年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

都知事選挙の投票権の棄権の誘惑

2024年06月30日 | 宅老のグチ
都知事選挙の投票を断念しようと思っている。明治の自由民権運動・国会開設運動などで多くの若者が言論弾圧で死んでいった。この投票権を行使することなく過ごすのは無念の気持ちがのこる。一票の投票行使によって未来というか三から四年の委託となるが、選挙期間の言論の拘束が日本では無視されていて、予期せぬ事態でほぼ一任となる。
 従って右も左も結果としては責任を取らないし、時間が経てば検証もない。多くの事柄は日本では自然災害で記憶から消える。この柔らかい考えというか無節操の日本では日本国内でウクライナ・ロシアの人達が奈良公園で鹿にエサを与えている。中国の人も居て、奈良公園には馬がいないが始皇帝のような人がいる中国では、日本の鹿は中国では馬と言うことになりそう。この故事を知っている日本人はどれほどいるのだろうか。
 バカという言葉の始まり。
 叔父の特攻から軍隊の生活で上官の命令に絶対服従はなぜ必要か判った。日本の歴史で軍隊という考えが入ったのは高野長英は翻訳した三兵タクチーキ゚からである。1847年(弘化4年)に高野長英がオランダの兵学書「Taktiek der drie wapens」を翻訳し、『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』として紹介している。-三兵とは歩兵・騎兵・砲兵でタクチーキ゚とは用兵・戦術という。この本から近代日本軍が生まれ最初に実用化したのが薩長軍のようである。
 ほぼ個人の意思を無視した日本軍は226事件の反乱軍に参加した埼玉の農民に軍隊内の裁判でなぜ上官の命令に従ったのかと尋問したようである。先の戦争でB・C級裁判で捕虜虐待で死刑となった兵士が目立つ。
 選挙の投票の棄権は選挙権の獲得闘争の苦難の歴史を知っているが故、今の候補者へ一任する行動をとれない。都の行政業務の95%と以上は都知事に誰がなっても決まった業務と予算となることを知っている。要は知事は行政のやる気を出させる人が望ましい。政策は方向性しか出せない気がする。
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75歳からの後期高齢者保健証の送付は

2024年06月29日 | 宅老のグチ
75歳の誕生日の少し前に、後期高齢者保健証が届く。その後も生きている限り、更新があり、さらに生存確認の書類も各種届く。運転免許証も75歳までは、無事故・無違反なら5年ごとの更新が75歳を過ぎると3年毎の更新となる。そこには日本国憲法の平等の精神というべき、一律性があって75歳の現実を知る。
 特に後期高齢者保健制度は年々受給者数が増え、さらに医療費が増えて、現役の労働者からの拠出金援助も限界に来ている。数年前に山中湖へ行ったのだが、以前に多数あった大学寮と企業の保養所がずいぶん減っていた。時に企業保養所は景気低迷時の健康保険組合の財政が厳しくなり、手放したと言われる。今の高齢者の激増は将来も若者の支援が必要となっていてすでに限界まで来ていて、これ以上の負担を若者にさせるとますます少子となりそうだ。
 予想される、不都合な日本の10年後は出生者が50万人で死亡者が170万人で差し引き、毎年120万人が減る。しかしこの数字は異国人居住民の数字が含まれていないので、見た目には人口が減っていないように見える。つまり外国人観光客が短期の観光でなく、長期となれば日本での食事の回数も増える。今年の予想観光客数が3650万人とし、10泊平均とすると、オーバ-ッ-リズムという言葉が京都・鎌倉・浅草等で実感する。これ以上の複数回訪日客が増えると地方にも回る。米の在庫が急減していて、特売どころか良いコメの奪い合いという。この理由として昨年の猛暑による品質劣化とコロナ明けの外国人観光客の激増という。
 後期高齢者の3割負担の人は厚生労働省の報道では7%程度という。そして1割負担から2割負担となったのが20%の人という。これも激変措置と言って、ある年数は大幅に上がらない気がする。後期高齢者の保険証に3割負担と明記してあって、何かいかがわしと感じる。そのうちマイナンバ-カ-ドで健康保険証になれば毎年送付する保険証がなくなると思うがどうなるのだろうか。
 それとも3割負担の高齢者のマイナンバ-カ-ドはゴールドカードになって医者・医療業界のぼったくりに合うのだろうか。後期高齢者の3割負担の人を狙う業界がまだ見えない。
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やっと国会図書館デジタルを使いこなす

2024年06月28日 | 福神漬
国会図書館の利用者カ-ドを作って、コロナ期間中の利用実績もなく、再度使おうとしたら、期限切れで作り直しとなった。その時に一度でも入場ゲ-トを通過すれば良いとのこと。そこでネットでも良い事を知り、やっと検索でも良いから、自分のIDとパスワ-ドで時々国会図書館デジタルに入る。
 東京都の中央図書館の司書さんの検索手際を見ていて、これなら自分でも出来そうだなと思いやってみた。
 大槻文彦の高野長英行状逸話(復軒雑纂)という明治期の本をパソコン画面に出して、印刷して読む。大槻文彦は日本で最初の国語辞書(言海)という辞書を編纂した人でもある。この辞書の古書を購入して、明治期の言葉の解釈としている。それはナタマメという言葉がどんな意味だったかを知りたかった。そこから日本缶詰協会の機関誌(缶詰時報)時々パソコン画面に出して、福神漬を検索すると、大正の震災後に結構出て来る。それが先の戦争の時に検索すると何か出てこない。まだ理由は不明だが金属不足から缶詰入りの食品は軍需物資なので宣伝が必要で無くなったのだろうか。
復軒雑纂という大槻文彦の文集を検索すると、東洋文庫に1冊ある。そこで借り出しを計画し内容を読むと国語学系の本で、今読みたい部分はまだ企画の段階のようだ。復軒雑纂は明治32年の出版なので、高野長英の基本文献を作成した高野長雲(高野長英の曽孫血縁関係はない)という人の研究する前の出版と思われる。

長英の死後の情報はどこから来ているのだろうか。
妻ゆきの釈放後の様子はすぐに消える。子ども状況も女子一人が面倒を見ていた人に遊女として売られ、遊郭内にいた時地震の倒壊で亡くなったという伝聞が残る。いかにも真実性があるように見えるがどこか違和感がある。そこで後の出来事から推測すると、次のような解釈が成り立つように見える。
 嘉永3年に幕閣上層部(阿部正弘・筒井政憲・遠山 景元等)数人が異国船打ち払い令の再開問題と株仲間の再興を画策していた。所が株仲間の再興の情報が洩れると利権と思う人たちのもめ事が出るので調整の秘密性が必要だった。この時期に高野長英の捕縛死事件が起きてしまった。
 藤岡屋日記という江戸市中の情報を記録している本から、当時でも内田弥太郎が釈放されたのが不可解と思う人があったようだ。長英の逃亡を記述している本はほとんど内田弥太郎の事を逃亡の支援者としている。宮城(宮野)信四郎は親族でもあり、流罪となった。そして明治元年の赦免となった。十数年の流人生活は内田の資金援助が新島に行っていたと思われる。新島を始めとして伊豆七島の代官は36代江川太郎左衛門(英龍、号・坦庵)の時代でした。砲術家の下曽根金三郎とも交流があったと思われます。尚歯会の仲間が高野長英・内田弥太郎・下曽根金三郎が嘉永3年秋に江戸にいました。この時期は夏になると、下曽根・その手付として内田弥太郎が浦賀奉行で仕事をしていました。浦賀奉行は二名で構成され、」一人は黒船来航時の戸田伊豆守氏栄でした。
 高野長英が死去後の嘉永3年11月.12月は戸田氏栄・下曽根金三郎は藤岡屋日記によると江戸にいました。幕府の留守居役だった筒井政憲の息子が下曽根金三郎です。つまり内田弥太郎を長英逃亡の支援者として断罪とすると、上司の下曽根金三郎も処分せざるを得なくなります。そこからもみ消し工作が始まったと思われます。
 筒井家の家は今の日本テレビ麹町の付近に家がありました。そのそばの二番町に火付盗賊改めの職に比較的長く勤めた御先手弓組旗本長井五右衛門の家がありました。嘉永4年からペリ―が来た嘉永6年の間に筒井の斡旋で長井家の一人娘と戸田伊豆守氏栄の三男の養子縁組がありました。この夫婦に明治元年に男子が生まれ、総太郎と命名されました。長井総太郎・別名鶯亭金升で福神漬の命名の経緯を語っている人です。さらにペリ―来航の後に戸田は閑職の留守居役になりその時4男の鉄丸が生まれました。これがのちの花香恭次郎(自由民権家)となるのです。この養子斡旋にも旗本長井家の意向が感じます。内田は長英逃亡の事件のもみ消しを長井家が担ったと恩義を感じていたようです。この養子も二つの狙いがあって、嘉永年間に長井家に入った夫婦に子供が出来ず、厄介扱いでいつでも花香家に言い含めていた記録もあります。花香家ではすでに養子がいるのになぜまた養子をむかえたたかの疑念があって若様扱いのようだったと言っていました。
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宮城信四郎と宮野信四郎

2024年06月27日 | 福神漬
嘉永3年10月30日(旧暦)この日の闇夜に逃亡中の高野長英が死去した。江戸南町奉行の配下与力たちが青山の潜伏地に夜間に捕縛に向かった。江戸時代は生かして捕まえるのが基本であった。そこで色々な生かして捕まえる方法が文献に残る。
 長英の死後に青山の隠れ家と逃亡先を手配した人たちが捕まった。嘉永3年12月の終わりに南町奉行遠山 景元(金さん)が判決を出し、松下寿酔,松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでと宮城信四郎の4名が流罪となった。松下寿酔は取り調べの獄中で死去したという伝聞が藤岡屋日記に見える。
 この件で都立中央図書館の司書さんに1階の東京の地方史の新島村史流人編の本を持ってきて、宮野信四郎の所を見せ高野長英を調べてもらった。
 すると司書さんの検索で国会図書館の蔵書がパソコンの画面に現れ、基本の文献が高野長雲という人のようだ。多くの高野長英の研究はこの人の文献から始まる。この流人記録の件に関してコロナ期間中に、東京都の公文書館で聞いたところ、流人の記録は出版されたものしかなく、松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでの記録が見つからない。伊豆の流人島は新島・三宅島・八丈島で他の島は不祥事の時に移動されたようで記録が少ない。流罪となった人は幕府の恩赦があった時に釈放される。この恩赦による釈放も江戸での支援が無いと釈放される人選から漏れる。さらに島での扱いも、流人の支援者の資金によって異なり、生かされるようだ。
 地獄の沙汰も金次第という言葉が今に残る。江戸時代は多くの縁故者の支援で牢獄での待遇が良くなったりして生き残る。また牢関係者はこの賄い金で生活を維持している。従って長い未決期間でも牢関係者は良かった。この仕組みは中国の刑法制度から来ているように見える。同様の事例が文献に見える。やはり実際の死罪より、投獄中の衛生環境で病死の例も多いようだ。ここから明治の不平等条約改正で取り調べの拘置所の衛生問題が出て来る。これは法制度以前の問題で明治政府の歴史観がロシアを負かして条約改正となった記述は誤りで、監獄の衛生環境がようやく日露戦争の時代に追いついたということである。日清・日露の戦争で多くの日本兵士が亡くなったが、特に日清戦争では戦闘で亡くなった人(1417人)より、脚気等による病死(11894人)、台湾征討戦では台湾の風土病で朝鮮半島の死者をはるかに上回った(台湾では10236人)。またこの台湾での死者数の扱いは、今の日本史でも少なく扱われている。それは朝鮮半島の戦病死者数だけが日清戦争の死者数となっている記述が多い。このほかの日清戦争の死者は中国人3万人、朝鮮人3万人、そのほかの非軍事関係の死者数もあるという。いわば災害関連死のような死もあるという。
 宮城信四郎(宮野信四郎)の生存は高野長英の死亡後の記述はどの本が正しいのか判らないが明治の自由民権運動福島事件の被告人の花香恭次郎の出生に関連してくる。恭次郎の恭は内田弥太郎の諱(いみな)が恭である。今の千葉県旭市にある花香家の東福寺墓地に恭の名前がある人物は養子で迎い入れた人であって和算系の人と思われる。関流和算家内田五観(弥太郎)から名前の一字を付けたと推測される。また東福寺内には内田五観の撰文による花香安精の碑がある。花香安精の集めた和算書は今は千葉県の県立博物館に寄付されている。房総数学文庫という。
 嘉永3年末の遠山裁きは明治維新に繋がり、明治の改暦と西洋の計測と日本の計測との整理統合が内田弥太郎によって行われた。従って、彼が長英逃亡の罪で流罪となったら、明治日本史はかなり遅れた日本となる気がする。上野の国立科学博物館には内田の集めた一升桝と物差しが所蔵されているという。
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南千住の回向院 相馬大作の碑

2024年06月26日 | 宅老のグチ
荒川区の郷土資料のある荒川区ふるさと文化館へいった。都営浅草線で浅草駅で降りて、荒川区役所行きの都バスに乘り、千住大橋バス停で降りる。降りたところに大きな神社があって、その後ろに文化館がある。荒川くふるさと文化館には図書館が併設されている。ここには荒川区の郷土資料があって、荒川区の高齢者と小学生は無料のようだ。その他は100円。この百円の価値はあるか無いかは、ネット評価で点数の低い理由に100円がある。多くの都内の郷土資料館を見ていると、この百円は展示内容の質から見ると高い。もし入場人数のデ―タがあれば人件費どころか光熱費の出ないほどの閑散風景があった。併設の図書館へ行くと50人ほどの高齢者がエアコンに効いている室内で本を読んでいる姿が見えた。ここは無料。
 南千住1丁目には圓通寺という寺院に彰義隊兵士の遺骨を納めた墓があって、さらに三河屋幸三郎の墓もある。この人は圓通寺の住職と共に無人となり荒廃した上野の山に放置されていた彰義隊兵士の遺骨を荼毘にした。福神漬を調べていくと資料に出て来る頻度が多い人でもある。
 図書館で回向院の資料を探したが、荒川区中央図書館での本より見つからなかった。ここを出てJR南千住駅に向かう。
 回向院の本を読んでいたら、鉄道の線路で広大な墓地が分断され、今の位置に寺院が残った。さらに回向院の前の道路工事で寺院の改築、墓地の再編があったようだ。回向院の入り口にたどり着くと吉展地蔵が目に入る。これは戦後に起きた幼児誘拐事件で下町の記憶遺産でもある。圓通寺にも吉展地蔵尊がある。この理由は誘拐後すぐに殺害し圓通寺の墓に放棄したということから来ている。
 回向院は昼前と言うことで、ほぼ人の気配はないので入り口の説明版を読んで、入るというか目に付いた墓を見に行く。きっちりと観光客用の墓と個人の墓と分離されている。二列の通路で右手に大きな相馬大作の慰霊碑がある。多くの人の賛同者名があって、驚く。鶯亭金升日記に同僚の記者より何か聞いていた事実があって、書きたくない雰囲気を感じていて、自分が気になっていた。岩手県の歴史で相馬大作が江戸市中で鶯亭金升の祖父に当たる火付盗賊改の職にあった長井五右衛門の配下が捕まえ、断罪した。この事件から回向院が政治犯の埋葬場所となったという。20万人以上と言われる、小伝馬町牢獄で獄死、処刑された人の埋葬場所という。
 自分が高野長英逃亡事件の資料がある回向院の過去帳と見ているがどうなのだろうか。後は新島村にあるのだろうか。そして高野長英の逃亡を助けた内田弥太郎がなぜ罪に問われなかったのか。

 これは自分の想像だが嘉永3年春、長崎からオランダ使節団が江戸参府となり、幕府にオランダの軍事に関する書物を贈呈した。この翻訳を通詞の立石得十郎に任せたが、翻訳の質が良くなく、苦労していた。軍事の用語は医学用語と似ていて、平時の言葉と違い、発音のまま訳すと中身が不明となる。回向院の腑分けで蘭学事始めのエピソ-ドが解かる。顔の中心でうずたかい。これが鼻ということ。軍事の翻訳は当時のオランダ語の一人者であった高野長英と思っていたが逃亡から時間が経って、死亡したと思われていた。ところが翻訳後に転々として転記したオランダ軍事書の翻訳が素晴らしいため、高野の生存説がうまれ、「尚歯会」(しょうしかい:知識人の勉強会)で仲間として活動していた下曽根金三郎と内田弥太郎に高野を探すように依頼したと思われる。そこから勝海舟の所に嘉永3年9月か10月に高野長英が訪問した記録があって高野の贈呈した本が国会図書館にあって、本物のようだ。ここから高野の役割はキリシタン屋敷の幽閉したシドッチの様に捕縛し、幽閉し翻訳の仕事をさせる幕閣上層部に意向があったとおもう。しかしこの意向が南町奉行にもれ、江戸市中に生きていてはメンツが保てない南町奉行配下の役人たちによって暴行されて死去となった。この理由から内田弥太郎は逃亡援助の罪を逃れ釈放され、さらに表向き流罪となり新島に行った宮城(宮野)信四郎を金銭の援助をして、流人生活を生き残り、明治になって釈放された。
 
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上野戦争(彰義隊)を語るとその人の歴史観が現れる

2024年06月25日 | 宅老のグチ
荒川区の中央図書館の郷土資料室で荒川区史とか地域の歴史書を読んでいた。多くの明治維新物の本と違って荒川区民の郷土資料の維新史は幕府方の逸話が多く書かれていて、いかにも寛永寺の恩恵を受けていたことを知る。荒川区の主要な地域は寛永寺の寺領地だった。たった半日の戦闘で敗北し、逃走した彰義隊の人達の逃亡支援の様子がが今でも言い伝えとして残る。同時に朝廷方の天才的軍略家だった大村益次郎を讃える書き方していて、それなりの戦前の史観に合わせる工夫がある。それから敗戦後の一応明治の歴史観・幕府は悪、薩長政権は正義という歴史観で戦前は統一されていて、その中で評価の一番難しいのが上野寛永寺に立てこもった彰義隊の名目上の旗頭だった寛永寺の輪王寺宮の評価で、通常は静岡での西軍と交渉した当事者の名前で覚王院義観が中心となる歴史記述となる。この時の様子は後々の歴史のため、隠されていてはっきりしない印象がある。ひたすら恭順という姿勢で征東の有栖川宮と交渉に臨んだが無視され、江戸に戻ることになった。一応幕末史や小説ではこのようになっている。
 上野での彰義隊の敗北後に、輪王寺宮と覚王院義観は東北に逃れ、宮は投降し、京都で蟄居となる。覚王院義観は捉えられ、西軍の食料を拒み餓死したという。・
そんな関係で荒川区の郷土歴史の所へ行く。
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力道山生誕100周年のイベント

2024年06月24日 | 宅老のグチ

5月の終わり頃、キムチの歴史で資料調査に行っていた麻布十番駅付近の在日韓人歴史資料館からメールが届いていた。確か土曜日は訪問するビザ取得者が少ない日だと思い、力道山生誕100周年のイベントに行ってみることにした。コロナ以前はキムチの歴史で3階にある受付の奥に図書室があって、日本語とハングルの本がある。そこの日本語の背表紙を見ているだけで、複雑な気持ちが出る。この気分は横浜にある海外移住資料館 閲覧室の時の気分に似ている。今の移民・移住の事情は知らないが明治のハワイ等の移民は出稼ぎの意識があって、今日本に来ている不法移住者とほぼ同じと思う。普通の日本人は知らないが戦前・戦後の昭和60年代まで、海外に在住している日本人とその子孫へ故郷を偲ぶ日本食品の貿易は業界用語で(たくわん貿易)といっていた。
 朝鮮半島と日本との付き合いは記録の無い時代からの付き合いで、そこには争いの歴史だけが記憶に残る。ただ朝鮮の人は逃げる所があって、いまいち統一感が無い。昔は日本に逃げたが今はアメリカに逃げている気がする。アメリカの青果市場は昔はイタリア系だったが今は韓国人経営が多く、日本食のレストランも働くのは日本人であっても、経営者が韓国系というのも多い。
 安倍晋三元首相銃撃事件のテロから、アメリカの日本食材の業者が統一教会系と初めて知った。真面目な人たちという印象だった。
力道山が生きていた時は朝鮮半島出身とは知らず、傲慢な態度で東京を走り回っている米軍兵士に対して嫌悪感が自分にはあって、苦々しい記憶が今でもある。テレビ放送が昭和の29年頃あって日本テレビの街頭テレビで多くの人が、仕事が終わって金曜日午後8時の今のJR駅前の広場に設置されているテレビのプロレス中継を見ていた。最後に悪役米国人プロレスラーに力道山の逆転勝ちとなり、9時の時間には終わる。ビデオの無い時代で、きっちりと時間には終わる。
 力道山の功績は確かにある。それは新しい戦後の娯楽。それも企画されたスポ-ッというものだろう。
 
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茨城県筑西市(ちくせい)を都立中央図書館で調べる

2024年06月23日 | 宅老のグチ
叔父の陸軍飛行学校を調べていて、軍歴から栃木県宇都宮の飛行学校と長い間思っていた。しかし先日訪問した靖国神社偕行図書室で、特操一期生写真集で宇都宮でなく、茨城県下館の陸軍飛行学校の写真があった。そこでネットで調べると、まだ飛行場の痕跡が残っているようで、一回は行って見たいと思うようになって来た。埼玉県桶川市には旧陸軍飛行学校の木造隊舎が保存されていて、見学に行った。木造の隊舎で訓練をしていた様子が解かる。どの飛行学校でも航空機の離発着に必要なまっすぐで平らな敷地と物資の運搬に適したところが選ばれる。桶川の熊谷陸軍飛行学校は、河川敷の広い滑走路を確保できていたようだ。
 今から20年ほど前に全国の市町村が国の補助金で整理統合が促進されて、多くの新しい名前の市が生まれた。茨城と栃木の中間の市は駅名で下館という名前を知っているだけで、筑西市とネットで出てきた時は字面から筑波山の西側の市だろうと思うが頭の中で地図が出てこない。下館は有名ではないが鉄道ではJR水戸線・関東鉄道などを中心として鉄道の結節点だった。
 都立中央図書館の3階に地方史の開架の書庫があって、閉架の所と違って、本の背表紙を眺め、手に取り目次を眺め、良さそうな本を読むことにしている。しかし茨城県の地方史の所で筑西市史が見つからない。そこで3階の案内所で聞くとパソコンで探してもみつからず、一階の総合案内所で聞くように回された。そこで気が付いたのだが筑西市はまだ新しい市名ということだった。このことは今年のJR東日本のキュンパスで一日1万円でJR東日本の新幹線等々の鉄道の乗り放題で、奥州市水沢へ行き、高野長英記念館を訪問した。この計画をするとき、新宿の都庁の展望台見学後、一階でウロウロしていたら、全国各地の観光案内のパンフレットがあるところを見つけた。そこで岩手県水沢市を聞いたところ、パソコンを操作し、奥州市と言うことになった。平成の地名の大変更でまだ頭は昭和の地名が残る。
 中央図書館の司書さんの検索でおおよその図書から飛行学校の歴史が元の下館市史から見つけることが出来た。それによると先の戦争が激化して、下館の地が割と平坦と言うことと交通の便から選ばれたように見える。しかしこの飛行場には米軍の攻撃が頻繁にあって、女子学生が亡くなっている記述を読むと銃後だからと言って安全では無かった。まして今はドロ-ンという無人攻撃があって、広範囲に戦闘地帯となる。
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靖國神社の靖國偕行文庫で

2024年06月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
3連敗の図書室訪問で、休みの無い神社の図書室へ行くことを計画する。するとまだ叔父の特攻隊へなぜ入隊したかの理由が不明で普通の徴兵と異なっている事実が見つかっていて、その確認を怠っていた。その事実とは何かというと、陸軍は昭和18年にミッドウェー海戦後の戦局の悪化で、米軍が本土攻撃が増すことを予想し、飛行機の乗組員を緊急増員することになった。この報道は昭和18年7月に新聞記事となって大々的に報道されていた。人気のある海軍の予科練は競争率10倍の難関であった。ところが陸軍は大々的な報道にもかかわらず、不人気でやっとのことで5倍程度だった。
 昭和18年9月8日に陸軍と海軍の航空士官の試験の結果が毎日新聞埼玉版で見ることが出来る。叔父は今の埼玉大学教育学部の前身の埼玉師範学校に学んでいたことが親族から聞いていたが卒業を証明するものが無かった。そこで埼玉大学へ行って、戸籍謄本を出し、叔父の軍歴から昭和18年頃の資料があったらと頼んで家に帰った。帰ったら大学から資料があったことの伝言があって、見に行くことになった。そこにあったのは昭和18年9月30日に卒業した成績表だった。一応個人情報と言うことで叔父の部分を写真に撮り、家に持ち帰って分析するとおじの航空士官の合格の理由が判った。それは視力が1.5あったということに尽きる。さらに卒業後の行き先が、陸軍特別操縦見習士官となっていた。今思うとこれは今の越谷市大袋小学校という名前が書いていない。昭和18年9月の終わりに毎日新聞と埼玉新聞の師範学校卒業生の勤務先が出ていた。それによると大袋小学校だった。
 9月8日の新聞には叔父の名前が10名の合格者には無かった。そこで埼玉文書館で師範学校の卒業者名簿から10名の名前と海軍の22名のリストを作成した所、陸軍の合格者の9名が戦後にも生きて学校の先生となっていた。ただ1名の人が卒業者名簿に勤め先が不明で安否が判らなかった。その1名は海軍のも合格していた。リストから埼玉師範から22名が海軍・いわゆる予科練に合格したのだが、5名の死者がある。そのうち特攻死したのが1名でそのほかは記録が不明だった。
 叔父の軍歴から、繰り上げ合格ということが解かるがその根拠として、両方に合格した人を聞くには埼玉大学へ行くのが簡単だが今の常識で個人情報は教えてくれないと思い軍隊の資料が豊富な靖國偕行文庫へ行って調べることにした。コロナ以前は休館は1日しかないが今は週3日しか空いていない。多分戦後も80年になると記憶も薄れ調べる人は少ないと思い予約せずお願いして資料を調べる。まず陸軍特別操縦見習士官1期生写真集を出してもらい2600名のリストを見ると陸海軍に合格した人の名前が無かった。そこで靖國偕行文庫の掛かりの人に海軍13期生の名簿を出してもらったが関東地方しかなく、ふと思って13期生の戦死者の名簿を出してもらった。この名簿は戦死の電報の番号順で苦労すると思ったが昭和20年4月に沖縄攻501飛行隊で沖縄本島東の米軍艦船の夜間攻撃で未帰還飛行機という記録があった。
 靖國偕行文庫の掛かりの人は招集令状は事前に連絡する仕組みが無いので、両方に合格した人が10月1日の入隊日にどこへ行ったかから始まるという。このことは叔父の陸軍の繰り上げ合格が10月になることを意味していて軍歴も11月1日から始まる。親族の言い伝えでは小学生の慰問袋が届いていたというがほんの数日勤務した大袋小学校の児童の可能性もある。

 靖國偕行文庫には現在、靖國神社の蔵書を併せ約14万冊の図書資料が収蔵されています。神道関係の資料をはじめとして、蔵書の多くは戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料です。
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心付け・寸志 スマイルはただの時代の終わり

2024年06月21日 | 宅老のグチ
最近の求人広告が暇人の自分がゲームで時間をつぶす時、実に多く出てくる。看護師・介護士の業界が目立つ。カスハラという言葉も普通の言葉となって、今年の流行語となりそうだ。辞書にも載ると思う。
 お客様は神様で長い間、お客と対応する雇われ接客者は理不尽な要求をする人達の攻撃的言動に耐えてきた。付きまといが今は犯罪の一部となってきたように、高圧的な言動・態度も商売にはお金の問題であって、基本的には平等でないと付き合いは長続きしない。所がネットで生活が出来ると顧客の不満のはけ口が接客者に向かっている気がする。そこに転職の活況で、経験豊富の接客者が転職しているようだ。そこから抜けた人を補充できずに職場が混乱する。日本は大企業を除くと労働組合の組織率は少なく、賃上げ交渉が出来ない所が殆どである。それゆえ転職しか自己の収入を上げる方法が無いが、雇用者側は履歴書を見ていると転職回数の多い人は避ける傾向がある。そこが日本と欧米の差で自己の向上を転職で果たそうとする気風の差と見える。ここがデフレ日本の35年続いた要因と思われる。今中国が35年デフレに似てきたと言われるが、この点で中国は日本の様に長期デフレにはならないとおもう。それは我慢できない中国人は中国本土から人を頼って異国に脱出する考えが普通人にもある。日本経済新聞の6月18日の中国総局長の桃井さんの記事で飲食業がコロナ明けで多数の店舗が倒産したが、その飲食店の設備を安く買い、新規の店舗が倒産した店舗を上回る開業があるという。ここに金をまいた日本との差があるのだろう。日本の金のバラマキは多くの普通人が犯罪者となった。
 逃げない日本人と逃げる中国人。
そこでグ-グルで中国人が逃げてる途中で川に差し掛かった時の態度 と入れて検索すると、なんだか変なのが多数出てきて、気になる言葉が出てきた。
 蛋民(たんみん、蜑民、疍民とも書く)は華南の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省、香港、澳門の沿岸地域や河川で生活する水上生活者である。
 日本では水上生活者というのが港湾であったし、利根川・江戸川水運では船上生活の様子が各地の郷土資料館で見ることが出来る。ヨーロッパでは運河上で各地を転々として生活している姿もある。
 アシアでは川の広さから、水上生活者は今でもあるが減少しつつあるようだ。それはダムと川の水質悪化から来ている。ここにも地球温暖化の影響がある。ここから中国南方の人たちが華僑となって異国に新天地を求める気風が生まれる。所が日本は幕府の海禁で異国との交流が4つの地域を除いて禁止となり、人口数が3200万人で停滞し、さらに階級間の移動も減って、動乱の幕末明治となってしまった感がある。そこから上昇志向の明治で古い考えの明治民法で家制度が維持され、下層民の上昇するには軍隊の士官学校に入るしかなかった。
 日本の雇用の流動性が低いのは一所懸命という一か所で頑張る思考から来ているかもしれない。今の変化の激しい時代は先祖の家業を強制することは才能を見殺しにする時代て、多くの職業で屋という呼称の仕事が消えつつある。魚屋・八百屋・米屋・宿屋等が激減し、ス-パ-やホテルに変わってしまった。



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求人条件で茶髪・ネイル等の服装の自由化

2024年06月20日 | 宅老のグチ
デフレの継続のような経済指標の日本で関東のス-パ-等の求人条件で茶髪やネイルの条件を緩和した報道があった。さらに中国通の日本人が最近の日本のサ-ビスがコロナ前より悪くなったと嘆いていた。様々な報道でどれが事実か確認できないが、やはり35年の不景気から脱却する時期に来ている現象だと思う。今NHKの朝ドラを見ているが丁度昭和24年頃の話でようやく米軍の方針転換で極端な民主化を抑え、日本人による治安維持に向かっていて、左翼の激化を抑えるため、食の供給を増やしている時期で、25年に朝鮮戦争が始まると、兵站基地となった日本が復活してきた。今の日本はウクライナの戦争で物価高となってデフレ脱却の方向が見えてきた。ただ長い低迷は集団による意思決定の日本では決断の判断が遅く、農林系の金融機関が大損害となったようだ。でも先送りしないのはバブル崩壊の経験だろう。
 築地市場で45年も関係していて、浮き沈みを良く聞いた。また戦前の同業者の栄枯盛衰を見ていると、その時々の、いわゆる底辺層の様子が判ってくる。
 日本人の中国通の人の言い分は日本人のアルバイトのサ-ビスの質がコロナ以前と比べて悪くなったと感じるのは良いサ-ビスをしていた人が安いバイト料で値上げをしない経営者に黙って転職したと思われる。もしくは友達から激安のバイト料を馬鹿にされ、雇用主との賃金交渉をすることなく、適当な理由で職を変えたと思われる。前なら次の仕事を見つけるのに苦労した時代が35年続いた。そこで欠員になった所が激安給与でバイトを探しても、応募する人はやる気のない人しか来ないし、さらに接客教育をしても転職されるのが好景気の時代だった。築地の仕事は結構の頻度で場内転職がある。やる気のある人は目立ちスカウトされる。そこに学歴の重要性が無い不思議な職場だった。ただ遊びで早起きできない人は不向きで多くのやる気のある人は家に帰らず、築地で仮眠する。それゆえ酒気帯び勤務と酒気帯びタ―レ-運転となる。事故さえ起きなければ、無法地帯だった。今の豊洲は規制が厳しく酒気帯び勤務は減ったと思うが仕事上で昼から接待で酒を飲むこともある。高齢でも体力と商材知識を日々獲得する意欲のある人は90でも築地・豊洲で働ける。
 築地時代に場外市場で天秤棒に魚を入れて運んでいる人を見た時一瞬自分が江戸時代の風景を平成の時代に見たと思った。これも豊洲では消えたと思われる。広すぎて歩いて運搬することは出来ない。
 電動タ―レ-も運転免許証が必要で当然高齢者講習が必要となるので、ここが難関かもしれない。豊洲の市場は東京都の敷地で、事故等の処理は守衛所に届け出して後に警察扱いとなる。つまり私有地の事故扱いとなる。そこから行政の問題で感覚的には市場の自主管理という江戸時代の気風が残っていて、江東区の警察が市場内事故の多発で豊洲市場で取締りを試みようとしたが失敗した。一応道路には車線があるがフォ―クリフトやタ-レ-は得意先の車両の位置で逆行することもある。それゆえ暴走行為は時速10Kでも危険走行となる。ここにも世間の感覚と異なる世界がある。
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天気が良いのに出れない

2024年06月19日 | 宅老のグチ
雨天の昨日に今後の街歩きを計画する。図書館で都内のバス旅の本を借り出すが発行年が古く、まだ築地市場が出ていて、参考にはならないと思いつつ、都営のバスには大きな変化が無い。今気になる行先は晴海フラッグというオリンピック跡地に出来たマンション群でこれの様子で今後の東京一極集中を占うことが出来るとみた。うわさによると買い占め横行で、すでに転売物件も多数あるという。2か月ほど前に晴海フラッグに新橋の日テレ前のバス停から、晴海の埠頭公園付近までバスで行き、帰りは歩いて旧築地市場の空き地を見ながら新橋まで帰った。この時は15000歩も行かなかった気がする。晴海フラッグの中心にス-パ-があって、中まで入らなかったので込み具合は判らないので、落ち着いたころに様子を見てみたい。前回の晴海の街歩きで気が付いたのは歩いて大江戸線の勝どき駅まで雨の日は大変ということと電動自転車の駐輪場があるのだろうか。この辺の駐輪場のデ―タが見えない。歩くとわかるが晴海と勝どきの間に運河があって、運河を船が通るため橋の高さは普通の歩道橋より高い。気持ち的には4階くらい昇ってそして降りる。従って自転車も電動で無いと無理となる。さらに海と高層マンションの風は雨降りの日は傘は無理だ。カッパ着用かもしれない。このことから車が無い人はバスとなるがバス便が増えた様子が見えない。何か住民が増えないのでバス便も増えないし、バス運転手不足で増便も無理だろう。そうなると2040年頃の地下鉄開通まで苦労することになる。築20年を過ぎて一回目の修理の頃となる。
 高輪台の味の素研修センタ-付近で大規模な再開発が見えて、リニアの始発駅から東京の交通便の中心は東に移動する気がする。そこにいずれ品川駅の東口の食肉市場の移転問題も出るかもしれない。下水処理場と食肉市場の再開発でどうなるシナガワ。ここには築地のようなこだわりの人は少ないと感じる。都庁の建物は淀橋浄水場の跡地である。
 品川駅は品川区の住所ではない。港区なのだ。東京はいつも動く。住の中心は羽田と東京駅を結ぶ線に収束されると思う。国立の富士見マンション断念は都心の膨張の終わりの様に見える。戸建ての狭小木造一戸建ては介護に不向きで、親を東京に迎えることは出来ない。ということは地方に親を残し介護となる。地方でも一戸建ては地元に人しか購入しないし、人口もへっている。成り立つ都市は県庁所在地だが道州制で減るかもしれない。
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言い訳・雨だから

2024年06月18日 | 宅老のグチ
梅雨入り宣言の出そうな雨。このところ晴天で出歩きすぎたので一休み。コロナ明けから都内を出歩いていたのでおおよそのバス停の位置とそこから目的地までの道筋を知った。
 荒川区の中央図書館というべき ゆいの森あらかわ(中央図書館)へ行った。ここに行くのは2度目で1度目は関東大震災の小説を書いた吉村昭のイベントを見るためで、図書館自体は関心が無かった。でも印象として新しいい・キレイ・荒川区の意気込みが感じる。でもどうしてこの地が選ばれたかは部外者で判らない。多くの書庫は2階以上で、水害対策をしていると感じる。図書館の入り口付近に水害の時の予想水位があった。ハザ-ドマップの表示で5Mとあって、図書館2階まで水没だろう。この辺りはもし屋上に登ることが出来たら川との関係が判りそう。荒川区は自分には通過する地域で築地で仕事をしていた時には代打の要因で不慣れであった。荒川区は千住宿で水戸街道の宿場という印象がある。街歩きで南千住駅を歩いていた時、回向院という寺院があって、確か江戸時代の刑死した人を埋葬した寺院として知っていたが、あまりにも新しい寺院で古刹という感じがしなく、目礼で通過し、南千住駅の浅草行きのバス停に向かったことがある。
 東海道の鈴ヶ森、板橋宿の刑場、そして小塚原刑場は、明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われて、荒川区史と史蹟回向院という郷土資料を読みに行きました。後で調べると荒川区民なら貸し出し可能の本と知りましたが他の区なので、司書に道案内され本を手に取りました。本というより冊子に近い薄い本で何か住職さんが訪問者向けの案内本でした。
 多くの幕末史を気にしている人は回向院の埋葬者は安政の大獄の刑死者と思いますが自分が気になったの相馬大作でこの人から政治犯が回向院に埋葬されるようになったようです。それ以前の政治犯の扱いは自分にはまだ知識が無い。相馬大作事件は福神漬の命名由来を調べていて、鶯亭金升が先祖が歌舞伎の題材(檜山騒動)となった記述があって、何の事やら数年ほど判らなかった。ある時、御先手火付盗賊改の職の時に、相馬大作を捕縛し、刑死させた人だった。何事も先祖の不都合なことは詳しく書かない。
文政の三蔵・間宮林蔵・近藤重蔵・平山行蔵で平山の一番の門人が相馬大作であった。この三人はロシアの脅威を説いていた人でもあった。なお平山行蔵の門人格で勝海舟の父勝小吉が行蔵の事を書いている。
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日比谷図書館4階内田嘉吉文庫で

2024年06月17日 | 福神漬
日比谷公園内の千代田区立日比谷図書館で大日本和洋酒缶詰沿革史という本を読む。貴重書本で図書館内で読むしかない。借り出し票を印刷し、出て来るまで図書館の施設配置図を眺めていた。日比谷図書館の4階には特別室があって、一部は有料の所で良く眺めると、内田嘉吉文庫というのがあって、開架で無料のようだった。さらに台湾関係の本が多そうで、気になった。大日本和洋酒缶詰沿革史が出てきて、何回も都立中央図書館で読んでいたので、必要なコピ-するところをメモし、簡単に処理は終わり貴重書を返却した。
 そこで暇つぶしというか4階に上がって内田嘉吉文庫にはいる。カバンを荷物置きに置いて、書架を眺める。この人物の知識は自分には無いし、記憶もない。そこで管理している女性に台湾神宮・台湾神社の本が無いかを尋ねると何冊かの本が出てきた。風景の本と天皇らしき人物の台湾行幸の記念写真集だった。家に帰って調べると関東大震災の年の大正12年4月頃の訪問で、摂政だった時の昭和天皇の姿が見える。
 台湾神社は普通の神様と台湾征討中で台南の地域で風土病に罹り、戦病死した皇族・北白川宮能久親王を主祭神となっていて、戦前は台湾での最上位の神社だった。このため敗戦後に台湾を統治した国民党政府によって壊され、今では圓山大飯店という一流のホテルとなっている。
 台湾で統治していた明治日本は戦没した北白川宮の慰霊という名目で神社を創建する案が宮の死後すぐに陸軍関係者の発議があった。このことの理由は日本神話のヤマトタケルの話が出て来る。
 ヤマトタケルの神話は天皇の命で次々とヤマト政権に従わない地域の征討に従事させられ、ついに都に戻る寸前に病を受け、亡くなった。この神話から北白川宮の戊辰戦争・彰義隊戦争の参加を忘れさせ、さらに朝鮮半島での日清戦争の講和条約締結寸前に反乱の兆しが見えていた台湾征討戦に北白川宮が派遣され、病死しした。
 この派遣の史実でも学者の説と吉村昭という日暮里生まれの小説家と見解が異なる。自分としては吉村説をとりたい。
 吉村昭の小説 彰義隊 はほぼ半日の戦闘で終わった上野戦争を描いているが主人公は寛永寺の輪王寺宮でその下で彰義隊を支えた覚王院義観と西軍の有栖川宮と対立を描いている。公武合体の余波で有栖川宮の婚約者というべき女性が徳川に輿入れしたことから有栖川宮には幕府には遺恨があった。
 徳川方の江戸市民は密かに旧幕府方を支援しつつ、戦火で自分の家が燃えないように思っていたようで半日であっけなく終わり、江戸市中でゲリラ戦とならずに平定された。国家の護国神社の役割の靖国神社の参道中心地に大村益次郎が江戸城富士見櫓から上野の戦争の状況を双眼鏡をもって眺めている様子が見える。上野の寛永寺の焼失はほとんどが敗走した彰義隊員の放火と言われていて、新政府軍の砲火という声が聞こえない。明治政府の言論統制の可能性があるが記録では放火の方が多い。

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梅雨入りが遅れて

2024年06月16日 | 宅老のグチ
梅雨入りが例年より遅く、農家がやきもきしている様子が報道されてい。今の農家は昔のような自然流入による田畑の冠水もあるが、蛇口をひねれば水が出て来るところを見かけた。千葉の高台の畑で、消防団の服で、畑に水を放水していた風景を記憶にのこる。あれは訓練なのだろうかそれとも水の救援だったのだろうか。もう40年も前の話だ。
 今年のウメとサクランボが不作の見込みという。特に梅は近来にない不作で、理由は二つあって、暖冬による花の咲く時期が早すぎ、交配するミツバチの不足、そこに花の受粉する組織の未熟もあるという。この原因が暖冬である。日本最大のウメ産地和歌山県は梅干し、梅ジュ-ス・梅エキスによる酒などがあって,一大産業となっている。今年は猛暑の予想もあって、梅干しはクエン酸の効果があって、健康食品として歴史がある。最近の歴史の浅い健康食品で大きな災害があった。やはり歴史のあるものはそれなりの効果がある。
 そんな歴史のある梅干が長い間というより、ごく最近まで農家の自家製の梅干しを自家でネット通販とか道の駅で販売する時、保健所の許認可が不要だった。東京では製造をしていない漬物業者も保健所の審査を受け、営業許可書を交付されて、時々衛生講習会がある。昔と言っても30年ほど前は梅干しの塩分が15%程度で、その後に調味梅干しという商品が現れ、塩分が下がって今では塩分3%というのも見かける。言わば梅の実が入っている浅漬という感覚となる。ここで危機感の出た漬物業界と農林水産省・厚生労働省が漬物の衛生基準を統一し、保健所の許認可を必要とした。
 そこでびっくりしたのが業者組織に入っていない漬物製造農家が保健所の通告で驚いたようだ。確かに生きがいとして農家の老人たちが漬物を作りつつ、作業している風景は気持ちが暖かとなる。しかしそこに衛生という問題が入ると細菌性大腸菌O-157事故が起きた時に、見出しで行政が叩かれる。未認可漬物業者から食中毒発生となる。
 漬物業は塩分の問題で鉄製の設備はすぐ腐食するため学校の給食室と同等の設備が必要となる。季節商材のため農家の事業継続意欲が消える気がするが多分若い人が商機と思って復活する気がする。そのためレシピを残す必要がある。
 梅とスモモも同じ和歌山県特産で多分不作となることが予想される。地球温暖化の仕組みは複雑で過去には北極の氷が消えたこともあるという。また氷河期もあって、その痕跡も残っている。今は氷河の残りが消えつつあって、水分の多い雪が日本しか降らなくなって、異国人を喜ばせている。チョット前は雪害と言って青森では天災の一種だった。
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