江東区深川図書館が長い間改修で閉鎖されていて、やっと復旧したので、明治10年代の自由民権運動福島事件の東京士族で唯一の被告人花香恭次郎の判決書類の確認を深川図書館郷土資料室で行った。深川図書館は清澄庭園に隣接している。大江戸線清澄白河駅で降り、地上に出ると公園の隣ということがすぐに解かる。もう3度目の訪問なので郷土資料室のカギを開けてもらい、ロッカ-に荷物を入れ、中の資料を出してもらう。
国会図書館・憲政資料室・河野広中文書 『福島事件関係者履歴書』
この資料から花香恭次郎の東京府深川区深川伊勢佐木町32番地と住所がなっている。
出典 干潟町史 (今は千葉県旭市に統合)
この深川伊勢佐木町が墨田区の図書館で調べると、清澄白河駅の小名木川添いと前は思っていた。明治の終わりの地籍台帳では深川伊勢佐木町32は岩崎久彌の名義となっている。
花香恭次郎は明治10年の西南戦争の時、今の銀座8丁目の公益問答新聞の記者として働いていたが社主の服部撫松(誠一郎)と編集で対立し、退社した。その後宮城出身の佐藤清と東北に向かい、福島自由民権運動の政策立案者として活躍した。福島事件の東京での裁判で弁舌が爽やかで当時の公判で傍聴人が殺到したという。丁度明治の維新の岩倉具視が死去したころに高等法院で裁判が始まり、連日のように公判記録が記事となって出ていた。
深川図書館の人と深川伊勢佐木町32の地図でほぼ該当地域は確定できたが、その地図にはまだ清澄庭園がなく、伝説となっている紀伊国屋文左衛門の邸宅跡地という様子は地図上では見えなかった。東京都の公園の歴史本で清澄庭園の成立は岩崎弥太郎の当該地域の購入から始まったようだ。同じ深川伊勢佐木町に三井の明治維新後の大番頭となった三野村利左エ門の子孫の所有の土地も目立つ。この三野村の会社は今でも清洲橋通りに存在している。どのような変遷を辿ったのだろうか。
地籍台帳によって、岩崎弥太郎の長男久彌の所有となった花香の住所はどうなったのだろうか。出された地図は明治30年代で清澄庭園のあたりの道路が不自然にへの字型に曲がっている。この曲がり切ったところが32番地と図書館の司書が指摘した。当時の道路は今より狭く岩崎久彌が三菱の従業員のための保養所の整備をしたときは今の清澄庭園の敷地より広かったと思われる。清澄庭園の面積は約3.7万平米ですが、購入当時は約10万平米(3万坪)の広 さという。関東大震災・東京大空襲と大きな火災が当地を襲った。清澄庭園の隣に中村学園という女子教育の学校があって、その沿革史でも火災のことが書かれている。特に震災時は近隣の住民の避難所となり、多くの命を救ったという。 今の大江戸線清澄白河駅のA3出口の所が花香の住所だろう。
花香は明治の初めに南茅場町に住んでいた記録があって、ほぼ同時期に三菱の東京の出発地である南茅場町と重なる。三菱地所の歴史もこの時期を福神漬の考察から疑問に残る。日本郵船の歴史博物館で東京都中央区中央図書館郷土資料室に南茅場町の沽券台帳があって、三菱の社史の時期でも名義は異なっていた。税金は誰の名義で支払っていたのだろうか。この辺りは今でも存在する清酒白雪の社史から辿れるかもしれない。
南茅場町付近は江戸時代は下り清酒の到着地だった。維新後に酒税の増税のため多くの酒問屋が衰退した。今でも酒税は国税の中でも一定の地位を占めていて、酒の技術革新があったのは腐敗して酢にならないためと思われる。
花香家の家業は酒と醤油だった。後は銚子の金融業でもあった。明治12年設立国立第142銀行、所在地銚子、明治14年吸収統合される。(千葉銀行史より)
明治の時代は記録が偏っていて、今後の時代劇の作家の活躍の場になると思われる。福神漬から歴史を辿ると今の大手企業の社史もおかしく見える。岩崎弥太郎がいつ深川伊勢佐木町32の土地を花香家からいつ購入したのだろうか。