年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場が混雑ゆえに

2009年11月30日 | 築地市場にて
築地市場が混雑ゆえに
国の中央労働基準監督署から築地市場の中の労働災害が非常に多いと指摘があって、労災の講習会が開かれた。休日には築地市場の観光客がかなり多いと報道されているので、危険性がますます増えてきた。老朽化した建物の崩落個所は不自然な修復によって今でもわかる。観光客が事故に遭わなければ多分報道はないだろう。
 特にフォークリフトの事故が多く、重傷となるので目立つこととなる。入り乱れて動いているフォークリフトやターレーは慣れないと動きの予想がつかなく事故となる。移転問題での騒ぎで増えているのか?ギネスブックに載って増えたのか?不景気で都内を歩く人が増えているのか?とにかく場内に歩いている人は不審の行動が目立つ。異物を市場内に廃棄しなければよいのだが。食の衛生管理を保つには良くない状況となってきた。
 しかし見るのは今のうちだろう。日々変化しているのだから。
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鈴木藤三郎の見直し

2009年11月29日 | 築地市場にて
鈴木藤三郎の見直し
静岡県といっても愛知県にちかい周知郡森町は蔵の町である。そこで町おこしのイベントでようやく鈴木藤三郎が取り上げられた。
 成功だけで終わる人生は少ない。明治の発明王だった鈴木藤三郎は明治42年の日本醤油醸造の事件で世間から非難され、明治35年からあった富士山麓の鈴木農場で余生を送った。
 日本醤油醸造の破綻によって生じた債務の殆どを自己の財産と発明した特許と周囲の人達の応援で弁済したという。日本では一度人生で躓くと周囲の目は厳しい。それを支えるのは真実を伝える子孫や出身地の人達の役目だとおもう。今年の夏に森町の図書館には周智農林学校で一時教師だった村松梢風のことはあるが郷土の偉人である鈴木藤三郎はまとめて展示してなかった。あまり調べる人がいないのだろうか。
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福神漬物語 23

2009年11月28日 | 福神漬
大阪朝日新聞がなぜスクープ出来たのか?大阪朝日新聞の創業時、醤油と関係していたので情報がもたらされたと思われる。他の大阪の新聞記事は後追い記事も精彩がない。そして東京の記事も東京朝日新聞を除くと、広告主に遠慮していたのかはっきりとした事情が分かるまで記事の内容が弱い。これは今のマスコミと同じことが明治の時代に行われた。

 梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
『旧式醸造の醤油業者が日本醤油醸造の技術者と労働者を買収して、少量サッカリンを添加していたのを、秘密裏に全部の桶に多量いれて、警察に密告し、(大阪朝日)新聞に連絡し、また監督官庁にも連絡をいれた。』と記している。

鈴木藤三郎伝によるとサッカリン購入のいきさつはサッカリンの輸入関税が大幅に上がった時、ある人が大量に見込み輸入し処分に困り、日本醤油醸造が引き受けたという。味の素の創業者鈴木三郎助がグルタミン酸の無害の証明を取っていたのと大きな差がでた。関東はサッカリンの取締情報が良く知れていたと思われる。日本醤油醸造でも東京の製品にはサッカリンが入っていなかった。兵庫県尼崎工場の製品のみサッカリンが使用されていた。
鈴木三郎翁伝より (味の素創業者)
元来池田博士の発明した「味精(グルタミン酸塩を主要成分とする調味料)」は、最初はしょう油の加味料に供する目的で出発したものであった。
明治41年7月25日
味の素 特許を得る。
 ちょうどその頃、精糖業界において名をなした鈴木藤三郎が日本醤油醸造株式会社を創立し、醤油の新醸造に60日醸造という特許を得て東京小名木川に工場を作り経営した。実験室で成功した醸造法は実際に醸造するとうまくいかなかった。少しずつ改良していった時“味精”が現れたのである。鈴木藤三郎はすでに池田博士と鈴木三郎の共有となっていたグルタミンの特許の高額で譲渡を申し込んだが断わられる。鈴木藤三郎氏の機械式醤油醸造は技術的欠陥があって、旧来の製法の醤油と比べて旨みが少なく味の素で味を付することを考えたのだろう。
明治42年2月25日
 商品としての味の素の製品出荷始まる。
日本醤油醸造には優先的に出荷することになったが翌三月より製品の注文が少なくなり、返品されるようになり、一般消費者に販売する方向となった。

 その後、日本醤油の尼崎工場の製品からサッカリン混入の醤油が発見された。もし池田博士の発明した味精が日本醤油の加味料として報道されていたら、どんな結果となっただろうか。運良く味精は報道されず未使用品が返品され、醤油の加味料と使用する用途から一般調味料として販売に売り出され、明治42年4月22日に商品名「味の素」となリ、5月26日に東京朝日新聞の広告に調味料として広告された。明治41年11月17日 「美人マーク」商標登録 美人のエプロンに味の素のロゴ

明治42年12月24日 「味の素」商標が登録となる。
出願したのは明治42年11月8日 味を耕す 
味の素80年史より
不正醤油事件が報道されたのは明治42年11月3日
明治42年12月25日東京日日新聞
大阪の松下商店との代理店契約広告 関西から売れ始める。

なお味の素には当時醤油の加味料として『味醤』というものあって、これが福神漬の表示に使われている「アミノ酸液」の始まりかもしれない。
不正醤油事件があった時はまだ「味の素」は商標登録されておらず、運よく難を免れた。
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福神漬物語 22

2009年11月27日 | 福神漬
明治42年12月19日東京朝日新聞
醤油早醸造について
日本醤油醸造会社が醤油早造りの方法を考案し、法律で禁止していたサッカリン又はホルマリンを混入し大失敗を招いたがこれに関して世間で醤油王として知られる千葉県葛飾郡野田町茂木啓三郎氏(キッコーマン)の談話によれば同会社の今回のことは醤油業界の発展から見るとき、むしろ大いに悲しむべきことだと言う。昔から醤油の早造りは業界の長年の課題にてこのため幾多の研究に失敗し、ついには再起することが出来なかった例が多い。然れどもなお研究を重ねる余地があることは勿論、これらは国家経済上より公衆衛生上より、また業界進歩の上より常にこの研究を怠らず、而して私は機械よりも製麹(せいきく)及びこれが発酵熟成の原理に向かって研究を進め従来熟成期間3年の気候を一年間に短縮し、一年の温度を一日に短縮し種々の試験をした結果一日の間に春(午前3時より同10時まで)夏(午前11時より午後2時半まで)秋(午後2時半より同8時半まで)冬(午後8時半より翌午前3時まで)の四期あるのを発見しこの間において製麹上におけるバイキンの発生及びその活動作用・もろみの熟成作用を研究してバイキンは一昼夜にて発生し、発酵は三ヵ月間にて良く、空気乾燥及び融和作用を完成し得ることを発見した。而して、その風味は主として製麹は原料及びその限度の如何により熟成作用によって五味(酸・甘・渋・辛・苦)を備えて初めて人口に美味を生じさせるものを発見し、これを従来のゆっくりと熟成してその五味の自然作用を完全するものなるを知れリ。由来世に五穀と称する大豆・米・小麦・大麦・粟の五種はよく上記の五味を備えて醸造に適しているものであるが稗のごときは甘にあらずば腐・小豆・インゲン・エンドウのごときもまた甘と腐との二つを出でず全く五味を欠きて醸造に適せざる物なり。而して麹を養うにはその温度・人体の温度を平温にしてバイキンまた人体より以上の温度を要求せずしてよく発生活動をし、炭酸ガスと空気の配分によりよりよく五味を備え熟成の後は圧搾によって苦味を去り火入れによって渋を去ることによって始めて人の口に上るを得るものなれば予はこの方法によって早造りを試み良好なる成績を収めつつあれど尚より以上有益なる発明の出でんことを待ち望むものなり云々。

野田の醤油史 市山盛雄
 鈴木藤三郎によって作られた醤油は失敗したが旧来の醤油醸造業を近代化するきっかけとなった。

彗星のように急に現れて皆の話題をさらい、直ぐに消えた日本醤油醸造株式会社の事件は今では知る人も少なく醤油業界史にもほんの2~3行の記載となっているが、その影響は現在のJAS規格の『しょうゆ』と『福神漬』に残っている。
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熱血市場と公設市場

2009年11月26日 | 築地市場にて
『まいどおおきに』から思う
暮らしの手帳 77号昭和39年12月
花森安治
大阪の公設市場が元気だったころの話が語られている。今の大阪の公設市場は消費者の購買行動が変わって、元気がないようである。
 大正時代、不景気にもかかわらず物価が急騰し、米騒動ということがあった。時の政府は危機感を感じ、食品を安定供給するために公設市場を行政の力で開設した。これは大阪が最初で東京も遅れて発足したが東京では大阪ほど公設市場が増えなかった。同様に中央卸売市場も考えられたが東京は関東大震災のため、大阪・京都より遅れて中央卸売市場が開設された。
 『まいどおおきに』の文章から花森安治は大阪の消費者を礼賛していたが今の状況を見たらどのように感じるのだろうか。公設市場の中が閑散としていて活気がない。
 最近の開店した激安スーパーのドンキの新店舗に熱血市場というのがある。熱血商店街は、食料品店の独立・開業を目指す起業家に、破格の条件で支援するドンキの新規事業という。東京・上野のアメ横や築地場外市場のような活気にあふれた「未来型商店街」を創設するという趣旨らしい。食の世界ではある程度成功すると保守的になるので店舗の新鮮さをどのように維持してゆくか注目すべきだろう。
 個人商店は活気があっても無くても問題がある。活気のない店舗は周囲を寂しくさせる。どのように店舗の新陳代謝するか気になるところである。地方にはそれぞれ食文化があり全国一律とはいかないだろう。
 
デフレの時代、中央卸売市場は事業仕分けしたら、いらない事業かもしれない。
 
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小林一三と福神漬 ①

2009年11月25日 | 福神漬
暮らしの手帳 77号昭和39年12月
花森安治

東京オリンピックの終わった年の暮れに発行した『暮らしの手帳』に福神漬の記事があった。
 検索という便利な手段があるのでだいたい誰がいつ頃はわかるが福神漬とカレーライスの由来に小林一三と福神漬が出てきて、さらに昭和4年阪急百貨店開業時の食堂の話が出てきた。この話がどんな記憶をもたらしたか。実際に『一銭五厘の旗』という花森安治の本を借り出して読んだ。
 『まいどおおきに』という文章は東京オリンピック終了後まもなく書いた約20ページの文章だった。その内容は大阪の消費者と商人のことだった。大阪が元気であった頃の話である。
 阪急百貨店が開業した直後、昭和5年・6年は浜口内閣の緊縮政策のため日本は不景気のどん底となっていった。当時の阪急百貨店のライスは5銭で傍らに福神漬が付いていた。
空腹を満たすため、当時の多くの客が百貨店の食堂でライスだけ注文していて売り上げが上がらなかった。そこで百貨店の担当者が『ライスだけの注文はご遠慮下さいませ』という張り紙をだした。『好き好んでライスだけ注文していない』という顧客の声を聞いていた小林一三は『阪急百貨店はライスだけの客を喜んで歓迎いたします』という新聞広告を出した。
 このことが阪急百貨店のファンを増やしたという。どうもカレーが付いていなかったようだ。
 この話が逸話としてつたわる理由は色々あるが福神漬伝説として面白い。
小林一三を実業家としての指導したのは岩下清周である。小林のアイデアの素には一部岩下の影響がある。小林一三に花柳遊びを教えたのが岩下という。この結果が阪急百貨店のライスに沢庵がついたのでなく福神漬がついたと思う。沢庵より高級感があったためである。
 今では信じられないだろうが当時は沢庵等の漬物は家庭で漬けていたもので食べ放題となっていても逸話の記録に残らないだろう。福神漬は料亭のルートで普及した経緯があるので昭和の初めには高級感があった。何しろ醤油と砂糖を使用していたからである。

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松方デフレの頃

2009年11月24日 | 福神漬
松方デフレの頃
福神漬の命名が戯作者梅亭金鵞に依頼された時、松方デフレといわれた不景気の時代であった。このデフレの研究は主に財政の面から研究されているが福神漬の研究をしてゆくと三菱汽船と共同汽船の船賃の値下げ競争が米の値段を下げたと思われる。
 先日團團珍聞を読んでいたところ、明治13年一反地価113・84銭で売買価格が360円であった。明治17年一反地価113・84銭売買価格80円となって農地価格が暴落している。このようなことが農民層を地盤とする自由党を過激化させるようになった。
 今のように交通手段が多様な時代と違って明治10年代はようやく部分的に鉄道が敷かれただけで大量輸送は船に頼るしかなかった。この時三菱汽船(郵便汽船三菱会社)と共同汽船(共同運輸会社)の運賃の値下げ競争が激しかった。この結果米の運賃も下がり、都市の米の値段も下がり、農家から買い上げる価格も下がった。江戸時代日本の航路を整備した河村瑞賢と違って農村部の米の買い上げ価格が上がったということではなかった。
 平成のデフレも野菜等が今までは輸送・通関等の改善で中国から直ぐに入ってくるので、冬季積雪で畑に入れず、長期間野菜が高騰していたが今ではほんの数日価格が上がるだけで、日本農家が不利益を受けるだけで終わってしまう。
平成デフレ21はジーンズの値下げ競争が多分歴史に残るだろう。そして日本国内で繊維産業は静かに消えることとなる。既に和装の業界は平成の初めの頃から衰退し、今では数年前の漬物業界の売り上げと同じくらいとなっているらしい。
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明治キリスト教の流域 太田愛人著から

2009年11月23日 | 福神漬
明治キリスト教の流域 太田愛人著から
静岡バンドと幕臣たち
明治維新に敗者となった幕臣は新時代に生きる方法は厳しかった。このような境遇を打破するため、多くの旧幕臣・若者が洋学に向かった。また同時期にキリスト教宣教師が日本にやってきた。静岡や築地の英語学校の教師は宣教師だった。武力で政権をとった薩長に対し、幕臣たちは文をとって生きることを選んだ。また東京では明治初期の新聞はその読者層が江戸市民であったためか発行当初から反明治新政権の論調であった。
 宣教師のもたらした洋学は日本に学問だけでなく生活改善もあった。具体的に言うと『禁酒・禁煙・廃娼(売春)・畜妾禁止(一夫一妻制)・女子教育・貧民救済』等があった。
 西南戦争が明治新政府の勝利となると、新政府に不満を持つ士族は自由民権運動に向かっていった。廃娼運動も妻を持てぬ貧民階級の不満が底流にあって新聞紙上で盛んとなった。
 自由民権運動が盛んになり始め、弾圧によってしぼんでゆく時代に福神漬が生まれた。丁度松方デフレという時代であったため販売には苦労した。福神漬がその販路拡大に利用したのが芸者・料理屋のルートのため、文献に残ることなく広まっていった。
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福神漬物語 21

2009年11月22日 | 福神漬
明治42年11月27日大阪朝日新聞
○ 日本醤油の払込説
日本醤油醸造株式会社はサッカリン問題に関し、極力(もみけし)運動をとったせいかどうかサッカリンの混入は分量次第にて有害ならずとの珍決定を受けるに至って、一度危機に迫った同社はここに至ってようやくその命脈を取り留めた観がある。一般の消費者の頭に染み込んだ同社製品の不信用は挽回することは到底困難なるを以って、一時的に失敗を取り繕っても損の上塗りをするだけでこの際はむしろ解散するしかないという株主の一部の有力な説としてとなっている。これと共に重役はじめ大株主は継続説を強固に主張すると共に払い込み説を主張している。その理由として『今解散すれば最大の資本を占めている機械代及び鈴木前社長に支払った特許代は無価値となり、土地建物は競売の対象となってわずかばかりのものになるに過ぎず株主は殆ど得るところはない。重役連が継続説を強固に主張するのは大阪某銀行より借用金百二十万円に対し十余名の重役・大株主の連帯保証となっているためで、しかも連帯保証している人で実際弁済能力のない人があるからこの借金を背負わないようにする為でないか。』要するに解散の声を聞いて必然的にこうむる損失を避けようとする方策で同社株主はもっとも注意を要す時である。

日本醤油の払込説とはまだ資本金にあてる株式代金が全額入っていない。会社の継続の様子を見せて残りの株式代金を払い込みさせようとしていたのか。
明治42年12月10日東京朝日新聞
日本醤油醸造はいよいよ廃棄
大阪兵庫の両警察部長は日本醤油の処分に付き内務省の召還を受け早速東上したるが大阪警察部長池上四郎氏は9日帰東せりにつき内務省の方針如何を問い質したるに甘精(サッカリン)取締規則も飲食取締規則もその適用はすべて知事の権限内にあるとなれば今更内務省が日本醤油の処分についてあれこれ干渉すべきでない、もっとも学術上よりサッカリンを薄める工夫を採用するならばそのまま販売してもよろしい説もある様なるも要するに知事は会社に除外方法を講ずる否かを質問し、その返答を待って規則の命ずるところに従い断固たる処分を施せば良い。しかしながらサッカリンを醤油中より除かんとすればその費用のほうが製造費よりかえって高くつくことになれば営利会社はさような策を採るとも思われず、結局廃棄処分を命ずるに他なし云々と語った。而して大阪府知事は現在差し押さえの600余樽を廃棄させる時期はまだ未定である。

当時でもサッカリンが有害であるという根拠が弱く、大量の醤油を廃棄するのは国にとってはモッタイナイという論調もあった。12月に入ると事件の記事は減り、食品の安全安心とは何かとなってくる。

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暮れらしくなって

2009年11月21日 | 築地市場にて
暮れらしくなって
ようやく築地市場も暮れらしくなって、混雑してきた。しかし実際は青果物の相場が安価のため、引き取りなされず、滞貨している青果物が駐車場を占領していて車を置くところが不足しているだけである。
 今年は不景気のため高価な商材が売れない。先日築地市場東京都講堂にて外国人労働者の雇用に関する講演会があった。数年前は広い講堂いっぱいの人達であふれていたが世間の不景気と築地市場の需要の減少で、都に届けている外国人労働者は100名以下となっているという。これは単純労働者だけでなく研修のための人達だろう。今は求人広告も少なく、場内で人手の融通がきいていて場外に求人を出す必要が少ない。恐るべき不景気。築地市場内をうろうろしている外国人は殆ど観光客となってしまった。レトロな風景は観光客を満足させる。
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高島嘉右衛門から

2009年11月20日 | 福神漬
横浜市営地下鉄の『みなとみらい線』に新高島駅として名が残る人。高島易断の創始者。
高島嘉右衛門(1832-1914)は、「ハマの恩人」といわれ、天保3年(1832)、今の東京都中央区銀座に材木商の子として生まれる。
後に開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、数多くの功績を残した人物。これらの事業の中でも代表的なものが、その後の横浜の発展に大きく貢献したといえる鉄道用地の埋立事業。彼の埋め立てた土地付近の地名が旧東横線高島駅となっていた。高島嘉右衛門の姉が大垣戸田藩に行儀見習いとして勤め藩主の子を宿した。この子が戸田欽堂で明治13年日本に最初の政治小説を書いたといわれる。
 明治5年新橋横浜間の鉄道開設に活躍した関係から、まだ史料が見つかっていないがペリー来航時,浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄の3男、長井昌言が工部省鉄道寮に勤めていたという。残念ながら長井昌言は明治6年に亡くなっていたので文献等がまだ見つからないが事実とすれば旧幕臣だった失業中の昌言を鉄道の仕事を世話したのは高島嘉右衛門の姉の口利きと高島の財力と思われる。

 福島事件の被告花香恭次郎の錦絵で原胤昭が投獄され、原と戸田欽堂が銀座でキリスト教関係の本屋を出し、店舗を従業員に譲り、原自身は神田須田町で店を開いていた。

浦賀奉行 戸田伊豆守氏栄 ペリー来航時大垣戸田藩の支援を受ける。
戸田欽堂 大垣戸田藩の側室の子。のちに藩主となる。明治23年死去
原胤昭  江戸町奉行所与力の子として生まれ、維新後築地で英語を学びキリスト教徒なる。福島事件の錦絵を神田須田町で配布し投獄され、後の人生を教誨の仕事となった。

花香恭次郎 戸田伊豆守氏栄の側室の子。氏栄の亡くなる2年前に生まれ、3男 の長井昌言が養育し、縁のある花香恭法の家に養子となった。蘭学者高野長英を匿ったといわれる家である。自由民権運動家。明治23年死去。

長井昌言  戸田伊豆守氏栄の3男。長井家に養子となる。明治6年死去。

鶯亭金升  長井昌言の長男。上野戦争を避け、千葉県船橋市に生まれる。明治7年頃父昌言死去後下谷根岸に住み勉学に励む。服部波山の学校で團團珍聞を知り、投書するようになった。

團團珍聞 神田雉子町にあった風刺雑誌、明治10年代は発行部数が多い人気雑誌であった。

梅亭金鵞 幕臣の子として生まれ、江戸時代は戯作者・春本作家。明治に入って風刺文を書いていたのを広島の野村文夫に見出され團團珍聞の主筆となる。福神漬の命名者。明治26年に死去するが24年ころから病床についいていた。

小林清親 最後の錦絵師といわれる。鶯亭金升の結婚の仲人。團團珍聞の風刺画を書いていた。福島事件の錦絵は小林の絵・原胤昭の文である。

以上の経過から各関係者の関係が分断され今に至っている。
旧幕臣が明治以後キリスト教徒となり、自由民権運動に参加したり、普通選挙、婦人解放運動など活躍したのが福神漬の歴史に絡まってくるのはこの様な関係が隠されていたかもしれない。
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戸田欽堂とは

2009年11月19日 | 福神漬
戸田欽堂とは
あまり知られていない人。幕末大垣戸田藩主の側室の子として生まれた。母は高島嘉右衛門の姉である。横浜で財をなした高島の資金で明治維新後の戸田欽堂は割と裕福な生活を送っていたようである。
 築地で原胤昭と知り合い、銀座でキリスト教関係の書籍を販売する店を開いた。時代はまだキリスト教を解禁して間もない時だったが殆ど採算が取れていなかったので戸田欽堂の資金が必要だったと思われる。
 原胤昭は福島事件の錦絵で投獄された(明治16年秋)。原は團團珍聞と知り合いで当然戸田欽堂も花香恭次郎がどの様な人だか知っていたと思われる。花香はペリー来航時久里浜でアメリカ大統領の親書を受け取った日本の代表者戸田伊豆守氏栄の5男であった。この久里浜に大垣戸田藩は小原鉄心が藩士を率いて警備を行った。鳥羽伏見の戦い後大垣藩は小原鉄心の働きで朝廷側についた。このような話を戸田欽堂が知っていたならば鶯亭金升を助けてもおかしくない。鶯亭金升は戸田伊豆守氏栄の3男の子供で当時まだ16歳であった。明治の売れていた雑誌團團珍聞に鶯亭金升が入社出来たのは原や戸田欽堂の話を聞いていた梅亭金鵞が彼の投書に気がつき、下谷根岸の里で母子家庭だった鶯亭を誘ったのではないのだろうか。彼は入社まもなく(明治19年)社主野村文夫と伊勢関西旅行に向った。福神漬の引き札を梅亭が書いていたのを目撃したのは従って明治16年秋から18年中の間と思われる。

銀座開花おもかげ草紙:松井今朝子著は戸田の若殿として戸田欽堂、原胤昭が出てきます。
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静岡バンドから

2009年11月18日 | 福神漬
明治維新後、多くの幕府方の人達は謹慎していた徳川慶喜に従って静岡に行った。その中に山中共古という人がいる。静岡で英語を教え、キリスト教信者となり、牧師となった人だ。彼が山梨から移り東京下谷で布教していたことがあった。日本における民俗学の先駆者といわれる山中共古の本『共古随筆』にある刃豆(なた豆)にある遊女の部分は下谷教会で吉原に布教していたときに知ったと思われる。
『江戸時代吉原にて遊女を買う時は、まず刃豆を食べさせて、しかるのちに価を定めると。それは癇癪(かんしゃく)性の有る者は直ちに病発するという。』
 最近健康食品の一種として『なた豆茶』がありますが植物としてなた豆の毒性があり、福神漬だけにしたほうが良いようです。
 山中の随筆からどうも一種の迷信であったとしても(おまじない的に)なた豆の毒性を利用して避妊薬もどきとして吉原の遊女たちが利用していたのではないのだろうか。遊女にとって妊娠は最大に避けるべきことであったためである。
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聖心女子大が国産紅茶を通信販売

2009年11月17日 | 福神漬
福神漬の歴史を追究してゆくうちに変なものゆき当たった。広尾の聖心女子大が国産の紅茶を通信販売している。
 日本製糖業の創始者ともいわれる明治の発明王・鈴木藤三郎が砂糖業から醤油醸造業に転身に失敗し、(静岡県裾野市桃園)農園で余生を送った。その農園を銀行家とも企業家ともいわれる岩下清周が引き継ぎ、小学校を作った。
 鈴木藤三郎は彼の出身地である静岡県周智郡森町に周智農林学校を作っている。この学校は今の静岡県立周智高等学校である。また岩下の小学校は今では不二聖心中学校・高等学校となっている。戦後岩下家から農園と学校が聖心女子大に寄付されて富士山麓の農園では国産の紅茶栽培がなされているという。この不二農園の国産紅茶が聖心女子大の紅茶通信販売となっている。つまり鈴木藤三郎が日本醤油醸造の失敗がなければこの紅茶はなかったかもしれない。鈴木藤三郎の出身地は二宮尊徳の報徳思想が盛んなところで、彼の失敗の原因でもある日本醤油醸造の急拡大(資本金300万円を1000万円にしたこと)で品質と販売網が伴わず販売不振となったためである。鈴木は債権者に全財産を提供し、富士山麓に農園を開き余生を送った。
 また岩下清周も北浜事件後投獄され、恩赦で出獄後鈴木の荒れていた農園を引き継いだという。報徳思想とカトリックの奇妙な関係が紅茶に入っているのだろうか。また不二農園のホームページに『明治の初期、禄を離れた江戸幕府旗本7名が官有地払い下げを受け、農場を開墾し茶を捲いたことから始まる。』とあるが7名の幕臣は誰なのだろうか。もし上野戦争に参加していたなら不思議な縁を感じる。
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いも蔓

2009年11月16日 | 福神漬
いも蔓
今から百年以上前の食品事件を探って文献を読んでいるうちに神山復生病院のところに来た。ここは日本で始めてのハンセン病患者を収容した病院で、岩下清周の長男が六代目院長となった病院である。戦後でもごく最近まで行政による差別が続いていたことが記録をよむと良く理解できる。まだ高齢の患者さんが若干入院しているとの事。福神漬の調査の最後はここに行くのだろうか。
 岩下清周は御殿場で何をしようとしていたのだろうか。ここまで書いてふと思い出したのだが日本醤油醸造サッカリン混入事件の後、鈴木藤三郎は今の静岡県裾野市桃園付近に農場を開いた、不二農場という。鈴木藤三郎氏は大正2年9月4日死去した。彼の郷里である静岡県周智郡森町で葬儀が行われた。この葬儀に岩下清周は参加している。そして北浜事件が大正4年に起きる。岩下が有罪となり、恩赦による出獄後御殿場に農場を開き、小学校を作った。この小学校が今の不二聖心女子学院中学校・高等学校となる。鈴木藤三郎の農場といくらも離れていない岩下の農場である。何か関係があったのだろうか。
 もう少し調べていたら、裾野市の農場は今はどうも不二聖心女子学院中学校・高等学校の農場らしい。二宮尊徳の報徳思想とカトリックの奇妙な関係に築地英学塾(立教大学の前身)と福神漬の導きだろうか。

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