あまり知られていないが日本橋魚河岸が築地に移転したことになる関東大震災は震災の結果で移転したことではない。震災と同時とも言ってもよく、飲食物の安全を確保する名目で治安維持機構(国家権力)が日本橋魚河岸のみを長期立ち入り禁止した。他の市場は活動していた。このことは東京府等の暗黙の意図(日本橋に魚河岸を再建させない)があったようだ。市場史には記載されていないが日本橋魚河岸の関係者は他の土地を探すしかなかったようだ。しかし板船権という不動産的な権利の処理の問題と新たな中央市場を探す困難が続いた。そこで海軍の施設跡地に市場が建設された。これは成田の御料牧場に目を付け空港を建設したことと似ている。空港も騒音と軍事基地になるという懸念で反対が予想されなかなか土地の買収が困難と予想されていた。日本橋魚河岸も今と違って中で働く気風が新たな土地周辺の住民に嫌われていたようだ。今度の豊洲でも江東区の懸念は表向き交通混雑と言うことだが公道を無法走行するタ-レ-を嫌っていたようだ。
今の日本は治安維持法は無いが築地市場の17日に完全封鎖し解体に向かったのは東京都によって電源遮断されで無理して入っていても食品衛生法違反として取り締まることも出来る。マスコミに築地市場のネズミ報道させ、食の安心安全を懸念させた。これはJR秋葉原駅前にあった神田青果市場の移転問題のゴタゴタを築地市場完全封鎖するための前例とした。行政の実に巧妙な築地市場封鎖の誘導手段とも言える。
今から思うが築地市場は安心安全な施設だったのだろうか。中で働いていた身からとてもそうは思えない。
幻となった戦前の東京オリンピックも日本橋から築地に移転したことも関係ありそうだ。勝鬨橋の歴史から行政の意図が感じられる。