年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2018が終わる

2018年12月31日 | 築地市場にて

豊洲も築地も経験の無い年末が終わる。天災の多い年だった。紀州の与党議員への忖度と猛暑で忙しかった。それも終わる。平成の終わりの儀式の10連休も経験の無いこと。

 東京都の築地市場解体情報を見ているとアスベストにいかに築地市場が汚染されているか知ることが出来る。更地になるのも大変だ。まだ築地市場の地下にある汚染も誰も知らないようだ。いずれ再開発か売却でも地下の情報は表に出る。

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石井研堂の缶詰のはじまり6

2018年12月30日 | 福神漬

石井研堂が郡山小学校の代用教員だった明治15年頃は福島県で自由民権運動が盛んだった時代でもあった。石井研堂の評伝を書いた山下恒夫氏によると郡山の発展の立場に立つ、郡山と二本松付近では反明治政府という自由民権運動は盛り上がらなかったという。石井の明治事物起源に福島事件の記載が無いのはこの様な理由があったようだ。二本松は三春藩の裏切りによって二本松藩は敗退したという意識が強く、三春の自由民権運動指導者河野広中への反発が強かったという。

 郡山の小学校で石井研堂は二本松藩士の子であった高橋太華と知り合い、終世の友となった。ただ維新後賊地となった福島県人の高橋は東京に活路を求めるようになった。石井は先に上京した高橋の後を追うように経歴が進む。高橋の徴兵逃れのため隠れた生活をしていたが石井も長兄の徴兵拒否騒動の影響があり上京した理由の一つとなっている。明治18年芝公園内にあった岡鹿門塾に入り漢学を学んだ。

 明治20年代に少年向けの雑誌の編集者となった高橋に続いて、石井も少年向けの雑誌(小国民)の編集者となった。高橋が下谷根岸に住むと石井も根岸に住むようになり、根岸党という独特の江戸懐旧趣味のある人々と付き合うようになる。

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石井研堂の缶詰のはじまり5

2018年12月29日 | 福神漬

石井研堂の生まれた郡山市の依頼で安積艮斎(あさかごんさい)の評伝を書いている。安積艮斎はペリ-来航時、米国国書を翻訳した儒者の一人であった。石井研堂『安積艮斎詳伝』によれば、三菱を創った岩崎弥太郎が江戸に上り、安積に師事した。弥太郎の父の投獄によって、急遽土佐に帰国した時、艮斎は、弥太郎の才能を惜しみ、土佐の友人に手紙を寄せ、弥太郎の復学勧告を依頼している。研堂は、「慈父の愛子に於けるが如し」と評す。その手紙は岩崎家所蔵という。研堂の著書の中で日本漂流記・ジョン万次郎関係の著書がある。明治の開国の経過は漂流民の対処から具体的に始まったと石井は考えて、缶詰の始まりに蛇足のような文章を潜ませたと思える。

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混まない

2018年12月28日 | 築地市場にて

豊洲市場で屋根の下に置ききれない青果物がある。築地では溢れた青果で狭い施設がさらに狭くなって年末の混雑を増大させていた。豊洲では今のところ屋根の威力が感じられない晴天続きで終わりそうだ。1月5日のテレビ局取材報道の回覧もやってきて年末らしくなった。セリは明日で終わる。

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築地6丁目に降りるまで

2018年12月27日 | 築地市場にて

わけあって豊洲市場7街区の豊洲市場から新橋行きのバスに乗りました。前に市場前駅から乗ろうとしたら、観光客で満員で降りる人無く乗車拒否されたので、出発地点から乗ることにしました。水産仲卸の停留所でほぼ満員。勝どきのバス停で2割、築地6丁目で3割の人が降りました。後はガンセンタ-前と新橋駅なので予想の降車数はわかると思います。10時代の都バスの社内は年寄り買出し人の情報交換の場のようです。

 やはり築地より遠いという話が多く、設計ミスを指摘する人が多いようです。都の施設はモット市場の中心から離し、青果と水産を隣にした方がよかったという話でした。過去の経緯を知っている身としては一理があるがそれは素人案で今の形しか無いように思える。市場というより物流中心となる。

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石井研堂の缶詰のはじまり4

2018年12月26日 | 福神漬

三菱.l岩崎弥太郎と二本松少年隊。

意外と思うが以前NHKが(竜馬伝)を放映していたとき、二本松の菊祭り(日本最大級)で岩崎弥太郎と二本松の関係を知った。明治維新後、二本松藩は財政の足しになるよう殖産興業を推進するため明治3年5月貿易商社を作り、岩崎の力を借りようとした。三菱から買った中古の蒸気船がすぐに大破し借金だけが残ってしまった。困った二本松県(廃藩置県のため)は山田脩を三菱に派遣し、借金の減額を申し出たが、岩崎から拒否された。間も無く、二本松県が無くなり、福島県が誕生するという情報を得た。二本松県の負債も福島県が引き継ぐという。と同時に二本松で養蚕が盛んなのを推進し、海外に販路を設けるように指導された。

 岩崎に二本松へ温情のある情報を知らせたのは戊辰戦争で二本松で西軍として板垣退助(当時は乾退助)の指揮で戦った土佐藩の士族だった。二本松藩の武士の子(少年隊)が戦死する間際に介抱した状況を思い出し岩崎に進言したようだ。負債を値切ることも出来ず、逆に今後の二本松の方向を知ることとなった。

二本松城の前に建つ銅像はわが国最初の民間機械製糸工場の創始者・山田脩で岩崎弥太郎と交渉した人である。わが国の近代的な製糸工場は東京.築地から始まり、官営工場として群馬.富岡、民間工場として福島.二本松から始まった。両方とも周囲で養蚕が盛んな地域だった。

 二本松市史1巻825ペ-ジ

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やることが多すぎて

2018年12月24日 | 築地市場にて

東京都のお触れが回ってきた。来年1月から土曜日の豊洲市場でゆりかもめ市場前駅前の空き地(まだ決まっていない)でイベントをするようだ。解釈が玉虫色でいずれ毎日なるに違いない。

 観光客に市場のレストランが占領され、いずれ軽トラ食堂の聖地となるしかない。

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石井研堂の缶詰のはじまり3

2018年12月21日 | 福神漬

石井の明治事物起源の初版本に缶詰の始まりと書いてあるタイトルの下に小さい文字で米国人四季の果物・山田箕之助・溜漬・紋別漬・輸出とある。この小文字は何を意味するのだろうか。

 この紋別漬に関して、北海道紋別市に問い合わせ、戻ってきた回答では紋別と言う言葉はアイヌ語で北海道には何箇所かモンベツという地名があるという。近藤重蔵のモンベツは石狩の方だろうという回答が来た。

 米国人四季の果物とはライマンなら明治3年が誤りとなる。従って他の米国人か明治3年が誤りとなる。ライマンの来日が明治5年なので長崎の松田雅典の方(明治4年)が日本人による缶詰の始まりとなる。四季の果物だが今の新宿御苑で開拓使の試験農場があって、果物の試験栽培を行っていたようだ。誰が山田箕之助に缶詰製造を教えたのだろう。山田は果物の缶詰より野菜の溜漬から醤油漬に変えたと思われる。福神漬の酒悦さんの言い伝えでは使用したのは銚子の醤油だという。千葉行徳は江戸川水運の一つの拠点で小名木川を利用して東京中心へ安価大量に醤油が運搬されていた。

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石井研堂の缶詰のはじまり2

2018年12月18日 | 福神漬

石井研堂の明治事物起源という本は多くの学者に文献として引用されているが(缶詰の始まり)に関しては缶詰業界から史料としての扱いは無い。

 石井の生まれた福島県郡山は戊辰戦争で被災した後、明治政府の大規模な安積原野の開拓事業という公共工事で潤った。その推進者は旧米沢藩士中条政恒であった。中条は郡山商人による開拓を熱心に説いた。明治7年開成館が完成した。明治6年征韓論争決裂後、西南各地の反政府運動の高まっていた。また東北の地では戊辰戦争後の賊地であったため、東北と西南が立てば基盤が確立されていない明治政府が苦境になる恐れがあったため、明治天皇が東北巡幸と言うイベントが大久保利通によって計画された。大久保は中条の陳情で国による大規模な財政援助を決断したと言われる。殖産振興と失業士族救済(開拓事業)を目的としていた。明治12年から安積疏水工事が始まり明治15年10月に用水路が完成した。日本各地から新開拓地へ移住した。この不慣れな移住者の惨状を小説に書いたのが、中条政恒の孫娘の中条百合子(後に宮本百合子)(貧しき人々の群れ)だった。

 郡山の人たちは大久保利通の顕彰し、大久保神社を作ったという。(郡山市安積・大久保公園内)戊辰の敵地であったところに大久保利通を記憶する記念碑が建っている。郡山市民の福島県内の複雑な心情を表している。

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石井研堂の缶詰のはじまり

2018年12月16日 | 福神漬

石井研堂の文献として重要視されていない明治事物起源(缶詰の始まり)はどの様な理由が考えられるのだろうか?

 石井は慶応元年(1865)今の福島県郡山市に生まれた。生家は二本松藩郡山村の裕福な商家だった。石井が生まれた時期、二本松藩は慶応元年に二度目の京都護衛に向かう。それ以前に安政5年より江戸湾警備に藩兵を派遣していた。

 慶応4年夏、戊辰戦争の激戦が奥州列藩同盟軍と西軍との戦いが白河口から始まり、七月には二本松藩で攻防戦があり、二本松少年隊の悲話を生んだ。西軍と会津軍との攻防で郡山は町の大半が焼け落ちたという。なぜか石井は自由民権運動の福島事件を明治事物起源に記載せず、加波山事件が記載されている。石井研堂の評伝を書いた山下恒夫氏によると明治維新後、郡山は文明開化と呼ばれた明治政府の近代化の恩恵があり、東北の地の中では急激な発展を遂げた。今でも戊辰戦争の遺恨が残る福島県では県庁所在地を地理的中心である郡山に移転できないでいる。

 

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缶詰の始まりの史料の考察6

2018年12月15日 | 福神漬

日置昌一は1904(明治37)-1960(昭和35) 大正-昭和時代の民間の日本文化の研究者で日本の学者世界から軽視されていた。小学校卒業後東京にでてはたらきながら,17年間上野の帝国図書館にかよいつづけて膨大な書物を読破。その博覧強記ぶりから「ものしり博士」といわれ,「国史大年表」「日本系譜綜覧」「ものしり事典」などおおくの著書を刊行する。「ものしり事典」の日本の缶詰の始まりに(ライマン)の名前が出てくる。

 石井研堂は日置と同じように小学校しか学歴は無いが交流した人物に学者が多く、日置のように無視されることも無く石井の著作物は引用されている。石井の明治事物起源は明治41年に初版されている。この初版本は国会図書館のデジタル本で読むことが出来る。

 石井と日置の差は石井は根岸に住んでいた文化人と交流があり、幸田露伴とは釣り仲間でもあった。

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缶詰の始まりの史料の考察5

2018年12月14日 | 福神漬

石井研堂の(明治事物起源)と日置昌一の(もののはじまり)には缶詰の始まりの記述にほぼ同じ内容だが一部に異なる点がある。両方とも明治3年工部大学とあり、これは誤りである。四谷津の守に住んでいた雇米国人教師については石井は名前を出していないが日置はライマンとなっている。この時期の雇米国人の中で該当する人物は開拓使関係のライマンしかいない。この人は明治5年に来日しているので缶詰の始まりの明治3年は誤りである。そうなると四谷津の守に住んでいた外国人は誰なのだろうか。

 今の新宿御苑が皇室の管理になるまで一時開拓使の試験農場となっていた時期があった。このときに指導した教官から山田箕之助が缶詰を試作したと思われる。ただライマンになったの何か理由があったと思われる。世田谷にある都立公文書館にあるライマンの住居史料では津の守に住んでいた記録ではないようだ。

 ベンジャミン・スミス・ライマンは北海道で地質調査をし、夕張炭鉱などを発見した。

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缶詰の始まりの史料の考察4

2018年12月13日 | 福神漬

国会図書館でデジタル化した缶詰業界の(缶詰時報)を見ていると初期の宣伝で福神漬の広告がある。今では消えてしまった福神漬ブランドもあるようだ。敷島漬(サンヨ-堂)天長漬(キュ-ピ-)が広告されていた。

 漬物は戦前は主な顧客が軍隊とか工場とかの企業の人たちの需要であった。特に缶詰は軍隊とか船舶用であった。海外へ移民などで出た人たちが福神漬の味を思い出すのは他の国では作っていないでの記録が残っていると思われる。この様な日本食貿易は40年ほど前の海外旅行自由化以前は業界用語で(タクワン貿易)と言われていた。

 残っている記録から漬物は意外と政治経済の影響を受けていることが気なってくる。

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缶詰の始まりの史料の考察3

2018年12月11日 | 福神漬

石井研堂の明治事物起源は多くの学者で文献として引用されている。しかし、缶詰の始まりに関しては長崎市と日本缶詰協会(日本缶詰史)では松田雅典が日本人による缶詰入り食品製造の始まりとなっている。北海道開拓使による缶詰製造が量産規模の缶詰の始まりとなっているようだ。ただ長崎と北海道と言うことで東京での普及・宣伝から缶詰の始まりが福神漬缶詰の方が目立ったようだ。多くの事物起源の本では長崎・松田雅典と行徳・山田箕之助の説が並立している。長崎の缶詰はフランス人から製造方法を学び、東京の山田はアメリカ人から学んだようだ。

 フランスのナポレオンは軍隊の遠征における食料補給の問題から保存できる食品の発明に懸賞をかけた。加熱殺菌した瓶詰め食品の発明がこの懸賞金を受け取った。

 後にイギリスで金属容器の缶が利用され、さらにアメリカで缶詰生産の量産化が進んだ。日本では水産物の缶詰開発が進み、円高になって輸出は困難になるまで食品業界の中では缶詰製造では有力な産業となっていた。

 日露戦争後、陸軍で供給されていた缶詰入り福神漬が安価に一般人向けに払い下げられ、大衆に普及するきっかけとなった。

(海軍料理おもしろ事典 高森直史著)121頁
日露戦争時に最後の大規模な陸上戦闘となった奉天の野戦病院の食事のメニュー朝・昼・晩の三食の漬物はすべて福神漬であった。明治38年の二月から三月にかけての奉天大会戦に於いて煙を出すことが出来ず食事は木炭で暖めた缶詰で福神漬は厳寒のときでも役に立った漬物であった。福神漬は初期の宣伝にあるように他のものが何も無くても食事が進む便利な漬物であった。

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缶詰の始まりの史料の考察2

2018年12月10日 | 福神漬

明治事物起源の缶詰の始まりには史料の誤りがあるため無視されても仕方ない記述のため、誰も深く追ってはいないようだった。しかし日暮里の諏訪台の浄光寺に福神漬顕彰碑の裏面にある発起人に山田箕之助の名前があって驚き、早速函館の図書館に問い合わせしたところ、喜兵衛と言う名前の戦死者が3名いて、戊辰戦争の終わりとなった五稜郭付近で戦死したの中に一人いるということだった。

 都立中央図書館に函館での戦死者名簿があって、喜兵衛は幕末史の始まるとなるペリ-が浦賀に来たとき、最初に黒船に乗船した中島三郎助と同じ場所、同じ日に戦死した。なぜ元幕府御用の漬物商人が千葉行徳からわざわざ函館まで行く必要があったのだろうか。

 この事を石井研堂が知っていて、明治事物起源の缶詰の始まりに余分な記述を加えため(島原の乱・北海道・近藤重蔵・行徳・工部大学・雇米国人・津の守・三井物産・ハワイへの輸出等々)謎解きが必要となる。

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