平野 雅章(ひらの まさあき)による沢庵漬の命名根拠は元禄11年(1698年)刊行の国語辞書『食言字考節用集』辺りからようだ。
平野氏の意訳で(沢庵漬・沢庵は但馬の人。大徳寺の住職。江戸品川の東海寺の開基。正保2年(1645)12月死去。墓標は一個の丸石のみ。思案するに沢庵漬の重石がこれに似ているから名称がついたか
次に平野氏の気になる文献として『料理私考集』(正徳元年・1711年)
『大根貯わい漬。大根100本。大きさの揃ったものを、青い部分・細い所を切り20日ばかり軒に吊るし、霜や雨が掛からないようにし、しなびた時、米ぬか5升、次にこうじ2升、塩2升5合。大根を並べ、糠・麴・塩を振り、漬ける。重石で蓋の上に置き、漬ける。
平野氏の文献捜索で、従来は二日ほどしか乾燥させず、浅漬の大根だったようだ。
平野氏が見落としているのがなぜ元禄期から沢庵漬の名称が出てくるかという問題に迫っていない。食品は日々工夫され変化してゆく。その時々に名称が生まれ消えてゆく。そして世間一般に納得された名称が今に残ってゆく。
『食言字考節用集』の沢庵は但馬の人。大徳寺の住職。江戸品川の東海寺の開基という記述は次の様に考えることができないのだろうか。
但馬の人 とは沢庵が生まれた地域は明智光秀の領地であった。沢庵は出家し、京都大徳寺に入ることとなった。ほぼ同時期に大徳寺に柳生宗矩(幕府剣術指南)と千宗旦(茶道)が修行していた。品川東海寺は三代将軍家光に頼まれて設立した寺院で、しばしば将軍家光が東海寺で会合を開き、沢庵の作った漬物を食していた。
この食品の命名には、幕府上層部の会合の秘密情報収集を比喩していると感じる。江戸時代の初めはまだ白米常食とならず、江戸や大阪でビタミンB1の欠乏で脚気が流行った。この病気の原因が判明したのは明治末期で、本当に日本で脚気が消えたのは先の戦争でコメ不足から、洗米できず、糠からビタミンB1の流出が消え、脚気も消えた。戦後もしばしば脚気が流行する。
漬物タクワン漬にはビタミンB1が糠より移転するが、少量で脚気を直すことはない。白米を常食とする江戸在住の武士たちの体がビタミンB1を要求するのでタクワン漬をおいしいと感じていたようだ。
https://ameblo.jp/tolmengi/entry-12551435494.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Takuan