年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

春の兆しが見えているのに

2013年02月28日 | 築地市場にて

夜明け前が一日で一番寒いのが普通で長いデフレからようやく円安による輸入品の価格改定で物価が上昇しつつある。しかし、所得がまだ上がらないので気分だけが春になったと同じである。やはり桜が咲いて見た目でも春の実感がするにはまだ早い。
 店じまいの連絡が3件ほど入って、まだまだ冬という気分となる。
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ヒマな休市で

2013年02月27日 | 築地市場にて

ヒマな休市で雨も降っていてジッと暖を取って休憩中。そういえばこのところ放射能100ベクレルの基準値を超える生鮮食品の東京都からの連絡が昨年暮れより少ないような気がする。小規模なものが1月末にあったが随分減った気がする。3月11日まであと半月、カリウム肥料とかの使用でセシウムを減らせる研究がだいぶ進んでいるようだ。後は福島原発が廃炉に向かっていくしかない。ところで今でもスーパーで放射能自主検査を継続しているのだろうか。ヘリウムガスの高騰でたぶん継続が難しいと思うのだが。高性能の放射能の検知器は毎週ヘリウムガスを補充しないと性能が発揮できないと衛生検査の人が言っていた。
寒さも今週で終わりそうな予報で長く寒かった冬がようやく先が見えた。こんな休市の日でも、築地場外市場の観光バス駐車場にソコソコのバスが止まっている。年度末で次の休市は補修工事が多いだろう。
 
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戸田主膳殺人事件2

2013年02月26日 | 福神漬

戸田伊豆守氏栄の祖父第68代長崎奉行戸田主膳氏孟がいる。長崎奉行の任期途中で死去したようで墓も長崎大音寺にあるようだ。(在任期間1784-1786)
 戸田氏栄は1795年頃に生まれているので直接会ったことはないようだ。氏栄の天保12年(1841)以前の経歴が書かれていないことが多いことが福神漬の資料調査でなんとなく気になっていた。つまり氏栄の40代半ばまでの経歴が不明なのである。平均寿命が今より短い時代に急に日本史に出てきた背景について歴史書に何も納得のいく本が見当たらない。その理由としてペリー来航時に米国国書を受け取っただけで、一言も話すこともなく終わり、その後のペリーが再来航したとき、応接の場から外され、日本史の記述もなくなった。200年以上続いた江戸幕府の外交政策を変更するきっかけを平和裏に処理した功績があるのに、攘夷などの幕末の混乱から彼に対する評価は今でも低いように思える。異国船の武力評価がない状態で武力衝突がなかったことは実に幸運であった。
 戸田主膳氏徳から戸田寛十郎氏栄へ改名したことは何か関連があったのだろうか。天保7年の氏栄の父御書院番戸田主膳氏友の殺人事件は何を意味するのだろうか。
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戸田主膳殺人事件1

2013年02月25日 | 福神漬

昌平坂学問所記録解題という本がある。編纂者の中に戸田氏徳という人がいる。この人は後の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄と同一人物であるという文献を見て調べることにした。
 確かに氏徳と一緒に大草公明の名前が出てくる。戸田氏栄が編纂者となっている『干城録』にも大草公明の名前が出てくる。昌平坂学問所で共同編纂者が共通で氏徳と氏栄だけが異なっているものが多い。どこかの時点で戸田卓太郎氏徳から戸田寛十郎氏栄と改名したと思うのが自然だろう。昌平坂学問所記録解題は氏徳の名前で出てくるが文化9年から文政11年(1828)の編纂事業である。干城録は文政10年から天保6年(1839)の編纂で戸田氏栄となっている。朝野旧聞裒藁は文政2年から天保13年(1842)の編纂で氏栄が編纂者の一員となっている。

 天保7年7月21日明け七つ、戸田氏栄の父戸田主膳が侵入してきた賊と戦い死去した。この時の暦は今の天保暦(天保15年1月1日より施行)ではなく,寛政暦であった。西暦に換算すると1836年9月1日に当たる。9月1日の東京は日の出が5時13分頃である。明けの7ツ半の明るさはどの程度だったのだろうか調べると午前3時頃となる。
 当主が死去して改名したと考えたが、時期が合わず、厄介な問題だ。
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金録公債

2013年02月24日 | 福神漬

明治9年の財政改革の一環で金録公債を資本金とし銀行を設立するすることを可能とした銀行条例が出来た。この条例で153の国立銀行が誕生した。明治8年5月に今の千葉県が成立したのだがナンバー銀行が4銀行できた。銚子(百四十二)、八街、千葉(九十八)、八幡が本店所在地であった。千葉にあった第九十八国立銀行は明治30年に九十八銀行となり,改名して今の千葉銀行となっている。この千葉銀行の社史に第百四十二国立銀行のことが書いてあった。
千葉銀行史54ページ
干潟八万石の資産家で酒造家の花香恭法が店舗として第百四十二国立銀行の銚子を本店とし、小見川、東京に出張所を有す。当時の銚子は東北から江戸への回送された米の中継地として繁盛していて、米蔵や船宿が軒を連ねていた。明治7年ころの銚子の人口は1万7千人程で千葉県では最大の市であった。船橋は9千5百人、千葉は3千人、関宿は4千8百人、佐原は6千4百人だった。
 士族の授産を目的とした銀行は間もなく破綻した例が多く、百四十二銀行も二年ほどで経営不振となり他の銀行と統合され消えた。
 千葉銀行史によると花香は酒造業となっていて、東京の出張所が南茅場町付近にあっても不思議ではない。
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滝沢(曲亭)馬琴

2013年02月23日 | 福神漬

「南総里見八犬伝」は鶯亭金升が父長井昌言から与えられ、暗記するほど読みつくした本だった。馬琴のこの小説は中国の水滸伝の影響を受けていたが日本の稗史文化に中身を置き換えた長編小説となっている。
 天保水滸伝の飯岡に知行地を持っていた長井家と昌言の実父浦賀奉行戸田氏栄との関係が気になって何か関連があるか今調べている。飯沼助五郎が活躍した時期が天保の改革で東浦賀の干鰯問屋が再建されつつある時期であった。関東における干鰯取引の中心は主産地であった房総に近い浦賀であった。幕末の農村経済が混乱した時期でも東総地方は醤油醸造と江戸への水運、干鰯産業で商品経済が発達していた地域であった。
 南北町奉行与力の知行地であった千葉と飯沼を知行地にしていた旗本長井氏、安中藩の大惣代をしていた千葉万歳の花香家はどんな関係が天保のころから幕末にかけて何があったのだろうか。
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水滸伝でも

2013年02月22日 | 宅老のグチ

体調の悪いときは水滸伝でも読もうと本を借り出したが長すぎて、結局子供用の水滸伝でごまかす。同時に『水滸伝と日本人』という本を借りていたので何とか解った気がする。天保水滸伝と本家の水滸伝とは何も関係はない。
ただ面白いことは福神漬の調査で出てくる人物が多数出てくる。天海僧正の蔵書が今のところ日本で一番古い水滸伝の本という。根岸党も出てくるし、松亭金水も『国字水滸伝』という本を出していたようだ。
 水滸伝という名前だけで本家とは似てもいない本を出すのは日本の特色なのだろうか。

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時差

2013年02月21日 | 築地市場にて

春節明けでボチボチ中国の労働情報が入る季節となった。ここ数年連続して中国の労働者の賃金が上昇しているので、来年度のことを考えて作付予約とかしているのだが特殊な農作物が中国農家の生産意欲を尖閣問題で失ったようで製造打ち切りが目立ってきた。多分日本国内回帰になっても単価の問題で一般には販売できない価格帯になるのは確実で、さらに生産する農家があるかどうかも問題である。中国からどこかの国へ移転する時間が必要となる。
 気候とか土壌、インフラとかの問題解決には時間がかかる。復活のない漬物もあるだろう。種を保存する組織が必要かもしれない。生産地の移動は時間がかかる。このまま円安になったからといって昔の日本農業に戻ることはない。
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分裂休市の二回目

2013年02月20日 | 築地市場にて

今年は3回ある分裂休市の二回目で暇な感じがする。実際は築地場外市場の人に聞いてみないと解らない。この季節としては雪が降るくらい寒い。図書館まで返本に行ったのだが大江戸線築地市場駅入口は待ち合わせの人で混雑している。アジア系の言葉が多く、まだ春節の名残があるようだ。
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春秋航空への素朴な疑問

2013年02月19日 | 宅老のグチ

春節で春秋航空を利用した人の話を聞いた。機内の持ち込み重量は15KGで預け入れの分も含むという。ということはパソコンしか機内に持ち込めないという。セキュリティの検査もIPADがありますかと問うという。重いパソコンを持ち運ばないことが常識となってきたのだろうか。
 春秋航空に乗った人の体重は40キロ台で太目の人と同じ目方の機内持ち込み重量が納得いかないようだ。体重込みで80キロとなれば減量に努力する人が現れるかもしれない。景気の良い中国人の太目が目立ってきた。
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真新しい塀

2013年02月18日 | 築地市場にて

いつの間にか真新しい工事現場が現れた。築地市場内にあった活魚水槽があった所で環状2号線工事という。隅田川に架かる橋の工事はかなり前から始まっていて順調に進んでいるようだ。工事用車両が市場内を走っている様子がないので工事が進んでいるという印象がない。
市場の南東のはずれは、ネットだけで浜離宮の様子も見えていたのがこれも塀ができて今では外は見えなくなってきた。中央区湊の得意先から地域再開発によって一時移転の案内が来た。バブルで虫食い状態になった土地の整理が始まったようだ。隅田川沿いに高層の住宅が増え、東京駅に自転車が溢れるのが加速されそうだ。
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原胤昭から

2013年02月17日 | 福神漬
原胤昭旧蔵資料調査報告書 : 江戸町奉行所与力・同心関係史料 ; 千代田区教育委員会/編 / 千代田区教育委員会 , 2011.3
都立中央図書館で与力給地のことを調べていたら、原の実兄の佐久間長敬が明治3年から工部省鉄道局(寮)に勤めていた。鉄道敷地の埋め立て工事に関わっていたようだ。同時期長井昌言(明治6年死去)も工部省鉄道局(寮)に勤めていた。佐久間が明治政府に勤めていたのは明治6年までのことなのでこの事は余り知られていない。佐久間が政府から去った理由は明治6年の政変の時だという。
福神漬の関係者が明治5年秋の鉄道開業期にそれぞれの立場で関係しているとは不思議である。原胤昭と花香恭次郎は横浜にいて、佐久間長敬と長井昌言が工部省鉄道寮にいた。
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紀州南部の梅祭り2013

2013年02月16日 | 梅干

寒い日が続いて、梅の便りも聞こえず、どうなっているのかと思えばようやく国内の梅の最大産地の南紀地方が満開となったようだ。それでも今日の彦根の辺りは雪の予報が出ていて寒い2月だ。昨年も同じような天候で不作だったので今年も楽観は出来ない。今年不作だと国内産の梅は庶民の食べ物と別世界になってしまう危険がある。すでに昨年の不作で一粒が大きな梅が主流となってきている。不作のときは養分が集中し梅が大きくなる。
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飯岡町史から

2013年02月15日 | 福神漬
飯岡町史945ページ(昭和56年3月刊行)
江戸期~明治22年の村名。下総国海上郡のうち。はじめ幕府領,当村は東縄・西縄に分かれ,東縄は寛永19年から旗本長井氏領,西縄は享保8年から与力給知。村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに268石余。浜は江戸初期より関西漁師が進出して鰯漁が盛んになる。また,高級魚の江戸出荷地でもあった。いわし漁は魚肥のためで、木綿栽培の発展に必要であった。

九十九里海岸は東の果ては行部岬(飯岡町)で西の果ては大東岬である。太東岬の飯縄寺は河村瑞賢(江戸時代に日本海路網を作った)と関係があるようで一度参拝に行きたい。波の伊八の欄間をみて葛飾北斎『富岳八景 神奈川沖』との差を見に行こうと思う。福神漬によってまた行きたい所が増えた
旗本長井氏領は幕末の長井昌言の領地で、気になる与力給地は南町奉行与力の知行地だったかはまだわからない。
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安部井磐根と土方歳三

2013年02月14日 | 宅老のグチ

福島県二本松藩士の子として生まれた、安部井磐根(あべいわね)は戊辰戦争時、土方歳三と会っている。史談会速記録第1輯(明治25年9月)号
 福島県の政治家として明治以降の活躍が余り評価されていなく、歌人としての文献のほうが多い。安部井磐根は同じく二本松藩士の子として生まれた平島松尾(福島事件被告人)と明治23年から始まった衆議院議員選挙で激しく議席を争った。10票差以下の時もあって、ほとんど互角だった。明治の複雑な福島県二本松の心情がよく解る文献は東京ではまだ見当たらない。
 土方の名前は中島三郎助や新撰組隊士中島登との関係で福神漬調査の過程で出てくる。幕末の二本松藩主は病弱で藩の幹部の決断は大変だっただろう。
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