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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

雨漏り

2009年01月31日 | 築地市場にて
雨漏り
信じられないだろうが今の築地市場は雨が降ると色々な不具合が生じる。雨漏りがその代表だがADSLでインターネットをすると電話回線に雑音が入って不通のときがあった。電話の中継するところの設備が旧く汚れていて湿気のため不具合が生じると言う。何しろ移転問題があるので設備は東京都が更新しないので対策を立てねばならない。そこで光回線を入れるのだがこれまた大変。現在でも築地市場のなかに光を入れたところはまだ少ない。
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春節も終わって節分へ

2009年01月30日 | 築地市場にて
春節も終わって節分へ
来週には節分で季節の上では春となりますが。ようやく世間の不景気風がやって来た様で暇になった。食物の価格調整はこれから再び始まるが下げるにしても上げるにしても大変。
 食べ物の量の少量化・個食化・高品質化が進む年になるしかない。なにせ周囲の老人がどんどん亡くなって今年は何万人の人口が減少するのだろう。当然食のマーケットが小さくなるので前年比拡大することはかなり無理した営業か新製品投入しかない。
 今年の波乱要因として台風が昨年は一つも上陸しなかったが二年連続ナシとはならないだろう。
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歌舞伎座の建て替え

2009年01月29日 | 築地市場にて
歌舞伎座の建て替え
明治10年代にアメリカ南北戦争で活躍した北軍のグランド将軍が日本にやってきました。当時の肩書きは18代元アメリカ大統領でした。
 日本に来て伝統芸術を見るということになり、築地付近にあった新富座で歌舞伎を見ることになりました。・悪所といわれていた歌舞伎が日本の伝統芸能として見直された日でもありました。明治22年福地源一郎(桜痴)や千葉勝五郎氏らによって歌舞伎座が建てられ120年になります。五代目菊五郎・九代目團十郎の活躍によって数ある伝統芸能の中で今でも生き生きしています。忘れ去れた福地源一郎の評価がもう少し上がってもよいのでないかと思います。彼の晩年の失敗は歴史から抹殺されています。
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漬物の歴史から

2009年01月28日 | 築地市場にて
漬物の歴史から
幕末以来日本の国は富国にするために、様々な政策は輸出によって国を富ますことでした。今のアメリカから始まった金融危機が世界中に広まって、かってない不況がやってくる気がします。しかし人間が生きてゆく以上一日過ぎれば新しい商品も旧くなり傷んでゆき、人は年を取ってゆきます。自然体で消費行動を行わないと急に需要が増えると過度の生産抑制によって商品が欠乏します。
 築地の中に配送する運転手さんの話では築地市場以外の荷物が少なく、最近は助手付きで配送に来ています。恐ろしい変化。
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春節なので

2009年01月27日 | 築地市場にて
春節なので
丑年の春節なので、中国で株価の上昇を願って爆竹を鳴らしているようです。日本の正月の金融機関の休みも長いのですが中国の春節の休みも長い。
 ギョウザ事件も一年たったが傷が残っていて、国産の漬物が増えている。
海外からの観光客らしき人が増えて築地にやってきてうろうろする週でもある。気になるのは中国での鳥インフルエンザ。だんだん拡大しているようである。
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山形県知事選挙から

2009年01月26日 | 築地市場にて
山形県知事選挙から
昔から築地市場は政治家がよく訪問するところで、最近少なくなっていましたが、(見た目が旧くて)レトロ感とかとよく報道される機会が増えました。色々な県知事がやってきますが初当選した和歌山県知事もがんばっていました。
 選挙で山形県知事が変りますが築地に来ないと県民には評判が伝わりません。食報道の一極集中となった感があります。
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停電真っ暗

2009年01月25日 | 築地市場にて
停電真っ暗
1月25日と2月1日の日曜日は築地市場は午前8時頃から夕方4時半頃まで停電です。真っ暗。寒い。老朽化した設備は漏電のテストなどしないと危険です。電気という文明の利器の恩恵を感じる二日です。
 真っ暗な時代に歌舞伎は火事の危険から早朝から始まり夕方終わる興行でした。今香川県琴平で歌舞伎があります。安全のため電機照明がありますが出来るだけ昔の面影を残しているようです。
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下町の人達の支援

2009年01月24日 | 福神漬
下町の人達の支援
彰義隊後日の話から
真説 彰義隊 加来耕三著
天野八郎の遺児たちや墓所を守る人達は下谷の人々によって維新後密かに保護されていた。1854年に開設した講武所(幕府の子弟の養成所)剣術教授方・北辰一刀流井上八郎は明治になって浜松奉行となって天野八郎の遺児たち生活の面倒をみていたという。196頁
 池之端の守田宝丹は上野の山の彰義隊の墓を守る人達を密かに支援していた。
 明治初期に朝敵となった彰義隊は堂々と語ることは出来ず、下谷の人々や子孫縁者の間で伝わっていった。
 明治20年代酒悦の福神漬缶詰は高価でゆっくりと拡大していった。そこには下谷の人達の支援があった。


缶詰価格
明治の当時の缶詰の価格は1缶が20から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかが判る。(出典:日本缶詰協会創立80周年記念「缶詰業界の歩みと団体の活動」)
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天保の老人

2009年01月23日 | 福神漬
天保の老人
明治の中頃になって“天保の老人”という悪口が流行した、これはこの天保生まれ(1830年から1843年)の明治の指導者連中が、新しい文明開化に乗り遅れている様子を皮肉った。榎本文部大臣が更迭された裏事情も新しい海外情報によって榎本の持っていた情報が旧くなったためでもある。
 戦後も20年経って、つまり東京オリンピックも終わって、外貨もたまり、日本人が金さえあれば自由に海外に旅行にいけて、敗戦したと言う自信喪失から回復した時間だった。平成のいまも20年を過ぎれば『昭和、時に30年代以後良かった』と言う懐旧の情が出てくる時間でもある。

 彰義隊を題材とした歌舞伎を堂々と明治東京の中心地で上演できたのも20年と言う時間だった。福神漬が生まれ育った時期に当たる。

2000年12月13日付の毎日新聞には このような記事があって
「天保老人の臆病と英知」
明治20年代天保生まれの老人達たちは、若いときには攘夷を叫んで外国人の排斥を盛んに行った口 だが、その後、実際に欧米の土を踏んだとき、近代機械文明を目の当たりにして、 例外なく、強い劣等感を植え付けられて帰国した。ひとことで言えば、彼らはひ弱 な日本への愛国心をかき立てられると同時に、欧米列強に対して、こんな相手と 戦って勝てるわけがないという恐怖感を共有していたのである。


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福神漬から

2009年01月22日 | 福神漬
福神漬から
明治22年憲法発布時期ころから江戸は良かったという懐旧の情が堂々と口にすることができるようになったが、明治政権内部には戊辰戦争のしこりがあったと思われる。幕臣榎本大臣が黒田政権から山縣政権になった時、居心地が悪かったのではないのだろうか。表向き仕事の件で更迭となっているが山縣は腹心を入閣させるため立場の弱い榎本の辞任を強いたのである。
 勝者の歴史は書物として残るが敗者の歴史は埋もれ、子孫とか縁者の口伝えで残る。彰義隊のことはほんの半日で終わった戦いであったが下谷地域の人達にとって印象の残る事件であった。下谷の池之端で生まれた福神漬は地域の支援で次第に広まってゆく。しかし漬物としては高価であったため販売拡大は困難だった。そこで下谷の人達による口コミによって広まってゆくのである。上野山下の料理屋、数奇屋町の芸者衆から伝わってゆく。この広まりは静かに拡大し、日清・日露戦争に参加した軍人によって日本全国に広まる。
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三宅雪嶺の同時代史から

2009年01月21日 | 福神漬
三宅雪嶺の同時代史
第二巻398ページ
明治23年5月山縣内閣において、榎本文部大臣が更迭された原因は内務次官芳川顕正が大臣になることから始まって立場の弱い榎本が狙われた。
 榎本の盟友であった第二代内閣総理大臣黒田清隆(薩摩)が条約改正の失敗で退陣すると、居残っていた榎本の立場は第三代山県有朋(長州)内閣では邪魔な存在であったかもしれない。『皐月晴上野朝風』が上演企画された時期と微妙にずれるが榎本(旧幕臣)の心境は戊辰戦争の非官軍戦死者の名誉回復を達成した感があったかもしれない。
 

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出揃い

2009年01月20日 | 築地市場にて
出揃い
新年も20日を過ぎると今年の課題が出揃った。例年の通り築地市場も暇になったが世間の景気が悪すぎるので、相対的に明るい。マグロのセリ見学が復活し、魚食文化が観光資源という。漬物だって日本の食文化の象徴さ。
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円通寺の鍵

2009年01月19日 | 福神漬
円通寺の鍵
彰義隊の墓のある円通寺は訪れた人の記事を読むと鍵が掛かって上野戦争関係者の墓のあるところに入れず、フェンス越に参拝すると書いてあります。しかし。行った時は鍵が掛かっておらず女性がイチョウの落ち葉を掃き集めていました。
 多くの上野戦争の墓があり、彰義隊の墓碑銘も榎本の書で、また榎本公追弔碑もあり、明治42年有志によって建てられた。
 身近にも榎本ファンがいるが福神漬の歴史から見ていると、明治22年の憲法発布によって明治政府は旧幕府勢力の影響が消えた時から旧幕臣たちが戊辰戦争の慰霊行事を堂々と行うようになります。でもまだこだわりのある薩長の明治政権幹部が明治政府に入った旧幕臣の役人に難癖をつけます。榎本の文部大臣辞任もこんな時に起こったのでないのでしょうか。明治2年以後榎本の活動が戊辰戦争で賊軍とされた人達の慰霊や名誉回復の行動が目立ちます。
 向島の梅若公園にある榎本武楊像は海軍軍服姿ですが榎本は函館戦争時の姿の像が似合っているような気がします。
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榎本 武揚 文部大臣辞任

2009年01月18日 | 福神漬
榎本 武揚 文部大臣辞任
第一次山縣有朋内閣が明治22年12月24日に発足したが翌年5月17日に文部大臣だった榎本武揚が辞任している。この辞任する二日前には彰義隊23回忌が行われている。
 また榎本は足尾鉱毒事件のとき、農商務大臣の地位を現地視察後辞任して、再度公職に就くことなく余生をおくったという。
 文部大臣を辞任したのは山縣有朋と衝突したのが原因といわれているが、江戸300年祭(明治22年)、彰義隊23回忌が無事に終わったこともその原因の一つかもしれない。武揚は、教育勅語を作れという山縣有朋の指示に従わず、更迭されます。
もし新富座で榎本が『皐月晴れ上野朝風』を観ていたら文部大臣在任中ではなかったことになります。(上演は5月22日から) 
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皐月晴上野朝風 26ー3

2009年01月17日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 26ー3
まとめ
明治の文化は歌舞伎のような日本伝統の演劇でも欧米からやってきた文化に多かれ少なかれ影響を受け、日本になじむように消化する時期でもあった。日本の漬物も新しい食文化に入ってゆく時でもあった。自給自足的生活から軍隊・学生寮・工場宿舎等の需要が出てきて食事を作らない生活が広まった。このような過渡期に福神漬が生まれた。しかし漬物を金で購入する時代ではなかったので販売拡大にはかなりの工夫が必要だった。
 上野寛永寺の山下にあった酒悦は上野戦争で顧客が減り苦労していた時でもあった。唯一繁盛していた池之端仲町の守田宝丹は船舶の高速化でコレラという病気が日本に蔓延し、その薬を販売し利益を上げていた。守田は明治広告業界の祖ともいえる人物でもあった。広報の雑誌を作ったりチラシ広告を各戸へ配布したり、新聞に広告出したり、現在にも通じる広告手法を使っていた。
 酒悦主人がこの影響を受けている。明治の食品の販売は20年代までブランドリーダーとも言える芸者さんを通じて広まっていた。(日露戦争後は女学生)福神漬も芸者さんによって広まっていった。
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