年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

七編人 下巻 梅亭金駕著

2011年12月31日 | 福神漬
古書のサイトを覗いていたら、下巻が安くなっていた。上巻は比較的安かったので図書館に行く電車賃やコピー代と比較して直ぐに購入の決断をしたのだが下巻は千円以上していたので、図書館で借りて読んでいた。しかし他の借り出した本の合間に調べごとをするので睡魔に襲われて記憶に残らない。下巻が発行した昭和58年の価格になっていたので購入。
 本の最後に興津要氏の解説がある。福神漬の命名の経緯を調べているので明治17年前後の梅亭の気持ちはどうだったのだろうか。彼の本質は開化の時代を嫌いであった。
それにしても明治16年に再出版したことは需要があったということなのだろうか。明治20年頃までの文学の評価は殆んど無視されている。でも現実には新聞広告に多数の書籍の広告があるし、続き物の新聞小説があった。明治は歴史となった。

 梅亭金駕の墓は元浅草にある永六輔さんの実家・最尊寺にある。いつか福神漬を持って参拝したい。
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築地場内大処分市

2011年12月30日 | 築地市場にて
30日 築地市場のせりが29日に終わっているので今日は搬出のみの仕事となる。あれほど溜まっていた商材がキレイに出ていって終わることとなる。1月5日の初セリまで築地市場の中で一番騒いでいるのが隣の浜離宮をねぐらとしているカラスだろう。少ないエサをめぐって静かな築地の中で騒いでいる。時速15Kでも早過ぎると感じる場内走行も50K以上で走行しても休市の築地では危険性は感じない。
 築地場外市場に集金にゆくひとの話だが満員電車の中を歩いているようであると報告がある。ここ数年観光客のための食べあるき商品が増えてきて漬物でも串刺しを出している。時代の変化に対応するのが築地の商人かもしれない。
 余り物の商品が事情を説明してただで配る日となる。そんじょそこらのスーパーより傷がついていて販売できないものの鮮度は良く口に入れればなんともない。
 今日30日は日頃家計を守っている人が築地に応援に出てくる日となる。見慣れない人が築地に来るので挨拶していても話しながら顔と名前が一致しないことが年々増える。記憶の衰えを感じる日ともなる。今から20年ほど前の人手不足の時は築地市場で働いている若い人は外国人の不法労働者が多かった。今では殆んど外国人労働者は皆無といって良いくらいの状態となり、場内でウロウロしているのは外国人観光客である。場内アナウンスで英語やスペイン語・タガログ語・中国語・広東語・韓国語などの迷子の案内放送が有るとココはどこの国かと思う。ここ十年来の不景気で築地に若い日本人労働者が増えた。特に新卒の女性が年々増えてきて世間の不景気の本当だと感じる。(女性労働者は築地市場でモテナイことはない)休みも変則だが馴染めば結構面白い職場かもしれない。ある年商400億円もある漬物メーカーの役員の話で大学生のエントリが1000名を超えていると言う。恐ろしい不景気。どうやって絞るか聞くと営業職を希望する人を優先して選考するという。荷受の総務の人の話だと元気のある人という。年々難癖のある個性のある人が築地市場から消えて徐々に一般社会の常識に囚われている人が増えてきて、意外な展開が少なくなってきた気がする。
 酷い一年がようやく終わりそうである。
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東京都の築地市場内放送だけがうるさくて

2011年12月29日 | 築地市場にて
28日が終わった。世間では御用納めとかで一年の締めくくりの日だが築地は混雑する所となる。東京都の場内放送が「一般見学者の水産仲卸の見学は9時以後にしてくださいとか、卸売場には立ち入らないでください。」とかでとにかくウルサイ。
 場内郵便局付近の嫌がらせ的工事が12月に急に始まっても今の所支障もなく作業している。配送の荷物も予定の時間に届いて年末の遅れは実感しないがやはり急に増えた物量に配送業者の人手が足りなく延着の問い合わせが多い。
 それでも築地を知っている人に聞くと今年の混雑は少ないという。感じるのは外国人観光客の少なさである。政府は収束宣言をして忘れやすい日本国民を説得しようとしているがごまかしの利かない異国人には通用しない。
 急に思い立って中央区の図書館に河竹繁俊さんの経歴の本を借りに行く。帰りに築地本願寺を覗いていたがどこで岩井半四郎さんの通夜があるかわからない程だった。例年なら雑踏の激しいもんぜき通りを避けて反対側の歩道をゆくのだがそれほど混雑もなく行ける。今年は警視庁の機動隊が交通整理の出動はないのだろうか。
 酷い一年がようやく終わりそうである。先送りしかできない政府のツケがいつ震災のようにやってくるのだろうか。予測のできることは人災である。
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岩井半四郎さんの葬儀

2011年12月28日 | 築地市場にて
12月28日夜築地本願寺で岩井半四郎さんの通夜がある。ただTV等で見ていただけの人だが福神漬の歴史を見ていると妙に気になった人だった。
 福神漬の命名時の由来を語った鶯亭金升の妻(ぬい)は花柳寿太郎の父の姉だった。鶯亭の結婚の媒酌人は最後の浮世絵師と言われる小林清親であった。鶯亭金升の日記を出版した時、編者として花柳寿太郎の名前がある。岩井半四郎さんは花柳寿太郎の子である。鶯亭金升は伯父として四谷の仁科家に数々出入りしていた。当然岩井半四郎さんとは親戚付き合いをしていた。
 花柳寿太郎 はなやぎ-じゅたろう (1901-1967)65歳で死去。本命仁科周雄
 もう福神漬に関する命名時の由来とか周辺の人物像を調べてゆく鶯亭金升日記に序文を載せている人が結構福神漬の資料に出てくる。何かあるのだろうか。特に長谷川伸という作家は福神漬のエピソードの関係が深い。河竹繁俊さんという人が今一番福神漬とどんな縁があったのだろうか気にかかる。
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築地市場の隣の海図をつくっている所の移転

2011年12月27日 | 築地市場にて
築地の海軍軍艦操練所の遺物の移転
幕末築地には海軍近代化のための施設が作られ、明治になっても再利用され築地には海軍関係の施設が作られた。銀座にみゆき通りという名前があるが明治天皇が築地にあった海軍施設にゆくための通路であったから命名された。今では晴海通りが築地へのアクセスの本通だが勝鬨橋が開通するまで江戸時代からみゆき通り・波除神社へ向かう通りがメインストリートであった。ここを通った人の中では赤穂浪士が吉良邸に討ち入り後、築地本願寺を通り、新喜楽の所で曲がり、釆女橋を渡り泉岳寺へ向かったという。
 築地市場の水産部駐車場付近に海軍経理学校が、築地がんセンター病院のところに海軍病院があった。また海軍の学校があったのだが新橋の風俗街の直ぐ側にあったため、江田島に移転されたこともあった。
 戦争が終わり、海軍が消えても過去の遺物が築地に残っていた。その中に施設で日本の海図を作成する施設が平成23年12月で築地を去る。一度中に入って資料室を見たが訪れる人も少ないようで古い築地の様子が展示していた。東京の臨海地に移転するのだが再開した資料室にはどんな展示があるのだろうか。

「国土交通省海上保安庁海洋情報部庁舎移転
海洋情報部は、2011年12月中旬まで、東京都中央区築地5丁目から東京都江東区青海に庁舎の移転を行っています。」
不景気と国有財産の有効活用とかで歴史の重みもなく移転されてゆく。
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26日 築地が一年で一番ピリピリする日

2011年12月26日 | 築地市場にて
クリスマスの商材を撤去して、26日は正月用の食品を陳列する日となる。ところが急に仕事が増えてミスが続発する日ともなる。地方からの配送便も荷割れ(品物が揃って到着しない。一部が行方不明になること)が増え、何回も配送するので効率が悪い。バケツリレーに例えると途中で小休止があったり、連なってバケツが来る状態となる。
 ようやく青果部の駐車場に配送しきれないミカンの箱が滞貨となってきた。この荷も年末には消え、ガランとした築地になる。カラスが餌を探すためかしきりに鳴いて人気のない築地の主となる。
 豊洲移転が順調に行けば、年末の混雑した風景はあと2回しかない。整然とした区画となった豊洲新市場は効率もよく荷捌きは今より早くなるだろう。バタバタした3年は意外と早く終わるかもしれない。
 築地が豊洲へ行って、昭和が歴史になった気がする。すでに豊洲移転のための資料がミカン箱にいっぱいとなり2箱目となる。関連棟の飲食店舗の人達の移転準備はかなり進んでいるようだ。今の築地の勝ち組かもしれない。
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25日築地市場開市です

2011年12月25日 | 築地市場にて
年の最後の日曜日は開市です。この日ばかりは築地市場周辺に素人の買出人で溢れます。今年は25日ということであまり混まないと思うが年末のテレビ番組がアオるので時には予想もつかない混雑となります。
 年末の挨拶とかで築地市場内を縄張りとしている保険屋さんがやって来ました。彼女は築地担当になって30年以上のキャリアがあります。下手な買出人より良い品を得意先である仲卸人から安く分けてもらっているようです。同じ販売している商品でも今日の品は高くて悪いから買うのをやめなさいとアドバイスをくれる付き合いとなっているようです。幻の商品でもただで食べさせて素人感覚の評判を聞くことにしています。私に言わせれば隠れた築地の名物女性です。
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第二名神高速

2011年12月24日 | 築地市場にて
クリスマス寒波が来て,北日本は大雪である。ここで平成になってまだ東名・名神高速しかない時代にクリスマス寒波によって関ヶ原付近が大雪となって交通事故が多発し、高速道路が全面閉鎖となった時があった。いつも思うのだが北日本では50センチ程の雪では酷い交通マヒとはならないが、東京では10センチも雪が降れば骨折者が続出となる。
 おせちは25日に合わせて輸送しているのでチラシ掲載もあるので大変だった思い出がある。実際店頭に並んでも消費者がおせちを買うのはもっと後の日なのだがクリスマス商材を撤去したあとの空白のスペースを見ると気が焦る。
 今は第二名神・名阪高速が加わったので余程のことがない限り延着で済むようだ。ここ数年の不景気で各輸送会社の人員が削減されていて年末の輸送が増えるとパニック状態となるようだ。築地市場の年内の混雑ピークは26日と見た。あとは残務整理となるだけである。元日から店舗が開いているので昔ほど急いで買う必要性はない。1月1日に残っているおせちは激安である。漬物はおせち商材が少なく年末はいつも暇である。
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2011年末の築地で

2011年12月23日 | 築地市場にて
正月休み用の図書を10冊ほど図書館から借り出すことにした。主な本は黒船以前の日本をめぐる国際情勢の本と長谷川伸の相良総三の本・キューバ歴史と近鉄の小説。この関係のなさそうな読書本はあとから見たらどう思うのだろうか。それぞれ福神漬の資料調査で気になった事項で読みたいと思った本の羅列である。
 年が変われば豊洲移転の要望事項を提出しなければならないので忙しくなるだろう。とにかく来年1月5日のマグロの初競の価格が注目される。平成23年の初せりで2千万円を越した価格となったが放射能の問題で香港とかマカオの人たちはどのような価格をつけるのだろうか。例年なら成田空港から正月の品を輸出するのだがある国には福岡空港から輸出した。成田は福岡より汚染されていると海外の空港関係者に今でも思われているのだろうか。日本でも福島ナンバーの中古車は嫌われているのは本当なのだろうか。
 日刊工業新聞の少し前の記事で清水建設は放射能除染や、東京都の築地市場の移転先で過去最大級の土壌浄化となる豊洲新市場予定地工事への対応などを目的に、2012年1月1日付で土壌環境事業部を再編するというのがあった。転んでもただでは立ち上がらない人達がいる。
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民法典論争

2011年12月22日 | 福神漬
民法典論争
法学セミナー
2009年 9月号 54巻 9号 通巻657号 七戸克彦文
福神漬関連の史料調査でまさか法学セミナーを読むことになるとは!!
 日暮里駅脇の諏訪台にある浄光寺という寺に巨大な福神漬顕彰碑がある。この顕彰碑の碑文を書いた村田保という人は日本の水産業業界の恩人で明治31年に小松宮親王より「水産翁」の号を賜っている。彼は非常な熱血漢で明治23年に山田法相が法案成立に焦り旧民法・商法の逐条審議省略をしたため反発し、同年開設となった貴族院勅撰議員となった村田が明治25年第三議会において「民法商法施行延期法案」を提出し、延期させた。これが民法典論争と言われるもので今の民法分野の人達から村田保の行動は非常に評判が悪い。この法典論争の頃村田保は明治23年の行政整理で水産局廃止になったことに憤慨し時の農商務大臣と談判し水産調査所を開設させ、ついに水産局を再興した。また数々の水産業関連法案を成立させた。日本の缶詰業は初期においては水産缶詰の製造から始まったので福神漬顕彰碑に揮毫を頼まれたのもこの様な縁からと思われる。
 村田保の経歴を調べるため法学セミナーを取り寄せたのだが七戸克彦氏が書いているように彼の生誕時の経歴がはっきりとしない。ある文献では幕臣の子とあり、また大坂唐津藩屋敷で生まれたという文献もある。彼の自伝で「村田水産翁伝」著者大日本水産会というのがあるがこの本でもはっきりと記述されていない。しかし、福神漬に関わる色々なエピソードから見ると唐津藩出身とした方が面白い。
 戊辰戦争時、唐津藩の元老中小笠原長行は北海道まで逃亡し、箱館で敗北すると身を隠し、維新後の新政府の榎本武揚処分の結果を見て、アメリカより帰国したと自首し、わずかな期間謹慎したのち下谷付近で余生を送った。彼が明治24年に死亡すると葬儀に榎本武揚と林田保という人が参列している。(久敬社誌=小笠原長行が作った唐津出身者のための育英団体)明治の時期の文献は誤植が多く、多分唐津藩出身の村田保が参列していたと思われる。
 戊辰戦争時、小笠原長行の東北逃亡に同行した小姓で後の建築家となった曾根達蔵がいる。彼はジョサイアコンドルの下で学び、卒業後三菱関連の建築を手がけている。小笠原長行が箱館にいた時、行徳の漬物商人だった『喜兵衛』が千代が岳陣屋で中島三郎助と同道し、討ち死にしている。
 浄光寺の福神漬顕彰碑の裏面に設立者名の中に山田箕之助という名があるが喜兵衛の親族である。
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松飾りの築地

2011年12月21日 | 築地市場にて
年末の交通規制が始まっても実感として場内の混雑はまだない。青果事務棟に松飾りがついて見た目は年末気分になってきた。年明けから移転のための社内会議が定期的に行われるように成る。来年のことを言うと鬼が笑うというが三年後移転に向けて50年後も役に立つ、迷惑のかからない準備をするのは難しい。現に築地市場は昭和10年に開業したのだがその当時に車があったことはあったが少なかった。大八車が活躍していて貨車輸送が中心だった。従って築地市場内に最初はガソリンスタンドがなかった。今ではガソリンの時代だが次の時代は電気スタンドの時代から水素の時代に成るのだろうか。
 東京都の人達の話だと豊洲新市場には水素や急速充電の車のためのスタンドの開業時設置予定は無いようだ。またこれだけLED照明に騒いでいても従来の照明を用意して、差額を補てんするからと言っても最初からLEDは認めないという方向だという。設置した新品の照明器具を撤去し、LEDを付けてくださいと言う。もったいないと思うのは私だけでしょうか。今年冷蔵庫内の電球をLED(300円)に替えたら毎月のように球切れした電球(30W=100円以下)が交換の必要が無くなった。冷蔵庫内の電球は温度差の変化が激しいのでしょっちゅう球切れがあった。
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梅干人生

2011年12月20日 | 梅干
ウメボシジンセイ
NHKみんなの歌で「ウメボシジンセイ」と言う歌がある。戦争前の軍国調のウメボシの歌を今風の歌詞に変更した。
 でもウメボシの歌は歌詞の内容はショッパイ。

 築地4丁目の本社があった引き売り豆腐の『野口屋』が倒産した。あのリヤカーと引っ張って販売する方法はテレビ受けが良かったが実際はどうだったのだろうか。
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MEIDIYAと福

2011年12月19日 | 福神漬
MEIDIYAと福
明治18年に横浜で創業した明治屋は日本郵船向けの船舶に必要になる商品の納入業者として始まった。社主磯野計はイギリス留学の経験からMEIJIYAだと発音が日本語として聞いた時、違和感があるのでMEIDIYAとしたという。
 磯野計が英語を学んだのは日本橋浜町付近(中央区日本橋蛎殻町)にあった箕作秋坪の三叉学舎から始まる。福島事件被告人花香恭次郎が明治4年頃に三叉学舎で学んでいたようである。この三叉学舎は数年程しかなく消えたので花香恭次郎と磯野計の接点が下町であったことと成るのだが。この三叉学舎の門人名簿に花香恭次郎の名前があれば簡単なのだがどうやら偽名で登録してある可能性が大きいので名簿の実物で判断しなければならないだろう。
 東京オリンピックが昭和39年10月に開催されたがその少し前に地下鉄日比谷線が全線開業した。東京の真ん中で比較的不便な地域だった広尾に駅ができた。その広尾の都立中央図書館があるのだが駅前に明治屋ストアーが道の両側にある。不思議な立地だと思っていたがどうやらこの土地は明治屋創立者磯野計の住居の跡のようである。
 広尾の町には福神漬の関係者の縁が多い。
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神奈川県立図書館で

2011年12月18日 | 宅老のグチ
都立中央図書館が休みなので横浜まで行って磯野計君伝を借りて読む。目的は計氏の妻だった福子さんの江戸のどこの生まれか調べることだったが結局詳しい記述はなく、幕臣だった広瀬氏が下谷の住民だったか不明となった。
明治30年12月18日、芝増上寺で明治屋創業者磯野計の葬儀があった。毎日新聞の訃報の広告では喪主はきく子となっていた。磯野計君伝によると「菊子」の名前の由来は計氏が菊の花が好きだったので名付けたという。また訃報広告には親族として米井氏、友人として豊川良平の名前があった。ただこれだけのことで横浜の図書館を出ると石柱に神奈川奉行所跡とあった。確か長井昌言が神奈川奉行所に一時いたことがある。紅葉坂を上った所にある神奈川奉行所の位置から横浜の港がはっきりと見えただろう。
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昔の中央区の築地市場イジメ

2011年12月17日 | 築地市場にて
寒い12月の築地

一年で年末が一番築地が混むのだがバブル崩壊後年々場内の混雑が減って今では事故さえなければイライラすることはない。バブル期に築地のある中央区は8万人程の人口だったが地価の下落とともに高層マンションが中央区に多数できたことによって高収入の住民が増え、深夜に残る仕事のために都心に住まなければならない人が増え12万人となったようだ。8万人程の時は、昔から住んでいた人と築地関連の人達が中央区に住んでいたが増えた新住民は魚を食べる人が少ないと思う。肉食新住民は築地市場が迷惑施設と思っていたのか、新大橋通りの歩道にターレーが走行出来ないようにポールが立ち、歩道に縦列駐車していた買出し人は追い出され他市場に行ってしまった。中央分離帯に塀が出来、駐車違反の取り締まりが厳重となった。ところが中央区は築地市場は都の管轄だからと駐車施設の拡大を計らなかった。ところがミシュランのガイドブックに日本に来る外国人観光客の築地人気が増えると手を返したように移転反対を唱えるようになった。年末年始に築地市場に買出しに来る素人買出し人はシートベルト着用は築地警察の点数稼ぎ、路上駐車は駐車監視員のカモとなる。築地警察の交通安全週間の講習会で署員の講師は築地4丁目を先頭とし渋滞が国会議事堂までと門前仲町まで繋がるので他の警察署からクレームが来ると講演していた。実に迷惑施設という言い方だった。
 築地市場再建工事のとき築地川に作った(浜離宮との間に)工事用の仮設通路も中央区が年末だけ使用させたため、場内が混雑していたので大口顧客である量販店が築地から逃げた。定時に魚が店に届かないと売り場ががら空きとなる。青果の大口の顧客は混雑のない大田市場に行ってしまった。
 10年ほど前から仮設通路は一年中使えるようになり、一方通行が設定され、連休明けでも築地市場内は混まなくなった。それによって力のある仲卸の場内配送力が増え、販売力強化となり優劣の差が増え倒産廃業が増えた。

 いまさら観光資源といっても大口の顧客は築地に戻らない。覆水盆に返らず。
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