10年ほど前は叔父が特攻隊に参加していることは知っていたが、昭和の20年代の法事の席で親族の会話を聞いていて耳をふさぐこととした。まだ小学生低学年の自分にとって、何を親族が話していたかは内容は知らなかったが評価に関してもめていた。後で大人になって何がもめていたかは理解できたがそれでも耳をふさぐこととした。
親族がもめていた理由は英霊論と犬死論であった。陸軍特別航空隊1期は2000人ほどの募集で1万人以上の応募があり、1800人が合格した。高等教育の相当の学力があって、しかも体力・1.0の視力もないといけなかった。親族の話では一番優秀な人だった。学費の安い師範学校に入り、小学校の先生になる夢があったようだ。茨城の陸軍飛行場で隼を受け取り、昭和20年2月の終わり頃、卒業した小学校の上を低空飛行し、朝鮮・中国経由で台湾に赴任した。特攻したのは5月の沖縄嘉手納沖だった。米軍の戦果の記録でも米軍戦死者もあって、優秀なパイロットだった。昭和20年5月の当時はすでに米軍の特攻攻撃の迎撃準備ができていて、特攻が成功する確率は少なかった。
最近と言っても10年ほど前だが偶然知覧の特攻会館を息子が訪問した。広い会館の中の遺族写真を聞いて捜したところ、訪問した日は叔父の特攻した命日であった。それ以来知覧から慰霊祭の案内が来ていたが、5月の連休は築地の業務が忙しく行くことはできなかった。やっと豊洲移転となり、改元で10連休となっても無理して参加した。まだ特攻隊遺族として見習い中で叔父の特攻に関して、見解は出せないし、このままで死んでしまうのだろうか。
世の中の特攻隊に所属していた人たちの本と遺族としての感想は異なる。特攻した叔父は今でも22歳のままである。