年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

京橋・大根河岸記念碑建設50周年

2009年05月31日 | 築地市場にて
京橋・大根河岸記念碑建設50周年
築地市場の中の息抜き場のところにある自販機の壁にポスターが貼ってありました。来る平成21年6月13日土曜日に京橋大根河岸のところで記念碑建設50周年のお祝いをするということです。
『京橋大根河岸記念碑建設50年を祝い、築地市場の繁栄と物故者の慰霊の神事が執り行われ、東京農業大学による応援団による大根踊り、櫻川ぴん助社中によるかっぽれが奉納されます。野菜・果物の無料配布などもあります。』
 築地市場青果部は京橋から昭和10年2月11日今の築地市場に引っ越してきました。水産部の一部にはその当時の建物が残っているようです。もう少し経てば日本遺産になるのでしょうか。
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築地の土曜日

2009年05月30日 | 築地市場にて
築地の土曜日
大江戸線築地市場駅の土曜日は他の駅と違って朝から築地に働く人と築地を観光する人達で賑わっている。市場内の不振はリーマン以後酷く今後どうなるのかわからないが政府の対策で小康状態が保たれている。場外市場は手軽な観光として年々外国人観光客が増えているが、昔は日本各地にあった地方市場が量販店のために市場の機能が喪失し荷物の仕分け場となっていて、本格的なセリの風景は産地市場か大都市しか見られなくなってきた。特に土曜日は小さな市場は大口の消費者を市場に来てもらうようになってきた。これは市場に来る小売店の力が弱くなったためである。
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山岡鉄舟の書

2009年05月29日 | 福神漬
山岡鉄舟の書
骨董の相場で山岡鉄舟の書の価格が安い。一説には百万枚以上の書があるという。池之端酒悦主人と山岡鉄舟と交友があったというがどのような交友があったのだろうか。山岡鉄舟は頼まれれば嫌ともいわず書を書いていたという。書のお礼を旧幕臣の関係者や遺族に援助していたという。彰義隊の墓のある円通寺仏麿和尚はある時、三河屋幸三郎に金の無心をした。幸三郎は彰義隊の人のために金を出した。また少し経って和尚から金の無心をされたので前の金がどうなったのか尋ねたら『酒を飲んで使ってしまったと言う』いうのでまた金を出したという。こんな事が続いて、幸三郎があきれて円通寺仏麿和尚と疎遠になった。しかし和尚は幸三郎の金を彰義隊の遺族に渡していた事が後に解り仲直りしたという。同じような話が多数あるが維新後堂々と新政府に反抗した彰義隊遺族を支援する事は出来なかったことが背景としてある。同様に池之端守田宝丹主人も上野の彰義隊の墓守人を密かに支援していたという。
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明治16年

2009年05月28日 | 福神漬
明治16年
上野駅開業、この当時は上野山下ステーションと呼ばれていた。
第一回水産博覧会。上野公園で開催。約22万人入場。水産缶詰展示される。
正岡子規松山から上京。16歳。
慶応三年(一八六七)生まれの、夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斉藤緑雨・鶯亭金升・小栗国子・内田魯庵は16歳となる。
鶯亭金升(長井総太郎)は上野戦争から逃れるため千葉に住んでいたが上京し根岸に住む。その後梅亭金鵞に弟子入りする。福神漬の創製は明治16年から18年の間と思われる。
「鹿鳴館」落成=欧風化政策の象徴。明治憲法成立後、大隈重信の条約改正案の内容が漏洩し急速に反条約改正運動となる。その最も急先鋒だった陸 羯南の新聞(日本)は神田雉子町に憲法発布の日(明治22年2月11日)團團珍聞の建物にて活動し始める。
 團團珍聞の主筆であった梅亭金鵞(福神漬命名者)が倒れたのは明治24年だから正岡子規の(日本)入社と若干時期がずれる。しかし鶯亭金升とは面識があったかもしれない。
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しし頭

2009年05月27日 | 築地市場にて
しし頭
つきじ獅子祭のしし頭を乗せて巡幸する山車の製作が進んでいます。大小3台の車がもう直ぐ完成します。6月のしし祭りの準備が進んでいるようです。休市日は例によって消防訓練の場となります。最近は避難アナウンスも英語が入っています。彼らはどこに逃げるのでしょうか。迷路のような築地市場はなれない人が配送に来ると迷子になります。
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新感染

2009年05月26日 | 築地市場にて
新感染
最近の情報の鮮度が短くなったようで、新型インフルエンザの話題も減りつつあるようで、新聞紙上のスペースも小さくなった。核実験をされても東京の株価はさほど影響がないようだった。株価は若干変動しただけだった。株価操作を狙って空売りしていた人はがっかりしただろう。
 物事の本質はその中にもあるので変化をキャッチしなければならない。市場でマスクをしている人は少ないが商談の場ではマスク着用が要求されるところが出てきた。
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日々動く

2009年05月25日 | 築地市場にて
日々動く
横須賀の中央図書館の郷土資料のところに海軍関係の図書が以前あった。しかし、今は分類が変ったようで本当に軍関係の書物しか見えなくなった。何処に置いてあるのだろうか。時代と図書館スペースの関係で関心が動き、忘れ去れたまたは忘れつつある分野は次第に消えてゆく。しかし地域の資料を調べるため消えてゆくのに付き合えない。
6月の中央区中央図書館の休館後、不要図書が処分されるが今の感覚で処分していっていいのだろうか。何かデジタル化などによって保存できないのだろうか。
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横須賀へ

2009年05月24日 | 宅老のグチ
横須賀へ
横須賀へ小栗上野介の銅像を見に行く。まともに行くのはつまらないのでJR横須賀線をつかう。鎌倉より先まで行くのは初めてなのだが辻子行きの電車に乗ったため、鎌倉駅で降りて次の久里浜行きを待つ。驚いたことに平日の12時台は鎌倉から久里浜に行く列車がない。横須賀駅に着くと駅の雰囲気がおかしい。複線がこれから先単線になる。明治22年開業の駅は今風のバリアフリーの駅でヴェルニー公園は目の前だった。
 小栗上野介が発注した機械が展示し手あり少し前まで稼動していたという。ヴェルニーと小栗上野介が横須賀の地を造船所の適地として選んだという。横須賀の造船所と製鉄所の発展と共にそこに勤める労働者の増大し、蔬菜需要の拡大した。横須賀に近い三浦地方に野菜産地が出来た。三浦大根の誕生である。
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日清戦争後の福神漬献納

2009年05月23日 | 福神漬
日清戦争後の福神漬献納
日清戦争は明治28年4月頃休戦となるがその年の9月に大倉組が留守第四師団に東京名産福神漬を300樽献納したいという書類があった。明治28年1月終わり頃大阪にあった第四団の師団長は北白川親王(元輪王寺宮)であった。宮は2月に近衛師団に移り四月に中国大陸に行き、情勢不安となった台湾に六月初め向った。日本軍は台湾を制圧するのに苦労し、宮は10月28日台湾で死んだ。
 大倉喜八郎の大倉組が献納した福神漬は宮が行った近衛師団と共に台湾に向ったのだろうか。北白川親王の銅像は北の丸公園の中の旧近衛師団のあったところに建っている。
東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)前

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効果があるのか

2009年05月22日 | 築地市場にて
効果があるのか
食品の情報誌の記事で今度のインフルエンザの効果があると思われて売れている商材はキムチ・梅干・しょうがという。昔からあるものだが韓国では日本より発生が少ないのはキムチの抗菌作用があると報道されている。日本で患者が急に増えた原因は長らく無菌状態が続いて免疫力が無いような気がする。
 だんだん築地周辺に来ているようだが都は市場の見学を中止するのだろうか。
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上野・山の下の福神漬

2009年05月21日 | 福神漬
上野・山の下の福神漬
今の上野駅は明治16年開業した時は山下ステーションと呼ばれていた。山とは思えない低さの上野の丘は『山』といわれていました。東叡山寛永寺の下に出来た駅だった。鉄道の駅は山下町の位置にあった。また日本で最初に開通した新橋駅は新橋ステーションといわれていた。
 上野の山下は鉄道開業後発展した。上信越・東北・常磐地域の出発駅として発展していった。上野戦争のあとの下谷のさびれは上野駅の開業で終わってその後発展していった。池之端の福神漬の拡大してゆく過程で地域の変容があった。開業から直ぐに上野駅周辺は荷物と人で混雑し貨物駅を分離する案が出たようで明治23年ころは下谷の地域を分離する鉄道に対して高架にするよう地域の人達が運動していた。
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郵便DMの不正から

2009年05月20日 | 築地市場にて
郵便DMの不正
今郵便DM(ダイレクトメールの料金不正)の捜査で不正を見逃すことが不正であるとなってきた。
 今までは営業上の理由で不正だろうと思っていても売り上げが他のところに行ってしまうと咎めることが出来ないという理由で見逃していた。しかし今は法令順守という考えから見逃してはいけないという論調に変りつつある。ただ法律や規則が過去のいきさつから改正されず現在の状況に合わないものがある。この件に関しては必ずしも法律に従うのでなく運用の弾力化とか改正を求めるのが本筋かもしれない。郵便局の人たちの言い分を聞かないと片手落ちとなるかもしれない。何しろこの分野ではヤマト運輸と競争しているので激しかったかもしれない。
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また都からのお触れ

2009年05月19日 | 築地市場にて
またまた都からのお触れ
東京都から分厚い新型インフルエンザの市場における防御策の回覧がやって来た。食品企業だから伝染に加担するわけには行かないがここまで拡大してゆくと防御策はないような気がする。どこかの企業に電話して工業用のアルコールを手配して手の消毒をしようかな。又はアルコール度数の強い酒を使って消毒して、騒ぎが一段落したら不良在庫は飲んでしまえば一件落着と行くのではないのだろうか。
 表面上は築地はのんびりしているが劇場等の閉ざされた空間に人が集まる施設の管理する人たちは一番先にインフルエンザが発生しない事を願っている。
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商標裁判?

2009年05月18日 | 福神漬
商標裁判?
カレーライス 全日本カレーライス学会編 剄文社文庫 1994年より
『酒悦』を巡る裁判事件。
明治時代.
池之端酒悦の福神漬が評判になると類似の商品を販売してくるものが当然現れてくる。その中に『 酒悦』というブランドをつけて福神漬を販売している後発の業者が出てきた。当然池之端の酒悦と偽『酒悦』との間で商標裁判となり、酒悦は日本で最初の商標登録裁判となり、日本裁判史に名前を残したという。老舗の漬物メーカーほど福神漬を作りながら、福神漬の名称を使用して販売していないのはこの裁判の影響かも知れない。
 ただこの記録は他の多数のカレー本には出ていないので真偽のほどは未確認である。味の素の食の文化センターにはカレーのウンチク本が十数冊あるがこの件の記述がある本は一冊しかない。
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過剰か普通の対策か

2009年05月17日 | 築地市場にて
過剰か普通の対策か
味の素の食の文化センターにある食関連の本を読むためにむかう。入り口で用意してあった殺菌剤を手に振りかけた。以前にはなかったものである。食の製造事業所には見慣れた風景でも一般人には驚くことだろう。既に関西のほうでは高校生が連続的に感染しているようである。行政は休校処置で拡大を防ぐようであるが、じっと一週間家でいることは出来ない年代の人達だから感染拡大を抑えることは難しいかもしれない。しかし感染弱者の高齢者の死亡者が少ないのは不思議である。
 今のところ手洗いと梅干による唾液の分泌を盛んにして殺菌するしか対策がない。
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