年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

9月になれば

2011年08月31日 | 築地市場にて
暦が9月になって、11日が過ぎれば震災より6カ月経った事になる。東京都から放射能で汚染された農水産物の出荷制限のメールが最近再び来るようになった。一時は解除のメールが多かったのだかやはり講習会で予想されていた品目が出てきた。来年は山菜・きのこ類が危険であるという。と同時にそれを主食としている動物、つまり野生のイノシシ、鹿、熊類が危ないという。あと何十年と南福島は汚染されているので平成の遺跡となるのだろうか。
 先の大戦で都会の子供たちは空襲を恐れ、非都市部に避難した。この原発疎開を後世にどう伝えるかは今後の復興のスピードの問題である。ようやく物価も上昇しつつあるので、少しはカネ回りの速さが増すかもしれない。学生さんには悪いが肉体労働系の仕事は増えてきて人手不足が目立ってきた。コンピュ-ターの発達で事務職は減りつつある。最初の人手処理入力が終われば事務はほとんどない。
 そろそろ新市場の相談所へ行って、要望を出さねばならないだろう。省エネとか障害者雇用用の設備と障害者施設の値引き等を出そうと思う。今の築地ではエレベーターもなく障害者トイレもない。少なくとも3万人以上程築地市場で働いているから100人程度の障害者雇用は可能であると思われる。31日日本経済新聞に豊洲汚染除去工事の入札の結果が記事として出ている。どうやら予定通り進んでいるようだ。来年夏にはおおよそ汚染除去工事の目途が付き、来年秋には本体基礎工事が始まるだろう。
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解散恐怖症から

2011年08月30日 | 築地市場にて
どうやら6年間に首相が6人代わって次の7人目も1年持つのだろうか。金のない国が公約手形の連発も決済の見込みもなく、ばらまかれた金は消費することなく貯蓄となる。デフレの恐ろしさは消費より貯蓄の方が有利で、仕方なく消費せざるを得ない人が財産を減らしている。日本に貧乏人・病人・高齢者・弱小企業のみの国となって、金持ち・大企業は海外に資産を移す。高学歴の人達も就職して赴任する国は昔と違って、インドや中国から次の発展途上国となる。
築地市場に来た候補者は落選する。鹿野さんも築地に来たので落選となった。築地市場に来た管総理も築地川のボラを見ただけで帰った。築地市場は下げ(デフレ)パワースポットとなってしまった。
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まとめの前に

2011年08月29日 | 福神漬
そろそろまとめ
明治事物起源を著した石井研堂は缶詰のはじまりでどうして島原の乱から書き出したのだろうか。明治事物起源の本は多くの項目が出典と始まった時期を書いてあるのみである。ここ何年かの福神漬の調査で缶詰の項目は山田箕之助から聞いたのは無いのだろうか。根岸に居住していた石井は明治の末に日暮里諏訪台にある浄光寺の福神漬顕彰碑から調べたのではないのだろうか。福神漬の起源を石井は缶詰の起源とし、中に福神漬だとそっと文章の中に入れたのではないのだろうか。池之端の缶詰と言えば戦前は酒悦の福神漬缶詰だった。
 この缶詰の始まりの文章を少し検証する必要性がある。
1 なぜ島原の乱から書いてあるのだろうか。
2 なぜ近藤重蔵の話があるのだろうか。
3 なぜ北海道開拓の話が入っているのだろうか。
4 なぜ五稜郭で喜兵衛が戦死したのを書き入れたのだろうか。
5 なぜ日本缶詰協会の歴史に石井研堂の日本の缶詰の始まりの話が消えているのだろうか。

石井研堂は明治33年に中浜万次郎(ジョン万次郎)の伝記を書いている位、漂流民の記録を収集していた。ここから鎖国の時代をこじ開ける事を書きたかったのではないのだろうか。藤田茂吉の『文明東漸史』(1884年)と同じ視点である。
福神漬の命名の経緯や販売促進活動の過程を見ると近代日本史の別の見方が出来るかもしれない。
 食べ物はおいしく売れなければ消えてゆく。弾圧によって消された記録も記憶として残る。

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小林清親 《海運橋(第一銀行雪中)》から

2011年08月28日 | 築地市場にて
1876(明治9)
何気なく、『開花の築地・民権の銀座』と言う本を読んでいた。そこには小林清親の浮世絵があった。雪の第一国立銀行が海運橋のところに立っている絵である。女性が持っている傘には銀座・岸田とある。当時の岸田吟香が販売していた目薬「精水」の宣伝だろう。
 小林清親・原胤昭・戸田欽堂など関係がこの本で良く分かる。明治9年頃は銀座で花香恭次郎が記者として働き始めている。原と同じように築地の協会で洗礼を受け、岩手県に行った鈴木舎定と花香は後に仙台で会っている。鈴木舎定は明治17年に病で死去するのだが生きていたら加波山事件に参加するはずだったという。

決定的な史料は中々見つからないがほぼ同時期に銀座で浮世絵『天福六歌撰』のメンバ-がいた事となる。
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円高

2011年08月27日 | 築地市場にて
アメリカから来客があって。円高の話となる。寿司ブームがアメリカにやって来るまで、アメリカのスーパーの魚売り場は貧弱であった。冷凍魚しかなく、生の魚を食することもなかったので、魚の管理も良くなかった。これらの指導はすべてと言って良い位、日本人が指導した。魚売り場に寿司を提案し、販路を拡大したという。今では昔と違って日本人の居住していない地区にも寿司が普及して、漬物の甘酢生姜(ガリ)の現地で加工し採算が取れるまでに拡大した。アジア産生姜を日本で加工しアメリカに輸出している時もあったが円高と中国工場の品質の向上で、今では中国から直接欧米に輸出するようになった。
 最近の中国の物価上昇から何時まで中国から安い漬物が輸出出来るか疑問である。またどこかの国へ生産地を移すしかない。ここ10年先はベトナムだろうか。まだ港湾設備とかいろいろなものが不備で時間がかかるが前例があるので意外と早く移転するかもしれない。
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移転の季節へ

2011年08月26日 | 築地市場にて
盆開けて、気温が低下し、築地市場の節電を呼び掛ける場内放送も絶えた。30度前後の気温ではエアコン・冷蔵庫の稼働率が落ちるので、無理した節電をすることもない。暗い市場はそれでなくとも不景気な気分をます。放射能の過剰反応は食べるもの注意を喚起するが偏った情報から得た知識は関係者を惑わす。
 こんな時に地震の後遺症がボチボチ目に付くようになって補修することになった。あと3年程持てばよいので修理となるのだが築地近辺の小さな工事を行うところは既に消えていて相談するにも困る状況である。この前節電のため網戸を頼んだガラス屋さんの話だと中央区で私のところしかありませんと言う。そのガラス屋さんでさえ貸しビルらしく電話しても転送になる。秋になれば本格的に豊洲へ移転する話が進む。
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大和田排水機場

2011年08月25日 | 福神漬
京成電車で成田へ向かうと途中で川をせき止めた水門が見える。一見印旛沼のように見えるのだが地図上では川をせき止めた水門である。いつも電車から見かける水門は閉じていて、なんの役目を果たしていたのかは気に留めなかった。戸田寛十郎氏栄が天保の時代に印旛沼工事に目付として参加しなければ大和田排水機場が出来た経緯を知る事もなかっただろう。この水門は昭和42年に完成したので江戸時代に計画が出来てから何年かかったのだろう。利根川の治水と印旛糠干拓で耕地の拡大が得られたのだが天保の時代はこれに水運の問題が含まれていた。当時度々異国船が日本近海に出没し、東京湾口を封鎖されれば、消費都市江戸の物資不足を招く事となる。この事を懸念した幕府上層部は印旛沼工事によって、別ルートで物資を江戸に運びいれる事を考えていたようである。
 幕府の力が落ちている時の手伝普請は、幕府に命じられた諸藩の抵抗が予想され、工事を監督する目付は不人気な役職だったと思われる。戸田氏栄は長い間江戸幕府の歴史関係を調べていたようで、過去の前例等を熟知していて大がかりな手伝普請に際し、任命されたと想像できる。ほんの二~三カ月の赴任期間で氏栄は工事の完成が不可能であること見抜き、この事を老中水野忠邦に進言し、駿府町奉行に左遷された。氏栄の左遷によって、浦賀奉行への道が開け、彼の性格から開国の方針で再び左遷され、その遺児たち達に意思が伝わった気がする。
 福神漬の命名の経緯を調べてゆくと色々知らなかった史実が今に伝わる。
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芸者の写真集

2011年08月24日 | 福神漬
歴史への招待29 日本放送協会
岩崎弥太郎 幻の写真コレクション
明治18年岩崎弥太郎が死の床にあった時、枕元に手文庫があった。その中には当時の東京花柳会の芸妓の写真が百数十枚入っていた。その後散逸し。復元した82枚に関しての記述であった。
 明治の10年代に創生された福神漬は缶詰という容器に入れて販売されたため、高価格となり、当初は売れゆきは良くなかったようである。酒悦店主は販売促進するため、同じ町内で明治の販売促進活動では先進的な守田宝丹の活動を見習い活動した。当時の消費リーダーである芸者・役者・学者・医者等に売り込みをかける必要があったと思われる。特に下谷の人たちが応援していたようである。岩崎弥太郎の写真集82枚のうち、10枚ほど下谷の芸妓の写真があっという。数寄屋大茂は記録によると三菱のおかげで繁盛したという。横浜富貴楼のお倉と下谷芸者の関係もあったと思われる。お倉は歌舞伎役者とも交友があり、ここで酒悦のホームページに出てくる5代目菊五郎との関係も出てくるのだろうか。

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塩は冤罪だったか

2011年08月23日 | 築地市場にて
盆開けて急に涼しくなって、そろそろ節電の夏の総決算をする時期となったようである。
 2年連続で夏場の熱中症予防のため、水分と共に塩分摂取することを勧められた。塩入りのアメとか飲料水は販売が好調のようである。塩分は高血圧の原因の一つで戦後は塩分を少なくすることが求められていた。塩は発がん物質の一つとも考えられていたが、胃がんに関してはピロリ菌のほうが影響は多そうで漬物に関して報道が減った気がする。今市販されている漬物は3%代の塩分のものも増えてきて、昔のことを知っている人は物足りない。低体温のもとは塩分が少なくなってしまったためではないのだろうか。
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中央区京橋図書館郷土資料室で

2011年08月22日 | 築地市場にて
中央区京橋図書館郷土資料室は江戸時代から明治に至るまでの資料が多数保存されているところで南茅場町の史料も多数ある。その多くは南町奉行所与力だった佐久間長敬・原胤昭等が書いたものを元にしたのが多いように思える。
 原の数奇な人生は福神漬の資料を調査するには実に邪魔な存在である。しかし「天福六歌撰」という浮世絵配布事件は彼の人生を変えたし、福神漬の命名に関して多大な影響があると思える。そこに時期はやや遅れるが明治18年10月ころ発足した日本郵船株式会社が本社の所在地とした。南茅場町16である。河村太郎兵衛の所有で93坪325円と記載されている。(明治6年)なお隣地も河村氏の所有である。明治44年の地図では17番地と18番地は渋沢倉庫となっていた。93坪で発足した日本郵船は本当にここで本社機能があったのだろうか。明治19年11月に横浜に本社を移転している。ほぼ福神漬の命名の時期と想定していることと重なる。

どこの図書館でも郷土資料のところは空気がよどんでいて過去の霊がウロウロしている雰囲気がある。
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原胤昭

2011年08月21日 | 福神漬
原胤昭という人物を知って、調べて1年が過ぎた。江戸南町奉行与力の子として生まれ、維新後クリスチャンとなり、福島事件関連で投獄後、犯罪者社会復帰支援の活動をした人物が福神漬の命名に関して裏で関係があるとは知らなかった。福神漬に関して原の交友周囲や地縁があるかもしれないと最近では思いつつある。
 今度は南茅場町16番地に明治18年まで所有した人物を探すこととなる。ここは明治18年に発足した日本郵船株式会社の最初の本社となる。翌19年11月1日横浜市尾上町6-86に本社を移転している。江戸時代から南茅場町は与力同心の住んでいた街で明治に入っても比較的江戸時代から住んでいる人達が比較的多い土地だった。そのような土地に日本郵船が本社として選んだろうか。今の証券会社が集積している街に南町奉行所与力原胤昭、花香恭次郎が一時勤めたか住んでいた所、カレーライスと福神漬の関係を社内報に掲載している日本郵船が同じ南茅場町に関係があるとは予想のつかない展開となる。

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37・38年戦争の福神漬

2011年08月20日 | 福神漬
日本缶詰史によると、日清戦争時の統計には福神漬という缶詰の項目はなく、野菜缶詰という項目がある。しかし日露戦争・第一次大戦・シベリア出兵時の軍用福神漬缶詰の数量は約200万個で全体の軍用缶詰食品1千万個の20%を占めていた。
 福神漬の言い伝えでは日清戦争から福神漬缶詰が軍用で使用されていたとあるがこの時期はまだ樽詰めの福神漬だったようである。大倉喜八郎の大倉組から献納された東京名産福神漬は樽詰めだった。
どこからの話か最初から軍用福神漬は缶詰で納品されていたということではなく、資料上日露戦争の前からである。
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自由新聞

2011年08月19日 | 福神漬
明治18年9月1日自由新聞

この日に福島事件の判決があったのだが同日の記事で福島事件の被告人を思いつめた女性の記事がある。高校日本史の教科書にも載っている自由民権運動福島事件の被告人6人のうち、唯一東京士族であった花香恭次郎の存在がなければ、裁判を行っていた高等法院に徹夜の傍聴人が並ぶこともなく、さらにうら若き女性が被告人に熱を上げる事もなかっただろう。この風俗が当時の大新聞(政論を主に扱う)から小新聞(事件・歌舞伎・遊郭等の風俗を主に扱う)まで福島事件の公判傍聴記録を掲載した理由と思われる。
 自由新聞(9月1日号)より
日本橋区堀江町(今の中央区日本橋小舟町あたり)の商家の娘は父より新聞を読み聞かせられていたが福島事件が起こって,高等法院の審理が始まるといっそうの関心を示し、今日の弁論は如何に、あすの陳述は如何にと各新聞に記載されている公判記録を読んでいた。『習うより慣れろ』の例えの通り、妻子らも福島事件の内容が理解できるようになり、甲の弁論は勇ましく、乙の陳述はさわやかだと品評しているうちに、被告人の一人が娘の近所に住んでいた(南茅場町)事を知り、恋焦がれて病気となってしまったという。
 内田魯庵の自由民権運動の思い出に出てくる内容と似ている。この裁判が時間の経過とともに社会風俗現象の部分が消えてしまって、政治性の部分が残ってしまったように思える。
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韓国系のキムチの苦戦

2011年08月18日 | キムチ
盆明けの食品情報誌の記事で大阪韓国系のキムチ業者の民事再生法申請後の事が書いてあった、どうやら04年は3万2千トン韓国からキムチが日本にやってきたが10年は2万4千トンしかないという。今のウオン安でこの程度なので為替が反転したら中国産キムチにとって代わるのは必至と思われる。機械化が進む日本のキムチ製造は当分国産の調味料味キムチの安値攻勢が続きそうである,
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節目

2011年08月17日 | 築地市場にて
日本罐詰史を読んでいると40年ほど前のニクソンショックによる為替の変動で日本の缶詰産業は衰退したという。1ドルが360円から77円ほどになった現在どれほど輸出できる缶詰があるのだろうか。
 平成23年は和牛業界では悲惨な年として記憶されるだろう。すでに半年で大事件が3件も起こっている。生肉による食中毒、和牛の放射能汚染、民事 再生法の適用を申請した安愚楽牧場の事件である。この様な事件が連続して起こるとある程度年月が経ってしまうと徐々に変化した市場に記憶が消される。
 三浦大根として有名な大根の産地も青首大根系の品種に変わったのはある年の10月末の台風が原因である。今では東京市場に12月25日に昔ながらの砲弾型の三浦大根が入荷する。重くて農家泣かせの大根は作付けが減ってしまった。
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