雑用でみずほ銀行築地支店に行く。昼時なので記帳の人とかで混雑。しかし窓口は少し混んでいるだけ。昔は月末混雑がひどかった。今の超低金利では銀行の業務も限定される。振り込み料の高さは何れ激安の波に飲み込まれるに違いない。既に銀行を通さない決済が外国で増えてきた。観光客に押されて国内も銀行を通さない決済が増えるだろう。
時代は考えているより早く進みそうだ。まだ築地は現金決済が主流だ。
雑用でみずほ銀行築地支店に行く。昼時なので記帳の人とかで混雑。しかし窓口は少し混んでいるだけ。昔は月末混雑がひどかった。今の超低金利では銀行の業務も限定される。振り込み料の高さは何れ激安の波に飲み込まれるに違いない。既に銀行を通さない決済が外国で増えてきた。観光客に押されて国内も銀行を通さない決済が増えるだろう。
時代は考えているより早く進みそうだ。まだ築地は現金決済が主流だ。
もしプラスとマイナスのパワ-スポットがあるとすれば築地は両方ある。火事の回数は都内随一の回数を誇る。労働災害事故も飯田橋の監督署から築地全体をいつも注意されている。昨年も立体駐車場のエレベ-タ-にタ-レ-が落ちて人が亡くなった。場外市場は墓地の上で商売している店舗がある。怨霊を信じて築地で商売はできない。豊洲の地下は汚染されていて怨霊も苦しそう。
ここに来てオリンピック成功の鍵は築地市場移転が鍵であると言う。本来築地は昨年移転する予定だった。政治の混乱で遅れた。食の安心が担保できないと言うが中で働く労働者の健康の維持が出来ないで食の安心が保てることができるのだろうか。築地で取引される食品は大部分は箱入りで取引されていて築地に滞在する時間は少ない。しかしそこで働く労働者は一日10時間以上、さらに年中築地に居ることになる。食品と働く人とどちらが危険性があるのだろうか。
移転が遅れ、跡地の整備を急げば事故も起きやすい。既に国立競技場建設工事で不幸な事件が起きた。無理な日程で急げば不幸な状況を加速させるだけである。
文京区の中央図書館とも言うべき真砂と言う名前のついている図書館へ行ってきた。ここは中央区に比べて古地図の多い図書館で参考になる。真砂とはどっかで聞いた地名だと思っていたが泉鏡花の小説に出てくる真砂町の先生と図書館を出た時、地名案内板に書かれていた。湯島の白梅の季節は終わったが色々雑知識が増える。
文京区の郷土資料はやはり面白い。この区は学校が多いので古書店とか印刷業とか学生用の宿泊施設に特徴がある。
図書館内の本で内田百ケンの上京した時、最初の宿泊先が池之端七軒町で4日ほど滞在し転居したと言う。新橋で汽車を降り、人力車で池之端へ行ったようだ。時間と経費はどのくらいかかったのだろうか。日本郵船の関係で内田は気になる人物である。
今は汐留に移転した日本テレビは旧社屋が千代田区二番町に残っている。時々汐留からに番町行きのバスが出ているようである。この二番町に江戸時代の弘化年間ころ若林家があった。後に講談師となった若き松林伯円の養子先だった。伯円が一番長く出入りしたところが久世家筒井家にも出入りしていた。中込重明著(明治文芸と薔薇)より
中込氏の研究によると筒井政憲から南町奉行の時の事件の詳細を聞いて松林伯円が講談化したものがあるという。筒井は蛮社の獄のとき、南町奉行だった。些細なことで町奉行を左遷され閑職になったが天保の改革が終わり再び幕政に戻ると外交方面で活躍した。高齢になり二番町に隠居した時、松林伯円を自宅に招きいれていたとき南町奉行の事件を話したと思われる。
惜しくも中込重明氏は2004年病気で亡くなったが、もう少し二番町を調べていたら長井家の所も調べつくすこともあっただろう。高野長英惨殺事件の解明も進んだと思われる。
小伝馬町牢獄から逃亡した高野が江戸市内で生きていることを知った町奉行としては面子もあるので惨殺せざるを得なかったと思われる。しかし高野を匿い逃亡を援助した内田弥太郎を処分することは出来なかった。嘉永3年内田は浦賀で下曽根金三郎の下で海防支援活動をしていた。下曽根は筒井政憲の次男であり、内田へ嫌疑が及ぶと下曽根まで及ぶと考えたほうが理解できる。ここに浦賀奉行だった戸田氏栄が関与してもおかしくない。
高野の惨殺事件が戸田氏栄の遺児鉄丸が千葉万歳村の花香家に養子となった遠因と思う。花香安精は和算家内田弥太郎の学問上の弟子だった。花香家で養子を得る時、名前に恭としたのは内田の最初の名前である内田恭から来ていると思われる。千葉旭市万歳にある花香安精供養碑に内田五観(弥太郎)の文がある。
二番町に旗本御先手弓組長井五右衛門昌純の家もあった。長井家の七箇所の知行地のうち二箇所は旭市飯岡と上永井となる。上永井は九十九里海岸の北の外れの行部岬灯台のあるところである。
福神漬の語り部である鶯亭金升はその日記の中で筒井政憲の世話で長井家のところに父が養子に行ったという。長井五右衛門昌言となった。元は戸田氏栄3男である。
幕末史でかなり重要な老人の研究がなされていない。その人物は筒井政憲。単独の研究書はまだ見つからない。福神漬の調べ事では中心となる人物である。ある時講談二代目松林伯円と筒井政憲の関係を書いている本に検索で当たった。間違えて二冊購入。(明治文芸と薔薇 中込重明著)この本が無ければ明治16年秋東京の繁華街であった神田須田町で天福六歌仙として、絵草子屋の原胤昭が文を書き、絵は小林清親の浮世絵を無料配布したことの背景が解明できないだろう。
天福六歌仙は歌舞伎(天衣紛上野初花)講談天保六歌撰から来ている。天福は転覆を比喩していた。原胤昭は何処から浮世絵発行計画をしたのだろうか。
中込重明著の本でようやく解明できたが同じ二番町にほぼ同時期に住んでいた旗本御先手弓組長井家に松林伯円が出入りしていたのだろうか。
ウナギの絶滅危機が騒がれている時、土用の丑の日ということで添え物の奈良漬の手配は終わった。何かウナギの絶滅アシストをしているようでむなしさを感じる。仕事と割りきれば良いのだが後で低迷アシストと思うこともあった。生き残るため他を痛めてもなんとも思わないことを度々したことを思い出す年齢となった。参入しやすい漬物業は他の節操のない業者にいつも仕事を厳しくする。
環状2号線問題が日々記事としてオリンピック問題の中心となってきた。築地の人たちの心の傷が大きくなる。ここまで来ると円満解決はないようだ。
オリンピック開催まで3年となった。でも豊洲移転日程を決める場内業者の会議の結果が聞こえない。ここに築地市場の本質があって外部から見れば面白いところかもしれないが内部の人は仕事が忙しく移転会議に時間が割けない。
築地の移転で工事関係者の事故がないことを祈るしかない。
久しぶりに高輪台にある味の素食の文化センタ-へ行く。明治43年の日本醤油醸造のサッカリン事件の確認のため、田島技師の味の素無害証明書を見に行った。ところが検査したのが明治41年で証明書の発行日は昭和であった。この20年以上空白の期間は何があったのだろうか。
想像するには1 証明書を紛失した 2何か昭和のはじめに安全宣言をするために証明書の再発行をお願いしたかだろう。
何の事件が味の素にあったのだろうか。
前から豊洲は築地より安全だと思っていたので別に不思議ではない。豊洲の安心安全は豊洲市場で働く労働者が安全であることが基本と言うことを世間は知らなかったということである。既得権のある人たちが不安感を煽り政争に利用されただけで方針変更は驚かない。
まだ解明できないのは都庁の中でオリンピック招致を発案したのは誰なのだろうか。これが築地市場の移転問題の具体化の始まりであることが報道されない。オリンピックが無ければまだまだ論争が続き、築地の老朽化が進み、客離れが続いているだろう。
移転の日程が具体化し、秋口は国会で中央卸売市場法の抜本改正があるという。
取り扱い金額が年々減少し、ス-パ-コンビニが元気な時代で市場経由しか認めない制度が時代に取り残されている。豊洲移転の混乱は滅び行く時代に会わない卸売市場制度のもがきかもしれない。電子マネ-が途上国で急速に使われているという。築地.豊洲では後何十年も現金の時代が続く気がする。築地場外市場でカ-ドが使えるところがあるのだろうか。
今日の日経朝刊で築地市場協会の伊藤会長の記事があった。想定している豊洲開業時期は来年18年9月と言う。時によっては19年2月と言う。築地の混乱はまだ続く。9月に来年の市場カレンダ-が公表されるがそれ以前に補修が必要になったときは最大を予定し修理することとなる。9月ということは築地の事情もある。多くの事業所が3月決算で5月開業なら先行工事が経費で落とせない。かといって4月からの工事では5月連休明けの移転には間に合わない。
けだるい暑さの築地へ毎日行かなくなって一月となる。9月と予想される豊洲移転日時の発表待ちとなる。この空白期間を利用して読書三昧となっている。来年はバタバタとなるので今から準備をしても、まだ時間があると思うと暑さを理由としてじっと家で待機となる。
日銀が2%の物価目標を下げないようだ。漬物の特売反応を見ていると生活防衛の高齢者が多いようで特売時と平時との差が増えているようだ。給与が上がる人と違い高齢年金生活者は縮小する年金手取り額で安いものにシフトしているようだ。
ある大手の福神漬製造メ-カ-が福神漬の由来を河村瑞賢としている。一度尋ねたがはっきりとした根拠は還ってこなかった。どの辺りから河村瑞賢が出たかまだ謎である。
そんなわけで再び河村瑞賢の本をかりだす。
平成の改暦が始まりそうで図書館で借りた本だが値上がり前に購入することとした。何度か図書館で借りた本が後で値段が高くなってしまったことが度々だった。来年になれば改暦本が出るだろうが著者が書いてあるように日本では暦の政治性を研究する学者が少ないようだ。どちらかと言うと陰陽のことを書いてある本のほうが多い。
明治改暦を実務で参加した内田五観(弥太郎)は8等の官吏だった。長井昌言が明治5年鉄道局の6等の官吏だった。
ようやく築地も落ちついいて、いろいろ今まで出来ないことを処理する。福島県二本松に行って平島松尾のことを調べたいし、宮城県丸森町で佐藤清のことも調べたい。かき集めた資料を見ているとまだ見落としていることが多い。日本における親族が犯罪者として見なされるときどのような態度を示すのだろうか。多くは語ることもなく時間が過ぎてゆく。
築地の移転話も10年たてばどのように語るのだろうか。いまだに日本橋魚河岸の移転が関東大震災となっているのは調査不足である。大正12年から築地に移転した昭和10年2月までの空白期間を語る人はいないようだ。