってしまったのが実情と思われます。戦後はすぐに特攻隊員の英霊が否定され、無駄死にと言われた時期がありました。そんな時期に無頼派作家という坂口安吾が特攻隊員の行動を擁護しています。
無料で読める青空文庫で

特攻隊に捧ぐ
坂口安吾


 戦争末期日本はほとんど幼児と高齢者をを除いて、戦時要員となった。このことが精神で敵に勝てると思っていた軍部が特攻隊員を増やし、行きの残った特攻隊員を増やし、戦後の元軍人の口を封じた。それは敗戦というより、死ぬはもろともという戦陣訓の影響だろう。武器、燃料、食料の欠乏していた特攻兵士は特攻する準備だけさせられ、生き残った。実際に慰霊されている陸海軍の特攻兵士がおよそ数千人だが元特攻兵は10万人以上の人がいてもおかしくない。本土の決戦用の兵士は特攻思想が普通になるように教育されていて、女性でも沖縄の事例の様に軍から自決を求められていた。

 この様なことがあったことを知る必要があるということを知るため知覧に行ってほしい。
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知覧の特攻平和記念館へは覚悟が無いと

2024年08月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館へ行くには、ある程度覚悟が必要で、広島長崎の原爆資料館の様についでというわけにはいきません。知覧町は茶の産地で何もない農村風景と武家屋敷の町です。JR鹿児島中央駅からバス便で1時間20分。便の本数も少なく、近所の南さつま市立万世特攻平和祈念館は、鹿児島県南さつま市にある戦争資料館があります。ここへ行くにはバス便では難しく、結局車で行くしかないかタクシ―利用となります。そんなところから戦争末期に沖縄に向けて特攻に行ったのです。史実を知れば知るほど、若い人の命を戦意高揚に費消したと思うようになります。特に万世飛行場は即席の飛行場で滑走路が砂利で出来ていたため、飛行機の脚を収納する速度の速い飛行機が万世では使えませんでした。旧式でさらに戦争末期には米軍が三段構えで上空に待機していて、日本軍が飛び立ちレ-ダ-に把握されると、圧倒的な戦力差で沖縄までたどり着けなかった。多くの特攻本の記述は戦果率を見て、無駄死と言われた歴史があります。自分自身は特攻遺族となって、まだ20年程しか経ってなく、比較的に無関心でした。
 20年ほど前から、叔父のいたずらで、叔父の航跡を調べ始めていたのですが、築地市場移転問題で仕事を取られていたので、家族に叔父の航跡を調べてもらいました。主に主に調べたのが生きている親族の証言と靖国神社偕行文庫図書室の学芸員の人達でした。93歳の現役ユ-チュ-バ-で、ネット検索で逆さ歌、中田芳子と検索すると出てきます。この人の夫となる中田軍曹は叔父たちの同僚でした。
 1036名の特攻隊員が知覧で慰霊されています。この数字について、きむらけんさんは定義がおかしいと言ってます。下北沢の代沢小学校の児童たちが学童疎開に信州浅間温泉での交流の本がきむらけんさんの本が数冊出ています。
 定義の例を挙げると叔父の特攻では隊長として栗原義雄少尉となっていて、特捜一期生同期の小林脩少尉の他3名、そして誘導機1機で飛び立ち、すべて未帰還となりました。きむらけんさんに聞いたところ、誰かが特攻の様子を見ていている記録があるという。この記録が無いと軍人恩給に繋がるという。未帰還の飛行機の搭乗員は知覧で慰霊されていない。
 記録が無いと評価されない戦争。京都の耳塚の由来を思い出した。

 参考 きむらけん著
 台湾出撃沖縄特攻 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
この陸軍八塊飛行場は今は台湾国防大学の敷地にあって、一部の遺跡が残っています。叔父の最後の宿泊地は復元され、台北紀州庵として保存されいます。台湾のドラマで畳の上を靴を履いて歩いていて驚きました。
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力道山未亡人  細田 昌志著 読んで父の死を想う

2024年08月17日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
私の父は昭和30年のクリスマスの朝に亡くなった。記憶では家でプロレスを見た後に倒れ、数日寝た後、亡くなった。その当時の様子が 力道山未亡人  細田 昌志著を読んで、なぜ父が興奮したかが理解出来た。アメリカのレスラ―を最後に倒す。
 父の弟は沖縄嘉手納沖にいた米軍艦船に特攻して昭和20年5月20日に亡くなった。様々な思い出が父とその弟にあったのだろう。戦後の日本に駐留している米軍・GHQには敗戦という気持ちがあったとおもう。特に朝鮮戦争の時に地域の工場で破壊された米軍戦車を修理していた風景を思い出す。
 そんな時代に日本でテレビ放送が始まり、比較的に早く家の居間にテレビが設置された。その頃のテレビは市販のものと部品を購入し、自作していた人がいた。家に入ったテレビは1インチ1万円の時代で、17インチのブラウン管でチャンネルは回してみる。裏から中を除くと真空管と部品が並んでいて、あったかい空気が感じられる。
 この時はまだ東京ではNHKと少し遅れて日本テレビとKRテレビ(後のTBSテレビ)の時代だった。まだラジオが全盛であった。多くの家にはテレビが無く、今のJRの駅前広場に街頭テレビが設置され、テレビというものの購入誘惑を誘っていた。映画館に多くの観客が見ていた時代だった。
 戦時中の話とかの文献・遺品等は比較的に良く残されているが、戦後の混乱期の様子は今のNHKの朝ドラ(寅につばさ)の放送の方が理解しやすい。

テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち
福留 崇広 (著)


突然の早田ひな発言(知覧の特攻平和会館を訪問したい)で、自分の考えを確立しないといけない時期に来たようだ。特攻遺族扱いとなって(父が養子に行っていて)、まだ20年も経っていない。自分自身は知覧での特攻慰霊祭の招待状が来た時から、遺族という気持ちとなった。時代時期によって、特攻隊員の評価が揺れる。そして揺れている事実が言論の制限されている日本・中国・韓国で軍国主義の先兵論争となる。
 多くの特攻遺族の密やかな本音が5月3日の知覧での慰霊祭に行く、鹿児島中央駅から平和会館へ行く特攻遺族の送迎バスの中で遺族同士の会話が聞こえる。もう79年の月日が経っている。ということは伝聞の世界となる。戦後に一家の柱となる優秀な人材の死は受け入れられない。飛行機操縦士は知力・体力が必要だった。戦後の混乱期にどれほど男手が必要だったか語る文献が見えない。当事者の戦後は大変だった。そんな思いを見ていた人たちによって知覧特攻平和会館がつくられた気がする。その思いの食い違いうが今再び起きつつある。
 戦後の特攻隊員の評価が揺れていて、敗戦前は英霊で、敗戦後には無駄死に・犬死にと言われ、日本の危機になると、見直しされる。都合のよい道具となってしまった。死者は不倫しない。変な発言もない。時間が昭和20年8月15日で終わっている。今は遺族たちがそれぞれの戦後を生きている。
 

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靖國神社の靖國偕行文庫で

2024年06月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
3連敗の図書室訪問で、休みの無い神社の図書室へ行くことを計画する。するとまだ叔父の特攻隊へなぜ入隊したかの理由が不明で普通の徴兵と異なっている事実が見つかっていて、その確認を怠っていた。その事実とは何かというと、陸軍は昭和18年にミッドウェー海戦後の戦局の悪化で、米軍が本土攻撃が増すことを予想し、飛行機の乗組員を緊急増員することになった。この報道は昭和18年7月に新聞記事となって大々的に報道されていた。人気のある海軍の予科練は競争率10倍の難関であった。ところが陸軍は大々的な報道にもかかわらず、不人気でやっとのことで5倍程度だった。
 昭和18年9月8日に陸軍と海軍の航空士官の試験の結果が毎日新聞埼玉版で見ることが出来る。叔父は今の埼玉大学教育学部の前身の埼玉師範学校に学んでいたことが親族から聞いていたが卒業を証明するものが無かった。そこで埼玉大学へ行って、戸籍謄本を出し、叔父の軍歴から昭和18年頃の資料があったらと頼んで家に帰った。帰ったら大学から資料があったことの伝言があって、見に行くことになった。そこにあったのは昭和18年9月30日に卒業した成績表だった。一応個人情報と言うことで叔父の部分を写真に撮り、家に持ち帰って分析するとおじの航空士官の合格の理由が判った。それは視力が1.5あったということに尽きる。さらに卒業後の行き先が、陸軍特別操縦見習士官となっていた。今思うとこれは今の越谷市大袋小学校という名前が書いていない。昭和18年9月の終わりに毎日新聞と埼玉新聞の師範学校卒業生の勤務先が出ていた。それによると大袋小学校だった。
 9月8日の新聞には叔父の名前が10名の合格者には無かった。そこで埼玉文書館で師範学校の卒業者名簿から10名の名前と海軍の22名のリストを作成した所、陸軍の合格者の9名が戦後にも生きて学校の先生となっていた。ただ1名の人が卒業者名簿に勤め先が不明で安否が判らなかった。その1名は海軍のも合格していた。リストから埼玉師範から22名が海軍・いわゆる予科練に合格したのだが、5名の死者がある。そのうち特攻死したのが1名でそのほかは記録が不明だった。
 叔父の軍歴から、繰り上げ合格ということが解かるがその根拠として、両方に合格した人を聞くには埼玉大学へ行くのが簡単だが今の常識で個人情報は教えてくれないと思い軍隊の資料が豊富な靖國偕行文庫へ行って調べることにした。コロナ以前は休館は1日しかないが今は週3日しか空いていない。多分戦後も80年になると記憶も薄れ調べる人は少ないと思い予約せずお願いして資料を調べる。まず陸軍特別操縦見習士官1期生写真集を出してもらい2600名のリストを見ると陸海軍に合格した人の名前が無かった。そこで靖國偕行文庫の掛かりの人に海軍13期生の名簿を出してもらったが関東地方しかなく、ふと思って13期生の戦死者の名簿を出してもらった。この名簿は戦死の電報の番号順で苦労すると思ったが昭和20年4月に沖縄攻501飛行隊で沖縄本島東の米軍艦船の夜間攻撃で未帰還飛行機という記録があった。
 靖國偕行文庫の掛かりの人は招集令状は事前に連絡する仕組みが無いので、両方に合格した人が10月1日の入隊日にどこへ行ったかから始まるという。このことは叔父の陸軍の繰り上げ合格が10月になることを意味していて軍歴も11月1日から始まる。親族の言い伝えでは小学生の慰問袋が届いていたというがほんの数日勤務した大袋小学校の児童の可能性もある。

 靖國偕行文庫には現在、靖國神社の蔵書を併せ約14万冊の図書資料が収蔵されています。神道関係の資料をはじめとして、蔵書の多くは戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料です。
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特攻の映画『あの花が咲く丘で、xx』見た後の5

2023年12月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
戦後に台湾から日本に戻ってきた陸軍第204飛行隊の隊長が栗原家で最後の特攻の様子を語った。この訪問時期は不明だが、昭和21年の春先に台湾からの204飛行隊員を乗せた引揚船が和歌山県田辺港に着いた。従って、栗原家への訪問は昭和21年以降となる。埼玉県北葛飾郡川辺村に戦後まもなく米軍兵士が進駐してきた。今の東武ア―バンパ-クライン(野田線)南桜井駅付近で栗原家とは500Mも離れていない。米兵が50名弱が地域を警戒していたので不安はあったと思われる。戦争が終わって埼玉米軍の進駐が割と早かった。その理由は南桜井には陸軍の軍需工場があって、さらに空襲にも合わず残っていた。米軍は兵器の処分を急いでいた。

 昭和21年秋に、房総半島沖を通過した、カスリ-ン台風で利根川中流の栗橋付近で利根川が決壊し、数日後に都内まで氾濫した水がやってきた。上流の川辺村は水田が水没し、排水できずに一ケ月ほど水没していたという。当然コメの収穫は期待できなかった。
 昭和21年は日本の食料は極限まで少なく、敗戦後の放出された日本軍の本土決戦用の食もない時だった。日本を支配していたGHQはコメの供出割り当てを農家に課した。
 県と米軍の強圧にも関わらず、庄和町の人たちのコメの供出率が埼玉県の中で最低グル-プだった。当時の様子は埼玉新聞から読み取ることが出来る。農民にも言い分があって、供出米の割り当てが来ていて、その農家に都会からの避難民がいる。すると食料の配給がある。不必要なものの配給があって、タバコや電球の配給がタバコを吸わない人には闇市に売るしかない。配給を断われば次が消える恐れがあった。配給の制度は今の給付金の制度と似ていて、混乱していた。
 埼玉米軍のライアン中佐が埼玉軍政部の名で食料拠出の命令を庄和地域の農民を南桜井小学校に男子の戸長をあつめ、食料供出率を未達成だと、各戸の隠匿状況の調査をすると脅した。結果的には食料の供出問題は解決したのだが、都会からの買い出し人から得た金銭で隠匿していた付近の農家から間に合わせたと言い伝えが残る。戦後は闇市の時代で物価上昇が激しく、金銭を家に置くより、物に変えたほうが良いと考える時代だった。デフレの時は家に金を置いていたほうが良いが新円切り替えと言って、インフレが酷く、紙幣の価値が下がっていて、貰った金はすぐに物に替える時代だった。その時にお金でなく土地を買った人が東京では勝ち組となった。
 栗原義雄の特攻の遺品等が写真を残して親族によって処分されたと今は思うようになってきた。この残された特攻前夜の宴会の記念写真が今自分の所にある。
 当時の朝日新聞昭和22年1月の記事で、東京の人達の平均カロリ-が1500Kカロリ-弱で農村部は2600Kカロリ-という。農村部は空襲に合わず、隠匿食料と闇市による副収入があったと推測される。

 戦争は今でも続いている。先行きどうなるか判らないが、ロシアの経済成長率が5%以上あって、表向き戦争していない中国より成長率が高い。兵器の生産で成長しているという。戦争で経済成長というのは理不尽でそろそろ見えざる手の出番のように思える。歴史は見えざる手によって正常に戻される。そして正常になっても揺らぎがあって、戦争の誘惑に負ける。

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特攻の映画『あの花が咲く丘で..』見た後の4

2023年12月11日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の栗原家には昭和27年頃から、夏になると一月ほど東京から行かされた。今風に言うと6歳の幼小児の農村留学だった。今でも70年経っているが強烈な印象が残っている。行くと満面の笑みを浮かべた父の生母を思い出す。
 ポットン便所、トイレの紙は新聞紙、牛小屋があって、肥溜めのにおい、家の庭に巨木があってそこの樹液に毎日カブトムシやタマムシが群がっていた。トンボの大きさも都内と違って大きいし、何よりも数が多い。小高い家から隣の村を眺めると広大な水田があって、風が通ると稲穂が波打つ風景だった。今は中央を道路が通り、国道4号線に高速道路が伸びるという昔の風景の記憶を消している。
 そんな記憶の中でネズミを飼育していた様子や話を聞いたことはない。記憶のあるのはお茶の加工場で時々使い方や様子を聞いたことがある。歓喜院という寺に墓があるのだが古いものは富士山が噴火した宝暦の時代の墓が一番古そうだ。
 居間の仏壇の側の長押に祖先の写真があるが、普通の写真の中に、戦闘機の前に立っている軍人らしき人の軍服写真が一枚あった。これは誰ですかと尋ねたら飛行機で亡くなった父の弟だよ。特攻で亡くなったとはいわずで言えなかったと思われる。この事情は父が小学校の時に亡くなったので母から聞くこともなく、特攻で亡くなったのを知ったのは学校を卒業し、関西に行く時に、栗原義雄と父を生んだ生母のていさんが亡くなりそうになり、見舞いに行った時に医者が治療しないと言って驚いた。その理由は老衰という。確か90歳は超えていた。それで関西へ行っても、葬儀に戻らないといけないので服を持って栗原家に泊まり込んだ。そこで栗原義雄が特攻で亡くなり、戦後に上官が栗原家を訪問し、遺品等を渡した話を聞いた。その時の様子を盗み見していた小学生だった少女の証言で義雄の生母が特攻の上官に対して、『こんなものはいらないから義雄の命を返して』と叫んだという。
 泊まり込み始めて2週間ほど経って亡くなった。最後の瞬間に大きなあくびがあって、静かになった。チリ紙でこよりを作って鼻先にぶら下げても動かなかった。それから医者を呼んだ。
 葬儀の中でずっと考えていたのはどうして特攻で亡くなった義雄がいたことを自分に話さなかったのなぜなのだろうか。聞いても何も知らないようで隠している様子もない。これだから知覧の義雄の遺品箱は空だった。戦後に何があったのだろうか。
 親族に聞き始め調べても展開が進まなかった。後で知ったのだがアメリカでも日本でも戦友会の活動は戦後60年位で休止となっていることが目立つ。こちらは20年前から調べ始めているので、ネットでアメリカの情報も見ることが出来る。他の特攻隊員の様子から、叔父の遺書・遺品は栗原家で処分したと考える方が納得がいく。
 そこで春日部市史庄和地区編近現代を図書館で読むと大まかな推測が出来る。敗戦直後の庄和町は日本で一番特殊な町だったことを調べてゆくうちに知った。その基本情報は埼玉県春日部市が庄和町を吸収し、統合後に編纂された春日部市史庄和地区編近現代で理解が出来ると思うようになった。
 栗原家の当主になぜ春日部市と統合になったのかと聞くと騙されたと言っていた。財政が春日部市が厳しく、庄和町には東証1部上場会社のリズム時計があって、それほど財政が酷くないと言っていた。事実庄和町にある元の町役場はとても立派だった。

 アメリカとの戦争が始まって、5か月後にドーリットル空襲と言われる攻撃が東京に爆弾を落とした。1942年(昭和17年)4月18日 この攻撃に驚いた軍は墨田区大平にあった精工舎の疎開工場計画を立て、その地が庄和町だった。その選択の理由はほぼ農村地で、林が多く、東武線があり、さらに江戸川水運も利用できることのようだった。大きな機械は途中の橋等が重さに耐えられないので水運を利用して運んだようだ。時計工場の建設工事は昭和18年頃から始まって、精工舎の工場が稼働したのが昭和20年で製品が出来たのが敗戦間際で、米軍には存在が知られていなく、空襲を逃れた。同時期に東京赤羽の軍の工場が空襲で破壊され、精工舎の江戸川工場の未使用施設に移転してきた。準農村の村が短期間で3000人の都会の人がやってきた。さらに東京から縁故疎開もあって、人口が爆発的に増えた。
 戦争が終わり、精工舎の江戸川工場の従業員は解雇となったが、東京は焼け野原で精工舎の東京での復活が見えず、多くの人が庄和町に残った。農村地帯で食の不安が少なかったこともあるようだ。東京に戻る人と海外から日本に戻り家のない人、戦争で親を無くした浮浪児の収容施設も2か所も出来た。
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映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』見た後の3

2023年12月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
九州の南鹿児島市知覧町に知覧特攻平和会館がある。そこには特攻というものがどんな理由で始まったか、終戦までの記録がある。慰霊された特攻兵士の顔写真がある。叔父の栗原義雄はその中にある。写真の所に出身地があって、埼玉県北葛飾郡川辺村と書かれている。今の埼玉県春日部市にあたる。春日部市出身の唯一の陸軍特攻兵士である。でも郷土では県会議員が来たくらいで、今は誰も親族以外は知らない。なぜだろうと調べ始めた。詳しく調べ始めたのは20年程前から、自分は築地いて子供が旅行費用を要求する口実で叔父の軍歴調査に出かけた。それは特攻出撃が台湾からだった。九州からほとんどの特攻が出ているが沖縄までの距離の近い台湾からも沖縄戦に出撃している。
 森村誠一著『新版続 悪魔の飽食』1983年・昭和58年という小説がある。
文庫本の210頁からラッテ・マウスの故郷からという一文がある。
 戦後の1950年2月 埼玉県北葛飾郡川辺村に川辺村試験動物飼育組合(モルモット)と名乗る風変りな協働組合が出来た。川辺村は庄和町で今は春日部市である。大河川の江戸川と庄内古川に囲まれた台地と低地からなる農村地帯で、森村誠一は穀倉地帯と言っているが、ギャンブル的な米作地帯でもあった。夏まで豊作を見込めても秋の雨で田畑が水没の恐れのある穀倉地帯だった。それゆえ結成された試験動物組合には川辺村付近の農家が40名ほど参加した。なぜ農家がネズミの飼育の話に乘ったのかというと、戦時中に春日部市近郊ではネズミの飼育に実績があって、それなりの組織が残っていた。
 この年の5月に組合の組織が発足し、今の春日部に所在する日本実験動物綜合研究所の小林と名乗る人の挨拶があった。この小林の挨拶で戦時中の春日部付近で飼育されていたネズミが関東軍の伝染病研究所に送られていたことが知らされた。悪魔の仕業という人体実験を行っていた731部隊に春日部付近で飼育されていたネズミの行き先だった。さらに小林の挨拶で今は関東軍に変わって、米軍が伝染病を研究しているのでネズミが必要となってると挨拶した。
 この春日部市付近の試験動物の飼育は米軍の品質規格に合わない時代がやってきて、ネズミ産業は表向きには消えて庄和町付近では忘れられていた。
 そこに埼玉県立庄和高校地理歴史研究部が地域の平穏を破壊する研究発表をおこなった。1996年秋の事である。庄和高校地暦部が731部隊展を開催した時、県の教育委員会が後援しておきながら、留意事項(生徒を見学させない)をつけた問題が諸問題を次々と発生し、庄和地域で混乱があったようだ。芸能人の不祥事の様に教育委員会と後援する人たちの激論が埼玉県民の関心を呼び、731部隊の高校生の展示会で6000名の来場者があった。そこにも右翼と左翼が狭い地域での混乱があった。そして多くの庄和町の人が口をつぐんだ。この混乱事情は杉戸町図書館で読むことが出来る。2冊あって一冊は部活の本でもう一冊は営利の本で古書店で今でも購入できる。当事者の春日部市図書館では3か所ある図書館で置いて無い所の方が多く、今でも地元ではタブ―のように感じる。戦後78年で新しい語られない歴史が増える。731部隊の悪行を追及している中国は今はコロナで武漢の伝染病の研究をひた隠ししている。ひた隠しすればするほど疑いは増す。
 特攻した叔父の記憶が消えたのもこの731部隊と川辺村ネズミ騒動があるかもしれない。




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