明治末期の金融危機
福神漬の歴史を調べているうちに本筋から離れて上野公園・花柳界や金融市場の歴史を調べるようになってしまった。いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
とにかく分厚い本で東京都立中央図書館でも目立ち、必要な部分しか読んでいないのでどうして自らの資産を投じて損してまで企業を助けることになったかまだ不明である。
帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
浅田が記憶から消された原因の一つは帝商の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。
福神漬の歴史を調べているうちに本筋から離れて上野公園・花柳界や金融市場の歴史を調べるようになってしまった。いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
とにかく分厚い本で東京都立中央図書館でも目立ち、必要な部分しか読んでいないのでどうして自らの資産を投じて損してまで企業を助けることになったかまだ不明である。
帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
浅田が記憶から消された原因の一つは帝商の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。