年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治26年 べったら市

2006年08月31日 | べったら市
明治26年10月20日東京日日新聞
べったら市
昨日は恵比寿講のべったら市にて大伝馬町通油町本町通りの角まで露店が出ていた。この市の売物である浅漬大根は中々の売れ行きで一本1銭より4銭までで上景気で夜に入っても混雑していた。

東京日日新聞は明治の初めに東京で刊行された新聞で、今の毎日新聞の前身である。べったら市の記事は時代・時期・10月20日前の事件で少なくなったり、隙間を生めるため多くなったりしている。平時には娯楽色が強い記事となる。
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腐れ市 クサレ市 ベッタリ市

2006年08月30日 | べったら市
郵便報知の記事から
明治19年10月20日郵便報知
クサレ市
昨19日は例年の通りクサレ市(一名ベッタリ市)と称し新漬大根と共に蛭子講の祭器を商う市にて日本橋大伝馬町に開市したが早朝よりの降雨にて店を張らぬ商人も多く顧客も少ないため午前大一本2銭位だった浅漬大根が午後には1銭8厘から1銭3厘位に下落した。

明治20年10月21日郵便報知
べったり市
一昨日と昨日は大伝馬町のベッタリ市にて同町初め小伝馬町人形町大門通等は恵比寿講の品を販売する露店があり、最も大伝馬通りへ染井・巣鴨・駒込・入谷の植木屋が持ち出した鉢植えの菊が華々しくあるが、べったり市は肝心の浅漬大根の店は例年より少ないように見える。これは昨年大雨のため損をしたため、これに懲りて本年は仕込みを減らしたためで、両日とも好天気で非常のにぎわいをみせた。

明治23年10月21日郵便報知
昨日の魚価
昨日は恵比寿祭りにて各商家は皆祝いなさるので日本橋魚河岸の荷捌きよく相場は目の下一尺鯛60銭、6寸25銭、小鯛(マダイ)10銭、カマス尾鯛1銭5厘~6厘、キワダ鮪一貫目40銭、ワラサ30銭,イナダ10銭、大イナ1銭5厘
小イナ1銭、酢の物に用いる貝の柱1篭30銭前後,ナマコは相場外れで安くとにかく季節が早いので小さき篭に入れて1個10銭~15銭であった。

明治25年10月15日郵便報知
東京府下の年末の市の初めなる大伝馬町のベッタリ市は例年のごとく来る19日に施行するにつき諸商人は等は大賑わいの準備中であるという。

どのような理由か郵便報知は“ベッタリ市”なっている。腐れ市と言われたのは明治20年代初めまででベッタリ市も同じ頃まで、その後はべったら市となっている。
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明治18年エビス講

2006年08月29日 | べったら市
明治18年10月20日東京日日新聞
夷講切れ売出し
東京の呉服の切り売りを始めた始祖と言える大伝馬町の大丸は去る13日より3日間、開店の売出しをしたが老舗の暖簾ならば繁盛を越して混雑し、久松町の警察署より巡査3名を派遣してもらい非常の警戒をしたほどだった。然るに本日は夷講切れの売出しにて中々の賑わいであった。この夷切れと称するものは今日は中断していたが以前一名一切れといって各店の見本品やハギレを取り合わせ一束25銭で売出し、中人以下の人には至極便利といって大丸にては本年より再興したものでよい方法と言える。

べったら市の前に新聞広告に大丸呉服店(今の大丸百貨店の前身)の夷市の売出し広告が出る。記事とイベント広告との相乗効果か、今でも使われる手段である。
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若月紫蘭のべったら市③

2006年08月28日 | べったら市
夷講(十月二十日)
万朝報の記者であった若月 紫蘭の「東京年中行事」下巻には年後半の東京の行事が書かれています。

わが店の商売繁盛,千倍万倍儲かりますようにと、商家にて蛭子神を祭る日にて、この神を祭ると言うことは『推古天皇9年3月、聖徳太子初めて市を設けて、民に商売を教え給ひ、この時蛭子神に誓ひて商売鎮守の神とし給ふ』という古事に基づいたもので随分古くから行われたものである。
(聖徳太子云々と言う話は他の記事や文献には出てこない。江戸に於いての夷講は古くはなく,京大坂より伝わった)
 さて、この日は店を早仕舞にして、夕刻から親類縁者などを招いて盛んな酒宴を開くが習慣で,恵比寿とともに大黒の前には、べったら市で買った掛鯛や魚河岸から取り寄せた鯛を供えて,あり合せの皿や小鉢を指して、仮に千両万両などと相場を決め、客も家人も一緒になって、さて売りましょう買いましょうと商売の真似をすることが広く行われたものである。今もこの日は殊に(日本橋にあった)魚河岸が繁盛するところから見ると、酒宴やお祝は行われるに相違なきも、明治も年重なるに従って(明治40年代には)それも次第に廃れて、本当にこの日を祝うことは日本橋京橋あたりの文明的でない木綿店とか金物店とか言うような昔ながらの大店にのみ限って行われるようである。もっとも、それとても掛鯛の古式を守るだけで、酒宴を開いても真似事の商売と言うようなことは見合わせるが多いようである。
(恵比寿講のせり市はホラ吹きといわれる由来を記している。恵比寿講の商材で日本橋の魚河岸が繁盛したのはべったら市の開かれる大伝馬界隈と近距離にあったためである。魚類が恵比寿講の商材として中心になっていたのは明治30年以前だった。明治中頃からコレラ等の伝染病によって浅漬大根や植木の露店が増える。)
 それから、掛鯛と言うのは、魚河岸の若衆等が手内職、月初め頃から夜なべ仕事に赤い糸を編み、これで尾ひれを綺麗にこしらえて、本物の鯛かがりつけたもので、恵比寿大黒の神前にこれをかけるのである。昔は正月二十日にもこの夷講を行ったというが、近頃は十月にのみ限ることになったのである。
(夷講は江戸時代には正月にも開かれていたが十月にだけとなって、一年の決算を行う日となっていた。明治6年より暦の改変で市の開かれる日がおおよそ一ヶ月繰り上がった。このことは浅漬大根の栽培に影響を与えた。大根の品種改良・早期出荷・辛味を減らし甘みが多い大根へ品種改良が向かう)
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若月紫蘭のべったら市②

2006年08月27日 | べったら市
明治のべったら市②
万朝報の記者であった若月 紫蘭の「東京年中行事」下巻には年後半の東京の行事が書かれています。
ベッタラ市 続き
 試みに「さあいらっしゃい、いらしゃい、安くてうまいの」と元気よく叫んでいる店先に立って三本より出し幾らだと聞くと、45銭だと言う。まあと驚いて逃げ出そうとすると、粕のついた汚い手で容赦もなく人の袖をひっ捕まえて「旦那旦那、これから負かすのが旦那の腕だ」という。こうしてたいていが一本6,7銭位までは負けてしまう。年によって大根の出来に従って値段の相違があれど、先ず5,6銭が安い時の相場である。わずか4、5町の所を一時間もかかって大伝馬町へ出て、恵比寿神社に参ってみると、東京一という大市を持っているにもかかわらず、ご本尊様の鎮座ましますお宿の,テモさっても小さいこと,勿体無いが、まるで裏店の便所といってもいいくらい、それでいてお賽銭が雨アラレと降るところは、さすが東京である。
(べったら市の記事には明治20年代後半より浅漬大根の価格が出て来る。当日の天候やその年の大根の出来によって価格が変動する。しかし、大伝馬町界隈の景況がよければ縁起物だからといって、価格は上昇していた。夜遅くになると帰り支度をする頃までも残っていると浅漬はかなり暴落した。雨天にならならなければ露店商の利益はかなりあった。品質のことに言及してくるのは明治末期から大正初めにかけての頃である。また、べったら市の大根の相場によって農家の大根栽培意欲が増加し、農会等の指導によって品種改良が行われた。明治30年代に作られた三浦大根はその一例である。東京一の大市とは人出と混雑・露店の売り上げが多いこと・今では信じられませんが明治末期の話です。東京都中央区の区の見解によると平成の現在でもべったら市の露店は500軒くらい出ているそうです。)
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若月紫蘭のべったら市①

2006年08月26日 | べったら市
明治のべったら市①
万朝報の記者であった若月 紫蘭の「東京年中行事」下巻には年後半の東京の行事が書かれています。
この文章を解説したいと思います。
べったら市(10月19日)
十月の十九日、日本橋通旅篭町、人形町、小伝馬町、通油町へかけて立つ浅漬大根の市にて、元来が明日の夷講のの支度の必要なる土製木製の恵比寿大黒,打出の小槌,掛鯛,切山椒などをうるが本趣意であったが、何時の頃から安くて美味いという浅漬大根の店が幅を利かしだして、今では恵比寿大黒の店などは圧倒されてしまった形勢である。
(この文章は明治40年代のべったら市のことを書いている。明治20年代までは大伝馬町の方が織物問屋の景気がよく、どちらかといえば人形町の方は新興問屋だった。明治後期、金巾・モスリンは堀留から人形町方面だった。)
 さて、この浅漬売と言うのは、何れも白シャツ紺の腹掛けに向こう鉢巻といういせいのい良いいでたちで,町の両側にずらりと店を並べ、粕のベッタリついたまま売るので、糸織り小袖を着た商人も、高島田に結った年頃の娘でも,皆このむき出しの浅漬を縄に縛ったままで,平生ならとても出来ない真似だが、この日に限って平気の平左で、だらりぶらりと下げて帰る。
(明治末期は500から600軒の浅漬商の露店が出ていた。平成のベッタラ市の浅漬大根、つまりベッタラを売る露店は30軒くらいである。明治時代の浅漬を売る露天商の数字は信じられないくらい多い。なおこの他に植木商,その他も多数出店していて1000軒をゆうに超えていた。男の商人は着物に明治20年頃から“鳥打帽”が、明治30年頃には紳士の間で“山高帽”が流行した)
ところがこの市は東京一の人出と思われるだけあって,夜の人出はことのほかで往来の人は歩くのでなく、ほとんど自然に浮かされてるくらいなるが中を、子供や生酔いの連中は、ワザワザ婦人連の側に寄るように「おい、べったらだ。べったらだ」といっては、下げた大根をブラブラと振り回す。女子供はキャッツキャッツと言って逃げようとする。これがためべったら市と言うのだそうだが、今では警察の眼が非常に厳重になって来て、表面だけ大分こんな悪さが減ったようであるが、それでも、夜などはなかなかにこのベッタラベッタラが行われ、キャッツキャッツと言う声が時々耳にのぼることがある。
(明治40年代の日本橋署のべったら市の雑踏警備は非番の巡査を動員し。更に隣接の警察からも応援をしてもらい、路面電車の社員・工夫等を動員し、市電の安全を確保し、また各商店ではそれぞれ消防に警戒を依頼していた。)
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明治の大伝馬町界隈の伝染病

2006年08月25日 | べったら市
 日本橋・堀留東京織物問屋史考 白石 孝著より
明治になって海外から江戸時代と違って速度の速い汽船によって伝染病が日本全国に流行した。現在と違って衛生の知識不十分で一度発生すると多くの死者が出るのであった。特に人の出入りの多い日本橋問屋街は度々伝染病が流行した。
 コレラは明治12年6月の発生は神田・日本橋・京橋・浅草・本所・深川に患者が発生した。明治15年の流行は東京全体に広がったが特に多かった日本橋地区では患者5,824人(内死者4,565人)だった。明治19年のコレラの大流行は日本橋地区では東京の患者の2割以上を占め(患者2,339人・内死者1,952人・東京市の患者は1万人以上)。これに次ぐ大流行は明治23年で神田・浅草・京橋が多かった。コレラだけでなく赤痢・腸チフスのような伝染病が流行していた。このような状況ではべったら市の商材が“腐れ市”の時代の掛鯛・小鯛から浅漬大根に変わっても不思議でない。
 コレラ菌は塩分濃度が6%以下で増殖できるため、淡水や海水に分布し、加熱調理されていない魚介類を介して食中毒を引き起こすことがあるので当時の浅漬大根の塩分はどのくらいであったのでしょうか。べったら市が新暦の日時になり、一ヶ月早い開市になると、冬大根の自然の甘味不足を補うため明治になって安くなった輸入砂糖を使用したり、ドイツから輸入されたサッカリンを使用しました。(明治34年までサッカリン使用は違反ではなかった)明治末期から大正期になるとサッカリンの取締でべったら市の出店業者が警察に引致されたと新聞紙上に書かれてます。
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明治時代のべったら市周辺の景況

2006年08月24日 | べったら市
べったら市の開かれる大伝馬町・堀留町界隈は織物問屋が集中してあります。東京の中心地で政治経済の影響を受けていた。江戸時代は伊勢商人が活躍していたが明治時代は近江商人が活躍し洋反物を扱った。木綿店が江戸時代の大伝馬町なら金巾(カナキン)・モスリンを扱った堀留町が明治・大正時代の織物問屋の主役だった。

金巾とは平織の綿織物で海外からの輸入品の方は品質が良く、更に細い糸では国内の製品とは比較にならないほどだった。従って、明治中頃から輸入金巾によって農村部で家内工業的に行われていた昔ながらの木綿産業は破壊された。
モスリンとは
日本ではふつう『羊毛の平織物』をいう。薄地で柔らかく、無地染、友禅染などに加工し、じゅばん、半天などの和装に用いられた。明治の初めの頃にはモスリンは化学薬品で単色で染めてあって色鮮やかであった。明治初期には日本で染めることはできず明治14年になって、国内で染める技術ができ、明治20年頃に内地染めが普及し、和装に用いられ大正期になって大流行した。つまり,明治時代は舶来モスリンで大正時代は国産モスリンの時代と言える。
日清戦争後、日本の産業革命がおこり、明治維新の際に変化しなかった農村部が急速に変化した。農産物の商品化と商業的農業が始まり、都市近郷農家がベッタラ市に参加して来るようになる。明治40年代、べったら市の浅漬商が533軒(読売新聞・明治43年)とかの数字の記事が出てくるようになった。今では面影はないが明治末期・東京一の祭りの混雑と言われた。

明治20年代後半からこの街に織物問屋が群生化し,大正8年が最盛期で翌9年より第一次世界大戦後の不況に見舞われ,大正12年の関東大震災によって大伝馬・堀留・人形町界隈は火災によって壊滅的打撃を受け、その後災害の無かった関西問屋の関東進出でべったら市も寂れた気がします。

参考 日本橋・堀留東京織物問屋史考 白石 孝著

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べったら市 余談③

2006年08月23日 | べったら市
べったら市余談③
祖師堂とは
祖師とは日蓮上人のこと。祖師堂は江戸時代の小伝馬町牢屋の跡地に明治16年に創建された現・身延別院のことである。大正12年の関東大震災の際、日蓮上人像は焼失を免れる。長谷川時雨の生まれた時の牢屋の原には安楽寺・祖師堂・鬼子母神・大師堂・憲兵屯所等があった。時代により各施設の名称や位置が変わって現在に至る。牢屋の原の大部分は今の十思公園である。
 元十思小学校は日本橋小学校に統合され、十思スクエアと呼ばれ地域のコミュニティの中心となっている。
東京都中央区日本橋小伝馬町3-2

地下鉄・東京メトロ・日比谷線小伝馬町駅下車100メートル
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べったら市余談②

2006年08月22日 | べったら市
福徳神社とは
日本橋区瀬戸物町
現中央区日本橋室町2丁目には瀬戸物町にあった。
「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋でありました。日本橋川沿いの地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。
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べったら市 明治43年10月②

2006年08月21日 | べったら市
明治43年10月20日万朝報
べったら市(昨夜)
濃い油煙の臭気と甘そうな浅漬大根の香りが大伝馬町中心とした日本橋区を一括の街区にしたようだ。老若男女の群れが潮のように動いている。空き間もなく立ち並んだ露店には白い大根の山を為し人声が入り乱れ騒々しい。「そちらの大きいとこは(いくら?)」「三両500」「一貫・一貫」「だんな・去年と違うよ!!」
こうした会話が到る所で取り交わされていた。人が集まったとはいえ売れ方は悪いが、それでもいつとはなしに大根の数が減って行った。大伝馬町から通旅篭町にかけては大根店が九分どおりを占めていて、人形町通りはアメ屋、小間物屋、絵葉書屋が過半で、小伝馬町通りから馬喰町通りにかけては植木屋が多く、黄白色々の菊の花が半丁ほどの間を美しく並んでいるがこのところには相応の客を呼んでいる。市の中心は言うまでもなく大根漬であるのだ。行く人も帰る人も、買う・買わないにもかかわらず皆これ等の店に足を止める。6時過ぎには見る見る人の数が増えてくる。押し合いへし合いの群衆の中を浅漬をぶら下げて帰る人も多くなる。普段なら前垂れの下に隠した代物を奥さんも紳士も露骨に悠々と携えて帰るのが他では見れない光景である。約100近くある露店の幾万本の大根漬が半夜の間に誰かの手を経てどれも無くなってしまうとは豪勢なものだ。

大丸呉服店閉店 大伝馬本町通 

明治43年11月1日
大丸呉服店東京店閉鎖案内広告
11月5日より5日間 閉店に伴う
謝恩告別売り出し
心配していた取り付け騒ぎはおこらず、何万人の人が訪れ最後の商品を買った。なお大丸の所有していた貴重な書籍は早稲田大学に寄贈され下村文庫となっている。
絵葉書屋は「明治商売往来・仲田定之助著」によると明治33年頃に解禁され明治35年から36年頃より流行る。
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べったら市 明治42年10月③

2006年08月20日 | べったら市
明治42年10月20日二六新聞
昨日のべったら市
例年の通り昨日は日本橋小伝馬町のべったら市であるが朝よりの雨が止まぬため出店も少なくわずか35~36軒のみだっただろうか、しかし人出はかなりあって大丸呉服店の角が最も混雑し、堀留分署より数名の巡査を派し、東鉄社より監督を出して警戒にあたった。相場は昨年に比べて安く大4銭中3銭小2銭と言っていた。


三浦大根の小史
横須賀市史より
明治時代に横須賀に製鉄所ができてそこに従事する人たちの蔬菜が不足した。
明治38年 三浦郡の農会 鈴木寿一氏
練馬大根の種子を移入し半島産の在来品種ねずみ大根と交雑交配改良した。
資料の出所不明ですが明治時代の日本人一人当たり大根の消費量が今の数倍食べていたとありました。
大正10年から昭和10年ころが最盛期であった。従って築地に移転する寸前に京橋大根河岸に舟で入荷したのは三浦大根が多かった。

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べったら市 明治41年10月

2006年08月19日 | べったら市
明治41年10月18日万朝報
べったら市
明日19日は日本橋大伝馬町のべったら市だが本年は大根の出来が平年なれば浅漬大一本12銭、中8銭、小5銭位が相場だろうという。諸商人は大伝馬町・小伝馬町・鉄炮町・通旅篭町等へ一面に出店するだろうが中にはダイコンに甘酒をまぶして浅漬と見せかけて売る奸商(いかがわしい商人)があるので注意してください。

ダイコンに甘酒をまぶして浅漬と見せかけとは生大根に甘酒をまぶしたことで麹を使って作ったように見せる。べったらの味は無い。もちろん試食は本物を食べさせて、売る物は漬かっていない物を販売した。一度かぎり縁日的販売方法。だましたりだまされたり、駆け引きを楽しんでいたみたいである。そう考えると浅漬の相場は駆け引きの結果判断として重要なのかもしれない。買った浅漬より相場記事の価格が高ければ得した気分になるのでしょうか?

明治41年10月18日
アメリカ大西洋艦隊が横浜に来航した。白塗りの艦隊は、「白船」と称された。
白船来航騒ぎでべったら市の状況の記事がまったくと言ってよいくらい消えている。
当時の『横浜貿易新報』は、「横浜が日本に在つてその来訪港たるは唯一の名誉を荷ふの点」「米国を我輸出品の最好市場とする点」などから、盛大な歓迎行事をおこなった。このような盛大な歓迎行事には、日露戦争後の不況を打開するための経済効果が期待されていたようである。

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べったら市 明治40年10月③

2006年08月18日 | べったら市
明治40年10月20日万朝報
昨日のべったら市
昨日は日本橋大伝馬町のべったら市が早朝より各々の地割の場所に出店し、ほどほどの混雑を極めたが、日本橋署にては長谷川町、小伝馬町にいたる人形町大通りを第一区と定め警部一名巡査23名を配置し,通旅篭町を第二区とし警部一名巡査14名、大伝馬町・小伝馬町・鉄炮町を第三区とし警部一名巡査21名で警戒をさせ、各四つ角には露天商の出店を禁止し午後6時には各車(路面電車・馬車・人力車等)の通行を差し止めたが、晴天のため人出は非常に多く浅漬や縁起物は売れ行きが悪く。夜7時頃から9時頃まではイモを洗う雑踏にて、店を並べた宮屋は客の呼び込み声のわりに買い手が少なく浅漬は2本で最上等物は25銭、並物15~16銭、下等物は10銭位という高値なので値段に驚いて買う人が少ないなかで味の良いと言われる店のみが相応の売れ行きの様子で、小伝馬町祖師堂境内には剣舞その他興行小屋が出来て非常に混雑し、横町の植木屋には菊の産地である向島に水害があったため見事な物が少なく値段は一鉢17銭~18銭より30銭位が多くなかなか売れず。野次馬連は浅漬をぶら下げて振り回し雑踏の中の婦人連を困らせ面白がっておったが,ひど過ぎる行為の者の一人である本所区xxは8時過ぎ派出所に連れてゆかれ説諭された由。

明治40年10月21日万朝報
べったら市の活劇
昨紙記載のごとく一昨日は日本橋大伝馬町べったら市にて浅草区xxは通旅篭町で浅漬の店を出したが一人の客が来て値段を尋ねたので始めに一本2銭と答えておきながら、客がいざ買うと決めたとたん一本20銭と言い出し、口論の末客に向かって茶碗を投げつけて破片が誤って通りがかりの通行人zzの耳にあたりxxは直ちに堀留署に引致された。同日夜00はvvが浅漬を自分の衣装につけたと喧嘩をはじめ、その場に押し倒し,洋刀をもって傷つけ重軽症をおわせためこれまた直ちに堀留署に引致された。

明治40年10月21日二六新聞
市内のこと
一昨日の日本橋小伝馬町のべったら市は例年になく多い人出にて喧嘩口論は54件もあった。

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べったら市 明治39年10月②

2006年08月17日 | べったら市
明治39年10月20日万朝報
昨夜のべったら市
朝からの天気にて昨年よりもはるかに人出多く、ことに夜8~9時頃にかけて押すな押すな雑踏にて,浅漬大根は相場が高騰していたので出店者が少なかったが、かえって売れ行きがよく、掛鯛の類も相応の売れ行きだったといえる、また人形町、小伝馬町、田所町など混雑する辻々には多数の警官が警戒し、万一の事故を予防し、幸いにも(路面)電車と人々との事故もなかった。

同日の万朝報に本町通り付近の市区改正区画図が載る。現在の(江戸道り)の計画。

明治39年10月20日万朝報
昨日のべったら市
前夜の雨が止み幸い晴天となった故、早朝から露店商人が方々から集まってきて巡査立会いの下、出店区域内の地割をして、人形町通り、旅篭町へは浅漬屋、大伝馬町、小伝馬町は宝物屋、鉄砲町その他には植木屋が陣取ることとなったが浅漬屋を除く他の業者は不景気を予想して出店を見送る業者も多くかった。市について日本橋署は小伝馬町祖師堂に出張所を設け、非番巡査総出に警戒し、東鉄電車(路面電車)線路はこの出店区域に囲まれ、雑踏の中を通行するもので、同会社より数十名の社員を出張させ、往来の注意を呼びかけていた。大伝馬一丁目新道の恵比寿神社は早朝より拝殿を片付けたりして祭礼の執行をしていたが参詣人は甚だ少なかったが夜に入ると天気が良かったので参詣人も多くべったら市は非常に混雑して昨年よりよほど多数の人出であった。浅漬大根の相場は小3本にて10銭より大2本に12銭位にて売れ口がとてもよかった。菊は一杯15銭より25銭の間でこれも良く売れた。


明治39年10月20日二六新報
昨日のべったら市
昨日は日本橋小伝馬町のべったら市だった。朝よりの好天気だったので商人は先を争って地割りに着手した。日本橋署は堀留分署並びに小伝馬祖師堂に非番巡査総出で出張警戒し、電車線路には電鉄と交渉し巡査・監督・工夫ら多数配置し警戒をしていた。
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