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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

11月も終わる。年明けまで豊洲移転日決定なしか

2017年11月30日 | 築地市場にて

どう転んでも豊洲移転批判される状況で豊洲の地下工事の入札不調が続く。このままだと随意契約と高額工事しかないように見える。築地4丁目の火事の跡地も変な形の土地が更地になって塀に覆われただけでそのまま。

 築地の跡地開発案に明治の初めに清水建設が立てた築地ホテル案があるそうだ。色々な案はでる。好き勝手な築地再開発案。これも政治.宗教の絡まない問題で自由に自己の意見を言える問題となっている。

 相撲の品格問題も日本では数少ない自由に自己の意見を言える問題である。どうなっても傷つく人は出る。しかしそこからどう立ち直るかが問題である。

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坂本竜馬・赤松小三郎の京都での暗殺150年

2017年11月29日 | 築地市場にて

坂本竜馬が京都で暗殺されて150年となる。竜馬暗殺より少し前の京都で薩摩藩の軍事を指導していた信州上田の赤松小三郎が京都で薩摩藩桐野利秋によって、倒幕の情報漏れを防ぐという目的で暗殺された。

 赤松小三郎の先見性は竜馬のアイデアの基本となっていたようだ。上田市立博物館での展覧会では赤松の兄に対する書簡で暗殺を予感していたようだ。和算の内田弥太郎(五観)につき、後に砲術等を下曽根金三郎に学んだ。会津と薩摩の仲立ちをしようとしたが失敗したようだ。展覧会は11月26日まで。

 数年おきに上田市では赤松小三郎の展覧会がある。NHKの真田丸の後で上田市は静か。前回尋ねた蕎麦屋が12月17日で廃業するという。東京もオリンピックの宴の後の寂しさが出るのだろうか。リオは今どうなっているのかな。

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古い新聞記事検索センタ-の役目が終わったのか・新聞博物館

2017年11月28日 | 築地市場にて

久しぶりに横浜にある新聞博物館を訪問した。以前在った新聞記事を検索するところが消えていた。入場券を払い、コピ-もできないという記事図書館があるという。ここで調べて付近の開国資料館の地下の図書室で調べるのがべったら市の資料調査であった。今は新聞業界がデジタルの波に追い込まれて不況業種となったようだ。

 漬物のような食品は文芸書にも載ることも少なく、新聞記事が変化の様子を知る手段だった。デジタル時代で広い図書室が必要となるところは管理の問題で消える運命かもしれない。早く調べないと検索にぶつからない限り目的の資料を探せない。偶然の入る余地はデジタル検索のときは少ない。開架図書館で何気なく背表紙を見ていて、ひらめきで読むこともあった。

 フェイクニュ-スを見破るには多くの疑問をぶつけるしかない。うその中にも真実が混じっている。今必死に石井研堂の缶詰始まりの文献調査をしている。誤りの多い文献と解りつつあるが真実も混じっていて分別が難しい。

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インド洋の常陸丸(日本郵船)遭難100年

2017年11月27日 | 築地市場にて

大正6年秋、日本郵船の欧州航路の常陸丸がインド洋で遭難した。当時の報道では日本政府と日本郵船との間で遭難原因がわかるまでもめていた。翌年の2月に捜索隊がインド洋の島で池之端酒悦の木箱を発見した。木箱には福神漬と書いてあった。日本の船でなければ福神漬は積んでいない。このことで遭難が確定されたが、天候不順等の原因かどうかが特定されなかった。2月末に常陸丸の乗客・乗員が捕虜となっている報道が日本に届いた。一時郵船関係者は喜んだが常陸丸船長はドイツ軍の砲撃で亡くした人たちの責任を取って、大西洋上で身投げをして責任をとったという。日本政府は新聞報道ということで戦時海上保険料を認めることはしなかった。日本郵船の戦前の社史にも記述は少なく、まして戦後の社史にはさらに少ない。今年天皇陛下が日本郵船歴史博物館を訪問されたが先の大戦で亡くなった船員たちの慰霊だったと思われる。観音崎の端に戦没商船員の慰霊碑がある。陛下がたびたび慰霊されている。数は少ないが第一次大戦でも日本の商船は遭難し、死者も出ている。国策に協力していたのに死者の扱いに差があるのはどうかと思う。

 常陸丸の事件はその後日本とドイツが同盟関係になり、戦前は忘れられていた。戦後に作家長谷川伸が(インド洋の常陸丸)という小説を書いて広く世間に知られた。福神漬はそのような意味で日本郵船社員には印象の残る漬物である。記録はないが記憶にあるということはこのような事件の連続である。三菱の創業時期に福神漬関連の資料を今確認中だがまだまだ福神漬は三菱にとって印象の残る漬物である。三菱東京UFJ銀行築地支店は幕府の蘭医桂川家の跡地で営業している。ここで1万円札の福沢諭吉が桂川家に出入りして洋書を借りて読んでいた。桂川家の口ぞえで福沢はアメリカにいけるようになったという。

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消えたカレ-本・日本郵船歴史博物館

2017年11月26日 | 福神漬

昔といっても数年前のことだが日本郵船歴史博物館でカレ-ライスと福神漬に関する文献の出所を尋ねた。しっかりとした文献は無かった様だ。そしてその文献らしきものを捜索して5年以上たった。今は日本郵船関係者が思っている以上のエピソ-ドが福神漬の命名に関することから来ているといってよいと感じる。日本郵船の発足は明治18年で、福神漬の命名も明治18年頃。岩崎弥太郎が池之端茅町で死去したのも明治18年2月のことだった。

 11月25日日本郵船歴史博物館へ行ったら、カレ-本が図書室から消えていた。根拠が無い恐れで、無難な撤去になったのだろうか。今はカレ-本を開架図書になっているのは味の素食の文化センタ-となってしまった。

 

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豊洲移転の影で市場法全面改正

2017年11月25日 | 築地市場にて

多分築地の移転問題に関心がある人も次の国会で中央卸売市場法が全面改正されることを知らないようだ。大正年間の社会不安で物価高騰を抑えるため中央卸売市場法ができた。今の時代と合わない制度で小手先の法解釈で維持していたが、小規模の小売店が減り、大規模小売店や産地直売店、ナット通販などの法律の想定しない販売方法で市場経由の扱いが減ってきている。このままでは日本各地の公設市場が絶滅しつつあるように、中央および地方市場も物流仕分け所となりつつある。新しい時代に適する市場となるように改正するのだが現実のスピ-ドに追いつくのは大変だ。

 間に合わなければ豊洲も築地も負の遺跡となるかもしれない。築地市場の衰退の原因のひとつはネット対応の不備がある。今だに手書き伝票と現金が築地を支配している。

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早島の歴史と麻生町史

2017年11月24日 | 築地市場にて

資料確認のため広尾の図書館で県史等を見る。静岡県史資料16近現代58ペ-ジ

元寄り合いのうち朝臣となりし者 名前書き上げ 慶応4年8月4日とある。本当に戸川残花は戸川家を残すため、兄弟で幕府と朝廷方に別れ帰属していたようだ。元幕臣がまだ勝敗の見込みがつかない時判断することは難しい。勝てば官軍、負ければ賊徒。裏切り者の汚名をきることとなる。

 築地市場の隣に、高級料亭・新喜楽がある。ここが幕末戸川家の敷地であった。維新後一時大隈重信が住んでいて、築地梁山泊といわれた。日本史で親族を二つに分け、家名の継続を図る例が見かけるが、鳥羽伏見の戦い以後このような例があったことはあまり知られていない。

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モラルの低下でモヤモヤ

2017年11月22日 | 築地市場にて

豊洲移転の延期に伴う補償金が入るにつき、何か設備維持に対するモラル低下が感じる。不必要な修理もあるが移転日を都知事が決断できないので新品で修理をするしかない。豊洲では活躍する設備が築地で役に立たないごみ扱い。そして2年を過ぎればまた修理。年末年始のロ-テ-ションの打ち合わせ。書類の廃棄の段取りをする。

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やはり豊洲追加工事価格上昇へ

2017年11月21日 | 築地市場にて

入札不調が続く、豊洲地下工事が本日の日本経済新聞報道で予定価格が4割上げるという。まだ足りないと思うが今の豊洲近辺のマンション販売金額を見ているとまだ上昇幅が足りないと感じる。豊洲の市場の工事が始まる前の豊洲価格は5000万円強ぐらいが目立ったのが今では7000万円が普通となっている。倍くらいに予定か価格が上がらないと入札不調が続くに違いない。

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セクハラで女学校が廃校とは

2017年11月20日 | 築地市場にて

さっぽろ文庫37巻札幌事件簿という本が図書館から着いた。東京芝増上寺境内にあった開拓使仮学校が北海道札幌に移転し、まもなく女学校が廃校となった。新撰北海道史第三巻には女生徒からセクハラの告発書が届き、松本十郎判官が学校を廃校にするしかないと判断したようだ。

 この事件には伏線があって、東京浜離宮で開拓使関係の宴席があって、増上寺境内にあった開拓使女学校の生徒(年齢的には17歳から12歳くらい)ホステスのような行為をさせたようだ。このことはこの女学校に子女を預けていた人にとって不満があったようだ。当時の慣習として女性が宴席に出るのは芸者のような職業しかなかった。特に奥様という言葉が示すように女性が表に出ることは身分の高かった旧幕臣には抵抗があったと思われる。

 北海道の開拓使女学校での宴席で年若い女学生を宴席に参加させ、浜離宮での前例があるとはいえ、セクハラ告発されれば廃校止む無しするしかなかったと判断したようだ。

 この記録は福神漬の資料調査には関係ないとおもっているが、森有礼の妻となった広瀬常・福姉妹に関係し、明治屋の創業時期に関係し、福神漬創製時期の記録につながるだろう。

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ライマンが石井研堂の缶詰製造指導の米国人ならば

2017年11月19日 | 福神漬

もしライマンが石井研堂の缶詰の米国人ならば福神漬の謎解きのひとつの解決に見通しが立つ。さっぽろ文庫37巻を借り出し予約を入れた。東京芝・増上寺にあった開拓使仮学校には女学校が併設されていた。その女生徒が浜離宮内にあった迎賓館のような施設で開催された宴会にホステスとして駆り出された。森本貞子の小説ではライマンと森有礼が旧幕臣の子女だった広瀬常を見初め、ライマンが本人の同意なく、開拓使の幹部に圧力を掛けて常を妻とするように迫ったという。この件に関してはライマンの手紙が残っているという。広瀬常はライマンの求婚を拒否し、森有礼と結婚した。有名な結婚で、日本で始めての契約結婚で証人は福沢諭吉だった。さて福神漬にはどのように関係しているかというと広瀬常には10歳以上離れた福という妹がいた。福は横浜海岸女学校を出て、船舶に食品を供給する明治屋を創業する礒野計に嫁いだ。

 第一次大戦中、日本郵船常陸丸がインド洋で行方不明になって、日本からの捜索船が発見した漂流物に明治屋の練乳と池之端酒悦の福神漬木箱が発見され、遭難が確認された。今の商慣行でも不祥事が起きなければ食品の納品先を変えることは少ない。磯野は明治屋創業時から酒悦の福神漬缶詰を日本郵船に納入していたと思われる。カレ-ライスに福神漬の付け合せの伝説がここから始まる。

 付け足しだが日本の文献でカレ-ライスという言葉らしきものが文献に出てくるのは北海道開拓使からという。

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明治初めの芝・増上寺にあった開拓使仮学校

2017年11月18日 | 築地市場にて

都立公文書館は今は二子玉川にあった廃校となった都立高校の中にある。元はJR浜松町駅から近い芝浦埠頭にあった。その当時は不思議な施設と思っていたが上野毛に愛犬の治療で通ううち、路上駐車しているとき、都立公文書館のところだったことを知った。

 石井研堂の明治事物起源の缶詰の始まりには余分な記述があってどこが事実かの見極めが難しい。ベンジャミン・スミス・ライマンが缶詰の始まりに出てくる米国人ならば福神漬の言い伝えも複雑になる。

 確認することは、四谷区津の守にライマンが住んでいたか確認するだけである。もし住んでいなければ石井研堂が意図的に記述したのだろうか。工部大学は明治3年には存在していない。ライマンは明治5年に日本にやってきている。鉱山関係の仕事なので工部寮の一部との勘違いかもしれない。

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夕張炭鉱のベンジャミン・スミス・ライマン

2017年11月17日 | 福神漬

北海道夕張炭鉱を発見したアメリカ人ベンジャミン・スミス・ライマンはどうも石井研堂の明治事物起源の米国人だったようだ。都立公文書館へ行き文献の確認をするが明治3年とか工部大学などの事実と異なる記述があり、偽文献かと事実確認をしていると本当の事実も混じっていて見極めが難しい。都立公文書館の人たちの尽力で偽文献から真実のことは少しずつわかり始めた。

ベンジャミン・スミス・ライマンが石井研堂の缶詰の始まりに出てくる米国人らしい。後は四谷区津の守に住んでいたかどうかの問題でもう一度新宿区歴史博物館へ行って確認するしかない。ベンジャミン・スミス・ライマンは表向き芝の増上寺内のところに住所を届け出していたようだ。この芝増上寺には開拓使の学校があって女子生徒を教育したようだ。第一期開拓使女学校卒業生に広瀬常がいた。後の森有礼の妻となる人で福神漬に出てくるのは妹の広瀬福である。

 広瀬常は森と離婚後、経歴から写真まで記録から抹消された。今残る広瀬常の写真は事実確認されていない。森有礼の権力による個人の記録の抹消である。

 

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咸臨丸の小野友五郎の最後

2017年11月16日 | 築地市場にて

明治31年小野友五郎は緑綬褒章の推薦を受けた。そこに書かれた彼の経歴で日本橋区本銀町の小さな家に住み塩の商いをしていた。維新後に得た財産を製塩技術につぎ込み財を失った。彼に対する推薦状に失った財産のリストがある。

 彼は維新後日本の鉄道のルート作成に尽力したが同時に日本の塩がにがり分が多いため塩魚にして輸出するには適切でなかった。塩製造の改良に伴い全財産をつぎ込んだようだ。褒章の推薦状に日本橋区区長仁杉英の名前があった。元南町奉行与力の仁杉英だった。鉄道寮の官員録に佐久間長敬の名前があったのでやはり南町奉行に何か明治に入って人脈があったかもしれない。この件に関してまだ文献は見当たらない。

 福神漬の資料を探っていると日本橋・築地を中心として幕末明治の複雑な人脈が見えてくる。

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小林清親と井上安治の浮世絵

2017年11月15日 | 宅老のグチ

墨田区政70年記念とかですみだ郷土資料館で明治の浮世絵の展示会があった。小林清親と井上安治である。郷土資料館の地は佐多稲子と饗庭篁村の旧居だったようだ。両方とも福神漬の資料に出てくる人である。本所吾妻橋駅で見たタバコと塩野博物館へ行く。以前渋谷にあったガここでは訪問する人は少ないようだ。4階の図書室で小野友五郎の資料を検索する。市川市に資料がありそうだ。午前中で1万歩。

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