年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ジュリアナ東京.芝浦

2024年02月29日 | 宅老のグチ
2024年2月27日日経新聞の1面コラム・春秋で時代のイメ―ジという東証株価最高値更新の記憶について書いてある。34年前のバブル期の様子の記憶である。自分自身も図書館で平成元年12月と翌年1月の記事を読んでいた。何か違和感があって平成2年の昭和天皇の1周忌の後、株価が出尽くし感があってダラダラと下がっている。ところが土地に関してはまだ株ほど下がらないでいた。今から思うと株を売って(割高観)土地へシフトし、銀行も土地担保で稟議が通りやすかったと思われる。
 日経新聞のコラムで書いてあるように、バブルの象徴であるジュリアナ東京は平成3年5月開業でこのアイデアを出した折口 雅博氏は、ジュリアナの成功後間も無く消える。転身した人材派遣業(介護系・コムスン)も些細なミスで失脚した。彼は今アメリカで起業家として活躍している。この人の著者アイアン・ハ-トを借りて読んだが、出自の問題で味方が少ないと感じる。彼のアイデアを盗み、成功した時に実を奪う。でも彼は慣れているようだ。コムスンの失脚時にどこかの情報で戦後にサッカリンを商っていたという情報が頭に残っていた。日本でも稀な起業家と言える。
 このサッカリンは日本橋の日清戦争後のべったら市が盛業になる隠し人工甘味料だった。

 今の株価をまたバブルという人がいるがまだバブルには程遠い。その理由は高齢者が多すぎて、物価が上がっても工夫して生きている。時間があるので半額までなるのを待って購入する。20%30%ではお得感が無いようだ。オ-ケ-ストアやロピアのような特売が少ない、現金優先の店は高齢者で午前中が賑わう。まだ厳しい低所得労働者は銀座にもいて、警備、掃除等の仕事をしていて、ダイソ―・オ-ケ-ストア・ユニクロで生き残っている。人が住んでいない銀座は最低時給が1500円を超すし、それ以下では面接にも来ない。ドン・キホーテ銀座も銀座の外れで、圧倒的な陳列ではない。
 株の上昇のグラフとマンションの上昇グラフを見ているが、土地バブルは起きそうにもない。34年前は株から土地へ向かったがこれからは外国人の好む土地しか上がらないように見える。

 そんな思いで28日JR田町駅に降りて向かった。昔の記憶が微かに残っていて、記憶があいまいなので住所を調べると港区芝浦1-13付近だった。田町駅の東口で駅前の街路地図でながめていたが、記憶の位置と住所が違いスマホで探し歩く。今は運河の様になったところで撮影する。東京ポ-トレーンというボウリング場が残っている。このビルの1階の2000平方Mが跡地になる。今は乱立しているタワマンの地が30年前は港湾用の物流基地で名残はDHCの配送センタ-がある。田町駅との間に東京ガスの球状のタンクが二つあって、築地の豊洲移転時に愛育病院が移転する地に選ばれた。ここは少子の先頭に立つ産科の病院である。自分は生きていないが次の大変化は東品川地区だろう。品川駅前の食肉市場は湾岸の埋め立て地に移転させられると予想する。
 今でもコスプレ用のジュリ扇が売っていて、アマゾンで1000円程度で売られている。ここにもデフレ日本が残っている。

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2月28日閏(うるう)を意識する日

2024年02月28日 | 福神漬
4年に一度ある2月29日。今年はうるう年で明日は意識する。4年前の2月29日に生まれた人の誕生日は今まで無く、冗談に明日は1歳。年取ると誕生日は何か死への一歩前進と思うようになってきた。この閏という月日の挿入が具体的に意識したのは、明治の上野戦争だった。1868年には閏月があって、通常は新暦(太陽暦)と旧暦は一月ほど違う。従って中国の旧暦正月(春節)もひと月ずれるし、動く。上野戦争(彰義隊)は旧暦5月15日であった。ところが閏月があって、ネットで新暦換算の上野戦争の日を調べると、7月4日説が多く、少ない事例で3日と6日がネット検索で出て来る。どうでも良いのだが歴史教科書でこの換算のミスは痛い。古文を習っていた時、古い時代の花を意味しているのが梅の花でいつの間に花を意味する言葉が桜となった。ここでまたネット検索すると紀貫之は花という言葉を使った時は梅を意味していた。もう少し後の時代で和歌を送りあっていた人が梅を意味して花という言葉を使っていても、誤解して桜のような意味のある花を使って返歌した事例があるようだ。

 都営新宿線九段下駅で降りて、靖国神社へ向かうと、上り坂で最初に大鳥居が見える。さらに歩くと大村益次郎の銅像が見える。手に双眼鏡をもって上野方面を見ている。彰義隊の立てこもる上野の地での戦争の指揮をしたのは大村で半日で終わらした。
 大村の作戦 
新暦の東京の7月は梅雨時で、長雨があって、家屋に水がしみていて、風が吹かない限り、大火とはならない。従って上野戦争の記録では寛永寺が焼失したのは彰義隊による放火である。台東区の郷土資料の所で上野戦争での焼失範囲が意外と小さい。風が吹かなかったと思う。
戦争開始を事前に江戸庶民にも知らせ、見物人と抵抗派と分ける。
抵抗する人の逃げ道を用意する。新政府軍は寛永寺の西側から攻め、正面の所は薩摩の人達を当てた。戦闘が開始し、すぐに強力な大砲を打たず、遅れて攻撃した。これも意図ある作戦だった。大村は江戸にいたことがあって、気風等を熟知していた。
 この見事な作戦は日和見の江戸市民をあっという間に新政府の方に傾けた。この様子は千葉県市川市の新政府と旧幕軍との戦いで兵糧の支援の差が現れる。
 この半日の戦争は下谷の人達をがっかりさせた。上野の戦闘が長引いたら、官軍にゲリラ攻撃を考えていた町民もいた。江戸の気風を知らない西軍の下級武士たちによって、花見の場の上野寛永寺の楽しみを奪った。新政府が上野公園を整備するに従い、博覧会・動物園等が出来、行楽地となってきて、さらに文明開化を実感する場となった。そんな博覧会会場で福神漬創製者酒悦主人が缶詰を見て、持ち運びできる食品として福神漬を創製した。命名者は江戸時代末期の戯作者。ここに何にも新政府批判が含まれていないと今までの福神漬命名伝説であった。しかし15年も調べていると周囲の人物の様子が明治政府批判の人が多い。福神漬が創製した時期は、下級武士の仕事がない時期であった。
 西南戦争で刀の時代が終わる。日清戦争で日本国民が生まれる。それまでは旧藩意識が残っていた。そのすき間の明治16年から23年までの時期に福神漬が出回ってきたが本格的な文献に出て来るのが日清戦争後である。
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バブル越で役に立たなくなった本かも

2024年02月26日 | 宅老のグチ
日本の経済政策  -「失われた30年」をいかに克服するか-
小林 慶一郎著
東証株価が38000円程度の時に予約した本が超えた日に届き読み始めた。本の大半は失われた30年の対策の経緯で、結局は今の状況からロシアの不意打ちとなるウクライナ侵攻とそのことによる分断政治と再軍備の動き。軍需産業は強大な無駄使いで、経済を活性化する。敗戦後の日本は隣国朝鮮で始まった朝鮮戦争で日本経済が復活した。この辺りは知っていても語りたくない不都合な歴史でもある。さらにベトナムでも戦争があって兵站地の日本も朝鮮戦争程ではないが恩恵があった。
 戦時中のロシア経済も日本より成長率が高いという、理解しがたい。EV自動車が爆発的に売れている中国で石炭火力発電所が2025年まで増えるという。天気予報の所で相変わらずPM2.5の汚染範囲が中国から来ている様子が見える。
 歴史を見ていると日本は古代は難民の受け入れ国だったが今はそうでもない。中国の王朝交代期に多くの先端知識人が日本に来た。特に徳川の始まりには明の末期だったので清朝になった時には人材が日本に来た。明の没落は豊臣秀吉の大陸侵攻から始まる。中国・朝鮮から見ると秀吉日本の侵攻は想定外だったと思われる。戦国時代が秀吉によって終わると、日本の武力の過剰が目立つ。そこに誘惑が生まれる。
 今台湾が中国に狙われるのは歴史の定めと思うが良いということは無い。仮に勝っても周辺国は次の侵攻を警戒する。資本主義社会でないので非効率のシステムが淘汰されないで残る欠点がある。巨大な軍備はそれ自体で暴走する組織となり、抑制するには不景気しかない。そこにク-デタ-への誘惑がある。226事件はその誘惑から始まる。
 
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日曜朝10時に新宿で映画

2024年02月26日 | 宅老のグチ
小さな映画館(85席)でフィリッピンパブ嬢と結婚したという、ミイラ取りがミイラの様になった社会学者の映画を観に行くと、満席で断念。そこで代替の映画ということで、在日朝鮮人の女性の映画を知り、日曜ということで通勤時間でも電車は空いていることで10時上映を見に行ってみた。
アリラン ラプソディーという映画。この映画を観ていないと、キムチの日本における発展史を聞くことが出来ない。話のきっかけとなるので。
 映画自体は日本にほとんどの在日の女性が自発的に日本に来たことではないことを強調している。アジアの女性は中国の男尊の思想が深く、この影響は日本も朝鮮も逃れられない。川崎市の銭湯の休業日に混浴している場面は演出なのだろうか。日本の温泉混浴文化に汚染されてしまったと一瞬思った。
 川崎の工場地帯に隣接する在日の人が多く住んでいる高齢者施設、保育園・銭湯とかの撮影で生き残った話を語っている。渡日の話はどの様な監督の編集方針か知らないがあの地域に定着したのは先の戦争が始まって、日本人の若者が中国戦線で兵士となり、極端に内地が人手不足となった。徴用工の時代で、給与も支払われたかどうかの問題より、記録が無いことの方が問題でさらに記憶も消えている。
 この川崎の隣接地に沖縄伊江島から来た人も住んでいる。この歴史も日本経済の浮き沈みによって、言葉の問題でまともな就職口が出来ないので、口コミ集団就職となったようだ。そもそも在日の人達は日本語教育を受けていないので文盲に近いがいまひらがなを学んでいる。それぞれ家族史は個人と地域と日本の政治経済の状況によって異なる。鶴見も川崎も人手不足の時代に地域に定着した。西川口・蕨市付近のクルド人の騒動も、国の無いクルドの人に戻れと言ったら死しかない。彼らクルドの人は解体作業等の日本人でもやりたくない仕事をしている。今景気が比較的よく、古い都内の家の解体が進んでる。そして不景気になると排除の運動となる歴史になる。異国に住むというのはかなりリスクのある行為だが日本の官憲によって男子が拉致されてきている歴史もある。多分応募者が少ないので人数合わせの拉致だろう。満蒙開拓団の歴史も応募者が足りない地域は割り当てだった。ここまで踏み込んだ解釈をしないと北朝鮮の拉致行為は解決しない。時間が解決するまで日本政府は待つのだろうか。
 今の日本食文化の肉系食は江戸時代まで禁じれれていた肉食の発展は軍隊から始まり、戦後の食料不足から雑食性の肉食文化となる。これには朝鮮食文化の影響が大きい。中国は衛生面から生食文化はなく冷たいものは日本から始まる。

 朝鮮半島から来た人たちの立場がこの映画で複雑と知る。日本での生活が長すぎ、旅行で行った韓国には在日高齢者は住めないという。この辺の詳細は映画では見えなかったが家制度がかなり厳しいようだ。川崎市桜本地区の家もバラックが減り、出て行った年寄りの記憶を消している。記憶の復活は川のようだ。川と言っても流れない川である。最近の不動産新築は桜本は1000万円ほどやすい。羽田空港ならバイク通勤で20分で行ける。平和があと十年続けば激変するだろう。日本語と韓国語を話してさらに英語を話す人材は空港では役に立つはず。桜本地域の多摩川沿線は桜の木の並木がある。映画も桜の木の下の風景が多い。ハルモニ(韓国語でおばちゃん)は笑って見ている・生きている。
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都内の梅の名所めぐりで

2024年02月25日 | 宅老のグチ
今年は都内の梅の名所を2月の予定のない時間に歩き回った。残りは少ないが新宿御苑と小石川後楽園が残っている。そこで1回は行ったことがある新宿御苑を行ってみることにした。新宿御苑は御苑という名から皇室から下賜された。江戸時代は甲府から攻め上る西軍を抑える目的があって、街道筋には武家でも戦闘を意識した幕臣が住んでいた。半蔵門は忍者が有名である。御苑の中にミュ-ジアムがあって、そこに成り立ちの歴史がある。しかし展示物には助けたお雇い外国人の影響は見えない。
 福神漬の資料で福島の石井研堂が著した明治事物起源の缶詰の始まりに、そのことを匂わす記述がある。お雇い外国人の住いが津の守に住んでいたという。そこが今の都営新宿線曙橋駅付近で、防衛省があるところでもある。津の守という地名は尾張藩の支藩で松平摂津守の人達が住んでいた。幕末の尾張藩は尊皇の扱いで藩内が割れ、後継ぎの事でも揉めた。その時に支藩から幕末の尾張藩主が選ばれた。動乱の幕末に津の守で生まれた男子4兄弟が明治維新の複雑さを示している。このことをなぜ缶詰の始まりに石井が記述したかが謎である。缶詰の文献の些細なことを調べると誤記が多く、いや前半の文章は明治の記録に関わらず、島原の乱、択捉島に日本の領土という柱を建てた近藤重蔵、紋別漬というものも出て来る。
 新宿御苑の梅の花は散り際で、白い花びらが地面に模様を描いている。桜の様にはかないという想いにはならないのが梅の花。長期間咲いていて、散った後には実がついているのが見える。それにしても嗅覚の衰えを自覚する。
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極寒の皇居一般参賀 雨が降っていても、直前に皆が傘を閉じた

2024年02月24日 | 宅老のグチ
2月23日は令和の天皇誕生日で、普通の一般参賀で皇居内に入れる。前年はコロナ明けとは言えず、入場制限があった。
 下調べの期間で天気予報を無視して計画を立てる。久しぶりということで過去最大級と予想し、第一回目のお出ましが9時半ということで予定を組んだが、しかしこの情報の根拠が不確実で常識的には10時以前の一般参賀は無いと思い、天気も雨模様で、予報では郊外は雪もあるという。皇居には東御苑の所で持ち物チェックがあるので金属類は減らす、手に持つように減らす。不慣れな人も計算に入れて9時半の手荷物検査場へ行く。終わると4列目に並ぶ。列の幅は5M以上もあった気がする。列と列の間に1Mのすき間。トイレ駆け込み用かもしれない。とにかく寒いし、地面は砂利で雨水がたまり、人との間隔を傘で開けているので寒風が通り抜ける。到着後10時少し前に列が動くのを見える。遠くの方に別の集団が見えて、あれはなんだろうと思っていたが日比谷の方からの来た集団だろうとおもった。これが本当ならサクランボのような二つの塊にそれぞれ髪を解く櫛ののような並び方をした集団が皇居の二重橋の門に向かって合流する。門を入ると皇居で昇り坂。橋の上から皇居前広場を見ると空き地が見える。少ないと感じる。帰宅後の報道では1万数千人という。
 宮殿前広場に入ると大混雑。約25Mから30Mほど離れている位置で待つ。傘で前方が見えない。しきりに警察官がマイクで話しているが寒すぎて足がおかしい。10時20分に間も無くと放送があって、列が前に進む。なんと傘を差している人が減り、隙間が狭くなり、前に動き出した。この時はほとんど雨が降っていない様子。家に帰って見るとTV各局のニュ-スや動画で見ると傘は閉じられている。何か自発的に閉じたようだ。自分の前にいた外国人は傘が開いていた時は仲間と話していたが、天皇陛下の挨拶時には誰も話さず良く聞こえた。その後に外野席というべき所に陣取っていた昔気質の団体が天皇陛下万歳と何回も声出ししていたが、前の一般人の中からは数回の声しかなかった。今度の一般参賀は自分自身は二回目で前の参賀の時はもう少し万歳の声と回数がおおかった気がした。
 家で編集の無い2024年一般参賀の動画を見ていると、終わった後に宮殿前の広場から出る時には多くの人が傘をさしていて、周りが見えなくなった。この配慮は誰も指図しているとは思えない。小雨だったからできたのだろうか。傘を閉じたら良く前が見え、傘とは逆にスマホを持った手が伸びている様子が見える。雨でもらった日の丸を振ることもなく、家に持ち帰る。
 寒かったけれど心はあったかい。
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デフレの象徴 超えた日

2024年02月22日 | 宅老のグチ
2003年頃のデフレ脱却処方箋本を読んでいるが、2024年2月22日にやっと東証株価が超えた。34年前はまだ地価の方も全体的に高く、株価の方が土地を売った資金が流入していて、バブル感が強く、翌年から下がりに下がった。
 今の東証株式は依然のバブル期と違って、不安定要素が多すぎる。まず日本の状態だと高齢者が多すぎ、個人資金があるのにデフレからインフレでも動かず、まだ節約している。これは雑誌等の紙媒体の記者(激安で請け負っている)たちが受けの良い節約傾向に洗脳されている。紙媒体も画像のある素人の風のVログに負けている。
 日経新聞の号外も出たくらいの日だった。国会でも日銀総裁がデフレというより、インフレと証言していたし、早くもバブル後という言葉も消えた。22日の夕刊では年内の予想株価が4万2千円とか5万10万というバブル時期の株式報道と似ていてお祭り。
 ところが記事の内容を精査すると、最近日本株を買っていたのは買い遅れていた外国人投資家で売っていたのは塩漬だった日本人投資家のようだ。34年間も意地でも売れなかったのが処分で来たようだ。バブル期は何でも上がった。でも今は分析力が進化していて、米国の情報がリアルに入って、選別されている。
 この騒動の埒外の場にいる高齢日本人も影響はあって、スマホに対応できない老人はス-パ-で買い物できないようになりそうだ。有人レジにはポイントが付かないとかになる傾向が見える。無人レジは店舗の労働の肩代わりという意見が出てきた。そういえば無人レジの普及速度が遅れている。やはりポイント付与のあるなしが影響しているのだろう。
 今でも紙きっぷを売っている所があって、改札でハサミを入れている駅は何処だろう。昔話が出来るかもしれない。
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雨の日は出かけないで

2024年02月22日 | 宅老のグチ
天気が悪く寒いので無理して出かけない。そこでネットの世界に入るが年だから検索する言葉が偏る。
 アエラ・ドット 2023.11.11
日本人女性は社会的地位が低いのに長寿世界一はどうも欧米のジェンダ-ギャップの研究している学者にとってまだ判明していない謎という。この後のコメント欄を見ていても反応がない。誰も気にしていないようだ。ただ平日に都内をシルバ-パス利用で動いていると目立つのは高齢女性で、高齢男性がいても、女性のお供とか資金源としか見えない。4の日の巣鴨の商店も賑わっているのは女性物のように見える。高級の靴でも男性用は目立たない。
 個人的な考えだが、どうも西洋と日本の学者達は日本の高齢女性の学歴を気にしていないようだ。今の長寿と言われる日本の高齢女性の学歴と職歴は今の様子とは異なる。彼女らの人生の旬の時は25歳までで、今の様に女子大と言っても短大で4大卒はすぐ結婚するので、期待されていなかった。結婚し子育てした後に復職となるが元の勤め先には戻れる人は稀であった。その理由はWIN95後の事務処理の形が変わり、ソロバン時代の教育を受けた経験が役に立たなかった。今はさらにAIが進歩し、銀行の窓口の月末の大混雑がはるかな昔の話となった。大人数で事務処理していた銀行は多くの社宅と厚生施設を都内の構えていたが、近所の施設はほとんど売られマンションとなった。最近はNHKの社宅も消えた。リストラが始まっているのだろう。毎年60万人以上の人口が減っている日本は普通の業務では売り上げが減るのが当然でそこを超えている会社はどこかに無理がある。世界を相手にしないといけないのだが自己評価が低いので、やることは安売りしかない。安売りは結局地域と同じ業界の救貧に繋がる。ラーメン屋が1000円の壁を越えられないのが日本の特色でもある。2000円でも売れるラ-メンはどんな工夫があるのだろうか。多分異国人経営者が見つける気がする。
 高齢者の学歴だが今の80代以上の高齢者の学歴はそれほど高くないと思う。厚生労働省のデータで80代の人口の約7割が女性で100歳になれば9割が女性で男性が1割。最近のタレント死亡記事で80代前半でも老衰というのがあった。本当なのだろうか。若い時に無理したのではないのだろうか。

 あまり考えたくないのだが、日本では普通の出生で男女比は男105で女性が100の比で生まれる。中国・インドでは出生時の間引きで男が125とか120とかで、成人時に男余りとなる。こんな日本の男女比が90歳になると男15で女が85になる。ということは男がこの数字になるため、どんどん消えるということになる。バイデンとトランプは選挙時にアメリカ男性の平均寿命を超えるという。どちらが勝っても4年は不安となる。
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JRキュンパスでミニ旅計画

2024年02月21日 | 宅老のグチ
2月の初めに、JR東日本で1万円で平日乗り放題という切符が出ると知った。内容を詳しく知らなくて、14日まで雑用をしていた。いよいよ使える時期となり、詳細を調べ、エキネットというアプリを入れ、クレジットカ-ドを設定したがうまくいかない。そこで駅のみどりの窓口で聞くと、窓口では買えないという。そこで家に帰り、ユーチュ-ブ動画を見て検索するとどうやら乗車日の2週間前しか購入できないようだ。後で判ったのだがこれは混み具合で平日の臨時電車を出せる仕組みかもしれない。今の日本の土日とか祭日は混みすぎ、平日はガラガラという。これでは観光地の働き方が良くなることは無い。土日ぼったくりで平日居眠り。今度の中国の春節で国内の温暖観光地である海南島では激安価格で観光客を向かい入れ、帰りの便を少量だけ激安にして、いざ春節が終わる時に天候不順ということでフェ-リ-がキャンセルとなり、復活した時のフェリ-料金が日本円で20万円ほどしたという。行きは良いよい、帰りは怖い。中国のぼったくりの基本は現地民の懐を痛めず、他の地域の観光客からの金を巻き上げる。これは日本でもあって、地方の警察のスピ-ド違反の取り締まりは、いつも同じ場所で行っていて、捕まるのは事情を知らない人だけである。これなら警察の立場を痛めることにはならないし、取り締まっていないことからも逃れる。
 JRキュンパスで行きたい旅行先は岩手県で片道新幹線でも15000円ほどになる。宿泊する必要性もなく行ける。まだ冬に近い春なので混んではいないだろう。
 アプリを入れ、スマホで苦戦する。そこでパソコンで検索し、キュンパスのサイトで予約をするが、空いている日の予約ができない。そこで先の日にちを入れると出てきた。どうもキュンパスの説明をよく読んでいなかったことが解かる。そう思い立っても1万円で行けるのは2週間先なのだ。従って2月29日の発売は最終日3月14日のチケットしか買えない。
 JRからメールが来て、メールのQRコードを駅のきっぷ販売機で出すのだが、QRコードを読み取る切符販売機が目立たないので迷った。10台近くあったのに1台しかなかった。無事QRコードを読み取り機にかざして、すぐに反応があった。終わってみれば今まで緑の窓口か新幹線の自由席の切符しか買った記憶がない。QRコードを使ったのは初めてだった。混雑しない時間を選択して後ろの人をイライラさせなかった思いがある。
 やはり練習しかない。





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34年前の記憶を求めて

2024年02月20日 | 宅老のグチ
この頃東証株価指数が急上昇していて、新聞紙上とかテレビでバブルの時代を思い出させる。ところが34年前に何があったのかはすぐに記憶が出ない。計算上ではすでに築地で働いていて、40歳前後なので十分記憶があるはずだが、新聞縮刷本で当時を知るが実際生活上では昼間は築地で半分肉体労働の仕事をしていて、家に戻ろとメシ.フロ・寝るの世界で築地はまだ盛況の時だった。今度の1989年の出来事を新聞縮刷版で知ったのが、神田から大田へ青果市場が移った年だった。ここから水産売り上げ日本一の築地市場の下落があったとは当時は誰も思っていなかっただろう。少し築地市場の駐車スぺ-スが空いてきて、雰囲気は市場内で分割して再整備出来ると思っていたし、実際工事が始まり、400億円かけて、次の工事の工程でとん挫した。理由は簡単で分断された位置に店舗が当たった時、工事期間の数年で店舗の客が他の仲卸に行ってしまうし、当然だが従業員の給与も減らすしかないし、我慢できない人は移転しない店舗に移ることもある。市場内の働き場所の移動はあって、拒否はできない。いつかは独立して自分の顧客となることもあるし、量販店の目利きバイヤ―となることもある。
 この辺の人の動きの激しい築地の世界は外部の人達には本音が伝わらない。足の引っ張り合いは良くあることで他の人の悪口を言うことは出来ない。もしかすると親戚だったということもある。自分は競輪というギャンブルをしたことがないが築地で知識として競輪というものが話題になった時、基礎知識を聞いたことがある。競輪学校の同期生とか練習仲間、師弟関係もあるという。自転車は先頭が風圧で不利になるので、日頃の練習の工夫があるという。そこで実力とその他の部分を考え車券を買うという。聞いていていて、結構深い。同様なことも築地であって商材の不足している時や余っている時に助け合いしているようだ。
 1989年はまだかすかに記憶に残るが呼び水というか記憶の回復には世間の様子が記憶から消えている。ふと思ったのだが芝浦のジュリアナ東京を思い出した。バブルの記憶の象徴でもある。チョット歩くが都営浅草線三田駅に近いはず。まだボ―リング場が残っている気がする。
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東証の株価がいま迄最高に高かった1989年12月と翌年1月の新聞を読む

2024年02月19日 | 宅老のグチ
都立中央図書館で1989年12月と翌年1月の4紙の新聞縮刷本を読みに行った。昭和から平成になった1989年1月は竹下首相で、新年号を掲げた小渕氏が官房長官の時で、この平成元年は首相が3人交代した。宇野から年末には海部首相となっていて、平成2年の予算国会冒頭に解散という報道の時だった。
 平成元年は今から思うと大変な年だった。1月に昭和天皇が亡くなり、5月連休後に神田の青果市場が大田区に移転した。
 読んだ順序は日経新聞からで、平成2年元旦の記事で、1面に土地問題があった。なにか特集の様でこの後のバブル崩壊・長期低迷のかけらもない。さらに1万円札が流通紙幣の87%も占めていて、5万円札・10万円札の発行予想というバブル思考があった。前年に竹下首相等がリクル-ト事件で退陣、無関係だった宇野氏が首相となり、愛人スキャンダルで短い首相となり、年末には海部首相となった。その間にも世界は大変動し、6月4日に中国北京で天安門事件が起き、多くの学生が亡くなった。この時の死者はいまだに公式発表が無い。この天安門事件の影響がヨ-ㇿッパに移ったのが歴史家の後講釈で、11月にはベルリンの壁が壊れた。東ドイツの国民の西ドイツへ移動できるという誤報で集まった市民を軍隊が虐殺することが出来なかった。今の中国がコロナの封鎖で市民が難儀しても耐えたのはそれまでが酷く、間もなく世界一という夢を語る習体制に納得していたのだろう。
 平成2年の日経新聞には都内のマンション価格が年収の10倍と書かれ、出生者数が124万人と10年連続で減っている。これは今でも減っていて、もう80万人を割っている。土地価格の問題でノンバンクの事を指摘していた。今の中国も同様の地方地自体の投資と同じようなのだろうか。中国バブルは日本の資金調達法も学んだのだろうか。この時期にアメリカでの不動産投資も騒ぎが始めた時事も見える。
 この時期の為替相場が結構変動していて、1ドルが145円前後で動いている。令和の今と似ている株価と円ドル相場。
 前年の平成元年12月29日に予算案が出ていて66兆円という。平成から始まった消費税は税収見込が7兆円という。消費税3%の時代だった。
 12月29日の東証の大納会で前日の38000円台から39000円台に乗せ終り、サンキュ-というダジャレで記事が終わっている。この後バブル崩壊・低迷30年は感じられない。いかに有能な知識人が集まった政治、報道も日本では悲観論が当時は出せなく、金も動きの記事の漏れが多いということが今でも続く。中国が日本のバブルを研究したというが、今思うといかに中国の地方の資金創出者(出世をもくろむ共産党員)が日本の自民党の政治資金の捻出法を研究したと思われる。これは今でも続いていている。
 平成2年1月5日の日経夕刊に築地市場の初セリ価格が出ていた。マグロ1キロ18000円、前年比20~30%高、まだこの時は新聞情報で初セリマグロ価格の値段の価値が無かったようだ。記事ではどこでマグロが獲れたかも出ていないし、日経以外は初セリ記事はない。ちなみの平成2年は大田市場の本当の初セリだった。その理由は移転したのが5月の連休だった。市場の休市日の話もあって、忘れたが水曜休市が平成2年から始まった。今は人手不足と働き方改革で、毎週2日休めるようになり、3連休も増えた。まだ交代要員がいないため、10連休のような休みを市場関係者がとれていない。

 4紙の平成元年から2年の正月記事を読んでいて、やはり元年末の浮かれ感は薄い、これは昭和天皇崩御ということと美空ひばりの死去もあるだろう。東証株価は平成2年の大発会で200円下がり、翌日の5日に一時622円ほど下がった。これは外電の誤報というか聞き違えで、ソ連のゴルバチョフが亡くなったというものだった。正確には外交活動を控えるというのがうまく伝わらなかったということになる。年初から負の情報でダラダラ下がり、時々に買い時と言って経験則で上がる。そのうち金融機関がおかしくなる。今では日本の高齢者が知っているバブル崩壊の歴史で何もしない人が生き残った。今でも政府・政治家の給付金で動かないのは少額で生きて来た、バブル崩壊の勝ち組の自信だろう。ス―パ-の午後8時の半額シールで生き残っている。
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1989年末の記憶

2024年02月18日 | 宅老のグチ
東証の最高株価が1989年12月29日だった。しかし西暦表示なのでこの年に何があったか記憶を取り戻せない。そこでこれから都立中央図書館へ行って、新聞縮刷本を読みにゆく。東京の中央図書館には4紙の縮刷版があって、朝日がほぼ全部で読売はデジタルなら明治から検索できる。
 1989年は和暦にすると平成元年という。そこで思い出すのは昭和63年秋の昭和天皇の下血から始まった、昭和の終わりという何とも言えない雰囲気だった。まだ築地での経験が浅く、年末商戦が一年の締めくくりと新年への期待の商いということを知らなかった。知らないということは気楽で世の中がどう対応するか眺めていたことを思い出す。それゆえ昭和の終わりの日から平成の始まりの月の記憶は今でも思い出す。ところがその年の年末という日に東証株価が最高だったという浮かれ感の記憶がない。この株価の後の翌年のつまり平成2年の大発会(1990年1月4日)から株価がダラダラと下がり、時には暴落し、また政府の対策で上がり、少し経つと銀行が危険となり、さらに委縮感が出て、長期不況となり、世界史の歴史に無いデフレとなり、金利がゼロとなった。この金利がゼロという歴史も近代では日本しかなく今このゼロ金利が終わろうとしている。世界の経済学者で日本経済を研究するモデルは江戸時代末期の天保の改革(株仲間の解散とその株仲間の再興)が今まで研究されてきた。国が閉鎖的で平和で他国の干渉を受けないし、さらにデ―タも揃っていて研究しやすかったかもしれない。今の犯罪の証拠である指紋も日本では江戸時代から掌紋と言って、紙に捺された手形に文字を書いて、この紙を持っている人にお金を払ってくださいという手形が始まった。手のシワの形が人によって異なるし、変化もしないとことが知られていたようだ。今でも掌紋は大相撲の力士の色紙に形が残っている。指紋が犯罪調査の証拠となったのは明治以降で日本の始まりなのに世界の扱いは異なる。株の先物取引も日本から江戸時代にコメ相場から始まる。ローソクという言葉も日本のコメ相場から。平和で信用を重んじる世界がかって日本にはあって、そこから一度失敗すると再起不能の世界となった。でも世界は失敗をコヤシとして再起する人が普通で日本の低迷もここから来ている。

 指紋の事で思い出したが左翼の人と在日韓人が日本居留の際の指紋採取で騒いでいた時代があった。今は海外旅行でアメリカ・中国等で普通に入国時に指紋と顔写真を撮られる。誰も騒がない。あの時代は今から思うと何だったという気分が残る。
 金融取引で手形と小切手の交換所が間も無く消える。すでに電子取引で決済していたがやはり地方の取引先には人材不足で経理の人に任せるということが出来ないようで築地時代に決済日に手形が回ってこなくて、慌てて先方に電話して銀行に手形を出してもらったことがある。これは決算月に変な数字になるので三月末は手形決済の得意先も事情を話して振り込み決済にしたこともある。福島大震災直後の話である。
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節目の東証株価38915円

2024年02月17日 | 福神漬から見た近代日本史
先のバブル崩壊の指標の数字が終わりそうになってきた。最近読み始めた本でデフレが30年も続いた国は世界の歴史上では日本しかないという。多くの国で不景気によるデフレや恐慌があっても短期間で終わって、またインフレの世界となる。ところが日本だけがデフレが長かった。おおくの小手先対策で今の国の負債というべき国債発行額がとんでもない数字で敗戦直後の日本の負債率よりはるかに多い。そんな負債国家が先の国の統計ではデフレが続いているという。多くの給付金で景気を浮上させようとしたが結局は数の少ない低所得者が生活維持の支出を増やしただけで、大部分は貯金となった。普通の国では国家の信任が無くなるとインフレとなる。大量発行された日本国債は日本国民の預貯金の預入先の銀行が購入している。それゆえ危機感が無い。
逃避の代償  -物価下落と経済危機の解明-小林 慶一郎著 2003.11
この本が出たのは2003年11月だがこの後まだ20年以上デフレが続いた。これは世界史でも最も長いデフレのようだ。株の取り引きの諺で山高ければ谷深しというけれど谷がこんなに広いとは格言には無いような気がする。どこにこの長期デフレの要因があるかはこの小林氏の最終章に書かれていて、欧米の企業不祥事の処理の仕方が厳しく、日本は先送り処理という。言われれて見ればオリンパスや東芝の件も不祥事の先送りだったと言える。特に悔やまれるのが公的資金を銀行に注入することに反対した新聞等への批判がある。昨年のアメリカのシリコンバレ-銀行の破綻の後すぐの公的資金の投入は日本の経験から来ているように思える。
 長寿企業の多い日本は江戸時代の家業という意識があって、組織を拡大することは出来ても、見込みのない企業を倒産以外で廃業することは困難と思える。このことは築地市場移転時に多くの弱小業者が悩んでいたことを知っている。量販店やコンビニに拡大で市場参加者が減り、その関連も減ることが判っていて、子供による事業継続を拒否される事例が多々あった。地域の地場産業が時代の変化で先行きが暗いと思っていても、転業等の成功例が少なく、多くは消えていった。
 中国の不動産バブル崩壊後に、日本の経験を学んだという中国がどうして公的資金を銀行に投入しないのか不思議だった。どうも数字の整合性がとれないと見ている気がする。日本の敗戦間際の米軍艦船が海軍の特攻で大戦果を挙げたという報道で多くに無駄な陸軍の特攻死を招いた。
 中国のバブルを退治するには正確な数字から始まる。そしてこの数字はいつか外国に漏れる。
 日本の最近の統計で名目GDPが中国の名目GDPより高いという、数字のマジック報道があった。日本のインフレと中国のデフレで統計上そうなるという。実感なし。中国の報道を見ていると毎月の様に新幹線と道路の新規開通が報道されているし、春節の混み具合を見ると、日本のバブル崩壊時も当時の貧者は関係なかった。中国の大多数は不動産投資と縁のない人だろう。ただ不景気の風が吹いて節約に向かっていると思われる。この様子は間も無く報道される。春節時の農村地域で都市へ出稼ぎに行った人の交流がある。そこで人民日報とかの報道でない生の事実が語られる。間も無く都市へ戻るのだが流民という歴史経験がある中国人民は何処へ行くのだろうか。Jタ-ンと予想する。Uターンはあり得ない。この辺の統計は安さを売りとしてきた都市かもしれない所から来るように思える。日本と違って中国の人は給与に関して厳しい目を持っていて、無給で働いているにはそれなりの見込みがあるという。このそれなりは何か日本の報道では見えない。これが中国ヨイショ記者だらけの、日本の報道機関の欠陥である。
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国立印刷局の王子で

2024年02月16日 | 宅老のグチ
JR王子駅から5分も歩かないで工場が見えて、場違いな立派な服を着ている警備員に博物館の入り口を聞く。
 この印刷工場は日本での紙幣印刷の工場として創業した。朝陽閣と言い、明治9年に出来た工場だった。そこから北区の公園巡り。都電で王子駅から上り坂を過ぎた最初の駅・飛鳥山で降りる。駅の所に付近の地図があって、滝野川第三小学校の所から、道なりで行くと旧古河庭園がある。西ヶ原1丁目。途中にゲ-テという地図案内が出ていて、何故という疑問を持ちつつ、大きな通りに出て、信号待ちをしていて、前方に公園らしき空き地と、標識が見える。古河庭園へ行く道と離れるが、急ぐ散歩でないので寄る。ここはゲーテパ-クという小さな公園だった。記憶に残して家で検索する。個人のゲ-テファンの施設のようだ。
 西ヶ原駅付近に旧古河庭園があるのだがシルバ-パス利用だと少し不便。北区のミニバスが良く出会った。この西ヶ原一帯は道が狭く、何らかの理由でミニ開発があったと思われる。
 東京都の庭園の多くは三菱の昭和初期に寄贈した庭園が目立つ。古河庭園は三菱の寄贈した庭園ではないが多くの三菱の建物を設計したコンドルが洋館を設計しています。そこに日本の庭園作者の工夫があって、不思議な光景が見える。高齢者70円。
 間も無く新紙幣が出る。紙の紙幣は汚職の元となるのは日本・中国の常識化されている。今の日本が税金で賄われている政治がその制度の法案を創る人の順法意識が欠如していて、同様に選挙が祭りごととと意識があって、下々はたかりの精神が残っていて、地方の高齢議員の引退が進まず、さらに意識の高い若者が流出する。この悪循環が加速していて、その先頭が能登半島だろう。半島という地域は意図的に行くという意思が無いと無視される。房総半島・紀伊半島等結構人材がいるのだが都会に出たら戻らない。

 国立印刷局の情報を見ていると、ここは早く民営化したほうが良い思う。印刷需要は減る一方で技術の伝承を続けるには働く人の意欲が欲しい。切手、紙幣、記念貨幣のほかに特殊印刷で偽造されない複製品・複製美術品のようなもので活路を開いたほうが良いと思われる。偽造防止技術は今度の新紙幣で実感するだろう。財布の中をのぞいたら新500円玉が入っている。自販機で新500円玉が使えませんという掲示が少なくなったと思われる。新紙幣が出ても当分使えませんという掲示が出るのだろうか。
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花粉の情報が出たからか

2024年02月15日 | 宅老のグチ
今週の雑用・家にある個人用のコピ-器が不具合になって修理の申し込み。メ-カーに人の要求で購入暦を調べるが保証期間外。すでに5年経っている。そこで引き取り修理となる。今の新製品を調べるとやはりインフレで高い。あと5年持てば良いので修理を選択。
 ヤマト便が来てから外出。バスに乗って、すぐに何か違和感があった。乗客が20人ほどいて、ほとんど通勤時間外だったので高齢者・様子がおかしい。自分以外はマスク着用。いつの間にコロナモ-ドになったのだろうか。慌ててバッグの中の非常用マスクを着用する。病院以外では久しぶりのマスク歩き。バスの中でスマホをいじくると関東では花粉の飛び始めという。ついでに春節の中国の空気の汚れ具合を調べると汚い。韓国まで飛んで行って、その先は日本海に向かっている。北海道のパウダースノ-のニュ-スで食べてはいけないとあった。その理由は中国の汚染物質が雪に入っているという。昔雪を溶かして、残留物があったことを思い出した。
 確かに昔の東京の雪を溶かした後の水たまりの中に黒いものがあった。地球温暖化と言って全体が温まっているという報道があっても偏り感があって、大雨とかいつも降る地域が降らないとか、経験値が役に立たない。そこで食料貿易があるのだが最近のウクライナ戦争で小麦のウクライナ産がロシアの軍艦の攻撃で減少していたことで騒いでいたが、どうも黒海艦隊がウクライナの攻撃であまりウクライナ海岸に接近できないようで、小麦のひっ迫感が消えている。これはアフリカには良い傾向となる。外交の世界は判らないがすでにウクライナの戦後の話が始まっているかもしれない。日本政府が日本人のウクライナ復興関係で滞在を認めるという。ロシアへの経済制裁でサハリンのガスがまだ堂々と日本に来る。どうなっているの。
 報道ではまだ政治資金の問題で、街歩きしていると衆議院の予定候補者のポスタ-が目立つ。どこに有権者への税金投入をするのだろうか。また行政の出先機関のDXの遅れで、給付が遅れ、さらに一時的なプログラムで誰も本気に出来ないから、ミスも多い。何しろ政治資金をまだ紙媒体で出している政治家にネットで見られ分析できるシステムは嫌う。それゆえ渋沢栄一の出番は消えない。汚職事件でやり取りする時は無記名・領収書無し・現金が明治以降の習慣である。
 JR王子駅付近にある国立印刷局の(お金と切手の博物館)で紙幣の歴史を知りました。やはり関東大震災で王子工場は長い間閉鎖されていたようです。まだ官報が印刷されているようですが、これもデジタル化が進めば、図書館等の保存用で消える運命と思っている。
 明治期は王子付近は紙と印刷工場の地域だった。紙幣を印刷する工場の従業員は印刷されたばかりの紙幣の持ち出しを点検するため、仕事の前後に身体に厳しいチェックが入ったという。今ならセクハラだろう。男子は全裸で棒をまたいでから帰るという。女子はうす衣でチェックという。トイレ行き同様という。でも高給だったようだ。
 この博物館を出て思うに、この技術を生かして文化財の復刻を出来ない物だろうか。
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