年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2021年の終わりに

2021年12月31日 | 宅老のグチ
今年の初めにコロナで東京オリンピック2020の開催不安視していて、多くの反対者を押し切って、というより断念の決断が出来なうちに、コロナの感染者数が多くなったり少なくなったりして、それがワクチン接種者の促進と急拡大があり、高齢者から始まった接種が7月後半から明らかに高齢者のリスクが減っていたが、情報の収集遅れが、オリンピック開催終了時頃が今年のピ-クとなったようだ。その後理由不明で感染者が減り、新規のオミクロン株での感染が年末の人出の急増で増えつつある。
 2022年は正月明けにコロナ感染拡大で、中旬から、重症者は少ない気がする。ただTV報道は数字をどう表現するのだろうか。2022年から、戦後に生まれた団塊世代が後期高齢者となる。年末の厚生労働省の発表では平均健康寿命が男性は73歳程度で、75歳になると、何らかの介護が必要となる年代となった。この問題はある意味で世界の先端を行っているのに、最近あった出来事で、日本社会は人生100年でなく、人生80年の仕組みで動いていて、ここを打破する金融機関は少ないようだ。新規の高齢者の行動は子供がいないと難しいようだ。何か過去32年の長期の株価低迷で発想法が保守的となっている気がする。それにはまだ過去の法制度の遺物が邪魔をしていて、無駄な努力をしているようだ。このあたりの独身または子供のいない家庭は疎外される。いても同じ問題が生じそうだ。
 農業振興でもやる気のある人が生まれが農家でないと農地取得が難しく、一方では高齢化で優良農地が放置されている。このような農地を行政と地域が取得し、その法人内で耕作者を募集し、経営軌道に乗ったら、分譲する制度があっても良い。結構築地で働いているとまだまだ農水産業には隙間があって、今までの二宮尊徳流の手間暇かけることなく、産業とすることがあると思う。それにはITと変化が激しい食業界に地方から情報収集をする必要がある。
 このコロナ下で何とか生き残った人達の行動は研究に値する。70歳を過ぎると統計では男性が急速に減り、女性と逆転し、100歳になると男性は1割5分ほどになる。
 コロナで伝統の文化が減り、やっと親族との触れ合いが欧米のように抱き合うのが普通に見えるようになった。これも大リーグの大谷の効果かもしれない。
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村井弦斎『食道楽(下)』

2021年12月30日 | 宅老のグチ
村井弦斎『食道楽(下)』岩波文庫、2005年
明治期の漬物文献を探していた時、村井弦斎『食道楽』は漬物を漬けることは女性の基礎知識であるものとみなされていた。日本の人に馴染みのない洋食系の記述が多い。『食道楽』には本の後半にある、新規の料理リストに漬物の記述はなかった。
 岩波本の解説を書いた黒岩比佐子によると、報知新聞が経営危機になった時、家庭婦人欄を拡充し、主婦の読者を増やした。『食道楽』が新聞に連載が始まると読者の反響が大きく、半年の予定が1年となった。
 戦前は男尊女卑の時代で、漬物の知識は女性のたしなみとされ口伝と実地で覚えるものだった。漬物の乳酸発酵の仕組みが理解されていない時代だった気がする。
 今は漬物の知識は代々伝わることなく、大手食品製造業の宣伝で、小腸まで生きている乳酸菌は発酵した漬物を食べることで十分なのに宣伝で加工した発酵食品を選んでいるようだ。漬物業界も乳酸発酵の漬物の商品管理が難しく、開発をためらっていたようだ。その理由は流通管理が難しく、味が一定にならないことから来ている。
 今では腸に届く乳酸菌が日本人の健康を維持していると思われている。自家製のぬか漬は一番良いと思われるが今はつける人も少なくなった。ぬか漬男子まで生まれ、絶滅危惧の食品となったようだ。量販店のぬか漬は私から言わせれば調味料で下漬けされ、ぬかをまぶしただけの漬物で正確には『ぬかまぶ』と言いたい。これでは乳酸菌を本当にぬか漬けで腸まで届くのだろうか。
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些細な事件の深読み 明治秘史

2021年12月29日 | 宅老のグチ
不敬罪"天皇ごっこ"  -明治秘史- 石堂秀夫著 三一書房 1990年10月

 今正月用に読んでいるが、明治26年1月28日に山形県酒田市の料亭相馬屋で酒田の豪商たちが、新年会を催した。まだ明治26年は酒田も地域の基幹都市と、北前船から続いている日本海沿海海運で交易の中心・中継都市として繫栄していた。
 この相馬屋は事件後間も無く、焼失し元の姿で再建し今でも見ることが出来る。この消失によって当時の記録と記憶が薄れ、地元でも酒田市史に詳細な記録が残らず、やっと著者のしつこいというか執念で事件を掘り起こした様だ。
 今は江戸時代から酒田を代表する料亭「相馬屋」を酒田市の平田牧場が買い取り 修復し、新しい観光スポットとして平成12年3月に舞子茶屋相馬楼として開樓しました。 
 戊辰戦争の東北戦争で庄内藩は奥州列藩同盟に参加していて、恭順後でも心情は反薩長だったようで、『天皇ごっこ』を新年のイベントとして秘密裏に企画し、自由民権の報道する新聞記者によって、このイベントの内容が洩れ、酒田市の富裕層とか芸者等の人たち参加者が拘留されたようだ。取締りをする警察も日ごろ付き合っている有力者たちを天皇(酒田の有力者)に表敬訪問するという企画に非体制派の新聞に告発され、仕方なく取り調べたようだ。洒落と報道する保守系新聞と自由民権運動支援派の新聞との報道合戦もあったが地方紙ということで、その記録は残っていない。結局嫌疑不十分ということで釈放されたのだが今でも酒田市民の古老の思い出と残っているようだ。皇后には町の美人女将、女官は芸者で、当時の政府高官に酒田の富裕者が参加していた。
 今のイベントとして安倍晋三元首相の後援会が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、東京地検特捜部は2021年12月28日、公職選挙法(寄付の禁止)違反容疑などで不起訴となり、検察審査会から「不起訴不当」の議決を受けた。安倍元首相を再び不起訴処分とした。この捜査をした検察はいかに職務とは言え、人生の一部の時間を浪費した気分だろう。


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引っ越しを考えていて

2021年12月28日 | 宅老のグチ
母が特養に入ったため、長い介護支援生活が終わりつつある。特に今のようなコロナ下では近所であっても、面会は事前予約制でかつ時間制限・人数制限がある。これでは近所でも遠隔地でも変わらない。まだ倫理の面を無視して、老人牧場のような施設が表れても不思議ではない。
 さてこのような状態になったので、介護予備役となったのを機会として、住まいの移転を考え、今縮小生活のため断捨離を始めている。
 不動産や銀行の人とあって、高齢者の移転と犬の問題(芝犬9.2KG,体長50CM以下)が問題を複雑化している。
 借りる人の問題は孤独死の問題で、特に最近は事故物件問題があって、高齢者の一人住まいに貸す家主が少ないようだ。このことは一応報道では知っていたのだが実際行動に起こして、物件を探すとまだ東京都は家主に有利の状況と思う。さらに犬の問題は築年齢の古い物件は意外とペット禁止が多いようで、何か分譲時の規約が改正されずに今に至っている気がする。
 柴犬の闘病で訪問した医者の駐車場は高級車がほとんどで、そして大型犬は何か富の象徴のように感じた。11月末に千葉八街の犬と泊まれるホテルの宿泊約款を見ているとしつけの出来ていない犬はこのホテルには泊まれそうにない。
 今頃気が付いたので遅いが60歳を過ぎると犬等のペットは飼ってはいけないという理由が理解できた。この高齢者のペットは飼い主の状況で放置される可能性があるということだ。特に転勤の可能性のある人はペットは飼ってはいけない。
 しかし高齢者のみの家庭では日常会話がマンネリ化しペットがいると会話が弾む効果がある。
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彰義隊 吉村昭著 残留本

2021年12月27日 | 宅老のグチ
本の整理中で、残留する本に 彰義隊 吉村昭著がある。 
 吉村昭の戊辰戦争の小説で、上野寛永寺の裏ともいうべき、日暮里の生まれの作家であったため、どちらかというと幕府方の重きを置いている感じがある。
 福神漬の文献調査で一番不思議だったのが、アジア歴史資料センタ-で(福神漬)で検索した時、大倉組の陸軍第四師団宛だった文書が出た。なぜ大阪の陸軍第四師団へ福神漬300樽を献納する文献が明治28年の日清戦争の終わり頃に出てくるのだろうか。ずっと謎だった。東京名産と在り、それが大阪で献納することは何を意味しているのか長い間、理由が不明だった。

  太陽暦の今の暦では上野の戦争は、東京の梅雨時で慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉 、仮に火災になっても少なくとも大火災にはならないと新政府軍の参謀大村益次郎は考えていたようだ。巧みな戦略と戦術で一日で上野寛永寺に立てこもる武士(彰義隊)を敗退させた。その後の残党狩りで江戸から不満幕臣を退けた。上野の山は戦闘で荒廃し、公園と復活することとなった。それには十年近くの年月が流れ、多くの寛永寺でにぎわっていた寛永寺門前の商店を衰弱させた。幕府の時は、上野に香煎茶屋が3軒あったが、明治まで生き残ったのは、酒悦だけだった。その酒悦が上野が観光地化する時に商品開発で観光客用の持ち運びできる容器(缶詰)に漬物を入れたことから、福神漬の歴史と言い伝えが始まる。

 多くの幕末史系の小説はペり―来航から始まり江戸城明け渡しとか箱館戦争の終結で終わる。上野の彰義隊に担がれた輪王寺宮能久親王(後の北白川宮)は朝敵となった。
 北白川宮は朝敵の過去から、日清戦争時に汚名をそそごうと嘆願書を出して出陣を願っても前線に派遣されなかった。日本と清国(中国)との戦争勃発時に大阪第四師団長は北白川宮だった。これで福神漬がわざわざ東京名産と記述してあるのに、この小説で大阪で献納された謎が解明できた。明治27年の暮に日清戦争の大本営の参謀総長が有栖川熾仁親王が病に倒れ、翌年その代行に北白川宮の兄にあたる小松宮彰人仁親王が明治28年1月26日に小松宮が死去した有栖川宮の後任の陸軍参謀総長となった。
 上野戦争時に官軍と彰義隊の双方に武器を売ろうとした死の商人の大倉喜八郎を思い出した。大倉は復活した北白川宮へ福神漬で陸軍へ取り入れようと画策したのではないのだろうか。上野公園内の動物園前に騎馬の銅像があるが小松宮彰人仁親王で本来ならば北白川宮となるが戦前の歴史観では無理だったと思われる。北白川宮の銅像は北の丸の旧近衛師団司令部の庁舎前 にある。
 北白川宮家は悲劇の家と言われ靖国神社の「遊就館」 の中では皇族として多く面積を占める展示がある。福神漬の歴史を調べている身としては何かゾットするものがある。
  
『能久親王事蹟』 棠陰会(とういんかい)編 東京偕行社内棠陰会 春陽堂 1908  鴎外歴史文学全集1 岩波書店
明治10年2月15日    偕行社開社式を挙行
 明治12年2月22日 地学協会長
     4月8日 東叡山の変に随従しまつりし人々集め、宴を給う。
明治13年2月12日偕行社に入る
     
 このような関係から靖国神社では北白川宮家の人々は重要な人物だったと思われる。さらに左派と米軍等の圧力を避ける人物とされたかもしれない。

 靖国神社境内の食堂は戦前のカレ―ライスの味がするという。一度実食しないといけないと感じる。
 作家 吉村昭の彰義隊は彼の最後の歴史時代小説となった。
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新川物語・酒問屋の盛衰 廃棄予定の本

2021年12月26日 | 福神漬
新川物語・酒問屋の盛衰 望月由隆著
本の整理中で、廃棄リストの中にあって、捨てる前にもう一度読み始めた。この本の著者は昭和30年代に大学を出て、酒関係の業界新聞の記者として、酒問屋業界の盛衰をこの本で記録として残した。今は中央区新川には鹿嶋屋という酒問屋が残っているようだが、多くの酒問屋は金融センタ-の茅場町に立地していてビル等の不動産経営に移っていて、江戸時代の酒蔵の面影はない。
 新川に酒問屋が集積したのは河村瑞賢から始まる。瑞賢の屋敷が新川にあって、今はひっそりとビルの谷間に記念碑が埋もれているのがネット上では見える。先日番地を特定し、近所を徘徊しても新川大神宮らしき神社は見つけることは出来なかった。良くネットの文章を見ると奥まったところにありそうだ。河村瑞賢は福神漬命名伝説の一つで、そのためこの本が積んどく本となり、今は処分さるる予定となった。
 漬物問屋をはじめとして、食品問屋・荷受け等の業態が平成に入ってス-パ-等の拡大によって整理統合され従業員と商権を譲り、それまで使用していた不動産で暖簾を守っているようだ。
 戦後の酒問屋の浮き沈みが激しく、物不足の時は荷物さえあれば良く、入金確認してから酒を売り渡していた時代もあった。それが物が豊富となると、酒のライバルとなるアルコ―ル飲料に押され、さらに粗製の酒などの混乱から、長期低迷となったようだ。
 あまり酒を飲まない自分は酒の良し悪しは判らないが、低迷する業界から逃げ出し、新規に雇用した中途採用の人物が成果を短期にあげようとし、無理した販売促進して、また同業者もライバルの攻勢に対処すべく乱売になったと思われる。
 今は飲酒運転の問題からアルコ―ル系の宣伝は静かとなっていて、そのうちタバコのようにヨーロッパではTV等では宣伝できない時代となった。日本もTVで宣伝できなくなるのが間も無く来るかもしれない。このことを阻止するのが財務省酒税局だろう。酒税は室町時代から始まる酒壺税からで、物品税の始まりとなる。タバコも廃止できないのはJR発足時に旧国鉄の債務に一部充てられていて、頭の良い財務省の役人はコロナ対策費を今後どのようにねん出するのだろうか。インフレになり税収が上がっていても国債の金利が上がらない。トルコ並みの経済学の原則に反している状況と見たい。
財務省によると令和元年度末時点では24兆強あった旧国鉄負債がまだ16兆3千億円の残っていて、タバコの値上げで減少スピドが遅れている気がする。そのうちコロナ対策の飲食店支援政策で酒税の一部をコロナ対策税とし、数年後にタバコと酒を統合し旧国鉄債務の処理促進というマジックがあるかもしれない。
 これは明治14年の政変のもとになる、北海道開拓の失敗で始まった処理方法である。福神漬の歴史を調べると、異分野から安価になった設備・資金で漬物業に参入し、混乱だけ残したことを見聞きする。

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コレラの偽治療薬 ラムネの文献出どころ

2021年12月25日 | べったら市
本の断捨離で下記の本が出てきた。
ビジネスの生成―清涼飲料の日本化  河野昭三著から
72頁に嘉永6年のペり―来航時に、ラムネが日本に入って来たと河野氏は考察している。さらに河野氏はもっと前に日本へ渡来していて、浦賀の人たちはコルク栓のはじける音に驚いていないと考察している。どうも文献上のラムネが日本に入った時代が不明だ。それは文字文献と飲料のラムネが一致していないことから来ていて、江戸時代に日本と中国の動植物を調べる本草学で、貝原益軒が大和本草を著したとき、はじめて日本にあって中国にないものが知られたと似ている。
 173頁
明治12年と19年のコレラ大流行。渋沢栄一の妻、千代も1882(明治15)年に流行したコレラによって、42歳の若さで急逝した。当時はまだ医学が進歩していなく多くの迷信的治療が行われていました。
明治19年夏にラムネがコレラに効くということで急に売れるようになり、ラムネ製造が間に合わないという記事が『東京横浜毎日新聞』に報道されたとあり、横浜開港資料館の地下の図書室で記事の出どころを探したが見つからなかった。 
 明治19年7月20日付けの東京日日新聞にコレラにラムネが効能在りそうな記事があった。このころはすでにラムネの瓶がキュウリのような形の瓶から今も使われいるガラス玉入りの瓶に代わっていた。
 多くの日本の食品業界は売れ行き好調の情報を得ると、新規参入の業者が増える。いわゆるxxxブームという。栄枯盛衰は激しく、今は漬物業界を席巻した麹ブ-ムも静かになった。ある漬物メ-カ-の営業は当然自社商品の販売促進を図ることのほかに他者商品とか漬物に関連しそうな商品情報収集が営業マンの仕事であると言っていた。
 粗製乱造の明治20年代のラムネは異物混入が多く、ラムネ瓶の洗浄が不十分だった。当時の衛生を管理していた警察の記録では、鉛、ガラス破片、ミミズ等が入っていたことが解かる。ムシ等を引き寄せる砂糖を使用しないで、アメリカで発見されドイツ経由で日本に入った人工甘味料サッカリンを密かにラムネに使用した理由だった。サッカリンを使用したラムネにはアリが寄り付かず、瓶の洗浄が簡単になり、警察の取り締まりを回避することが出来た。
 サッカリンという人工甘味料の普及は甘みの追求と、警察の取り締まりを避ける工夫だったかもしれない。人の甘みの感触を忘れさせることは出来たが昆虫の感覚は騙せなかったようだ。
 戦前の公衆衛生の管轄は警察だった。従って飲料のジュ-ス等の混濁は腐敗と見なされ取締りの対象となったようだ。前科数十犯という飲食業者がいたという都市伝説が残る。

 砂糖の少なかった時代の漬物にサッカリン使用は時代の要請であった。戦後に中国や外地から引き揚げた人たちが、山間部の荒れ地開発で野菜栽培を始めた。東京・大阪等の都市から遠く、取れたダイコンを加工し、沢庵漬にし、サッカリン使用で安価で大いに売れた。サッカリンは有害と言われ、規制が入ったが戦後の混乱期のサッカリン入りの食物を食べた日本人はまだ生きている。

  
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アベノマスクで年末ごみ処理

2021年12月24日 | 宅老のグチ
住まいの移転計画で、縮小整理中で未使用のアベノマスクが出た。これは100年経たないと骨董の布にもならず、せいぜい人形等のクッションしか使い道がないだろう。
 大枚はたいて政府が調達したマスクは届いたときはすでに一般人が自作の布マスで感染防止策をしていた。また規格無しの調達だったため、不衛生の物もあって、さらに検査費用と保管料と廃棄量も加わって、政府を支える高官の世間知らず証明した。結局役に立ったのは身近な布等でマスクもどきを作る情報で、感染を抑えるというより、自分の呼吸排気を拡散させないということと対外的な視線防御の役目があった。
 家のごみもまだまだ整理途上で、近過去の遺物が出ると思い出に浸る。今マスクをつけると顔の大きさを考慮しないで作ったのだろうか小さく、漏れている。
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本の断捨離 第一回

2021年12月23日 | 宅老のグチ
紙ごみの日に整理中の本を出した。今までは古本屋へ出していたが、引き取る本とごみ扱いになる本との区別が出来るようになり、ごみと判定しそうな本は最初からごみ扱いとなる。
 簡単な判別法では、ブックオフでは二つあって、きれいな本が好まれる。古書は判定不能。美術品はほとんど偽物で、自分の感覚で保存するものとごみとを分別する。あとはバーコ-ドが二種類ある本のようだ。今は廃棄区分のある本だらけで、古書にもならない。紙ごみとなって再生紙として戻ってくるのだろうか。
 昔と言ってもホンの数年前の中国から輸入した漬物の外装は丈夫だけが取り柄のダンボ-ルで、コンテナ内で荷崩れを起こしても耐えていた。
 もうじき転居となるのに今の荷物量では4LDKでも入らないだろう。少なくとも3K程度の容積に圧縮しないといけないが、写真等の断捨離ははかどらず、量も減らない。本に至っては一時予選が終わって、今は選択漏れの本を紙ごみの日に捨てることになる。
 近所に増えたコンテナボックス収納庫は月々の金額は少ないが、法人でないので経費扱いとならずどのような人が利用しているのだろうか。築地にいた時、月島の貸倉庫に税務調査用の保存書類を預けていた。そこはク-ラ-が効いていて、書類が日焼けしていなかった。税務調査が終わり、大量の保管期限の切れた書類をトイレットぺ-パ-に加工する廃棄会社で処理してもらった。
 狭かった築地から豊洲へ移ったがデジタル化によって、紙が減り貸し倉庫も必要なくなったようだ。
 本の断捨離は何次選別まで続くのだろうか。第二選別は正月休みとなる。多くの場所はオミクロン型コロナで閑散だろう。そういえばちょっと前まで今日12月23日は天皇誕生日であった。
 
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文献で知った、ベトナム古都のラッキョウ

2021年12月22日 | 宅老のグチ
今から十数年前、ベトナムの古都を旅した日本人旅行者の紀行文がでフエで(らっきょう)らしきものがあった。それは鎖国以前の日本人から伝わったかもいう曖昧な文章が頭に残っていた。(この記憶は今では根拠はない)

 日本の漬物のラッキョウは産地が福井・鳥取・九州と沖縄の島ラッキョウで高価格路線で販売している。そして青果の方ではエシャロットという名前で販売している。6月だけが泥付きラッキョウとしてコ-ナ-で売っている気がする。漬物のラッキョウは子供の時に包丁を握らせられ、根切りをし余分な茎をきった。まだ確認していないが最近まで機械で切っているという情報はなかった。これが人件費の高くて、ラッキョウの臭いが嫌われ、多くの漬物業者が中国に移転した。
 移転した中国でも農村部の人手不足が始まり、今は都会へ行けない老女と女子高生で生産を維持していた。
 チョット前までラッキョウ製造の日本メ-カ-さんの人に聞くと次の産地が見つからないと言っていた。そして今日見たサンプルに裏面にベトナムという産地表示があった。ついに中国以外の産地が稼働した様だ。漬物業は繊維産業と似ていて、人件費の安ところへ産地移動がある。これは多くは台湾梅干しから始まる台湾華僑のネットワ-クから来ている気がする。多くの漬物は飲食店で無料で提供される。それゆえ価格の上昇を飲食店に転嫁できない。昔と言っても30年ほど前、弁当に入っている小梅が不作で高騰した。それは値上げを認めない漬物業界をあきらめ、農家が農薬・肥料を惜しんだため、大不作となった。やむなく漬物業界が飲食店・弁当業界に申し込んだが、値上げを認めるところは少なく、ほとんどが弁当から小梅入りが消えた。
 ネットで調べるとすでに2年前からベトナムのラッキョウ工場が稼働しているようだ。日本人の感覚だとパールオニオンのピクルス という見方もある。
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年末のごみ出し

2021年12月21日 | 宅老のグチ
仕事をしないで自宅軟禁の身では年末年始も普通の日。それゆえ大掃除などはしなくても良いのだが、特に昔の築地は年末は忙しく、多くの業者はセリが終わった翌日12月30日の出勤日に事務所と売り場・セリ場の掃除を終え、郷里に帰る人への手土産を渡される。ただ昔と違ってス-パ-は年中無休で結局正月が来ても築地市場には朝早くから仲卸会社の人たちが動いていた。豊洲でも同様だろう。あれほど心配していた豊洲の地下汚染も今では話題になることもなく、かえって観光客との距離が出来た豊洲では感染不安が少し減る。職域ワクチン注射もあった。移転問題からオリンピック開催のごたごたで、さらにコロナということで、近来にないドタバタの築地市場移転史が書けそうだが、今は出版不況で絵にならない仕事は弱い。
 移転騒動の途中経過を知っていて、門外漢だし、別に建設業会に知り合いもいないし、疑問の思っていたことを質問できる場が15年前にはなかった。あるのは危険性を大騒ぎする本だけで、日々研究している人たちが新規の方法を見つけると検証できない内に物事が進んだ気がする。実験室で成功しても現実には想定外の事が多く、うまくいかない方が多数を占め、多くの犠牲者の上に進歩がある。多くの工事の慰霊碑はそのような歴史で、今では墓地に行っても怖くないし、もうじき仲間入りとなりそうだが、今はそれも空しく散骨に傾いている。慰霊とか墓は生きている人の問題で死んだあとは物理の法則で消えるに違いない。
 最近旧築地市場を通り抜けたが、残っているのが水産仲卸の駐車場棟と400億円捨てた,水産部の岸壁に立つ建設物が残っている。この建設物は駐車場になる予定だったが取り付け道路が工事中断で終わった。
 色々あったな!!!
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農林水産業で一番怖い事

2021年12月20日 | 宅老のグチ
今年の年末に、牛乳が学校閉鎖のため大量に余るという。江戸時代の文献を読んでいると、飢饉とか多発しているのに、コメを原料としている酒作りが安定していてどのような考えをして統治者が容認しているかを書いた書籍が見つからない。
 農林水産業の一番の問題は生命維持の食料と普通は思うし、学者たちの飢餓対策の研究も多い。しかし食の変遷を見ていると、生産過剰の時の対処によっては制度が破壊され、素人農業政策の失敗の記憶が残る。コメが余って、米価が下がっても、すぐには江戸の物価は下がらない。支給されたコメを札差しにもっていってもわずかな金しかならない。天保の飢饉のときの東北の藩主がコメが高額になって、領民が飢えで困っているのに非常用のコメを自分の地位の向上に使った例もある。
 そこで一時的に過剰生産となった生鮮食料品が加工保存食品になる。
今、工場野菜とか海でなく陸地で水産物を養殖できるようになった。それは設備に経費が掛かるし、さらに運行のための電気等のエネルギ-が必要となる。ところが農水産業は自然の力で再生産しているので昔の農水産業はエネルギ-コストが低い。戦後の食料不足の時、世界で戦争のため漁業が盛んでなく、資源が豊富だった気がする。敗戦間もない日本農業は肥料が不足していて、特に大豆を使った肥料は大豆が食料となってしまって、肥料が少なかった戦中農業が不振だった。
 多くの工場野菜の展開は日本ではごく一部のところで、もやしとかキノコ類しか思い浮かばない。あのユニクロでさえ、銀座で野菜販売に失敗した例もある。当時の青果業界の人たちの意見ではお手並み拝見だった。今年の冬は重量野菜が天候に恵まれ極端に安い。また施設栽培の農産物が燃料油高騰で苦労していて、年明けの新聞は騒ぐだろう。冬にイチゴを食べる生活は不自然と思うべきだろう。

 過剰になった野菜は保存食として漬物にした。しかし、今は年中食料が豊富で冬だからと言って、雪深い都市でも生鮮食品のス-パ-がある。このようなことで保存食業界は衰微していった。缶詰は円高で弱体化し、今は原料不足と高価格原料で消えつつある。爆食の中国に買い負けで、気が付かない内に上等の寿司を食べるには異国に行かなければならないかもしれない。それはドバイになるかもしれない。
 間も無く成田市の地方卸売市場が空港の隣に移転し、豊洲市場の業者と提携し、輸出用の生鮮物の品揃えの用意を業務とする事業が始まる。国によって規制が異なり、さらに飛行機と言って時間が足りない。コロナ下では日本に来れない人の需要をつかむことが出来るのだろうか。
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北京市民は正月・春節は自宅軟禁なのか

2021年12月19日 | 宅老のグチ
北京引导市民在京过年 非必要不出京 

 暇つぶしで中国の検索システム百度で出てきた記事だった。どうやら北京冬季オリンピックという御旗のため、北京市民が正月(短い)・春節(長い)に北京市から出てはいけないようだ。監視カメラの整備されている中国でもオミクロン型のコロナ制御に難儀しているようで、政府の指示が厳しくなっている。この辺の日本の政府は緩やかで、平和ボケの左翼高齢署の指導する野党はただ対岸の火事を見ていても、火の粉が来ないとわかっていて、評論もしない。それは今の日本のコロナ新規患者数の減少が説明できず、それゆえ次の拡大も根拠を示せないでいる。
 多くの薬は治験をするが、これほど減った日本では治験は出来ず、感染が急増している遺伝子が似ている韓国でするしかない。
 オミクロン型のコロナ感染が再拡大しているイギリスで3回目のワクチン注射が行われているが、行列の映像を見ているとマスクをしていない人がいる。欧米人は心底マスクが嫌いなようだ。日本はすでにマスクは『顔パンツ』になって、家から出た時に忘れても、他人の姿で度々戻った。朝のごみ出し時は、顔パンツ無しで昔の気分に浸っている。ささやかな解放感があった。

 二回目のコロナ正月がやってくるが昨年より気分が明るく、築地の場外市場も一時の閑散状況を脱した様だ。
 コロナ明けを目指して、新規の飲食店開業が目立つ。出版・旅行系はデジタルの波に乗れる人と乗れない人との差が出て来たようだ。
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カレ―本 

2021年12月18日 | 福神漬
カレ―ライスの本 全日本カレ―ライス同好会編 昭和59年奸双葉社
170頁
故小川敏男先生の福神漬伝説の諸説本
諸説の1 最初に江戸時代の河村瑞賢説
 失意の底にあった河村瑞賢が品川の海岸でお盆の後に流された野菜を拾って塩漬けたことから始まる。

諸説の2
明治18年 上野の酒悦説 ここには福神漬の命名者梅亭金駕が出てくる。

諸説の3
 カレ―ライスに福神漬が添えられたのが昭和の初期の帝国ホテルのコックがカレ―ライスに添えたのが最初ではないか。 (書きぶりから自信がなさそう。)コックがインドのカレ―にインドの漬物の1種のチャツネが添えていておいしかったので似ている色の福神漬を添えたという。

 漬物業界の学者の初めで、多くの業界人が小川先生の指導を受け、今日の漬物産業の基礎を作った人。多くの図書館でこの人の著書を借りることが出来るので広く諸説の原点となっている。しかし社会の影響があったことに言及していないので、細かい点から矛盾が見える。一例としてタクワン漬があるのだが品川区の学芸員も自分も沢庵和尚が沢庵を創製したと思っていない。どちらかというと普及させた功績の方が目立つ。

 故小川敏男先生の漬物関係の蔵書は漬物祖社 萱津神社に保存されている。

 
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大逆事件大石誠之助の和歌山県新宮市名誉市民騒動

2021年12月17日 | 宅老のグチ
今から十数年前の2月に和歌山県みなべ町で梅まつりがあった。地域振興のシンボルともいえる梅干しでみなべ町は大阪などに出た子供たちが戻っていた。
 南高梅の顕彰碑の前で、県知事、二階氏(代理ではない・確か当時は野党だった)が小高い丘の中腹のある碑の前の儀式に参加していた。
 儀式の終了後、大阪経由で帰ることでなく、新宮で途中下車し、駅から歩いて、さびれた商店街を過ぎて熊野速玉大社参拝し、近所の佐藤春夫記念館へ行った。新宮市新宮1-3
 熊野速玉大社の境内にある洋館は、昭和2年(1927)から春夫が亡くなる昭和39年(1964)まで東京都文京区で過ごした邸宅を移築したもの。同じく新宮市出身の建築家・西村伊作(神田駿河台の文化学院創立者)の弟が設計した邸宅内は見学可能で、1階の売店でで当地の訪問記念で『大逆事件と大石誠之助』熊野新聞社編を購入した。今家でこの本の断捨離をしていて、もうじきブックオフ行きとなり、ごみ扱いなら出戻りの蔵書本となる。
 この本の内容は大逆事件による、新宮市民の明治末期から市民の複雑な想いの変遷が理解できる。大石誠之助は福神漬命名の記録を缶詰協会に発表した長井金升(鶯亭金升・東京毎日新聞記者)の雑俳の門人だった。同じく大逆事件で死刑になった幸徳秋水も同じ雑俳仲間だった。そんな訳で新宮の人は忘れていても、佐藤春夫記念館で売っていたので記念品として、帰りの紀州本線車内で読んで、名古屋経由で東京に戻った。
 この本の内容はもちろん大逆事件の中で大石が冤罪であったことが解かる。しかし戦前はともかく戦後に佐藤春夫が文化勲章を受けた時、新宮で名誉市民制度が生まれ、多くの人が新宮の名誉市民となった。ただ新宮の進歩的文化を生み出した大石誠之助は大逆事件に巻き込まれ、新宮関係者で6名が犠牲となった。今の感覚だと、オミクロン型コロナに感染していた飛行機に同乗していて、濃厚接触者として、隔離されたと同じように思える。幸徳秋水が大石を訪問しただけで死刑となった。何度も市議会に大石誠之助の名誉市民への推薦行動があったが否決された。
 和歌山県新宮市は2018年1月19日、明治時代に「大逆事件」で処刑された新宮市の医師、大石誠之助を名誉市民に決めたと発表した。命日の24日に表彰式を行う。
 市は決定の理由について、「大石は非業の死を遂げたが、明治期に熊野地方で人権思想や平和思想の基礎を築き、おいの教育者、西村伊作や作家の佐藤春夫、中上健次(いずれも名誉市民)にも大きな影響を与えるなど、市の質の高い文化土壌の創生に功績を残した」などとしている。
 長い間の新宮市の名誉市民騒動は作家・辻原登氏が、大石や明治時代の新宮をモデルにした小説「許されざる者」の功績ともいえる。戦前の新宮市民には 天皇を爆弾で暗殺するという不名誉が信じられていた。今なら大石は証拠もない冤罪だったと言える。

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