年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ペリーの白旗

2012年07月31日 | 福神漬
ペリーの白旗-150年目の真実 岸俊光著
開国を拒めば戦争になる。そうなっても、白旗を掲げてきたら和睦してやる-。ペリーが幕府に渡した「脅しの書簡」は本物か、偽物か。「つくる会」歴史教科書が採用して議論沸騰の、開国ミステリーに挑む論壇ノンフィクション 図書館の解説文から
こんな解説のある本を今読んでいる。歴史家と歴史愛好家との論争は今一つかみ合わず謎が解けないまま今に至る。
 そもそも「白旗伝説」にも複数の解釈があるようでそれぞれの立場で解釈しているのは邪馬台国論争と似ている。決定的な文献があれば決着すると思えるが安政6年の江戸城内火災で基本文献が焼失している可能性があり、混乱を増やしているようだ。わかっていることはペリーの黒船が嘉永6年6月3日(旧暦)に来て、7月10日の水戸藩の書類に白旗の文言があるのでこの間に偽なら偽の文章か噂があったと思われる。
 歴史家はアメリカ側の文献がないからと言って、「白旗伝説」は偽文献として史料としては取り上げていないようだ。6月4日に黒船に乗り込んだ日本人は多くない。水戸藩にどのようなルートで風説が伝わったのだろうか。風説だからと言って詮索はしていないようだ。
そもそもペリーが初めて来た時の日本側の文献はそのまま信じてよいのだろうか疑問である。アメリカ側と日本側が合致している時だけ文献として役に立ち、脅迫感から生じる記述から史料として信じてよいのだろうか。

 香山栄左衛門上申書に書いてある、6月4日に江戸の在府浦賀奉行だった井戸石見守邸でのオランダからアメリカが日本に来ることを通告したという事を無視して、浦賀には風評ということで処理していたことを聞き、香山が数時間悔しく泣いていたという。香山の涙はニセ涙のような気がする。香山の上申書によって、今の教科書はペリーが開国の準備のない日本に突然やってきたように書かれている。一般庶民は外国の情勢は知らなかったと思われるが浦賀の関係者は準備していた。それなのに知らなかったとして涙したと書いた香山の上申書はなぜなのだろう。

こんなことが福神漬の命名に関する経緯を調べると気になることとなって来た。
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異常な暑さで

2012年07月30日 | 築地市場にて
何か震災前年の暑さに戻った気がして、仕事のチェックが甘くなる。再度何時もしているのだが怠け心がミスを誘発する。月末の暇な時期だがどうやら土用の丑の日の売れ行きは悲惨な数字が出る気がする。新聞の論調では種の絶滅ということで暑さ対策として効果より、種の保存へ変わってきた。来年にはウナギを食べることが後ろめたい気分になるのだろうか。
30日から節電本番の20日間が始まる。築地市場の電気の1年間で最大使用量は休市明けの8月17日午前11時台である。
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明治生まれは全員百歳以上

2012年07月29日 | 築地市場にて

明治天皇は7月30日に亡くなった。つまり今日は明治生まれの人が全員百歳以上となった日で明日からは大正生まれの人が百歳となる。世の中はオリンピックということで100年前の今頃明治天皇が危篤だったことを忘れられている。
 日本経済新聞の私の履歴書にキッコーマンの茂木友三郎さんが出ている。気になったのは行徳にあった亀甲誉というブランドの醤油工場である。もし記憶違いでなければ利根コカコーラボトリングが創業したのが行徳の醤油工場跡地でなかったのではないか。行徳の亀甲誉の醤油が同じ町内ともいえる行徳山田福神漬缶詰工場向けに醤油を納品していたかもしれない。明治33年頃の工場なので日露戦争用の軍隊納めの福神漬缶詰の製造が盛んなころである。
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暑かった

2012年07月28日 | 築地市場にて

朝より暑かった。築地市場内の放送で、契約電力の90%の使用量となったので節電強化してくださいと放送があった。とりあえず業務用冷蔵庫の設定温度を見直すことにした。昨年のことを思い出すが市場内は暗かった。廊下やトイレの中、昼は真っ暗であった。東京都の事務所は入り口ドアが開けっ放しであった。今年は閉じてあり、エアコンを少し入れているようだ。市場ということで皆スーパークールビズ。半ズボンもある。アスファルトの照り返しが暑い。発砲スチロールの箱の照り返しもまぶしい。あと一ヶ月の我慢比べ。
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香山栄左衛門上申書3

2012年07月27日 | 福神漬

大日本古文書 幕末外国関係文書之1 自嘉永六年六月至同年七月
この上申書は大まかに分けると初めてペリーが浦賀に来たときの経緯と再度翌年に来たときの事情が書かれている。特に2回目の香山に対する幕府の誤解についての弁明書になっている。後半の部分は安政6年頃に作成され幕府に提出されたと思われる。この時期の提出理由として考えられるのは香山栄左衛門の唯一の理解者であった戸田氏栄が安政5年8月に大坂町奉行の在任中に死去したため上申書を再度作成したと思われる。
 香山と戸田は2度目のペリー来航が終わると間もなく左遷された地位となった。香山と戸田が開国派と思われ左遷されたと思う。ここに子孫に対する影響が現れ、福神漬の名称の由来にかかわってくる様になったと思われる。
安政6年江戸城本丸が焼失した際、ぺりー来航時の書類が焼失したものがあるという。香山の上申書は再度書かれたのが記録として残っている様に思える。
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ぷらっと築地オープン

2012年07月26日 | 築地市場にて

市場内に回覧がやってきた。28日午前10時から波除神社通りが通行止めになるという。築地場外市場の情報案内場が新規に出来るのでイベントがあるという。中央区の協力により着々と築地市場移転後に向けて活性化するための事業を始めたようだ。水産を中心とした食材で活性化はなるのだろうか。海鮮系レストランと隅田川クルーズを取り入れればなんとかなるような気がする。
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土用の丑の日

2012年07月25日 | 築地市場にて

金子みすずが生きていたら、うなぎ虐殺日とか絶滅危惧種を金儲けのために増やしているとかの詩を書いているかもしれない。今はうなぎを食べる日となっているが、いつの間に世論が変化するかわからない。蒲焼もうなぎでなく他の商材に変化するしかない。
 大量のなら漬としょうが漬が出ているが本当に売れるかどうか不明だ。明日には結果が出るだろう。この先行き不透明な時に高価となったウナギの蒲焼が売れれば低価格商戦が終わるということを示している。
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香山栄左衛門上申書2

2012年07月24日 | 福神漬

大日本古文書 幕末外国関係文書之1 自嘉永六年六月至同年七月
明治以後今でも教科書的には『黒船来航』は突然やってきたこととなっている。香山の作成した上申書は戸田と現場を任された浦賀奉行所与力全体の意向が隠されているように感じる。6月4日戸田の命令で江戸に向かった香山は江戸でペリーの来航情報が浦賀衆へ知らされていないと数時間涙していたと書いてあった。脚色だろう。
 ペリー以前に浦賀に現れた異国船の応対で浦賀与力衆は危機感を共有していた。砲台をつくり、西洋型の舟を造る事までしていた。しかし想像以上ペリーの船は大きく、船足は速く。さらに兵力は強大であった。幕府財政の厳しかった時に砲台とか大型船建造などにはかなりの費用が見込まれていた。このとき天保の改革で解散させられた東浦賀の塩問屋の利権の復活に中島三郎助が活躍した。千葉行徳の塩業者と深い関係ができたと思われる。行徳の漬物商人喜兵衛が函館で中島三郎助と共に戦死したのはこのような事情ではなかったのだろうか。ただまだ文献は見つからない。
東浦賀の塩問屋を経由した瀬戸内の塩は関東の塩需要の好みと異なり、行徳で再加工する必要がある塩があった。ここで行徳の地場の塩業者との関係が出来たと思われる。差塩と真塩の問題である。差塩はにがり分が多く、真塩はにがりが少ない。
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家康の駿府における漬物話

2012年07月23日 | 福神漬

咬菜百做録 コウサイ ヒャクサロク付録編 戸田氏栄
家康が隠居後滞在していた駿府城内で女中たちが浄慶坊ほど憎き坊主がいないと口々に不満を漏らしていた。その理由は『浅漬の香の物があまりにも塩辛い』といっていて何度も苦情を浄慶坊に伝えてもいっこうに改善しないでいる。この愚痴をある日家康が聞きつけ、浄慶坊を呼び出した。浄慶坊は他の人に聞こえないように家康に耳うちしたところ、家康は笑い出し、塩加減はそのままで良い事となった。このときの家康近習衆は不審に思い、浄慶に尋ねた。浄慶は他の人に聞こえるように『大根の香の物は今までと同じように塩辛く漬けてよい』と家康から許可を得たという。家康は女中の好みの塩加減にしたら、どれだけ大量に漬物を食べるかわからない。
同様の話で駿府城常見蔵の話がある。内容は浄慶坊の話と同じで、常見という役人が塩辛い漬物を女中たちに食べさせた逸話である。

この話を戸田が咬菜百做録の付録編に載せた。天保の改革で一番節約に抵抗したのが大奥である。この付録編は節約に抵抗する大奥への過去の前例を持ち出して批判集となっている。 
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歴史編纂家の出世の糸口

2012年07月22日 | 福神漬
日本経済大典〈第41巻〉 (1970年)
咬菜百做録 コウサイ ヒャクサロク
大草公明著(大草振鷺) ; 戸田氏栄補[天保9] [1838]
1巻より4巻まで大草公明、付録の巻の著者は戸田氏栄
この本が出版される経緯はあとがきに戸田氏栄が書いている。天保9年正月、戸田の同窓で日々幕府の歴史の編纂に参加していた大草振鷺が考試の乙科に昇進した。正月のある日、戸田が大草のところに、祝賀の意を表すため駆けつけたところ、大草がこの一編を示した。それは幕府における諸先輩の節約した事例を抄録した原稿だった。戸田は最近の風俗(天保9年頃)が奢侈に流れる傾向があると思っていたのでこの原稿の中身が節倹を尊び、奢侈を抑えるものが載っているので我々の戒めの本とも言えると言った。戸田が早速校正し世に広く知らせてほしいと欲した。しかしこの校正が済まないうちに幕府の節約の命令が出て(天保の改革)、大草のこの原稿が期せずして役に立ったことは実に奇遇である。この本を司成林君に見せたところ、林君も時節に合い有益に成ると賞賛し、戸田に本にするように薦めた。初めの4編は色々な事例を抄出するとき家康公のことを省いたことが多かった。林君の勧めで戸田が付録の巻で家康公の言行を加えたという。

 思うに幕府で歴史の編纂に20年以上従事していた歴史学者とも言える人物が天保の改革で突如目付けとして印旛沼工事に参加した戸田氏栄が出世の糸口となった本ではなかったのではないのだろうか。当時水野忠邦の改革の障害となっていたのが大奥の奢侈でその抑制の根拠となる事例が欲しかったと思われる。500石から浦賀奉行で3000石となり、最後の大坂町奉行で死去したとき5000石となるきっかけの本だったとも言える。

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電子図書館の過渡期

2012年07月21日 | 宅老のグチ

今,香山栄左衛門の上申書を読んでいるが、一寸前より便利になった気がする。検索という機能を使ってどこの図書館に所蔵されているかわかるし、文献によってはパソコン上で読むこともできる。まだ国会図書館の本は自宅で読むことのできる本は少ないが大正100年の今年から明治以前の本が全国どこでもネット環境があれば読むことのできる時代にしてほしい。
 さて品川区大崎図書館で読んだ『大日本古文書 幕末外国関係文書之1』はネットで読むことが出来た。しかし目次の部分がないので実際の本を読んでからでないと目的のページいたるまで時間がかかるだろう。ついでに古書のサイトで上記の本を検索すると70万円ほどとなっている。
 500円以下のダウンロード代なら電車賃を計算に入れれば決して高くない気がする。この代金で維持管理費をまかなえば出版文化が急速衰退することはないだろう。
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香山栄左衛門上申書1

2012年07月20日 | 福神漬

福神漬を巡るエピソードを探ると浦賀与力の香山栄左衛門が老中へ出した上申書が気になってくる。何回か読んだのに史料としての重要性は気にせずいた。今回気になって都内周辺の図書館に所蔵してあるところを探すと、都立多摩図書館と足立中央図書館と品川区大崎図書館にしか下記の本は所蔵されていない。多摩は外部の書庫らしいのですぐに読めるのは2館しかないことなる。大崎図書館にいく。
大日本古文書 幕末外国関係文書之1 自嘉永六年六月至同年七月
香山栄左衛門上申書は嘉永6年6月となっているが実際老中の阿部伊勢守に提出した時期はこの本からは正確には不明である。この上申書の提出経路として浦賀奉行戸田伊豆守氏栄から老中宛に提出された。従って戸田が中身を検閲し書き換えを命じた可能性がある。戸田氏栄は徳川幕府の歴史を編纂した事業(朝野旧聞襃藁)に20年以上参加しているので後世に文献となる文章を脚色した上申書を提出したと考えた方がよいだろう。
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文明東漸史

2012年07月19日 | 福神漬
 
今の大分県出身の藤田茂吉という人が明治17年9月に出版した本をパラパラ読みする。深く読むにはまだ至っていない。この明治17年という時期に渡辺崋山と高野長英の名を日本史に復活させた本だった。
 さてこの本の紹介文として序文を書いた森田思軒の名前があった。森田は根岸党の一員で下谷の文化人仲間の一人で酒のつまみに福神漬の缶詰を開けていた人だった。藤田茂吉は文明東漸史を書くための史料収集を5年ほど前より行っていた。この時期に出版したのは何か意図があったと思われる。この本が出るとまもなく講談師松林伯円が『開化の.魁』を講談として講演し、また市川団十郎によって歌舞伎化され上演された。
 藤田茂吉は明治18年7月末頃には北豊島郡金杉村196番地(現台東区根岸)に転居している。出典(駆け抜ける茂吉-「先覚記者」藤田鳴鶴評伝 野田秋生著)
野田秋生さんの本から明治14年の政変から18年頃にかけての自由党と改新党の泥試合によって、国会開設を目指した政党の没落事情がよく理解できる。ここに三菱と政府支援の共同汽船の運賃ダンピング競争が加わり、福神漬の命名時期の上野下谷周辺の地域事情が加わり、複雑化してくるようになった。
 これでははっきりと歴史家が福神漬の命名を記録することはできない。しかし記憶に残っても不思議はない。明治18年10月日本郵船は発足した。

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台風7号の進路

2012年07月18日 | 築地市場にて

発生したばかりの台風7号の予想進路を見ていたら、韓半島に向かうコースだったので太平洋高気圧が高いとデータは示していたのだろうかと思っていたら、梅雨が明けてしまった。九州より早い梅雨明け。梅干の季節となるがイマイチ販売活動は抑え気味。ニュースによるとアメリカの旱魃も激しそうで値上がりした穀物のため牛の処分をし始めた牧場もあるという。来年は高騰した穀物によって振り回される年になるのだろうか。
 金さえあればいくらでも海外から輸入できるという考えは、ロシアの旱魃からあてにならない気がする。やはり自国民を犠牲にしても足りない食物を輸出する考えは植民地時期の考えで、ネット情報の氾濫している今では政権維持のため穀物流出禁止政策を採りやすい。食糧自給率40%では餓死はないが年寄が減るだろう。
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豊洲へのどんでん返しはあるのか?

2012年07月17日 | 築地市場にて
一寸先は解らない 今日の仕事は3人態勢だったが昼前にかかった電話で一人減る。クモ膜下出血で死去との報で帰った。53歳の人が亡くなった。急遽体制を2人で出来るように組み替える。余裕をもって仕事をしているがこのような事例は度々ある。
暇な時間に豊洲汚染除去工事の進行具合を見る。どうやら予定まま進んでいるようだ。震災と原発事故が豊洲汚染除去工事を進化させている。全国的に汚染が有名になったため、工事実績を示すために張り切っているようだ。東北の放射能汚染除去工事もゼネコンが落札するケースが多いという。
 今年の秋口には水産仲卸棟が着工するという。5街区の青果棟は来年着工という。今の関東での建設業界の暇さ加減から工期は遅れないで進むだろう。心配なのは消費税が上がる前に移転費用が見積られるのだろうか。
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