年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

門松で一休禅師の作と伝える狂歌

2019年12月31日 | 宅老のグチ
近所の散歩でひときわ大きいのが相撲部屋の門松で旧築地市場の門松より大きい。それを見て一休禅師の作と伝える狂歌 で門松が冥途への一里塚という句を思い出す。
 年末の築地場外市場のTV報道も昨年と違って、あきらめのような感じがする。徐々に増える飲食店と変化しつつ消える物販店。個人的な予想ではオリンピックが終われば建築関係の工事単価が下がり、過剰となったホテル建設も人手の問題で一時停止となるだろう。郊外の物流倉庫が巨大化し、自動仕分けも進むが最後は人の問題となる。
 日本人にとってオリンピックとは何だろう。9月過ぎれば祭りの後の虚脱感が予想される。恩恵に参加できない人が増えた公的負債を返済する。オリンピック期間中も豊洲も築地も仕事中。事情を知らない食のライタ-が豊洲の不振を書いているがそれも計算のうち。築地市場の不振時、場内外の混雑が減り東京都の規制が甘くなって一般消費者も入口で止められることが少なくなった。タクシ-等の入場規制や旅行のバッグ等を持ち込みは禁止されていたが中の散策は次第に自由となった。豊洲ももう少しで引っ越し費用が償却できれば、空き地で物販施設ができるだろう。西の島のように今新しい豊洲の食文化が生まれつつある。どこの部分で規制が緩くなるかはまだわからない。
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コミケ帰りの人波で

2019年12月30日 | 宅老のグチ
妹の抗がん剤治療の急変で入院したため有明の癌研病院へ荷物を届けに行くと、普段は人も歩いていない歩道がラッシュ時の駅のようになっていた。年末のコミケの帰りの人波ということで、りんかい線の駅へ行く人波だった。整然と歩いていたので癌研病院に入るため、すぐに道を開けてくれた。
 見舞いの部屋から下を眺めるとかなりの人波が続いていた。ネットで昨日の人出が19万人という。多くのタクシ-が道に止まり普段と異なる。
 正月モ-ドとなった病院は閑散。がん患者も正月になる。1階の掲示でなんやら医学用語で活動状況を書いてある看板を眺めていた。内容は日本語なのに理解できない。しかし全体の雰囲気では女性のがん患者の卵子保存のことのようだ。放射線治療後のようなことで子供を産めなくなるリスク軽減のような研究らしい。
 普通の日本人の半分はガンにかかる時代だから色々な個人の需要があるようだ。妹は31日に退院。30分呼吸が止まっていたという。今のところ記憶が元通りのようだ。あと少し遅れると脳に酸素不足で障害が出ていたかもしれないと思うと抗がん剤は油断ができない。トイレの中で倒れると死もあったかもしれない。2010年代も間もなく終わる。
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.新編農業教科書 大正2年刊

2019年12月29日 | 宅老のグチ
埼玉県立図書館のデジタルライブラリでこの本を見ている。この教科書は埼玉師範学校同窓会が編纂した埼玉県の地域に合わせた農業の教科書で今の中学生の年齢に当たる人の教科書のようだ。この大正期はここまでの学歴が多かった様だ。2巻は高等小学校2年生の本となっていて、農業と国の関係が書かれている。大正の当時は商業のように一攫千金のようなことは無いが地道に農業を行えば財産は増えると書いてあった。農民は農作業で体を鍛えているので兵士として適任であると強調している。
 昭和に入って世界恐慌となって農村世界も大不況となり、教科書のようにはならなかった。ここに日本の軍部の農家出身の青年将校の暴走の根源となる。農業を真面目に行っていても家が貧しくなる。師範学校の農業教科書のようにならなかったのが昭和初期の農業だった。
 築地市場が発足したころ、各地の農業指導者が過剰となった野菜を加工し東京に向けて出荷した。中身をごまかしたり生漬かり沢庵などがあって不正競争が蔓延していた。地方の農村不況はそうしなければ生き残れなかった。このような記録も少なく言い伝えが同業の長老から聞いた話となる。
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年末の暗転

2019年12月28日 | 宅老のグチ
なんとか今年の思い出を思い出しつつ、こたつの中で居眠りしていたら、朝年内最後の妹を抗がん剤治療で送っていった病院から電話が来る。容態が急変したという。あとで聞くと治療中、トイレに行って戻ってきたとき、記憶を失い、倒れたようだ。蘇生を行いICUのところに移動し、緊急入院。原因は抗がん剤によるショックだという。患者によるが同じ抗がん剤でショック症状が出るのは早い人で数回ですでに二十回以上治療していて、油断していたようだ。院内で倒れたので急回復し、こまごました記憶が回復した。3年ほど前にステ-ジ4まで転移したガンが今は数ミリ以下になり、普通の生活となって、毎日のようにシルバ-パスを使いで歩いている。医者によると次の治療は同じ抗がん剤は使えないという。また妹のチャレンジは医者と続く。すでに思い残すことは無いように行動しているが同病の患者のためにデ-タを残すことで生きがいとしているようだ。
 仕事をしていないので時間があるが昼間から酒を飲む自由があるからと言って、今日のようなことがあると深酒はできない。
 
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暮れの孫もり M3

2019年12月27日 | 宅老のグチ
曇天の26日。3度目の孫もり。行先は船橋アンデルセン公園。高齢者は年齢証明があれば無料。孫は100円、駐車場は冬季割引きで300円。激安でこれでは全国3位の人気施設というのも理解できる。特に夏はよさそうだ。弁当を持ち込めば遊具の行列もなく子供が動き回れる。閑散とした平日の公園は触れる動物もストレスが少ない様だ。ただ欠点は鉄道などの交通機関の利用は難しく、バスなどの道路利用交通となり、渋滞で時間がかかる。
3歳から10歳までの公園だろう。花は美しく、多様な冬の花で出迎えてくれる。

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学術的な本で涙する

2019年12月26日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
小説や映画やドラマで涙するタイプだが学術的な本で初めて涙した。(師範学校制度史-15年戦争教育史)逸見 勝亮 著1991年出版
叔父の特攻と師範学校の制度・特にアメリカとの交戦状況下の師範学校とはどのような制度だったを知りたかった。親族に伝わる言い伝えでは小学校教師を目指していたのがどうして死を免れない陸軍の飛行機操縦者の試験に無断で応募したか理解できなかった。
この本の著者によると師範学校の制度が森有礼の暗殺後、日本の帝国憲法の趣旨に副うような国民教育に変わったようだ。小学校が卒業した程度でも国家が危機の時、国に奉仕する精神を教えることだった。
それは師範学校内に陸軍出身の人が教練する。15年戦争になり、師範学校行事と結合する。出征兵士の歓送迎、戦死者の遺骨の出迎え、慰霊祭参加、観兵式、防空演習、上海・南京陥落時の記念提灯行列など師範学校が教育から国家の危機に奉仕するようになっていった。日本各地の師範学校の多くは陸軍連隊の所在地と重なり、軍部の意向が直ぐ学校に伝わるようになっていた。軍事講習、卒業後の短期現役制度などで師範学校が軍事と結びついていた。
 宗教的な理由で私立学校がこの陸軍の派遣する講師を拒むと卒業の教練単位が取れず卒業できなかった。私立学校が入学者が減り、経営難となった。
 この様な時代に視力が1.5あった叔父は陸軍から派遣された教官に説得されたと思う。(間もなく戦争が終わるから)と信じこまされたと思う。仮に応募しなくても翌月には学徒出陣ということで兵士となっていた。
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クリスマスは父の墓前で

2019年12月25日 | 宅老のグチ
64年前のクリスマスの朝に父は死去した。この年昭和30年で、翌年から戦後は終わったといい始めたころだった。景気の良い日本は戦後の貧困から抜け出し、所得も上がり、日々生活が向上していたころだった。クリスマスのころが忘年会と重なりキリスト教信者でないのにバカ騒ぎする時代だった。今のハロ-ウィン騒動より酷かった。テレビがNHKと日本テレビしかない時代で、町内にも数台しか無かった。そのテレビで近所の人たちとプロレスを見た後、父は脳内出血で倒れ、間もなく死去した。医者によるとかなりの高血圧だった。父は力道山の勝利を見て興奮し倒れたと聞いて、池上本門寺の力道山の墓参りをした。五重塔の付近から力道山の墓所の案内板があって、墓にたどり着く。腕組みした力道山の銅像があった。彼は39歳で亡くなった。東京オリンピックの少し前のことだった。今思うとよい時代だった。
 父の死去で生活が一変し、性格も暗くなった。ただ救われたのは周囲の支援で今日に至る。あの時生まれて3か月の男の子も今度のオリンピックが終われば65歳、その後30日すぎればまだ生きている母は100歳となる。しきりに父に会いたいと言っているが昭和20年1月の下旬に死去した美人の先妻と特攻で22歳で死去した若い弟とあの世で遊んでいるから、しわくちゃな婆さんが行っても誰かわからないから、まだこの世にいたらと言って聞かせる。妙に納得した。母は写真でもすぐに美人とわかる先妻に今でも嫉妬しているようだ。
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昭和16年の戦争が始まって

2019年12月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
家族の歴史を調べているが既に80年前では言い伝えと異なっていることに気が付く。
叔父の特攻の記録として特操一期生史の本を読むと、募集時は特攻を予定していたのではなく、単なる飛行機操縦者の促成養成機関だった。ところが訓練中に戦局が悪化し、物量に負ける日本は命と引き換えの戦法に変わったという。叔父の陸軍特別操縦見習士官への応募の動機が不明で遺書もなく困っている。ただ当時は海軍も飛行機操縦士官の募集していて、人気で劣る陸軍は質の劣る応募者を避けようとしていたと思える。個人情報の問題でこの研究はまだ無い様だ。特操一期生史の学歴のある特攻戦死者を見ていると、全国各地の師範学校出身が目立つ。このことは靖国神社の図書館で学芸員との会話で学歴を聞かれ、埼玉師範学校と答えたら、妙に納得された印象がある。師範学校生はもしかすると各校にノルマがあって、各学校から応募者を出さねばならなかったのではないか?募集の内容も体形と視力と卒業見込みが重視されていたと感じる。海軍の予科練の試験は応募者が多く、結構難しい。師範学校に派遣されていた陸軍出身の軍事教練の指導者にほぼ指名のような応募者と感じる。叔父の埼玉師範学校の成績は中位であらかじめ特操生の合格が予定されていたのでは無かったのだろうか。親族の話では突然の相談なしの応募だったようだ。
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ダサイタマの始まりと感じる埼玉県立師範学校の歴史から

2019年12月23日 | 宅老のグチ
東京の隣で文化の伝播が早いはずなのになぜか(ダサイタマ)と揶揄される埼玉人。
熊谷の県立図書館で埼玉大学教育学部の百年史を読んでいたら埼玉県立師範学校が揶揄の始まりかもしれないと感じた。
 最近、少年スポ-ツで野球人気が減り、サッカ-に抜かれているという。ボ-ルが一つでゲ-ムができるが野球は道具が複数いるという。金のない国でも普及しているのがサッカ-であった。埼玉県立師範学校は教育者を育てる授業があったが目立つのは農業教育であった。明治大正期の教科書に師範学校の農業の教科書がある。これは県立図書館のデジタルライブラリ-で読むことができる。明治大正期の師範学校の様子はデジタルライブラリー(鳳翔)で理解できる。彼らが埼玉県を背負っている様子が感じる。
 昭和20年に沖縄で特攻した叔父は埼玉師範学校の前の学歴は千葉県野田市の野田農工学校だった。この学校は今の千葉県立清水高校で野田市にある。当時はキッコ-マンのための鉄道が大宮駅から柏まで開通していた。利根川に架かる千葉県の橋は昭和の30年代まで取手のところの道路と鉄道橋であとは渡し舟だったと記憶する。江戸川で野田のところに道路と鉄道の橋があった。この下流には水戸街道のところまで橋がなかったと思う。
 百年史で埼玉県が水害が多く、復旧のため学校予算が少なく多様な学部を要する高等教育機関が設立されず、県民の必要な最低の学校しかできなかったようだ。多くの優秀な学生は東京に向かったようだ。浦和地区に多くの県の施設が残るのも明治の名残となる。同様な例は福島県で県の地勢的中心の郡山に県庁がなく、福島市にあるのは戊辰の遺恨の影響がある。
 浦和にあった県立師範学校は千葉寄りの川辺村(今は春日部市庄和町)の青年が学校で気後れするのも当然である。今は東京への通勤者の住宅も建っているが戦前は法事等の重大な用がなければ東京に行くことは少なかった。学校史で師範学校の生徒の親の職業は農業が最大であった。授業料が安かったかもしれない。

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運のない大正13年生まれ

2019年12月22日 | 宅老のグチ
叔父の特攻記録を調べていると昭和の初めの不況期に生まれた人は戦後まで生き残った人は実に楽な人生と感じる。叔父が生まれた大正10年代以降の男性は病弱な人を除くといつ死ぬかの人生が長かったようだ。女性も男性が少なく、工場で毎日働いていたようだ。
 陸軍特別操縦士官の1期生と2期生は特攻した人が多いが3期4期生はガソリン不足と飛行機不足で訓練できず特攻に行った人はなかった様だ。
 数年前の大学生の就職は大変だったが今はほとんどの人が無理しなければ仕事に就ける。ただ変化が激しくデジタルの時代に旧来の仕事があと40年あるかどうかわからない。
 これからも残る仕事は体力の必要な仕事しかないようだ。残りはアメリカに全部取られる気がする。生まれた年の運不運は20年後に判明する。
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叔父の特攻死から浦和レッズ

2019年12月21日 | 宅老のグチ
埼玉大学教育学部での資料調査でようやく親族の言い伝えで埼玉師範学校卒業が確認された。昭和18年9月卒業である。この年11月1日には学徒出陣ということで病弱の学生以外は徴兵となる。女学生は高等教育機関から軍需工場へ派遣となる。
 なぜ死を予定している陸軍特別操縦見習士官の試験を受けてかはまだ疑問が残っている。遺書らしきもなくいまだに応募の動機が不明で今でも疑念が残る。師範学校での軍事教官が応募させるように仕向けたのだろうか。少なくとも親族の言い伝えでは教師になることが叔父の夢だった。教え子の生き方を教えることを目指した人がなぜ死の確立の高い特操生の試験を受けたのだろうか。さらに各学校への応募のノルマがあっても埼玉大学で見せていただいた資料ではそれほど優秀な学生でなく、まじめで温厚な生徒であったようだ。従って不本意な試験を無理して合格するような回答を書く必要性はない。なぜ不合格を目指さなかったのだろうか。いずれ不合格でも11月には学徒出陣となる。この昭和18年9月卒業の埼玉師範学校男子生徒のその後の調査はなされていないようだ。学徒出陣後の生存率はどうなっているのだろうか。
 事務所で資料をもらった後埼玉大学図書館へ向かい閲覧確認する。住所等の人物確認ができれば一日閲覧が可能のようだ。ただ事前にネットで確認していたが師範学校の資料は一冊しかないようだ。師範学校の資料は県立図書館浦和のほうが師範学校の資料は多いようだ。
 ついでに埼玉師範学校が日本におけるサッカ-の発祥だという。高校サッカ-で浦和がよく出るのはこの伝統があるようだ。叔父の言い伝えにはサッカ-は出てこない。寡黙で友人の少ない真面目な人だったようだ(開示した資料の評から)。
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暮れの孫の預かり M2

2019年12月20日 | 宅老のグチ
2回目の孫預かりは葛西臨海公園。ここは開業時間もなく訪問したので記憶にあったが少し変化したようだ。先に渚まで向かうと建物があって、上がるとはるかまで見えた。ここは夕日が美しそうだ。雨が降りそうなので水族館へ向かう。平日なので観光客が少ない。ここにも外国人観光客は多い。昔はマグロの回遊する水族館だったがいまは絶滅したようだ。意外だったのはカエルとかドジョウとかに興味を示したようだ。無人の大観覧車を17分で回る。晴れなら芝生で遊ばせる予定だったが小雨で中止。
 ゲートウエイブリッジを見て、城南島公園で飛行機とカラスと遊ぶ。さらに時間が余って羽田国際線タ-ミナル屋上で飛行機を見る。結構移動したが何とか飽きさせなかった。次回は晴れたら子供の国かな。
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暮れの孫の預かり M1

2019年12月18日 | 宅老のグチ
今年の暮れは築地との縁が切れたので孫預かり。今のところ5回予定。1回目は京王相模原線堀之内駅付近の屋内遊技場(あそびマ-レ)。ここは2歳以上は有料で平日は一人1200円。雨天だったのと安全を考えこことなった。この遊技場は小学生ならもったいない。2歳から5歳がよさそう。平日なので孫と一緒の人はほとんどなし。
 元気な子供と疲れている老夫婦。M1としてとにかく安全に孫を疲れさせる。ソフトな遊具は高さえ注意すれば遠くから見てればよい。
 帰りに高齢者は今自動車事故を起こすと新聞沙汰となる。今日の報道で間もなく事故を少なくする装置がないと新車が販売禁止となりそうだ。
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昭和の暮れへ戻るか

2019年12月17日 | 宅老のグチ
あまり研究されていないが平成の天皇誕生日が12月23日だった影響が食の世界でどう変化したか?
 今年はクリスマスが24・25日が平日で昨年と違うという。人手不足の年末で休日でない日はまだ休みにくいようだ。日本の純粋なキリスト教徒は統計上極端に少ない。隣国の韓国より圧倒的に少ない。キリスト今日由来のお祭りはすべて商業主義殻来ているという。信者は騒がない。
 年末のクリスマスは消費者の金を減らし、日本古来の正月文化の和食の世界を侵食したと思う。
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みんな超高齢者で焦る

2019年12月16日 | 宅老のグチ
埼玉師範学校卒業したかどうかの書類を集めるため、ここ数日役所に出向いた。戸籍謄本・住民票と免許証を用意する。いつ入学したかは解らないし、さらに繰り上げ卒業ということもありうる。昭和18年の学徒出陣の前に陸軍に入隊したようだがそれではいつ卒業したのだろうか。
 この辺の親族の記憶がすでに80代後半から90代になっているので混沌としていてどこが本当か不明である。やはり公文書を取り寄せ、親族のあいまいな記憶を訂正するしかない。
 この捜査は時間との闘いでさらに交通費という問題も絡んでくる。叔父が埼玉師範学校を出たかどうかの書類があれば次の段階に進む。無ければ高等教育を受けていることの条件がある陸軍特別操縦士官の試験資格を満たさないのでどの学校に行ったのかという問題が生じる。
 少なくとも埼玉大学教育学部百年史の戦時中の記録には叔父の名前がない。今の埼玉大学教育学部は女子が多数(およそ2対1)で戦前でも多数だったのだろうか。百年史の記録は印象として女子の苦労話と感じた。生き残った人から歴史は作られる。
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