夷講(十月二十日)
万朝報の記者であった若月 紫蘭の「東京年中行事」下巻には年後半の東京の行事が書かれています。
わが店の商売繁盛,千倍万倍儲かりますようにと、商家にて蛭子神を祭る日にて、この神を祭ると言うことは『推古天皇9年3月、聖徳太子初めて市を設けて、民に商売を教え給ひ、この時蛭子神に誓ひて商売鎮守の神とし給ふ』という古事に基づいたもので随分古くから行われたものである。
(聖徳太子云々と言う話は他の記事や文献には出てこない。江戸に於いての夷講は古くはなく,京大坂より伝わった)
さて、この日は店を早仕舞にして、夕刻から親類縁者などを招いて盛んな酒宴を開くが習慣で,恵比寿とともに大黒の前には、べったら市で買った掛鯛や魚河岸から取り寄せた鯛を供えて,あり合せの皿や小鉢を指して、仮に千両万両などと相場を決め、客も家人も一緒になって、さて売りましょう買いましょうと商売の真似をすることが広く行われたものである。今もこの日は殊に(日本橋にあった)魚河岸が繁盛するところから見ると、酒宴やお祝は行われるに相違なきも、明治も年重なるに従って(明治40年代には)それも次第に廃れて、本当にこの日を祝うことは日本橋京橋あたりの文明的でない木綿店とか金物店とか言うような昔ながらの大店にのみ限って行われるようである。もっとも、それとても掛鯛の古式を守るだけで、酒宴を開いても真似事の商売と言うようなことは見合わせるが多いようである。
(恵比寿講のせり市はホラ吹きといわれる由来を記している。恵比寿講の商材で日本橋の魚河岸が繁盛したのはべったら市の開かれる大伝馬界隈と近距離にあったためである。魚類が恵比寿講の商材として中心になっていたのは明治30年以前だった。明治中頃からコレラ等の伝染病によって浅漬大根や植木の露店が増える。)
それから、掛鯛と言うのは、魚河岸の若衆等が手内職、月初め頃から夜なべ仕事に赤い糸を編み、これで尾ひれを綺麗にこしらえて、本物の鯛かがりつけたもので、恵比寿大黒の神前にこれをかけるのである。昔は正月二十日にもこの夷講を行ったというが、近頃は十月にのみ限ることになったのである。
(夷講は江戸時代には正月にも開かれていたが十月にだけとなって、一年の決算を行う日となっていた。明治6年より暦の改変で市の開かれる日がおおよそ一ヶ月繰り上がった。このことは浅漬大根の栽培に影響を与えた。大根の品種改良・早期出荷・辛味を減らし甘みが多い大根へ品種改良が向かう)