年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

陸軍特攻隊遺族見習い中

2019年10月31日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

10年ほど前は叔父が特攻隊に参加していることは知っていたが、昭和の20年代の法事の席で親族の会話を聞いていて耳をふさぐこととした。まだ小学生低学年の自分にとって、何を親族が話していたかは内容は知らなかったが評価に関してもめていた。後で大人になって何がもめていたかは理解できたがそれでも耳をふさぐこととした。

 親族がもめていた理由は英霊論と犬死論であった。陸軍特別航空隊1期は2000人ほどの募集で1万人以上の応募があり、1800人が合格した。高等教育の相当の学力があって、しかも体力・1.0の視力もないといけなかった。親族の話では一番優秀な人だった。学費の安い師範学校に入り、小学校の先生になる夢があったようだ。茨城の陸軍飛行場で隼を受け取り、昭和20年2月の終わり頃、卒業した小学校の上を低空飛行し、朝鮮・中国経由で台湾に赴任した。特攻したのは5月の沖縄嘉手納沖だった。米軍の戦果の記録でも米軍戦死者もあって、優秀なパイロットだった。昭和20年5月の当時はすでに米軍の特攻攻撃の迎撃準備ができていて、特攻が成功する確率は少なかった。

 最近と言っても10年ほど前だが偶然知覧の特攻会館を息子が訪問した。広い会館の中の遺族写真を聞いて捜したところ、訪問した日は叔父の特攻した命日であった。それ以来知覧から慰霊祭の案内が来ていたが、5月の連休は築地の業務が忙しく行くことはできなかった。やっと豊洲移転となり、改元で10連休となっても無理して参加した。まだ特攻隊遺族として見習い中で叔父の特攻に関して、見解は出せないし、このままで死んでしまうのだろうか。

 世の中の特攻隊に所属していた人たちの本と遺族としての感想は異なる。特攻した叔父は今でも22歳のままである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月30日日経朝刊

2019年10月30日 | 宅老のグチ

2019年10月30日日経朝刊記事で豊洲市場の水産仲卸が移転時より一割ほど減り488となった。青果部仲卸は減りもしなかった。まだまだ当時の食品情報誌で適正な仲卸の数が300台と言われていたので、途上だろう。施設の規模は変わらないが365日対応になるには統合・吸収とかの組織の拡大を図らないと、築地でごまかされた家族経営が豊洲で通用しないことがはっきりする。日本語・時差の問題も組織が大きくなれば対応することもできる。

 また旧築地市場の跡地で豊洲と同じような基準値超えの汚染が多数のところから出たという。事前の汚染予想通りだった。誰も築地の人は話さなかったが知っている人は多かった気がする。すべては終わったことだ。

バブルの時の築地は1300の水産仲卸があった。豊洲が広くなり、混まないと効率が上がり、市場内のスピ-ドが出て、負傷で済む事故が死亡となる。築地でもしばしば救急車が出入りしていた。死者も出た。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソ-ライス・昭和4年(1929)阪急百貨店食堂

2019年10月29日 | 福神漬

昭和4年(1929) 大阪の北にある梅田の地に阪急百貨店を開業した。駅と百貨店を直結した始まりだった。そのビルの中に直営の食堂を開業した。昭和の恐慌で百貨店の中に入って見るだけの客も多かった。その様な客の楽しみは食堂でソ-ライスと言う洋食を食べることが爆発的人気だった。ソ-ライスとは5銭で山盛りのご飯と福神漬が出て、これにソ-スをかけ放題にして食べるものだった。大阪人の言葉の略し方でこれをソ-ライスと呼んだ。タクワンでなく、福神漬だったということは福神漬が缶詰入りで始まったため、高価というイメ-ジがあって、百貨店で商品を見るだけの客も食堂でソ-ライスを食しさらに福神漬を追加し満足した。

阪急社長の小林一三は、逆にこれを歓迎する姿勢を打ち出し、「ライスだけのお客様を歓迎します」

という貼り紙まで出させた。小林は「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子どもを産む。そのときここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れてまた来てくれるだろう」と言って諭したという。

 百貨店は将来の夢を見るところだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネット記録の恩赦があったら

2019年10月28日 | 宅老のグチ

不都合なネットコメントが消したいと思っても拡散されなかなか消えない。特に不祥事が公的機関に保存開示され、10年たっても微細な違反・不都合も検索すると出てくる。そこには不祥事の内容は詳しいがその事件が発生した時期の文字が小さく、大昔(と言っても10年前とか)ですでに過去のことと本人は思っていても開示される。

 特に不倫とか交際のゴシップ記事は時効という観念がなく、一般人にも不都合な検索で記載が出てくる。これは良いことなのだろうか。今度の即位で恩赦があったという。どこかでネットの恩赦があったら世の中がどう変わるのだろうか。ボケる老人は日々恩赦をして、過去の記憶を消している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州の飲酒運転事故から東京オリンピック

2019年10月27日 | 宅老のグチ

オリンピック招致の発端が築地市場を移転させ、跡地売却という下心から始まった。長い日本経済の低迷で、国の借金が増え、いくら国民にカネをばら撒いても景気浮揚には繋がらなかった。石原都知事が国から指図を受けることの少ない東京都が動けることになった。

銀座の隣りにある築地市場は東京都の管轄で跡地を売却すれば秋葉原駅前にあった市場を移転させ、辺鄙な大田に引越しさせ、建設費を差し引いても2600億円の剰余金が出た前例があった。築地市場が二匹目のおいしいドジョウとなった。このような状態となったのは築地で再建する工事が着工したのに途中で中断しなければならない事情があった。この原因は競争の激しい築地市場で話し合いできる雰囲気が無いことにある。市場の売り上げが年々減っていても日本一の売り上げを誇る水産部は危機感が薄かった。そこにオリンピック招致により築地市場を貫通する環状2号線問題が生じ国民の圧力によって移転させようとなった。選手村を晴海にした原因も全ては築地を移転させることを前提としている。

 築地を移転さるための下心のあるオリンピック招致は今になってマラソンが不適切な気温ということでゴタゴタしている。招致できるかどうかは当時は誰も考えていなかった。ただ移転会議は招致運動が始まる前よりスム-スとなった。これは築地の移転会議に参加した人しか解からないだろう。それも九州の8月25日の飲酒運転事故がなければ2016年のオリンピック招致は福岡だったと思われる。東京が33で福岡が22だった。6人が福岡だったら築地は今でも豊洲へ行けずどうするか会議中だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の3回の天災

2019年10月26日 | 宅老のグチ

この秋で3回の天災で何かが変わる予感がする。高齢農家のいきがいである農業が継続断念する例が増えるだろう。そして農地所有と経営分離が加速される。農産物でも被害の無い地域と被害の大きい地域との差から偏りが目立つだろう。衰退する農業から経営能力のある人たちが堂々と参加してくるが過去にLEDで室内農業で成功した事例が少ない。安定した販売先と個性のある産物がなければ天気という気まぐれなもので長期の価格暴落(過剰生産)で廃棄する仕事なる。廃棄物は結構高く、赤字を加速する。漬物業で中国から生野菜を輸入し、日本国内で加工すると過剰になったときは違約金を中国に支払っても契約破棄してもコスト的には安くなる。日本の検疫費・通関費・輸送費・人件費・冷蔵保管費(売れていないので)さらに廃棄物処理費がかかる。この授業料は経験しないとわからない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真説・大根足

2019年10月24日 | タクワン

練馬区の郷土資料のところで、福井功氏の著者で”大根足”という言葉をみつけた。福井氏はダイコンの著書がある。

大根足 女性の足のことをいう。

昔、和服の下に長襦袢、腰巻をしていて、歩くたびに擦れて、産毛が無くなり、つるつるの肌となる。さらに和服だと足が隠され、白くなる。大根のように真っ白ですべすべした肌を練馬大根のようにすっきりした形が戦前の大根足の定義だった。ところが戦後和装を着なくなり、不細工で毛深い足を馬鹿にして大根足というようになった。

中国でも大根足のことを蘿蔔脚というようだ。

今は昔の練馬大根がほぼ絶滅し、イベント用で栽培されているだけで、八百屋の店頭では青首大根のすっきりし、無駄な根が付いていない大根を販売しているので大根足という言葉が戦前の評価のようになったのだろうか。練馬区の大根強調イベントの抵抗は少ないようだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の死亡日

2019年10月23日 | 福神漬

江戸時代は家督相続の関係で実際の死亡日と届出を出した日が異なること多い。さらに出生に関しても病弱に生まれた長子は出生を届けることを遅らしている例も多いという。このようなことから本当の年齢などはわからないので火付盗賊改であった長井五右衛門昌純の安政3年の死亡日を釣洋一氏はどこで調べたのだろうか。
手元に安政5年再販された東都番町大絵図がある。この番町という地域は平成の今でも住宅地としては高級であるが幕末のこの時期にも旗本の住まいとして人気があり、移動も激しく金鱗堂尾張屋清七版も一番改定が多いという。安政五年に再版された番町大絵図に二番町の所に筒井肥前守が住んでいて、隣には若林五郎三郎が住んでいる。この版の裏二番町には長井五右衛門という名前がある。安政5年に本当に生きていたのだろうか。この後の版には長井筑前守となっている地図を見た。
長井筑前守の子供である鶯亭金升は父母の結婚の経緯を書いているが安政の3年から6年の間のどの年だったのだろうか。番町大絵図を見てふと思った。南町奉行だった筒井肥前邸で隣の若林五郎三邸に一時偶然住んでいた後の講談師となった松林伯円の存在を感じる。

 高野長英惨殺の後処理問題で様々な史料をもう少し調べる必要があるかもしれない。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風で食文化が変わる例

2019年10月22日 | 宅老のグチ

三浦市農協のホ-ムペ-ジで昭和54年(1979)の10月29日に三浦地域を台風が襲った。この10月の台風20号は今でも記録に残る海上における中心気圧が低い台風(870hぱ)だった。 10月も終わりなので大根のまき直しもできず。関東の市場は被害の無かった地域の青首大根がが占拠するようになった。この当時の練馬大根系統の三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになりました。

 この青首大根は練馬系の大根と違って青首部分が畑の上に出ていて高齢農家の収穫作業が簡単になった。多くの農家が青首大根になったため漬物業者がこの対応に追われた。一部は海外・特に中国山東半島へ行った。国内は浅漬けの大根の漬物となった。

 青首大根はスリムで昔の練馬大根を知らない人たちが大根足を嫌わないようになった。白く細い大根は嫌悪感が消えた。今の練馬の人達は大根で町おこしをするようになった。

12月25日に毎年三浦農協から東京市場に昔の練馬大根系統の三浦ダイコンが毎年入荷する。やはり正月の伝統食品用の大根は練馬系だろう。

こんどの台風で高齢農家の再建意欲が消えたようだ。もしかすると農業用地所有と耕作作業の分化が広範囲に堂々と先祖に気兼ねなく始まるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

べったら市の20日

2019年10月21日 | 宅老のグチ

19日・20日は日本橋のべったら市だが10月の雨の特異日となっていて、やはり19日は朝雨だった。土日がべったら市なので小伝馬町界隈のサラリーマンの路上飲み会風景は少ないと思われる。一応新聞報道では500の出店があり、そのうち30軒ほどがべったらを商いするという。明治期は500軒のべったら屋とそのほか1500程度は他の出店があったようだ。最近マンションが増え、住民が増えたので土日でもそこそこにぎわうだろう。

 そのあと新宿区歴史博物館へ行く。測量関係のイベントを催していた。常設展示で享和のころに漬物屋が文献としてあった。江戸期の文献で東京地区の漬物業は初めて見た。同業者組合もなく単独のようだ。自給の時代にどのような商いをしていたのだろうか。もう少し文献を探せば江戸時代の江戸で漬物業が成立していたかもしれない。またえびす講もあったようで10月だった。ところが大晦日が12月31日になっていた。江戸時代は旧暦でひと月は30日だった。つまり12月31日は無いこととなる。新暦になったのが明治の初めである。

 江戸時代は晦日には月は出ていなかった。満月の十五夜である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水没する車にライフジャケットは役に立つか

2019年10月20日 | 宅老のグチ

こんどの19号台風で100名近くの死者・行方不明者は出てしまった。40%は土砂等のよる死者と言い、多くは高齢者であった。30%は大荒れの天気で一家揃って車で避難中、水没して死去した家族が目立った。

 車は30センチの水で動かなくなる。大雨で避難するので車で逃げることは普通考える。そこで車にガラスを破る道具とライフジャケット・特に飛行機で搭載されているようなものを用意したら役に立つと思うが誰もこのようなことを考えていないようだ。何か欠点があるのだろうか。釣り道具屋さんで聞いてみようと思う。

 千曲川の堤防は1000年に一回ある雨量で計算しているという。地球温暖化でまた台風が二つ発生した。もしかすると10年に一度の雨量となったのだろうか。

この件で誰か知っている人があるのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平均年齢・健康寿命で政府のごまかし

2019年10月19日 | 宅老のグチ

大方70を過ぎれば人生の最後を意識するようになる。仕事で経験でごまかしても新しい道具の操作方法の言語でつまづく。機械の操作が簡易化されるまで時間がかかるので慣れた時はすでに若い人たちは次の機械に移転している。売らんがための更新も付き合う必要性もなく、ただ多くなったメニュ-にとまどう。

70過ぎればシステム更新でもまだ機械が壊れていないので使って高額な通信使用料を気にしないで使っている。若い人は新しいので現在の使用料と同じなら平気で機種交換する。携帯販売会社は新規の機械が売れなければ数字が落ちる。毎年販売されるスマホは新規の機能のアイデアのインパクトが薄れ、あとは軽さと電池の持ちの良さと画像処理能力の向上しか残っていない気がする。

 スマホのソフトの向上で旅行の会話も世界的に簡易となった。このままで行くと言語による意思疎通の困難がだいぶ緩和される気がする。平均年齢は日本女性が二番であるが一番の香港女性が今何を思っているのだろうか。香港の混乱がどのような健康に関係するのだろうか。先のない人は平気で政治情勢に反応する。ロシアの共産主義の崩壊で一番苦労したのは働くことで対処できない年金老人だった。2000万円足りないというが健康であって世の中に役に立つ仕事があればなんとかなる気がする。90過ぎても農業をしている人は多い。この人たちは2000万円をどう思っているのだろうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井研堂の誤り

2019年10月18日 | 福神漬

缶詰の始まり 石井研堂の誤り
明治7年、山田箕之助は工部大学校雇い米人教師の缶詰法によって、紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたる事こそ、日本人の手にて缶詰をつくった起源である。同年三井物産社より、下谷池之端某店に託し、紋別漬200個をハワイ及び米国に輸出した。これは缶詰輸出の始めとなる。

石井研堂はどうして誤ったのだろうか。三井物産は明治9年に創業した。明治7年では先収会社であった。
 鎧橋で三井物産発足時、社長が益田孝で社員が数名で15歳の雑用係りの小僧が一人いた。この小僧は横浜富貴楼のお倉の亭主の兄弟であった。後の清元延寿太夫 (5代目)である。
漬物の歴史を調べているのにどうして三井物産の歴史を調べなければと思うようになった。総合商社の歴史は三井物産のほうが三菱商事より古そうである。どちらも福神漬の歴史に出て来るとは誰も予想してはいないだろう。これが石井研堂の誤りで、缶詰の始まりが缶詰協会から無視されている原因である。
石井研堂の缶詰に関して蛇足の文が多く、何を後世に伝えようとしたいたのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮城県丸森町の水害2

2019年10月16日 | 宅老のグチ

7月に水害の丸森町を訪問した時、図書館の主事のような人と丸森町大張地区の話をした。大張は情報途絶でいまだ安否が確認できないようで今後が不安である。福島県から宮城県に入ると丸森町となる。ここは川が狭くなっていて急流となる。昔仙台藩が福島との国境警備として武士を置いていたようだ。福島事件の佐藤清はこの地域の士族で、仙台藩の養賢堂で学んで、維新後東京に出て二本松の服部撫松経営の公益問答新聞に記者となったようだ。この経歴の確認をするため丸森町を訪問したのだが地元では消えた人だった。水害情報途絶の大張村の初代の村長で伊具地域の養蚕の学校をつくったようだ。丸森町はシルクとミルクで戦前は知られていたという。東北本線が丸森町を通過しなかった理由は養蚕のための桑畑に汽車の煙の害があるという理由だった。江戸時代から明治の中期まで阿武隈川水運で栄えた町は鉄道からの恩恵がなく、静かな町となった。

 戦後慌てて鉄道を引いた。これは今残っている阿武隈急行である。この鉄道の連結切り離しを女性車掌がてきぱきとしていたのを見とれていた。何かパフォ-マンスをすれば、話題となるだろう。偶然丸森町で漬物屋を見つけた。頑張ってほしい。梅干しが地元の梅のようだった。

 丸森町の唯一の観光資産とも言うべき齋理屋敷にも土砂にも入り口付近まで土砂が入っていたが軽微の損害との事。ここには幕末史料としてある木製の大砲の現物があった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮城県丸森町の水害

2019年10月15日 | 宅老のグチ

今年の7月に福島事件の史料のために、宮城県丸森町を訪問した。阿武隈急行丸森駅で自転車を借り、町内を巡った。水害の報道のある丸森町役場は盛り土の上に建っていた。役場の隣に小さな図書館があって、目的としていた佐藤清は町民でも知らない人だった。明治末に宮城県選出の国会議員として経歴がある。この佐藤清が報道によって孤立している丸森町大張地区の出身ということで、次の資料調査で訪問する予定だった。

 漬物歴史を調べていると全国に気になるところが多すぎて心が痛むが何ができるか出来ないかに迷う。返礼なしのふるさと納税しか思いつかない。次は土浦に行く予定だが何か変なことが起きないと良いのだが。

 だんだん報道で解かってきたがこんどの台風が雨台風で丸森町は500ミリ以上降って、阿武隈川に排水できなかったようだ。従って堤防が決壊していないのでポンプ稼働で排水するしかなかったようだ。地方の小都市では予算が付きにくい。これで住みたい町がまた消滅するのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする