嘉永3年10月末日に高野長英が南町奉行支配下の与力たちによって撲殺された。当時の記録では逮捕時、高野が抵抗し、混乱の中自殺したと記録に残る。鶴見俊輔氏の評伝だと南町の人たちによって最初から生け捕りする意思はなかったように思える。今でも警察等に拘留中に逃げ出すと大騒ぎとなるが江戸時代の終わりでも放火による逃亡は重罪であった。
この嘉永3年の11月頃は南町奉行は遠山景元・西丸留守居役が筒井政憲・浦賀奉行の江戸在任が戸田氏栄・浦賀の砲術指南が下曽根金三郎・その補助役として内田弥太郎(五観・恭)だった。
12月末までに高野を江戸市中で逃亡を助けた人たちが処罰された。その中で逃亡を助けた蘭学仲間の内田弥太郎が処罰を免れた。(取り調べはあったようだ)なぜ内田は処分を免れただろうか。事実関係を小説に書いている吉村昭氏の小説(長英逃亡)でも内田の無罪の理由が書かれていない。この件の処理が福島事件被告人花香恭次郎の養子縁組の謎解きにつながる。
弘化年間から嘉永年間(黒船が来るまで)浦賀奉行と幕閣上層部で異国船打ち払い令の復活評議中だった。
1異国船が頻繁にわが国沿岸を通行するので海防負担が増えて、沿岸領民が疲弊・内乱・侵略・異人の手引きによる密交易が深刻化するという危機意識があった。
2幕府財政が疲弊していて海岸防備の不備から中国のように侵略されるという危機意識があった。
3異国船打ち払い令が復活しても、対外戦争に負けたことにない日本は大事に至らないという希薄な危機意識があった。浦賀の人たちは浦賀の来た船に乗り込み大砲の威力を目にしているので、浦賀与力・浦賀奉行達は積極開国で交易によって国防費用を賄うという考えが主力だった。しかし長い平和でわが国の進化が止まった大砲の威力と戦争が絶えなかったヨ-ロッパの進化した海軍力を本の上だけ知っていた人たちの間では結論が出なかった。
このような時期に浦賀の海防を実務として指導している内田弥太郎が処罰されることは国力を阻害すると浦賀奉行戸田は判断したと思われる。内田を処罰すると彼の上司である砲術指南下曽根金三郎も任命者として処罰は免れない。下曽根が処罰されると実親の筒井政憲の立場も弱くなる。戸田氏栄は印旛沼開削工事の目付として鳥居甲斐守の下で仕事をしていて、途中で駿府町奉行に転任となった。(出典・井関隆子日記) 元々高野長英は蕃社の獄で処罰されたので北町奉行だった遠山景元 も元南町奉行筒井も冤罪と知っていた。
もう嘉永のこの時期は蘭学から英語.フランス語.ロシア語の時代に移りつつあって高野の語学力の必要性が薄くなっていた。
続く