年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

カレーライスと福神漬&日本郵船

2007年04月30日 | 福神漬
カレーライスと福神漬
日本郵船の社内報『ゆうせん』2006年3月号によると、大正5年にはかなりの量の福神漬が郵船の船舶に積まれていました。カレーライスと福神漬の取り合わせも文献等にはありませんがそれ以前からあったそうです。
 カレーと福神漬の話題がなぜ日本郵船の話となるのでしょうか。長谷川伸全集第9巻 朝日新聞刊 村上元三氏の解説によると昭和37年の時点で日本郵船の社員でも常陸丸の悲劇の話は知っていても日露戦争の時の話で第一次大戦の話は知っている人も皆無といって良かった。この『印度洋の常陸丸』が上梓されたとき、日本郵船でまとめて購入し社員に読ませたという。雑誌に連載された時はあまり反応はなかったが、出版され新聞等に紹介されてから評判となったという。
 インド洋に浮かんだ福神漬の木箱は何かの導きのような気がするのでもう少し調べてみたい。
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殉難船員の碑 総持寺

2007年04月29日 | 福神漬
鶴見・総持寺の碑
東郷平八郎題額
大正8年10月日本郵船株式会社建立
大正12年9月大震災のため倒れる
大正15年10月再建

大正3年 第一次大戦勃発
日英同盟により日本がドイツに向かって宣戦布告し参戦。
日本郵船は五艘の船舶を失ったが,その内宮崎丸・常陸丸・平野丸の三艘は船客と船員の人命を失った。
宮崎丸 大正6年5月31日英国沖
常陸丸 大正6年9月26日インド洋拿捕 11月7日爆破
平野丸 大正7年10月4日オランダ沖
この碑の場所は総持寺の鐘つき堂に向かう所にある。碑の後ろに亡くなった人々の名前が刻まれている。
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印度洋の常陸丸 ②

2007年04月28日 | 福神漬
印度洋の常陸丸
著者の長谷川伸は一般に大衆小説や新国劇の劇作家として知られていたが,彼がどうして『印度洋の常陸丸』を書いたのだろうか?
 長谷川伸は横浜市日の出町生まれで、生活のためドックで小僧生活を送り、職を転々とし新聞記者(都新聞・今の東京新聞)となって、のち作家となった。
 戦時中、従軍記者となって南方を回る。昭和31年『日本捕虜志』で第4回菊池寛賞を受賞。この本を知り合いに贈ったところ、常陸丸の話が出て取材が始まった。
 2代目常陸丸遭難の話は忘れられていたのである。戦争前は捕虜の話をすることは好まれない時代であった。生きて虜囚の辱を受けずという言葉の時代であった。
 長谷川の『印度洋の常陸丸』もドイツの仮装巡洋艦の攻撃を受けて、捕虜になってからの話が中心となっている。
 自決した、常陸丸の船長の無念さがインド洋に漂った福神漬の木箱にある気がする。
 
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印度洋の常陸丸 ①

2007年04月27日 | 福神漬
印度洋の常陸丸 
長谷川伸著によると
大正6年10月19日に常陸丸の乗組み員の家族に日本郵船から『常陸丸が行方不明』の信書を受けとっている。
 常陸丸を捜索するため日本郵船は筑前丸に捜索に必要な装備を積み11月27日に神戸を出航し12月17日にスリランカのコロンボに着いた。12月27日にコロンボを出航し16日間遭難したと思われる地域の漂流物を探した。
その結果として『東京池之端酒悦』と商標のある福神漬の木箱の発見があった。
 大正7年2月9日に筑前丸は神戸に帰港したが当日の『萬朝報』などの日刊紙には『常陸丸は敵の手に落ち,仮装巡洋艦として西太平洋で活動している』と報道されていた。
 情報は混乱していて、とても海上保険の問題でなかったことが解る。常陸丸の乗員・乗客160人の家族はどのような心境だったのだろうか。
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常陸丸遭難事件 

2007年04月26日 | 福神漬
大正6年から大正7年3月にかけて
大正年間におきた2代目常陸丸遭難事件は新聞記事はよると第一次大戦中のため、インド洋上で行方不明になったことによって海上保険の問題となっていた。政府の戦時海上再保険の認定で法律の不備があり、日本郵船・東京海上保険会社と戦時再保険の引き受けの日本政府とでの遭難の事実確認でもめていた。
 常陸丸の捜索でインド洋の島で福神漬の木箱が発見したことは日本郵船としては"
遭難した"と確信したと思われる。インド洋を航行する船舶で当時福神漬を日本郵船しか積んでいなかったと思われる。
 今の日本において保険金の未払い・不払いが騒がれているが、常陸丸事件も海上保険金支払いの問題となっていた。
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インド洋の常陸丸

2007年04月25日 | 福神漬
大正6年9月日本郵船の常陸丸はインド洋で行方不明となった。その捜索に日本は国を挙げて探した。その結果今のモルジブ諸島付近の島で酒悦の福神漬の木箱が発見された。そのほか多数の常陸丸のものと思われるものが発見され遭難が確認された。
神戸大学電子図書館新聞記事検索
常陸丸捜索顛末 : 昨日郵船会社本社に於て捜索船筑前丸副監督山脇武夫氏説明 : 印度洋捜索経過の発表 : 常陸丸の行方不明と保険問題  
横浜貿易新報 大正7年2月16日
記事の中に
木箱空箱三個(東京池ノ端某店の福神漬商標あり)
洋食用漬物入箱(土人果実入として使用し居たるもの、セダチマルサンゴトと白ペンキにて記入)
練乳入箱(K鳳凰印、株式会社明治屋の焼印)
上記のような遺留物を発見し、遭難が確認された。当時としては第一次大戦下でインド洋で行方不明になったため保険の問題となっていた。
神戸大学電子図書館新聞記事検索でも『常陸丸』と検索すると海上保険の問題として出てくる。

木箱空箱三個(東京池ノ端某店の福神漬商標あり)とは酒悦の福神漬のことだがなぜ『酒悦』と記事に書いていないのだろうか。

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悲劇の常陸丸

2007年04月24日 | 福神漬
日本郵船歴史博物館にて
カレーに関する色々な本に日本で福神漬と関係が出来たのは明治の35~36年頃、日本郵船のカレー食事に出されていたという。
 グーグルの検索を利用して、「常陸丸・福神漬」と入力して検索すると大正6年にインド洋で遭難した常陸丸殉難事件が出てきます。
明治28年、日本郵船会社は欧州航路用大型船6隻を英国に発注する計画であったがその中の1隻を日本で造り常陸丸と名付けた。この船は三菱重工長崎造船所が最初に作った客船である。初代常陸丸は日露戦争で陸軍御用船となり、明治37年6月、玄海灘でロシア艦隊の攻撃をうけて沈没。1000名以上の死者が出ていて靖国神社にその殉難碑があります。
初代常陸丸もそうですが、戦争時に物資の輸送を行なう徴用船は海軍の護衛のないときの被害は大きく、日本郵船歴史博物館において輸送船員の戦死者の割合が軍人より多かったのはあまり伝えられていない史実です。
2代目常陸丸、明治39年竣工、欧州航路に就航していたが、大正6年9月、第一次世界大戦下のインド洋で、ドイツの仮装巡洋艦に撃沈された。
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横浜馬車道

2007年04月23日 | 福神漬
日本郵船歴史博物館にて
カレーと福神漬関係が書いてある資料の捜索をしに来たがコンサート・イン・ミュージアムで調査は不能。図書館でコンサートがあるなんて、びっくり。次回のために予備調査に変更。
 日本郵船歴史博物館は多分日本の図書館の中でも変わっている図書館の一つに入ると思う。それはカレー関係の本で明治時代に山川健次郎が米国留学への船上でライスカレーに出会う話で文章の間違いを付箋をつけて訂正している。普通図書館では書き込み禁止であるがここは船の関係ある事項に於いて間違いは訂正しているのだろうか。

山川健次郎は明治3年アメリカに行く船の中で初めてカレーを食べた日本人となっている。
船の名前と会社の名前が間違っている。詳しくは日本郵船歴史博物館の中にあるカレーの本の付箋に書いてあります。
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築地市場で病気になると ③

2007年04月22日 | 築地市場にて
怪我には慣れてる築地の診療所
一番多いのが発熱で築地市場内の都バス停付近にある関連棟2階にある診療所に行きます。ここの患者はけが人が多い気がします。健康診断もここで行ないます。レトロな診療所で昭和30年代にかかった個人医院のような雰
囲気があります。診療所が閉まった時間はまだいったことがありませんが木挽町医院があるそうです。木挽町医院と言ってもある所は銀座4丁目で歌舞伎座の後ろにあります。築地の人たちは時々旧町名で話すので消えた町名が突然出て驚きます。町名が変わったのは何年前でしょうか。
診療所は関連棟の2階にあるため、築地市場で人気の寿司屋の行列状況が上から良く見えます。それにしても長い行列。
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築地市場で急病になると ②

2007年04月21日 | 築地市場にて
救急車の行き先
築地付近で急病になって,救急車を呼ぶと大抵日本で一番信頼されている病院ランキングで1位となっている聖路加国際病院(せいルカこくさいびょういん)に行くことなる。(4月に発行した経済週刊誌の広告によると)
 10年以上前、この病院で手術した人が手術前に洗礼をしたという話を聞いています。すべての病室は個室で直ぐ退院します。部屋代が高いため。
 また,聖ロカ病院の隅に忠臣蔵で知られる赤穂藩主、浅野内匠頭長矩(ながのり)の屋敷跡の碑が建っています。明治の初めの頃は外国人の居留地であったためその史蹟の掲示板がいたるところにあります。芥川龍之介生誕地もほとんど同じ所にあります。築地は時代によって風景が全く異なります。
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築地市場で急病になると ①

2007年04月20日 | 築地市場にて
救急車 
築地市場で救急車を呼んだときは、正門のところで一旦止められる。その理由は大抵市場内の何処かか不明のためである。場内放送の後、連絡先に向かうこととなる。市場内を救急車が通る時、混雑していた交通が止まり、様子が解ると救急車がいてもまた元通りの混雑となる。他と違って暇なヤジ馬はいない。
 築地市場の大部分が中央区築地5丁目2番1号のためで、初めての人は市場の中で迷子となる。
 住所が一つなのが便利な時ははしつこい電話勧誘に対して住所を聞かれても平気で教えることが出来る。なにせ5万人以上の関係者があり、郵便物は行方不明で戻るだけである。

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築地市場の練炭(れんたん)

2007年04月19日 | 築地市場にて
練炭
築地市場の休市日の前日午後、東京都の市場内放送で「特に練炭の始末に注意しましょう」
今時、築地市場の水産部の人たちは「練炭」で暖房を取っているのでしょうか。最近の若い人は練炭はキャンプ用(焼肉バーベキュー)と思っているのないでしょうか。本当に築地市場で今でも練炭を使用しているところがあるのでしょうか?場内の何処で練炭を販売しているのでしょうか。
 マッチだって昔は火をつけるとき使用していたが今ではタバコに火をつける時に見かけるくらいで小さな子はマッチの使い方を知らないのではないでしょうか。
 築地はまだ変なものが残っていて、壊れる前に記録してみようと思います。大田市場は市場内にガソリンスタンドがありますが昭和10年に移った築地市場内にガソリンスタンドはなく市場外にあります。
ここまで書いてなぜ「練炭」という放送があるのか解りました。多分築地市場はまだ電気の容量不足で足りないので電気で暖房を取ることができません。またガスはないと思います。勿論プロパンもない。ガスはフォークリフトに使用許可されている。従って暖房は石油か練炭となる。でも本当に今でも練炭を使用しているのでしょうか。


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築地市場火災予防講習会

2007年04月18日 | 築地市場にて
17日の築地市場火災予防講習会
東京都3階講堂は数百人の市場関係者で満員。京橋消防署の人たちによる、先日築地市場であった火災の初期に活躍した人の表彰とその火災の再現実験「トラッキング現象・コンセントとプラグの隙間に溜まったほこりが湿気を吸うことによってプラグ両極間で火花放電が繰り返され、発熱し発火する」と水槽用ヒーターの空焚きによる火災、発泡スチロール管理不十分による火災の注意がありました。
京橋消防署管内では長時間掃除していないコンセントの電気火災が目立っているとのこと。特に塩分の多い水を使用している水産部は電気火災を起こしやすいとのことでした。今まで何回も築地市場で火災がありましたが火災原因がはっきり解ったのは今年の火災だけだと思います。その原因として得意先が年中無休のところに対応するため休市日に出勤しているとところがあるため早期に火災が発見されるのでしょう。複雑な気持ち。
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うり タバタ瓜

2007年04月17日 | 福神漬
うり
酒悦さんに貰った資料に初期の福神漬の材料に(うり)がありました。今の福神漬にはあまり入っていません。
「江戸の野菜」野村圭佑著によると
シロウリはマクワウリのの変種で生食より漬物や料理用とする。北区田端のあたり、道灌山の続きの台地やその下の地域が産地。印籠漬(ウリの種を取り除き、中に具を入れて漬け込んだ漬物)などが知られている。
 初期の酒悦の福神漬には上野池之端のそばで手に入りやすかった野菜が原料となっている。シロウリにはタバタという品種名があります。
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戯作者と福神漬 ②

2007年04月16日 | 福神漬
福神漬創製者野田清右衛門は「酒悦」さんから貰った資料によると彼は一風代わった人で明治政府が断髪令を無視して77歳で死去するまでちょんまげを結っていた。また5代目菊五郎や山岡鉄舟とも交友がありました。
また池之端にあった松亭金水とその弟子たちとも交流があったと思われます。
鶯亭金升の「明治のおもかげ」から
松亭金水・戯作者「百将伝」で知られる。
梅亭金鵞 金水の弟子、「七偏人」妻恋坂から来ていた。
古森金浄 金水の内弟子
万亭 応賀 幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた)金水の客分
鶴亭秀賀 「御所桜梅松録」「金花七変化」 草双紙(合巻)の作者
杉亭金升 「権八小紫一代葉那志」
竹葉舎金瓶 「お八重幸次郎花鳥風月」
以上の作家連が金水宅に集まって騒ぎながら書いていたという。

当時下谷仲町通りの商家では、毎月茶番狂言をやっていたが何時も松亭金水宅に出入りしている連中が役者となっていた。この道楽が作家連の遊びでもあった。当然仲町通りにあった酒悦の主人は参加しいただろう。60歳台になっても梅亭金鵞は茶番道楽をやっていた。福神漬の命名も彼の茶番の一つだったかもしれない。

梅亭金鵞 明治26年に死す 72歳

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