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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬ネットワーク5-2

2008年10月31日 | 福神漬
福神漬ネットワーク5-2
 守田宝丹 明治東京畸人伝 森田まゆみ著から
寛永年間に創建された上野寛永寺の門前町として池之端仲町は寛永寺の御用を足していた。さらに戦前までは不忍の池に向っていい料亭や待合が並んでいた。そして仲町通りには江戸時代から続いている老舗が並んでいた。明治に入って寛永寺の御用が無くなり一帯は寂れたがその中で九代目守田治兵衛は宣伝上手で各戸に薬の効能書きを配ったり、PR雑誌を創刊したり、歌舞伎役者に『宝丹の薬』の薬がよく効くとセリフに書き込ませたりしていた。この宣伝手段は今でも使われている手法でもある。明治年代まで色々な新聞に『宝丹』の宣伝が載っている。当時の新聞社にとって大事なクライアントだっただろう。守田は今の電通・博報堂の役目を明治時代に果たしていた。従って福神漬・酒悦の宣伝方法にもかなりの影響を与えたと思われる。
 又人物的にも逸話が多く慈善の寄付したりや公共事業に多大な寄与もした。さらに最後のちょん髷保持者としても有名で酒悦の野田清右衛門にも影響を与えたかもしれない。
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福神漬ネットワーク5

2008年10月30日 | 福神漬
守田宝丹 守田治兵衛(9代目)
今でも上野池之端仲町に薬の店舗を構える『守田宝丹』という薬を明治初期に様々な手段を用いて販売した人。明治初期の日本広告史には必ず出る人。
 福神漬の販売拡大にはかなりの影響を与えたと思われる。明治の薬販売広告に関して、浅草派の人たちの後援者でもあったと思われる。明治23年新富座で公演があった『皐月晴上野朝風』という演目で守田治兵衛は池之端の人々を集めて総覧した。浅草派に対して銀座派の代表は岸田吟香で目薬の宣伝広告をしていた。この件に関しては汐留のアドミュージアムに詳しく展示されている。
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築地川の紛争

2008年10月29日 | 築地市場にて
あまり世間には知られていないのだが浜離宮のところにある水面は築地川という川である。そこに係留しているヨットなどは今不法係留と言われて、東京都・中央区との紛争を抱えています。都の警告の看板を一夜で撤去したりしていましたが最近また警告の看板が取り付けられヨットの管理組合が自己主張の垂れ幕を脇に貼り付けています。
色々な経由があったと思いますが築地市場の脇の歩道を市場の買出し人の駐車場としていたが観光客が増えて邪魔者扱いされて、歩道に柱を設けられターレーは歩道を通行できなくなりました。法の建前上、歩道を車両が通行してはいけないのですが長年の慣行を外部から指摘されると勝てません。
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福神漬ネットワーク4-2

2008年10月28日 | 福神漬
福神漬ネットワーク
三遊亭円朝 2 明治東京畸人伝 森まゆみ著から
円朝は湯島切通下に生まれ、親は池之端茅町にあった『山口』という寺子屋に円朝を通わせた。この学校は明治になって樋口一葉が通った学校となったといわれている。12歳の頃池之端仲町の商人のところに奉公に出たが性に合わなかった。また安政の頃は池之端七軒町に住んでいて浅草の高座に通ったと言う。
 福神漬の出来た池之端周辺は浅草へ集まった芸人たちのたまり場でもあったのだろうか。明治の20年頃までは東京となっていてもまだ江戸の風情が浅草周辺には残っていた。江戸の町名が明治の町名に変り、また徒歩行動圏から人力車・馬車鉄道・汽車の発達で行動圏が広がってどんどん変化していって、江戸と言う時から住んでいた人たちが東京という町に変化についいてゆけなく懐旧の情が出る頃でもあった。 
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果物が安い

2008年10月27日 | 築地市場にて
果物が安い
今年は日本本土直撃の台風上陸が無く紅葉が近年になく良さそうである。しかし不景気風で果物の品質がよいのに非常に安くもったいない。年末商談も始まっているのだが国産の原料を手配するのは難しくこのままの状態では表示違反で回収が増える気がする。すでにレンコン・竹の子は調査中であるという。手間隙かかるものは中国抜きではできないのに販売事情で国産表示をしていたものが今摘発されている。
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光の工事

2008年10月26日 | 築地市場にて
光の工事
築地市場では休市日に色々な工事をおこなうのだがようやく何件か青果仲卸が光回線を入れるようである。工事の人に聞くとここはかなり難工事の場所とのこと。青果は定期的な店舗移動がないため設備は長期的視野のことを考え工事予定を入れられる。水産の仲卸はポチポチ光回線を入れているようでネット世界とはかなり離れていて、世間の不景気風が築地に吹いてくるのは年末頃だろうか。
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福神漬ネットワーク4

2008年10月25日 | 福神漬
福神漬ネットワーク
三遊亭円朝 天保10年(1839)~明治33年(1900) 62歳
 台東区の下谷神社は寛政10年(西暦1798年)に江戸で初めて有料で落語がでた寄席の発祥地であった。円朝は幕末に湯島天神下で生まれ、青年期まで居住地は池之端の周囲の地域に住んでいた。湯島天神下は芸人の人達が多く住んでいたところで差別を受けていた地域でもある。
谷中の鉄舟と交流が有名で他の福神漬の交友関係の中心ともなる人だが肝心の『酒悦』との関係が資料の無いためあまり知られていない。現在の『酒悦』が鈴本演芸場の隣にあるのは歴史の皮肉でもある。
 円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代の豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。
 
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福神漬ネットワーク3

2008年10月24日 | 福神漬
了翁道覚 (了翁禅師)
江戸時代初めの頃の人。秋田県湯沢市出身。日本各地で修行後長崎にて中国から来た黄檗宗開祖隠元禅師に会い日本における黄檗宗の発展に寄与した。
 了翁道覚禅師は、江戸に戻り漢方薬「錦袋円」を販売した収益金で「鉄眼の一切経(重要文化財)」の開刻事業を行う
 また、本を誰でも読めるように各地に勧学院を建て、図書館の先駆けを築いた。
上野寛永寺内に勧学講院を設け、そこで学んでいた学生に野菜を刻んだ漬物を出していた。これが福神漬の元と言う説がある。
了翁の「錦袋円」という薬は明治時代まで上野の不忍池のほとり(今の池之端仲町)で販売されていたので同じ町内の福神漬創製者『酒悦』 主人は勧学講院の野菜くずの漬物を工夫して明治風に醤油とみりん・砂糖で味付け缶詰に詰めて販売したと思われる。
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福神漬ネットワーク2

2008年10月23日 | 福神漬
山岡鉄舟
酒悦主人と山岡鉄舟との交友関係があったという言い伝えを酒悦社員から聞いている。しかし根拠となる史料とか文献等は関東大震災とか戦災等で無くなっているという。考えられ事は山岡から接近したのではなく酒悦主人から山岡に接近したのではないのだろうか。亡くなる直前鉄舟は全生庵から依頼された10万枚以上の膨大な数の書を書いた(受取書がある)。さらに4万以上の扇子に書を揮毫したと言う。
 酒悦の店名は上野寛永寺の管主からいただいたから、明治維新後も心情的には幕府方の人達の交流が多かった。その理由として福神漬の命名を頼んだ相手は最後の戯作者とも言われた梅亭金鵞であった。明治20年頃まではまだ全般的に江戸と言う名前で呼ばれた時から浅草上野周辺で生活していた人は幕府ヒイキで反明治政府の人達を応援していた。福神漬の周囲の人達は明治20年頃までは浅草上野周辺の人達が多く新時代に取り残された人達がもがいていた様な気がする。
 
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福神漬ネットワークの中心人物1

2008年10月22日 | 福神漬
福神漬ネットワークの中心人物
福地桜痴(源一郎)
昭和10年頃、福地が死去して30年たったころ柳田泉が桜痴の記憶を書いている。それによると桜痴は死後ももちろん生前も明治社会から冷遇されていて、表面的な活動のみ評価されていた。
 福地桜痴(源一郎)晩年の仕事は歌舞伎等の演劇改良運動が中心となっていて、下谷区茅町2丁目から移転(明治22年9月)を迫られていた頃には福神漬が付近にあった酒悦ですでに創製されていて店主野田清右衛門がしきりに販売拡大を図っていた頃でもある。
 茅町の福地の敷地内に鶯亭金升が住んでいた。日本缶詰協会に資料によると鶯亭金升は福神漬の引札(今のチラシ)の印刷をしていたと言う。
 また福地は歌舞伎と関係したので当然五代目尾上菊五郎とも落語家三遊亭円朝とも演劇改良運動で交友があったとも思われる。
 

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東京海上保険 125年史より

2008年10月21日 | 福神漬
東京海上保険 125年史より
明治12年、国の鉄道払い下げを見込んで集めた華族の資本60万円の転用を渋沢栄一等の発案で日本での海上保険の業務をおこなう本格的な株式会社ができた。この会社の人気がよく三菱は株数を減らされ20%の持ち株となった。東京海上保険は政府の保護を受けて設立初期はリスクの少ない貨物保険であったが保険料率計算に精通している人材がなく、後に問題となった時、政府の手厚い援助を受けた。

設立時東京海上保険は三菱系と見られていたが東京海上の日本代表の保険会社という自信により、三菱と他の物件も同一引き受け条件であった。三菱合資には不満がたまっていて第一次大戦末期三菱海上保険が大正7年に発足した。三菱海上保険は発足後数年で日本郵船関係の保険を奪取した。1920年頃から東京海上の増収率がマイナスとなり、1922年(大正11年)には17年(大正6年)の三分の一の保険扱高まで減少した。同じ期間に日本全体の保険は40%増えているので東京海上は大打撃となっていた。日本郵船にとって見れば東京海上が安く保険を受け負わなかったので当然の行動でもあった。
この危機を打開するため東京海上の各務謙吉氏は三菱合資の末延道成と談判し、東京海上保険は三菱海上保険を系列化し、東京海上は三菱系から三菱色の強い会社となった。
日本郵船の保険取扱い高が減ったのは、常陸丸の遭難の件のしこりが広く郵船一般社員にも知れ渡っていて、表向きは東京海上保険より安い三菱海上を得意先に薦めたのだが急速に減ったのは福神漬を食べるたびに事件を思い出していたと思われないか。

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べったら市は雨

2008年10月20日 | べったら市
べったら市は雨
明治の頃の新聞を読んでいるとべったら市の頃は東京でもかなり寒かったようで今の温暖化した東京と比べると何か冬と言う感じがしない。
 今年はべったら市は19日が日曜のため20日に期待するしかなく、べったら市につき物の雨がなさそうと思っていたら築地では20日の早朝2時頃からポチポチ雨が降って来た。
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遭難が認められても

2008年10月19日 | 福神漬
遭難が認められても
大正7年3月にはいると常陸丸の遭難のくわしい状況がイギリス・ドイツから情報が入ってきた。常陸丸の保険は船体には東京海上保険、積荷は各保険会社だったが、英国海軍の公報だけではまだ日本政府は戦時補償金を払わないと言う態度を3月3日までとっていた。
 最終的には日本郵船は戦時補償金を得たのだが一時は当事者間の行政訴訟も予定していたくらい緊迫していた。
 酒悦福神漬の木箱や明治屋の焼印のある練乳の木箱がインド洋で発見した時、日本郵船の社員はどんな思いであったろうか。当時の新聞紙上では保険金の問題と捉えていて会社の経営問題と見ていたような気がする。
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途中経過は忘れるもので

2008年10月18日 | 福神漬
途中経過は忘れるもので
結果がわかっている歴史では途中経過の様子が当事者以外は忘れ去るものである。大正の常陸丸も日露戦争の常陸丸の事件で忘れ去られ、第一次大戦後日本はドイツと友好関係になったためさらに事件の悲劇性を忘れさせられた。
 インド洋で常陸丸が行くえ不明になってから3ヵ月後から新聞の記事内容は戦時海上保険金の裁判が必至であると書いていた。そして大正7年2月、インド洋から常陸丸の捜索船が日本に帰ってきた。そこには池之端・登録商標・福神漬と焼印のある木箱と練乳木箱(明治屋の焼印)が見つかった。
 この証拠物件だけでは日本政府は戦時遭難とみなすことはできないと戦時保障法における保証金支払いを拒絶していた。
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大阪朝日新聞 大正6年10月

2008年10月17日 | 福神漬
神戸大学新聞記事文庫 海上保険より
 明治時代の新聞は漢字だらけで読みにくく適当に直したので意味が異なることもありますが大意をつかんで読んで。

『行方不明となった常陸丸は戦時保険を付けているがもしこのままに行方不明の原因判明しない場合保険関係は如何になるべきかに研究を要すべき問題である。従来行方不明となった場合には三ヶ月を経過した後に普通保険を支払い同時に戦時危険に由ること判明したる場合には之により保険金を支払うべき契約をするのが普通である。もし行方不明の原因判明しない時はかりに戦時危険によって沈没或は撃沈されたとする。その証明或は証拠のない限り之を認定する材料なきを以て政府は勿論戦時保険法を適用せず保験会社もまた普通海難として取り扱うほかないといえる。こうして若しかりに行方不明の原因永久に判明せず周囲の事情より推測して政府もこれを戦時保険と認められないとすれば保険会社は普通海難として保険金を支払うべきこととなる。荷主は大部分戦時普通両者の保険をつけているので何れにしても大なる相違なけれど保険会社より補償さるべき8割を得ることができないため其の損害はかえって大きい損害を免れず又船主たる日本郵船は海難等の普通保険は自社保険に付けてあるため全損に終るだろう。されば同社は此の際極力行方不明の原因を捜索して戦時危険によるものであることを証明するしかないと言える。右につき片山戦時保険局長は次のように語った。
 我が船舶にて地中海其の他において行方不明となったものは松昌洋行の千寿丸を始めとし実例乏しからずといえども保険関係に於て戦時補償法の問題を起こしたものは今回の常陸丸を以て初めてとする。戦争に基因せる故障により沈没せること明瞭とならば政府は東京海上保険会社外一社が常陸丸船体及び荷物に対して契約せる保険金の八割の補償をすること当然のことだが、今日の行方不明の状態が継続し且つ遭難の原因を知るに方法がないとすればここに保険補償法上の新問題を起こす次第である。遭難の原因が戦争上の事故であるかないかを証明する責任は補助(保険?)請求者(日本郵船)で従って今回の行方不明のものに対して日本政府はこれが補償をするべきでない。 』 大阪朝日新聞 1917.10.27(大正6)
上記の原因を調査するため日本郵船はインド洋に調査隊を派遣したのである。他の新聞記事からも日本政府・東京海上・日本郵船の間に色々な保険上の問題が生じていたのである。この新聞記事はまだ遭難してから間もない時期なので後の展開を想定していなかった。福神漬の木箱の残骸を調査隊がインド洋で発見した状況はこのような事情のもとであった。

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