谷中墓地にある自由民権家花香恭次郎の墓碑文の親族が予ねて推測していた人であると確認の取れる文章をやっと見つけた。
鶯亭金升日記『明治42年7月1日 横浜開港50周年
万朝報(よろずちょうほう)を見て、戸田伊豆守がペルリ提督と第一回の会合をせし記事に、今昔の感浅からず。戸田伊豆守氏栄は、余の為には祖父、亡父昌言は氏美の三男にして、長男勘十郎、次男大久保忠恒、三男桂三郎長井家に養子となり筑前守と称す。四男銕弥は亡父に養われ、余が縁深き、千葉香取郡万歳村の農、花香伝右衛門の養子となり、花香恭次郎と呼ばれしが、成長の後、政界に身を投じ、河野広中氏と共に、福島事件を以って名を世に知られる。
谷中墓地の墓碑の『族』とは長井昌言のことで香取民衆史10の石橋幹次氏の考察では取り上げられていないが花香家が恭次郎の身の上相談にのっていた親族は長井昌言と言える。
福島事件の調書がある三島通庸文書があるが何処を探しても長井家のことは出てこない。福島事件(明治16年)のとき長井昌言は死去(明治6年)していたので調査が漏れたのだろう。花香恭次郎が鉄道開業時の横浜に行ったのも、工部省鉄道寮に勤めていた長井昌言のアドバイスと思われる。
後は花香恭次郎が短い時間だが南茅場町に勤めていたことがある(明治4年から5年)。この同じ南茅場町内に同時期原胤昭、三菱社(後の日本郵船)、三遊亭円朝がいた。どんな人間関係があったのだろうか。原胤昭が福島事件の錦絵配布したのも同じ町内に一時住んでいた花香の記憶があったかもしれない。
福神漬には記録はないが記憶が残る。