1918年2月中旬、インド洋で行方不明となった日本郵船常陸丸捜索隊の記者会見があった。捜索隊のインド洋中部の島々から回収した遺留物は日本郵船の積載物であることを想像される品々であった。船室の扉、明治屋と書いてある練乳の箱、池之端酒悦と書いてある缶詰を入れる木箱が発見された。木箱には福神漬と書いてあった。
この遭難した常陸丸は三菱が長崎で造船した始めての国産客船であった。初代の常陸丸は外国で建造され、日本郵船が購入した客船であった。
当時は第一世界大戦中で遭難した原因によっては海上保険の種別の問題となっていた。戦争による遭難であれば日本政府の戦時海上保険の問題とり、殆ど損害金額が補填されることになっていた。いかし単に行方不明ということで天候による遭難も予想されていた。
捜索隊の遺留物から遭難が確定したと思われていたが日本政府は確定することも無く、3月になってドイツで常陸丸の乗員船客等が捕虜となっている報道が出ても日本政府の遭難認定を渋っていた。第一次大戦で日本の船は連合国として輸送を担っていたが戦争の被害も受けていた。その被害の3分の2ほどは日本郵船の船だった。第二次大戦でも郵船の船員の死者は語られることも無く忘れ去られている。観音崎にある戦没船員の慰霊碑にはたびたび天皇陛下が訪れているが鶴見総持寺にある第一次大戦日本遊船の慰霊碑は訪れる人も少ないようだ。