福神漬命名者伝説で河村瑞賢説をあまり重要視していなかった。最近まで根岸党の福島県人・高橋太華の少年向けの伝記から来ていたのではないかと思っていたが中央区新川にあった河村瑞賢屋敷がかなり影響があったと感じ始めた。新川に在った下り酒問屋は江戸市中の高級酒需要の中心であった。河村瑞賢の死去後新川付近は上方から樽回船によって輸送される上方の酒の終着点であった。
明治期福神漬は缶詰入りだったので販売ル-トは酒問屋系統が取り扱っていることが大正期の電話帳に見える。ビン缶詰問屋と言う区分がある。酒系統の問屋から河村瑞賢の出世に繋がる逸話の中の漬物話から福神漬元祖説が出ても不思議ではない。新川酒問屋の興亡を記述した本に河村瑞賢がかなりの部分を占めているので伝説の出所かもしれない。海で遭難した船員漁民等の日本返還から人道問題となり、幕府の海禁政策の変更となった。
どうして酒問屋が漬物の缶詰を売っているのか聞かれたとき、河村瑞賢の話を持ち出され伝説となったら面白い。