年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治・大正のサッカリン検出方法

2007年02月28日 | 福神漬
最近醤油醸造論 栂野明之著 大正時代の著書
サッカリン検出方法
検体100cc~200ccを容器に入れ蒸発し、これを分離漏斗にいれ「エーテル」を加え激しく振湯し「エーテル」層を分離すること三回の後、その全部を蒸発して「エーテル」を去り、その残部に少量の温湯を加えて溶解し、これに炭酸ソーダと純塩酸カリの等量を加え溶融し「サッカリン」中のSO2を酸化する。ついでこれを温湯に溶かして塩酸を加えて酸性としこれに希硫酸バリウム液を加え硫酸バリウムの白色沈殿を生じれば即ち「サッカリン」が検体中に存在することを証明する。

今の分析とどう違うのであろうか。検査の精度はどのくらいであったのか不明。明治42年11月中旬から、日本醤油の人工甘味混入事件でサッカリンの検出が分析で出ない範囲に希釈して出荷という妥協策が出てくる。
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明治42年11月5日大阪朝日新聞

2007年02月27日 | 福神漬
明治42年11月5日大阪朝日新聞
日本醤油の運命
兼ねてからよからぬ風聞の絶え間なかった日本醤油醸造株式会社はついに大失態をおこし株主はじめ一般需要者に向かって謝罪する状態に至った。とにかく会社製品の信用は地に落ち、もし内務省がこの際柔軟な処置に出ても一度落ちた製品の信用は容易に回復することは出来ず、従って現在の製法はある程度変更せざるを得ない。聞くところによると甘味を付加する点においてサッカリンに代わるには砂糖またはブドウ糖を使用すれば格別問題がないのに経済性のため使用したものである。同社の今日の損害は百万円以上(表面的にはまだ発表されていない)は主として醸造上及び販売上から起こるもので、資本回転上、普通醸造法のように六ヶ月以上の期間を延ばすことはできず、さらに醸造法を変更し失墜した信用を回復する策にでても切迫している会社の運転資本を如何にすべきか、目下大阪市内にて同社の無担保手形では僅かにしかならない。ただ田島社長の裏書にて事情を知らない某銀行より融資を受けた借入金も遠からず期限が到来するので、この際未払込株金を払い込ませる方法もあるがそのためには対株主の醸造法への信頼を得るしかない。会社内外の欠損金を隠蔽している今日姑息な手段では会社の運命も維持することも出来ない。この際大英断を持って会社内部の大改革を施し公衆に謝罪するほか策がないだろうと関係者は語っていた。
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11月4日続報 大阪朝日スクープのまとめ

2007年02月26日 | 福神漬
明治42年11月4日 大阪朝日新聞
○ 日本醤油会社の混乱
由々しき問題となる
日本醤油会社の製品に薩加林(サッカリン)に混入発売したことは大阪警察本部衛生課に於いて探知し横堀7丁目大阪出張所及び幸町通2丁目の倉庫に貯蔵の現品千数百樽押収封印をほどこした上分析試験中の様子は昨日記事にしたとおりであるがその後の様子を更に報道すべし。
△ 終に白状する
検挙を受けたため大騒ぎとなり急遽尼崎工場に参集した取締役兼主任技師鈴木藤三郎氏は訪問の記者に向かって「断じて工場に於いてサッカリンを混入したような事は無く。大阪一部の顧客の嗜好に合わせて出張所に於いて少量のものに混入したものに過ぎない」と語った。日醤幹部は3日午前大阪警察本部に出頭しあくまで見本品に投入したに過ぎずと弁明したが当局者の分析試験により在庫品より次々と検出しはじめたので,ついにごまかすことできず午後に至り第一号50樽、第二号80樽、第三号80樽、第四号400樽,分銅印201樽、扇印65樽、亀甲印225樽だけに大阪に於いて甘味を付けるためサッカリンを入れた。尚、在庫の上等品松印62樽、富士印145樽には断じて混入していないと申しでたが当局者は念のためこれも分析したところやはり同様のサッカリンを
検出したので言葉を曖昧にして処罰を免れんとするも最早できず、利害を説いて事実の供述を迫ったところ、夜に入ってついに隠すことできず、尼崎醸造場に於いてxx監督技師自らサッカリンを全部に混入した旨初めて白状した。
△ 処分方法の上申
当局者が最初検挙に着手した時はこのような大げさなことになると思われず調べが進むほど次第に大きくなって結局尼崎醸造場に於いて混入したものと判明したもので取締上大阪在庫品のみで事件を収めるべきでないと、兵庫県警本部に電報を打って事件を報知すると同時に内務省に不正品の処分方法を上申したもようである。方針が確定次第直ちに会社在庫品のみならず市中府下の一般小売店にある醤油もことごとく押収するはずという。
△ 如何にするか
内務省が大阪警察本部よりの報告によって全国に販売した醤油に対してどのような処分方法を命じるか注意する問題となるが明治34年十月内務省令第31号「人工甘味質取締規則」には「サッカリンの他これに類する化学的薬品にして含水炭素にあらざるもの販売用に使用してはいけないとした。これに違反したとき、明治33年制定した「飲食物その他衛生上危険の物品を取締規則」により行政庁に於いて製造販売その他を禁止することをできるとある。法律によって多分廃棄処分となるだろうから会社の販売する醤油が数万石あるというので非常に多大な損害となるだろう。
△ サッカリンの購入先
会社はあくまでもこのことを秘密にするため、サッカリンの購入先について余程注意を払ったと見えて、ことごとく尼崎工場には東京に本社より直送し、これをxx技師が秘密薬と称して厳重に金庫に入れておき同技師の手によって混入したので同工場で作業している労働者も知らなかった。
△ 第二の分析試験
一方サッカリンのほうは嫌疑が確定したのでこの処分が決まるまで更に本部は着色料の有害無害、防腐剤の有無をも試験に付すはずだがホルマリンは今のところ嫌疑に止まり、まだ解らない状態である。
△ 会社の状況
同社の資本金一千万円(二十万株)にして内350万円(一株17円50銭)が払い込み済である。しかし尼崎工場の建設に多額の固定資本を要し、一方製品が不完全にして、九州・山陰・中国その他各地へ送り出した醤油が種々の欠陥によって返品が来たため、資金繰りが苦しくなり重役間で紛争がおこった。社内の内紛と製造上の責任問題で社長を辞し、大株主毛利公爵家令田島信氏が社長となり某銀行より多額の借り入れを為し経営を続けている状態である。何分醤油醸造期間が短いため発酵が十分とならないので、原料麦の臭いがし、また甘味も乏しく売れ行きがよくないのでついに不正手段を使ったもので窮状がわかり哀れなものである。

スクープ記事を書いた記者もことの成り行きが大きくなって行くので驚いている様子が見える。この事件の始末が平成の(福神漬)の表示に影響しているのである。

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サッカリン禁止に至る政治事情

2007年02月25日 | 福神漬
梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
サッカリン問題は鈴木藤三郎にとって皮肉なことだった。
明治34年10月「人工甘味質取締規則」内務省令第31号として発令。
この規則は販売用の飲食物にサッカリン等の人工の甘味の使用を禁止しただけで。治療の目的で使用したり、個人で使用することは許されていた。
この規則が発令した明治34年10月から砂糖消費税(税率30%)が実施されていた。鈴木藤三郎は前年に創立した台湾精糖と日本精糖の社長であった彼は砂糖消費税を実施するには時期尚早と強く反対した。しかし、税収を確保する必要があった明治政府は糖業者を保護するため、砂糖消費税に実施と同時に人工甘味質取締規則を発令したのだった。鈴木藤三郎の運動で作られたサッカリンの取締規則で日本の精糖業は長い間保護されたのだった。
 それでも安価な食品を作る業者はサッカリンを秘密に使用するものが絶えなかった。そのため糖業にかかわる業者たちは「サッカリンは毒物である」という宣伝を行なった。その方法はあらゆる機関を利用した。先ず、学者を買収してサッカリンは毒物説を流布させ、論文を書かせた。ビタミンを発見した鈴木梅太郎博士に、砂糖会社の資金で三越等の各所で「サッカリンは毒物である。」という講演をしてもらった。
精糖業者の努力と(日清・日露戦争の)戦費をまかなう明治政府は砂糖消費税収確保の取締のため、いつの間にか世間は「サッカリンは毒物である。」と信じるようになっていった。明治の当時は食品の取締は警察署が行なっていたので、各地の警察はサッカリンの使用の有無を度々調べていた。
 鈴木藤三郎が率先して運動したサッカリンの取り締まり規則で彼が挫折したことは「因果は回る小車のごとし」という古い例えに鈴木藤三郎は良く当てはまる言葉だった。
 

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明治時代の甘精=サッカリン

2007年02月24日 | 福神漬
明治42年11月4日 東京朝日新聞
甘精使用について(サッカリン)
醸造試験所某技師は大阪警察本部の検挙しつつある甘精事件について語って言う。
日本醤油醸造株式会社が甘精をその製品醤油中に入れたということはもとより着味に用いたるは明らかなリ重大問題である。通常醤油の着味はとしては野田(千葉県)等にては、飴(グリコース)を用い着色用としては焼糖(カラメル)を用いつつある次第にて日醤も同じく飴・グリコースを用いならば今回の失態は無かっただろう。思うに現今甘精の輸入税は百斤60円にて随分高価に当れば到底飴や砂糖の代品として儲かるべくものにあらざるに、もし日醤が事実サッカリンを使用せしば数年前に見越し輸入された残品であるだろう。何れにせよ欧州諸国と同じ本邦にても法律をもって飲食物に混入を禁じている以上あえてその禁を犯したるは日醤会社の大失態と言わざるを得ないという。而してサッカリンが果たして衛生上有害であるか否やは未解決の問題にて、たとえ有害でなくとも、また滋養物にあらず、ことにサッカリン使用増加は各国ともその財政上少なからざる打撃を蒙るものなればこの点よりこれの使用を禁じるを得策とする云々。

サッカリンには高価な輸入税がかけられたので大量の駆け込み輸入があった。
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明治42年11月4日伊藤博文国葬日にもかかわらず。

2007年02月23日 | 福神漬
明治42年11月4日 東京朝日新聞
不正醤油全滅
日本醤油醸造株式会社尼崎分工場の製品に多量のサッカリンを混入したる為、大阪出張所の1600余樽(一万円)を押収したるは昨紙に記載の如し、然るに会社側にはしばしば隠蔽策を講じたるも片端より看破され二日午後に至り尼崎醸造所に於いて星野技師自ら売品全部にサッカリンを混入したる旨白状した。(大阪)警察部にて事態極めて重大なりとその処分に付き内務省に伺い方針確定の上全国に販布せる同社製品の数万石はことごとく廃棄を命ずるに至るべく会社の損失はほとんど計算できない
 同社製品は売出しの当時より評判悪く芳香と甘味において著しく欠けているところがあってこの悪計を企てたるものにて技師の手一つにて該薬品の混入をなし職工すらこの不正手段を知らざりしとはよほど注意したるものと見えた。
 尼崎工場の建築には多額の固定資本を要し、一方製品はさらに売れず紛議を重ね、結局大将軍毛利公爵家令田島信夫氏が社長となり岩下清周氏が取締役に加わり某銀行より多額の融資を受け営業を続けている有様なれば今度の打撃の結果については非常に悲観している者が多い。

日本醤油醸造は資本金一千万という資本で始まったので、出資者が株価下落の心配があった。現在の未公開株騒動に似ている。
11月4日は伊藤博文国葬の日であったが続報が出ていた。
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大阪朝日新聞のスクープ 6

2007年02月22日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社の窮状
鈴木主任技師の理想は第一回製製造に失敗し、また樽の製造等他の副事業に固定資本をおびただしく投入したため、負債二三百万円の多額にのぼり、ついに十月一日に同技師は責任を負って社長の席を降り毛利公爵家令田島信夫氏社長となり、同氏の裏書により市内の銀行より資金の融資を受け醸造を続けているも品質のよいものを生産しようとすると醸造期間を延長せざるを得ないし、それを延長すると生産量が非常に減少し、従って相当の利益をあげることは出来ず。やむなく依然短期製造を続けていれば腐敗変質を招くは自然で、防腐剤の使用を招くは必然というものである。

大阪朝日新聞の記事の結論としてサッカリン混入は不完全な醸造から来ていると結論としている。この事件後の対応で醤油業界の格差が生まれたといってよい。運良く味の素は騒動の渦中にありながら難を免れた。しかし、味の素の社史にはわずかか書いていない。
樽の製造等というのは樽製造の機械を海外から輸入したが西洋の樽はワイン・ビールの醸造用の機械で中太りの樽用なので日本の樽には使えなかった。(鈴木藤三郎伝より)
家令とは華族の家の事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった人のこという。毛利公爵邸は今の品川プリンスホテルの所にあった。
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大阪朝日新聞のスクープ 5

2007年02月21日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
海中に投棄
一説により販売店より腐敗のため返品した多数の醤油を密かに船に積み尼崎沖に投棄したとの風評があるがそれは盛夏の工場を掃除した赤色の水を樽に入れ投棄したものが噂になったものである。要するに、混入と否かとは押収全部の試験を待って黒白判明するべし。因みに同社はある方面にもみ消し運動に着手したと伝えられている。

この事件の尼崎の海が赤くなったのは新聞記事によるとサッカリン混入事件の前のことだった。醤油の歴史本には事実に当って書いてあるのが少ないことが解った。まだ明治はそんな昔のことではない。11月3日の時点で尼崎の海が赤くなった話があったのである。

後の記事によるとある方面のもみ消し運動とは内務省に働きかけていたこと。明治の当時,内務省は衛生を管轄する警察の上部官庁だった。
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大阪朝日新聞のスクープ 4

2007年02月20日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
秘密薬は何?
されば別に聞くところによれば同社物品購買科目に香味料の一目があり砂糖をC、飴をB,染色料をK.と称し購入、なお外に東京本社より直送し工場技師が絶対秘密に取り扱いしているドイツよりの輸入の薬品がある。これが薩可林であろうか、又ホルマリンも分析用と称して大阪道修町の某某薬店より購入している模様なれば社長が工場において混入することはないという証明はなお十分に信頼を置くに足らない。

この記事によると秘密薬はサッカリンのことと思われている。実際は当時関西では無名の「味の素」のことではなかったのだろうか。味の素は日本醤油醸造に加味料として最初の商品が送られている。
 味の素の最初の新聞広告は明治42年5月26日東京朝日新聞に三段のスペースで広告されている。記録によると味の素が第一回日本醤油醸造に出荷したのは明治42年2月15日となっている。
大阪道修町とは薬品問屋の集積地で江戸時代から続いている。サッカリンはアメリカで発見されたが日本への輸入は主にドイツから明治19年以後輸入していた。
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大阪朝日新聞のスクープ 3

2007年02月19日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社内の混乱
大阪出張所にては多数の封印を受けて、三塚主任は大狼狽を極め、その旨を直ちに尼崎工場に電話したので社員技師等はほとんど工場を空にして来阪し善後策につき頭をいためていた。鈴木藤三郎主任技師は東京本社に帰社中だったが至急電報により11月1日に尼崎に来て、二日重役を招集し、種々質疑をしていた様であった。同主任技師の談によると『実にゆゆしき失態を演出したものにして、各のごときことが新聞に発表される事態となれば実に会社の死活に関係する。製造所においては断じて左様な(=サッカリンのこと)薬品を投入したこともなければ販売所が顧客の好みに合わせてため、つい混入したためだろう。押収の全部に混入したことは偶然のはずである。元来特別醸造法によるものなれば外気に触ること少なく外部より黴菌が侵入しない限り腐敗することはない。現に横須賀海軍経理部主任渋谷主計中監に練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海の際に試用を願い、赤道直下を二回通過してもなお異常なき証明をいただいた。』と説明していた。

日本で電話が開通したのは1890年(明治23年)、東京大阪間は1899年(明治32年)
練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海とは海兵36期 188名の航海のことか。
明治42.3.14~8.7 横須賀→ホノルル→ヒロ→サンフランシスコ→エスカイモルト(カナダ)→バンクーバ→タコマ→シアトル→ホノルル→函館→大湊→横須賀
 しかし、赤道はどうも通過していない。

明治43年海兵37期がオーストラリア・東南アジアに向かった。赤道を二回越える。従って、翌年の航海と勘違いしていたと思われる。

食品事件の弁解は今も明治時代もあまり変化ないようである。
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大阪朝日新聞のスクープ 2

2007年02月18日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
発覚の端緒
(警察)本部が不正品として認めたのは三四日前のことにして某署より提出した小分け醤油を試しに分析したところ多量の薩可林を検出したので容易ならぬ次第と直ちに押収先に(警察署の)技師を派遣して取り調べたところ日本醤油会社より発売の品と判明した。しかし、本部にてはかえって不審を抱き、巨額の資本を有する会社がそのようないかがわしい手段を行うとも思われず、あるいは小売業者の仕業ではないかと一時人手を分けて各方面を取り調べたところ同様の不正品を発見したので、すべて同社のより発売の際混入としたものと見込んで、さらに大捜索をしようとする際、早くも同社重役もこのことを探知して非常に驚き早速本部に出頭の上、『見本品7樽に限り混入した』旨自白し、何分目下売り出し中にてすくなかざる打撃を受けることなればあくまでも秘密にしていただきたく旨懇願した由なるが本部にてはその申し開きを疑い内密に他方面に取り調べたところやはり同様に薩可林を検出した。
多数の押収
今は猶予ならず一日夜より二日朝にかけてxx警部は三名の技師とともに西区幸町通2丁目の貯蔵倉庫及び横堀7丁目の大阪出張所に臨検し合計1600樽(この代価約一万円)を押収して、ことごとく封印を施し引き上げ、専ら分析試験中であるが尼崎工場は兵庫県の管轄に属することなので試験の結果によって不正品と定まれば相応の照会をするはずであるという。
醤油小売業者の仕業とは当時は樽詰の醤油を小分けして販売していた。
発覚の端緒については梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著に詳しいが大阪朝日新聞のみ非常に詳しく事件の内容が記事となっているので、旧式醤油醸造会社の組合の陰謀があったかもしれない。
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大阪朝日新聞のスクープ 1

2007年02月17日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
不正醤油の検挙続報 ▲1600挺の押収 
▲ 会社内の混乱
醸造元の本体
昨紙(11月2日)醤油にも劇薬と題して某会社が醸造の醤油に甘味料として、薩可林(サッカリン)を混入した上腐敗を防ぐため劇薬ホルマリンをも混入し乱売したのがこのほど発覚し大阪警察本部の手において検挙中の趣き記載したが某会社とは日本醤油醸造株式会社のことにして資本金一千万円、本社及び第一工場を東京深川区小名木川通に、第二工場を摂津尼崎町に置き、かの大伏魔殿たりし大日本精糖の前身日本精糖の社長だった鈴木藤三郎氏が最近の学問を応用して従来は早くて十ヶ月遅ければ二年内外の時日を要していた醤油界のレコードを破り、わずか二ヶ月内外において完全なる醤油を生産しうると呼号し社長兼技師長となり、(目下は社長を辞して取締役兼技師長)八万五千坪の広大なる敷地内に建設した工場において一ヵ年24万石以上生産の予定でどしどし醸造していたものである。

同日の東京の朝日新聞と比較して記事の内容が詳しくなっている。
大伏魔殿というのはほぼ同時期に日糖事件として歴史に残る明治の大疑獄の裁判が行なわれていた。日本醤油醸造の鈴木藤三郎は日糖事件の会社である大日本精糖の前身の会社・日本精糖の社長であった。日本精糖の経営方針の食い違いで社長を辞して醤油醸造に向かっていってた。
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東京と大阪の朝日新聞

2007年02月16日 | 福神漬
明治42年11月3日東京朝日新聞
不正醤油検挙
日本醤油醸造尼崎工場1600樽押収さる
日本醤油醸造は第二工場を摂津尼崎におき8万5千坪広大なる敷地内に建設した工場に於いて一ヵ年60万石以上製造の予定にて醸造をしているが同工場に於いて製造される醤油には腐敗品が多く各地元売所販売者より返還されるものあり、会社に於いてこの処分方法に困り、夜中密かに職工二名にてハシケに積み尼崎沖合いに投棄したために海面一体茶色を呈しいるとの風説もあったほどだった。大阪警察部は3~4日前某署より提出の小分醤油を分析すると多量のサッカリンを検出したので直ちに取り調べると日本醤油醸造株式会社より発売と判明した。本部にては小売業者の行為かも知れずと同時に多方面を取り調べるが至る所、同様の不正品を発見したので全く同社より発売の際すでに混入した物との見込みをつけ更に大検挙をなさんとせる際、早くも同社重役はこれを感知して非常に驚愕し、早速本部へ出張の上、見本品7樽に限り混入したる旨自白し何分目下売り出し中にて少なからざる打撃を受けることなれば秘密にせられたき旨を嘆願したる由なるが本部においてはこの申し状の疑いをいだき、内密に他方面を取り調べしにやはり同様のサッカリンを検出したれば今は猶予ならずと一日夜より二日朝にかけてxx警部は三名の刑事と共に西区幸町通二丁目の貯蔵庫及び横堀7丁目の大阪出張所に臨検し合計1600余樽この代金約一万円を押収してことごとく封印を施して引き上げ、目下分析試験中である。なおサッカリンの外に何らの防腐剤を混入した見込みなるものホルマリンかどうかは分析中の結果を見れば判明するだろう。

11月3日は明治時代は天皇誕生日で大阪の朝日新聞のスク-プで東京の朝日新聞は要約された記事となっている。
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明治の添加物報道

2007年02月15日 | 福神漬
明治42年11月2日 大阪朝日新聞

中国のハルピンで暗殺された伊藤博文公の国葬が明治42年11月4日に行われるため、新聞記事はその準備や彼の経歴の記事が多く、突然その中に醤油の事件の記事が出てきた。

醤油にも劇薬
▲ (大阪)警察本部の検挙
先に清酒中に防腐剤として劇薬のホルマリンを使用するものあり、その筋の知るところとなり、多量の廃棄を命じられたるが近頃に至り某会社の製造販売する醤油中にも甘味をつけるために薩可林(サッカリン)を用いたる上、さらに防腐剤としてホルマリンを使用していると警察本部において探知し二三日前より衛生課の二三の技師は(大阪)西署その他と協力して販売店につき現品押収の上分析に付したるがその結果はなお不明なるも製造元はこのために大恐慌を起こし、一方現品の隠匿に努めると同時に『サッカリンその他を混入したものはわずかに販売店に配布したる見本品7樽に限りにして、これは顧客に一々試味を受ける際に甘くなくては悪い品のように思われるため止む得ず混入したものであって、ひとつの販売政策に過ぎず、その証拠に他の商品及び倉庫貯蔵の何千万石には一滴も左様のものは混じっておらず、何分将来の信用上にも重大の関係を及ぼすことなれば十分秘密の間に調査されたし』云々を半ば自白的に願い出でたるも、もちろん信用すること出来ねば(11月)一日技師数名は製造場に臨検した。一説には会社の製造法が不備のため多数の腐敗を見るに至ってこれにホルマリンを入れて無理に腐敗を止めて、年末前の売れ行きを見込んで法外の安値で発売を試みたるものと言える。とにかくこうも飲食物に劇薬や有害物が放り込められるようでは少しも安心することは出来ず当局者の厳重な取り締まりが望ましい。

解説
その筋とは明治の当時食品衛生の取り締まりは警察の管轄であった。技師は衛生を取り締まる警察の技師。
薩可林(サッカリン)は東京では甘精と表記されている。

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日本醤油醸造不良の理由

2007年02月14日 | 福神漬
明治後期産業発達史資料 第460巻 469頁
日本醤油醸造の醤油製造における温醸法の欠点とその理由
温醸法は醤油もろ味を加温して熟成を早める原理。
① 温醸法は香気におとる。
醤油の香気は「エステル」「チロソール」及び大豆小麦の芳香の混合したもので、加温により揮発する。また、短期醸造ではエステルの生成量が少ない。
② たんぱく質の分解が進まず。アミノ酸の量が少ない。

酵母の発酵が不十分であると糖分のためにもろ味中のアルコール発酵が出来ずエステルが作られにくくなる。温醸法では乳酸・酪酸・酢酸等の発酵が盛んになり、酵母の発育を不十分となる。
平成の現在の分析では鈴木藤三郎の機械式醤油醸造は未完成であったと言われている。
つまり、熟成期間が短かったため旨みが足りなかったのである。このことは旨みを加える必要があった。「味の素」の最初の製品は日本醤油醸造に納品され、足りない醤油の旨みに使われることとなった。
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