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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

山口瞳著 血族

2014年10月31日 | 宅老のグチ

 

11月18日に築地市場で浦賀の人と会うことになりそうだ。先日浦賀訪問で渡した書類を検証したようだ。戊辰戦争の最後の戦闘で行徳の漬物商人が浦賀与力だった中島三郎助と共に戦死したことは知らなかったようだ。築地市場内の外れというべきところに幕府海軍の施設があった。浦賀の人達は遺跡見学とともに築地で味を楽しむようだ。

 アマゾンで1円にて買った(送料は含まない)本と図書館で借り出した『血族』を読み比べている。違うのは後書きだけでそこを重点的に読んでいる。18版となれば世間に出回る本も多く、年月が経てば1円になるのも当然かも知れない。

 千葉の外れの飯岡助五郎と山口瞳さんの先祖は交流があった。わざわざ飯岡に助っ人として参加したようだ。千葉の外れの『二足の草鞋』話が浦賀に飛んで『血族』を読むこととなった。飯岡町の上永井とか下永井という地名が幕臣長井家と関係があるとは知らないようだ。御先手弓組長井家は一時火付盗賊改の職にあった。同時期に南町奉行として20年ほど勤めた筒井政憲がいた。

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赤松小三郎の件で

2014年10月30日 | 宅老のグチ

 

嘉永年間の内田弥太郎・下曽根金三郎に師事した赤松小三郎を知りたくて、顕彰会の人に電話する。どうやらペリ-来航時の浦賀日記は赤松小三郎の兄の記録で所蔵しているのが上田市博物館か図書館ということが判った。吉田松陰の記録に赤松小三郎が出てこないのは小三郎が江戸にいたようだ。

 この電話で明治18年頃からの現在まで記録があるという。福神漬が明治18年頃の創製なので地方への普及状況がわかるかもしれない。

赤松小三郎といっても知っている人は少ないが竜馬が暗殺され頃、京都で薩摩藩士に暗殺された。薩摩藩に砲術等の指導していた先生である。現在でも使われている『前へならえ・右向け右]という号令の翻訳した人という。

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三連動地震

2014年10月29日 | 宅老のグチ

 

昨日の新聞記事で和歌山県内の「津波避難困難地域」が発表された、紀州の梅干しの産地工場の大部分が津波の危険区域に入りそうだ。梅の産地と知られている南部駅に行ったとき、海から近い感じがしていたが実際報道を受けると昨日電話していた人たちが津波で消えると考えると生きているとこの不思議さを感じる。実際天変地異の現象が日本のどこで起こっても不思議ではないが他人事で済ましているが実際起きた時に対応するしかない。

 南部の町の主要な施設は海抜数メ-トル以下で津波が来たら、全滅となるだろう。

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最後の築地市場祭り

2014年10月28日 | 築地市場にて

 

次の日曜日に最後の築地市場祭りが開催される。来年は移転前年となるので築地で開催される最後の市場祭りだろう。豊洲へ行くと危険な施設が減るので毎年市場祭りがあると予想する。他の市場と違って築地市場に車の入場を認めると10万人ほどの来客となる。初めての市場祭りで東京都と市場関係者が築地市場の暗黙のルールを破る人達の行為に恐れたということもある。

 それでも市場祭りを開催するのは市場というものを理解させないと求人に困るからである。中を知ると日本とは思えない別世界がある。この感覚が好きな人はたまらない。また肌があわない人は何時までも理解できないだろう。何しろ江戸の名残が今でも残っている。

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銚子・飯岡は江戸の真東

2014年10月27日 | 築地市場にて

 

江戸時代、方位にこだわる幕府政権は家康の霊廟の地を真北に当たる日光の地を選んだ。ところで真東の地は方位にこだわる人にとってどの様な意味があるのだろうか。山口瞳著『巷説天保水滸伝』の始めの章には銚子・飯岡がいかに近いかを書いてあった。水運の発達した江戸時代は海難・水難の危険性があったが物流の中心は水運であった。従って物流に伴う人的交流も盛んで思わぬ交流もあった。現代の紀伊半島の突端の地域は鉄道網や航空機を利用しても、日本で一番遠い地域かもしれない。しかし江戸時代から明治の鉄道が全国に普及するまで水運により人々が移動していた。大逆事件で死刑となった紀州新宮の大石誠之助がなぜ新知識を得ていたかというと、横浜から出た船便の寄港地で新しい雑誌、新聞は容易に早く手に入ったようだ。と同時に安価に移動できた。

 石井研堂は日本人の漂流民の記録を収集している。ジョン万次郎にも直接話を聞いたようだ。

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飯岡の高橋順子さん

2014年10月26日 | 宅老のグチ

 

 

10月26日の日本経済新聞に飯岡出身の高橋順子さんの飯岡の津波のことが書いてあった。津波の三回忌に飯岡に行って、行部岬灯台から飯岡の町を眺めていた記憶を取り戻す。飯岡は今では旭市となっているので中央図書館ともいうべきところで郷土資料を読んでいた。高橋さんの記事にもあるように飯岡の人たちは天保水滸伝で悪役となっていた飯岡の助五郎のことを悪く言わないようだ。山口瞳さんも飯岡助五郎をよく書こうとして小説が未完となった気がする。

 飯岡の海難事故は高橋さんの記事からかなり多かったようだ。

 

おまけ 日本経済新聞の高橋さんの記事の隣に宝塚の人の履歴書が載っている。岩下清周絡みで福神漬の記録外エピソ-ドで小林一三作詞宝塚歌劇団作曲の温情小学校校歌があることを知った。

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稗史 福神 山口瞳2

2014年10月25日 | 福神漬

 

 急遽借り出した『巷説天保水滸伝』に東浦賀の寺院に墓地がある理由が書かれていた。浦賀に先祖の墓があったようだ。山口家では有名であった博徒松坂屋仙造の子孫であるという。十手取縄を扱うばくち打ちであった。飯岡にも助五郎の助っ人に参加したということから千葉県飯岡町には親しみがあるようだ。

 浪曲天保水滸伝の影響で飯岡助五郎は悪役となっていて飯岡出身は嫌われていた。飯岡助五郎は今の横須賀市の出身で京浜急行堀の内駅付近であった。堀の内駅は三浦海岸行きと浦賀行きと分かれる駅で浦賀には三駅で着く。ペリ-来航時、江戸湾が封鎖され危機を感じた助五郎が行動を起こした文献もあるようだ。浦賀と飯岡の関係は干鰯(肥料)の取引で西浦賀の問屋を支えていた。

 九十九里海岸の外れにある行部岬は幕臣長井家の知行地の一つだった。今は飯岡町上永井とか下永井になっている。

 天保水滸伝の舞台となった天保・弘化・嘉永年間で浦賀と東千葉には何があったのだろうか。ここに天保水滸伝・大原幽学の事件・高野長英が万歳村に行ったことも一連のつながりを感じられる。

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稗史 福神 山口瞳

2014年10月24日 | 福神漬

 

 作家山口瞳の未完の小説がある。巷説天保水滸伝。この小説千葉県飯岡へ向かう話から始まる。鉄道忌避伝説が取り上げられていて、違和感があったが何故か未完で終わってしまった。しかし飯岡と何かの縁がある小説と感じていた。その後『血族』を読んでやはりペリ-来航時何かの支援行動が飯岡にはあった。飯岡助五郎と山口家の関係が次第に明かされ、遺言で横須賀へ埋葬するようになったようだ。その横須賀で浦賀の寺院を選んだのは代々の菩提寺だったのだろうか。それとも新たな檀家となったのだろうかまだ判らない。

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ためらいの雨天2

2014年10月23日 | 宅老のグチ

 

浦賀へ行くと雨が激しくなり、さらに渡し船が休みということで書類を渡し伝言で目的終了。ただ転んでもタダで起きない事を目標としていているので何か得て帰りたいと思っていたら、徳田屋跡の案内板があった。吉田松陰と佐久間象山は黒船来航の報を受けて宿泊した宿屋である。

 さらに自伝的小説『血族』の作者山口瞳の墓のある寺がすぐそばにあった。遺言でこの地に墓地を得たようだ。

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ためらいの雨天

2014年10月23日 | 宅老のグチ

 

急に寒くなって、さらに雨天となれば出かける気にもなれないが、年末の日程から浦賀に行ってみようと思うがどうなることやら。

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稀有な場所にいるから

2014年10月22日 | 築地市場にて

 

普通の日本人なら縁のない築地市場に勤めていると普通ではない講習会に出ることとなる。毎年1回は外国人雇用調査の講習会がある。できるだけ仕事がないときには参加するようにしているが長い間参加していると入管法の制度運用が変化し、講習の重点が変わってくことに気が付く。今年は体調が悪く参加しなかったが最近の人手不足がこれから現われてくることが予想される。

 今は円安で近隣著国の景気が日本より良いので密入国してきたという服装の人は見かけなくなった。今から思うとバブル期の築地市場が外国人労働者とそれを指揮する築地の老人が仕事をこなしていた。東アジアから中近東の人たちも来ていた。数字さえ読めれば配達の仕事ができる。身振り手振りで日本老人と外国人が働いていた。老人は力がないし、外国人は日本語が出来ない。彼らが日本の生活に慣れると服装が変わる。特にスタイルの良い中国人女性は変化が激しく築地市場の雰囲気に合わない服装となる。そして夜の世界に向かうのだろうか消える。それなりの外国人しか築地には残らず、また通常の世界に戻る。久しぶりの人手不足はどんな築地市場の雇用風景となるのだろうか。

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やはりベッタラ市は雨だった

2014年10月21日 | べったら市

昨日20日、昼までは明るい空だったが、夕方から少し雨が降り出した。降水量から雨にはならないと思うが気分は雨。雨となれば買い物が消える。

 記録に残らない雨とならない事例かもしれない。昨日の記録は雨ではないだろう。

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ベッタラ市も無事終わりそうで

2014年10月20日 | 築地市場にて

 

20日の東京は晴れ、明日はやはり雨模様とのこと。危なかった。天候不順情報が多かった今年もようやく安定しそうだ。

 為替が円高となり、原油が下がってガソリン価格が4から5円ほど夏から安くなった。九州の秋大根の情報が来ない。先日の台風の被害はどうなっていたのだろう。今の農家の高齢化を対処するには利益が出る農産物価格しかない。

 アメリカでのエボラ騒動が拡大し、韓国の崩落事故から人が多く集まる集会は避ける傾向が増えるのだろうか。11月2日に築地市場内の最後となる祭りが開催される。来年は移転前年となり、それでも多くの訪問者があると予想されている。遭難者が出そうな施設は数多くある。最後の祭りが終わると年末の準備が始まる。

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藤森弘庵 土浦市立博物館で

2014年10月19日 | 築地市場にて

 

先日訪問した、土浦市の博物館で幕末の展示物の前に椅子があって、ふと眺めていたら藤森弘庵の展示があった。どこかで出てきたという感じであったが思い出せない。帰宅後早速藤森弘庵関係の本を取り出す。経歴から大垣の人達との交流があったようだ。大垣藩小原鉄心とも交流があった。さらに佐倉の依田学海もあった。依田は留守居役のことで調べていた人物である。

 干潟町史の花香安精が藤森弘庵の門人であったような記憶が残る。土浦と万歳村花香家との関係は明治になってもあったようで花香恭法は新治県(今の土浦市)の裁判所に勤めていたようだ。国会図書館の近代デジタルライブラリ-で江藤新平の署名のある裁判官の任命書を見ることが出来る。

 土浦市では二足のわらじを履いていたと非難されていた(天保水滸伝)内田佐左衛門 ウチダ サザエモン・関東取締出役で万歳村の勢力富五郎を自決に追い込んだ人。)と火付盗賊改に関係していた長井家・南町奉行だった筒井政憲・政憲の次男下曽根金三郎・和算家内田弥太郎との関係を示す文書がないか尋ねる。

 学芸員の話ではどうやらアウトロ-の世界の人達の文書は少ないようである。最近公刊された土浦市史資料 家事志 色川三中日記(イロカワ ミナカ)でもサザエモンの評判が悪いそうだ。万歳村の花香家は土浦と関係があったこと知ったのみで終わる。

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日本シルクロ-ド

2014年10月18日 | 宅老のグチ

 

町田の自由民権資料館のことを書いた夜、NHKのファミリ-ヒストリ-という番組(名取裕子)で自由民権資料館が出てきた。町田は長野・群馬から明治期絹関係の物資が横浜へ向かう通り道だった。福島県も絹関係の産業が盛んであったことを知っていたので何か関係があるのだろうか。

 横浜からの世界経済情報が他の地域より早く入りさらに好不況の影響も早く受けたようだ。地域の歴史研究が盛んで、訪問した当日も、町田の古地図を見る人が多く、びっくりした。

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