年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

中川船番所資料館 塩の輸送と価格

2006年02月14日 | 宅老のグチ
江東区中川船番所資料館
 ■住所 東京都江東区大島9-1-15
 ■入館料 200円
駐車場あります。舟運・海運の資料が豊富な図書室もあります。 
中川番所は江戸幕府が千葉県の行徳の塩を運ぶために今の隅田川から旧中川までほぼ一直線に掘られた小名木川の東の入り口に1661年(寛文元年)移転した、幕府の重要な水運の関所である。番所では川を通行する船を見張り,主に夜間の通船、女性の通行、武器、武具の取り締まり、船で運ばれる荷物を検査していた。
江戸を開いた家康は行徳の塩が北条氏の小田原に運ばれ,そして甲斐の武田に運ばれていたのを知っていた。幕府は塩の軍事物資としての重要性を考えて、関西からの輸送の途絶を考えて、千葉県の市川市行徳付近に塩田を作らし、そして塩の輸送の為に小名木川を作り日本橋小網町まで輸送した。行徳の塩田は当時全国の塩田面積の3パーセントを占めていたが生産性は低く、生産量は1パーセントを占める位であった。
 塩の代金は(多聞院日記)によると
1566年 塩1斗あたり米6升94
1599年 塩1斗あたり米3升33
 となっている。この価格の低下の理由として、楽市楽座等による流通の簡素化と塩業技術の進歩がある。元禄時代より塩が余り始め宝暦、明和の時代には生産過剰になった。

行徳の塩田は江戸に近いので販売に有利であるのになぜ関西の塩に負けたか。
天侯が瀬戸内の塩田より悪く5月から9月までしか効率よく生産できない
関東の大河の汚れた水で塩田に次第に土がたまり、ますます海のほうに塩田を開いた、したがって、梅雨、台風等の波によって塩田がたびたび破壊された。   
また、河村瑞賢の努力により、東回り、西回りの航路が確立し、江戸へ下る酒や塩等が大量安価に運ばれた。塩回船は一船に800石から1500石の塩を積んでいたといわれる。
承応年間(1652-55)塩回船が250艘から3百艘 、江戸に向かっていた。
伊丹の清酒が樽廻船や檜垣廻船によって関西から安定的に輸送されるようになると品質の良い赤穂の塩は醤油に使われるようになった。
江戸時代の塩の価格は米の価格の十分の一であった。
 
近世の塩の価格
瀬戸内 5から6文
東海、江戸 10文  三陸 15文 日本海、土佐 10文 薩摩 7文

内陸部は塩の振り売りで 2里で2倍、3里で3倍と言われていた。
米と塩の交換比はほぼ米 1対 塩6から8の比率である。
平成の塩の価格
塩事業センターの並塩
20kg入り 1,284円(税込み)
漬物用の並塩は漬け込み時に大量に使用するので、配送運賃の価格が重要になる。また、時間が経つと、潮解して固まるので、塩の賞味期限はないが漬け込み作業上、必要以上購入できない。従って、江戸時代中期から塩は配送価格が重要となる。
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1 コメント

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塩の値段 (あさかわ)
2025-01-24 16:45:11
ご質問です。戦国時代の塩の値段について調べています。塩の値段は「二里で2倍」「三里で3倍」と書かれていますが、これはどちらの本に書かれていたか、記憶にありますでしょうか
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